東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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12月14日 アスカとコウ

 

 月曜日の早朝、午前六時過ぎ。杜宮総合病院の一室。

 

「……以上が、異界の子が話してくれた内容です」

 

 私が話を区切ると、誰もが小さな溜め息を付いて、重苦しい空気が漂い始める。居心地の悪さを感じて、私はリオンさんに話を振った。

 

「えー、その。リオンさん、何か付け加えることはありますか?」

「ううん。あたしからは、何も」

 

 再びの静寂。壁に背中を預け、腕組みをして押し黙る高幡先輩。丸椅子に座り、神妙な面持ちを浮かべるミツキ先輩。ベッドの中で動揺を露わにするソラちゃん、その傍らで佇むユウ君。そして私の隣に立つリオンさんからも、普段の朗らかさが感じられなかった。

 

「ケホ、コホッ」

「郁島?」

「ん……大丈夫。ただの咳だから」

 

 ジェーンの手に掛かった四人は、容体の差はあれど、回復の兆しを見せつつあった。高幡先輩とユウ君は歩ける程度にまで持ち直しているし、霊力吸収を受けたミツキ先輩の顔色も良い。ソラちゃんはまだ安静が必要だけれど、意識はハッキリしている。後は時間の問題だろう。

 とはいえ―――起き掛けにこんな話をされては、動揺して当たり前だ。異界の子から直に聞かされた私達だって、未だに受け止め切れないでいる。

 異界に迷い込んだ一人の女性。愛娘。グリーディア。

 柊と呼ばれていた適格者。その身に宿っていた生命。

 言葉ではとても形容できない、複雑さを内包した因果。

 アスカさんは今、何を考えているのだろうか。意識が病室の外へ向いていると、高幡先輩が静かに口を開いた。

 

「時坂と柊は、今どうしてんだ?」

「副教官さんと話をすると言っていました。今後の行動についても、相談したいと」

 

 副教官の火傷も決して軽くはないけれど、意識は取り戻せていた。一方の教官は満身創痍の身で、今も尚、術式を併用した治療が施されている。最悪こそ回避はできたものの、副教官共々、ジェーンとの再戦は絶望的な身だ。

 強大な力を有する二人が倒れてしまった状況下で、私達が取るべき選択肢。判断を下すまでの猶予は、そう多くはない。当たり前の懸念に、ユウ君が触れた。

 

「ねえ。ジェーンの狙いが柊センパイだっていうなら、いつ襲われてもおかしくないんじゃないの。それこそ、今だって」

「ああ、それは大丈夫だと思うわよ。暫くは身を潜めているだろうって、アスカが言ってたわ」

 

 ジェーンの標的がアスカさんであることは明白だ。米国から遥々海を渡り、この杜宮で適格者ばかりを襲ったのも、アスカさんを追う過程での行為に過ぎない。そのジェーンが自ら一時撤退を選んだのは、先の交戦で相当なダメージを負った証拠だ。傷が癒えれば再びアスカさんをつけ狙うだろうけれど、それまでの間は一先ずの休戦と言っていい。

 しかし逆に言えば、今の内に策を練る必要がある。遅かれ早かれ、私達は彼女と対峙しなければならないのだ。結社の意向も踏まえ、時坂君とアスカさんが副教官と協議をしている頃だろう。

 

「それにしても、グリーディア、か。おい北都、お前は知ってたのか?」

 

 リオンさんが状況説明を終えると、高幡先輩が話の矛先を変えた。 

 

「いえ、私も初耳です。そんな存在は……。ですが、可能性を考えるとすれば、順応の結果なのかもしれませんね」

「順応?」

 

 ミツキ先輩は小さく頷き、「あくまで可能性」と前置いた上で、続けた。

 

「異界に呑まれた人間が、何かしらの異常をきたすというケースがあることは、皆さんもご存知のはずです。我々はそれを異界病と称していますが……その先にある、異界という環境への順応。いえ、適応でしょうか。そういった希有な個体が、前々から存在していたとしても、おかしくはありません」

「前々って、おい待て。ジェーン以外にもいるって言いてえのか?」

「可能性のお話ですよ。ですが伺った限りでは、少なくとも柊さんのお母様は……何も知らずに、斬ったということになります。ジェーンの、お母様を」

 

 激しい衝撃が頭を打ち、言葉を忘れた。ぐらぐらと足元が揺れて、思わず息を飲んだ。

 

(それって―――私達、も?)

 

 憶測に憶測を重ねた上での可能性。けれど、もしも仮に、私達には知る由もないグリーディアという存在が、今回の事件よりも以前からあったとして。やはり私達には、気付きようがない。

 絶対悪だと決め込んで、何の躊躇いや罪悪感もなく、葬ってきた怪異の中に。元は私達と同じ、単に巻き込まれてしまい、その身をグリードと同じ色に染めてしまった者がいたとするのなら。それは―――許されて、いいのだろうか。

 

「それに、柊さんは、何もかもを知った上で、決断しなくてはなりません。二十年前の真実と、ジェーンという存在を背負って……せめて、一緒に戦えればとは思うのですが。こんな状態では、難しいですね」

 

 ミツキ先輩は言いながら、利き手の拳を握った。その動作はひどくゆっくりとしていて、手は小刻みに震えていた。満足に力が入らないのだろう。やはり全快とは言い難い。

 

(アスカさん……)

 

 どんな心境なのだろう。己の与り知らないところで、底なしの憎悪を向けられて。誰が悪いという訳ではないのに、深い業のような何かを背負わされる。当人にしか理解し得ない重み。

 言葉が思い浮かばない。何を言ってあげればいい。私自身でさえ受け止め切れずにいるのに、気休めの言葉を並べたところで、それはアスカさんのためになるのだろうか。

 

「きっと、大丈夫だと思います」

 

 思考が堂々巡りを始めそうになった頃、弱々しい声が聞こえた。見れば、ソラちゃんがベッドの上で半身を起こし、ユウ君の手で身体を支えられていた。

 

「だから、無理すんなって言ってるだろ」

「平気。私は……アスカ先輩には、コウ先輩がいますから」

 

 思わず皆と顔を見合わせた。ソラちゃんは構うことなく、自信に満ちた笑みを浮かべて告げた。

 

「他人任せな言い方ですけど、コウ先輩がいれば、不思議と大丈夫だって思うんです。夏のあの日に、アスカ先輩がコウ先輩の背中を押してくれたように。アスカ先輩とコウ先輩なら、きっとって。私は、そう思います」

 

 再度見回して、皆の様子を窺う。呆れたような表情から、はにかんだような遠慮がちな笑みに。私も自然と顔が緩んで、沸々と湧き上がってくる感情が、憂いを飲み込んでいくような感覚を抱いた。

 

「言われてみれば、そうだね」

「まあ、確かにな」

「フフ、それもそうですね」

「うんうん。コウ君なら、きっと」

「どうせ今頃、恥ずかしい台詞でも吐いてんじゃないの」

 

 時坂君と、アスカさんなら。それは決して他人任せな考えではない。絶対的な信頼に裏打ちされた、確信に近い想い。これまでのように、今も、そしてこれからも。きっとあの二人は、ずっと変わらずにあの二人なのだろう。

 それに、私はまだ戦える。できることはある。掛けるべき言葉は後で考えればいい。

 

「とりあえず、俺達も二人の所に行くか。北都、立てるか?」

「ええ、大丈夫です。郁島さんはどうですか?」

「ユウキ君が運んでくれるみたいなので」

「ほう」

「まあ」

「わお」

「ひゅーひゅー」

「車椅子だよ!?これ!!分かるだろ普通!?」

 

 ガラガラ。

 久方振りの賑やかなやり取りに興じていると、病室の扉がゆっくりとスライドした。入り口に立っていたのは、九重先生と倉敷シオリさん。二人の顔を見て、大事なことを伝え忘れていたことに気付く。

 

「あら、九重先生に倉敷さん。お二人もいらしていたのですね」

「あれ?アキちゃんから聞いていませんでしたか?」

「す、すみません。すっかり忘れていました」

 

 シオリさんが諸々の異変に感付いたのは、時坂君をはじめとした面々の行動、加えてアスカさん曰く、異界に深く関わりを持った人間としての勘所による物だった。時坂君もシオリさんからの追及を誤魔化し切れず、結局はアスカさんから許可を貰った上で、大まかな事情を既に打ち明けていたようだ。

 そして昨晩の一件を聞かせたのは、何を隠そう私。時坂君に代わって、九重先生にも事のあらましは伝えていた。

 

「みんなのことも心配で、トワ先生にお願いして連れてきて貰ったんです」

「私も様子を見ておきたかったから。でも、思いの外に元気そうだね。まずは一安心って感じかな」

 

 そう言って胸を撫で下ろす二人からも、疲労感が垣間見られた。昨晩も満足に眠れていないのかもしれない。

 

「これから時坂君とアスカさんの所へ向かおうとしていたところです。シオリさんも行きますか?」

「うん。私もそのつもりで来たから。もしかしたら、力になれるかもしれないって思ってね」

「力に……何か、あるんですか?」

「んー。今は、内緒かな」

 

 微笑みながら、人差し指で口を押さえるシオリさん。随分と思わせ振りだけれど、一般人と言っていい身のシオリさんに、何か考えがあるのだろうか。皆目見当が付かなかった。

 

___________________

 

 

「報告は以上です。詳細については、後日書面でお渡しします」

 

 アキがいた病棟とは別館、東館の上層に設けられた大き目の病室で、副教官は簡単な処置を受けながら、アスカによる状況報告に耳を傾けていた。

 

「異界の子、か……。しかしいずれにせよ、二十年前の一件や、グリーディアといった存在に関する議論については、全て後回しでいい」

「同感です。今はジェーンへの対処が何よりも優先されます」

「アスカ、君はどう動くつもりだ?」

 

 アスカは隣に座るコウの顔をちらと見た後、淡々とした口調で告げた。

 

「ゾディアックとの共同戦線を張るべきかと考えます。充分な戦力が集まっているとは言い難いですが、我々と足並みを揃え、先手を取ることができれば、勝機は充分にあるはずです」

 

 アスカの見立て通り、ジェーンが姿を眩まして以降、目立った動きは見られない。寧ろ対象が手負いの今こそが、こちらから打って出る好機とも言える。既にゾディアック側ではキョウカが音頭を取り、実動隊員が集結しつつあった。

 その全てが揃うのを待たずして、ジェーンの足取りを追う。アスカが示した強行策に対し、副教官は首を縦に振った。

 

「いいだろう。上層部とゾディアック側には、俺が話を通しておく。雪村キョウカと連携を図りながら動くんだ。定期連絡は忘れずに入れてくれ」

「了解です……コウ、どうかしたの?」

「あ、いや。何つーか、その。意外な反応だなって思ってさ」

 

 コウは慎重に言葉を選びながら、控え目な態度で続けた。

 

「初めて会った時は、『ゾディアックとの共戦なんて以ての外だ』って感じだったからよ。正直に言って、断られたら無理やりにでもって、考えてはいたんだ」

 

 それはコウ一人の物ではない。あの場に居合わせていたアキやリオンも、同様の感想を抱いていたであろう引っ掛かり。コウの手厳しい指摘に対し、副教官は冷静な面持ちを崩さずに答える。

 

「我々が動けなくなった以上、組織内で事を穏便に済ますことは不可能だ。最早、総力で当たるしか選択肢がない。もし教官と逆の立場だったら、彼も俺と同じ判断を下すだろう」

「あの人がッスか?正直に言って、とてもそうは思えないッス」

「ねえコウ。貴方は少し、教官のことを誤解しているわ」

 

 アスカは書類の束を一旦デスクに置いて、コーヒーカップを手に取り、再度口を開いた。

 

「貴方も見たでしょう。教官は単独でも、ジェーンと立ち合える程の力を有していたの。でも事の発端となった一度目の襲撃では、執行者候補十三名、全員が犠牲になって……教官だけが生き延びた。何故だか、分かる?」

「何故って。何か、理由があったのか?」

「使えなかったのよ。ドミネーターの力を揮ってしまえば、候補生を巻き添えにしてしまうから」

「あ……」

 

 しかしその躊躇いが、悲劇に繋がった。全候補生の全滅。十三の死。

 正しかったのか。過ちだったのか。答える者はなく、残されたのは、何としてでも逃がさないという執念。

 ヒトしての尊厳を捨て去ったとはいえ、少なからずあったのだ。候補生への想い。護り切れなかった罪悪。取り逃がしてしまった責任と負い目は、増加の一途を辿る犠牲者の数だけ、その重みを増していく。

 

「だから私は、私のやり方で無念を晴らします。いいえ、私が終わらせるべきなんです。教官や副教官ではなく、私自身の、この手で」

「アスカ……」

 

 二十年以上も前に始まった因果。取るべき選択肢と、継ぐべき意志。アスカは揺るぎない信念を以って、告げた。

 

「副教官。第一拘束術式の完全解放、及び第二拘束術式の段階的解放の許可を願います。貴方には、その権限がある」

「第一はともかく、第二解放下における霊力制御には未だに難があるだろう」

「問題ありません。彼がいます」

 

 聞き慣れない単語の数々に戸惑うコウを余所に、アスカはコウの右腕の袖をそっと摘まんで、凛とした声を続けた。

 

「彼とのクロスドライブは、過去経験してきた物のどれよりも、私に安らぎを与えてくれます。第二拘束術式を完全解放したとしても、制御は可能です」

「お、おいアスカ。お前、何を」

「っ……く、ククク」

 

 途端に、副教官の肩が揺れた。冷静沈着を絵に描いたような彫りの深い顔が緩み、微笑みが身体を揺らして、重度の火傷で引き攣った腕に痛みが走る。それでも尚、副教官は笑わずにはいられなかった。

 

「時坂コウ。全属性のマスターコアに適性を持つ民間の協力者というのは、君のことだな」

「え……まあ、はい」

「いつからだ?」

「いつから、って言われても。気付いたら、そうなってたんス」

「そうか。すまないが、利き手を見せてくれないか」

 

 恐る恐る差し出されたコウの右手を、副教官がまじまじと食い入るように見つめ始める。その様は手相占いのようでいて、よくよく見れば副教官の両目は、焦点が合っていない。手の先にある、何かを見通すかの如く。

 

「こうして目の前にしても信じ難い。君のような適格者が存在していたとはな」

「あのー。それってどれぐらいすげえことなんスか?」

「以前貴方がプレイしていたゲームに例えると、初期レベルで全職業をマスターしているようなものかしら」

「マジかよ!すげえ、すげえけど初期レベルじゃ全っ然意味ねえな!」

 

 不満気な表情で騒ぎ立てるコウ。冷ややかな視線を送るアスカ。二人のやり取りを視界の端に映しながら、副教官は覚えのある一文を脳内で反芻していた。

 『クロスドライブを介して、特定の人物が安らぎを与えてくれる』。上司へ提出する規定の報告書内で用いるには、あまりに相応しくない漠然とした表現。以前のアスカを知る者達は、皆が皆一様に目を疑う程だった。

 何が彼女を変えたのか。

 彼女の何が変わったのか。

 言葉は不要だった。答えは、ここにある。

 

「アスカ、コウ。我々の目的は、ジェーンの捕獲でも追跡でもない。無力化と排除だ。その意味を、しっかりと受け止めて欲しい」

 

 笑い声が止んだ。未だ幼さが残る年相応の顔立ちに、陰りが浮かんだ。

 

「……私、は」

「それでいい。まだ時間はある」

 

 何の問題もないのだろう。たとえ逃避の末に直面した悲劇に叩き落されたとしても、手を差し伸べてくれる者達がいる。その役目は、自分ではない。だから、これでいい。

 

「時坂コウ。よく聞いてくれ。俺は今から、俺自身の手で、ハンプティダンプティを顕現させる」

「え?」

「一時的に、俺の力を君に託す。君ならきっと、俺以上に扱えるはずだ……時坂コウ。アスカの、力になってやってくれ」

 

 己の魂の耀きを以って、己の魂を力に変える。その光は、コウの胸の中へと、吸い込まれていった。

 

___________________

 

 

 杜宮総合病院の屋上は、日の出と共に開放される。午前六時半の冬空は薄暗く、朝陽が僅かに顔を覗かせているに留まっていた。

 

「まだ暗いのな」

「当たり前じゃない。もう十二月よ」

 

 夜明け前の寒々とした世界の中で、二人は杜宮の街並みを静かに見守っていた。早朝の幻想的な色合いが情緒を抱かせ、陽の光は生きようとする活力を与えてくれる。太古から現代、遠い未来の生命に光をもたらすであろう太陽が、今この瞬間を照らしていく。

 そして、彼女も。この街の何処かに潜む彼女にもまた、等しく光は当たる。

 

「なあアスカ。上手く言えねえけど……その」

「全部、母の失態から始まったのよ」

「……アスカ?」

 

 唐突に切り出されて、コウは面食らった。アスカは徐々に昇り始めた朝陽を細目で見やりながら、言葉を並べた。

 

「だってそうでしょう。情けを捨てて、ジェーンを手に掛けてさえいれば、こんな事態にはならなかった。執行者候補も、米国の適格者達も、X.R.Cのみんなだってそう。言い逃れはできないわ」

 

 犠牲者が複数に上ってしまった以上、結果論では済まされない。本能によってしか動かない、空っぽの化物を前にして、躊躇いは不要なのだ。たとえそれが、人の身の成れの果てだとしても。知らなかったでは、許されない。

 

「だから私が、私の手で終わらせる。そう、何の憂いもなく……言えたらいいのに。でも、そうはいかないみたい」

「……無理もねえさ」

「彼女は、恨んでいるのかしら」

「どうだろうな。そういう記憶や感情は、もう捨てちまってるように見えたぜ」

 

 ひいらぎ。ジェーンが発した声と、視線。まるで幾年にも渡り蓄積し、固化した油のように、脳裏にこびり付いて離れない。入念に洗ったばかりの両手が、何かで染まっている気がしてならなかった。

 彼女は望んだ訳ではない。異界化の闇は、等しく誰にだって降り注ぐ。

 平凡な幸せがあったのかもしれない。

 母娘としての愛情は、異界でも成り立っていたのだろうか。

 私は。彼女は。

 私は、彼女であったかもしれない。

 彼女は、私であったかもしれない。

 

「コウ。今更になって、貴方の強さを理解できた気がするわ」

「俺の?」

「だって貴方は、シオリさんから逃げなかった」

 

 まるで立場が逆転していると、アスカは感じていた。夏のあの日も、今日のように屋上で、お互いの心境を語り合っていた。 

 

「最愛の肉親と並ぶ程の、掛け替えのない大切なヒト。貴方はそんな女性に……全てを受け止めた上で、偽りの存在と化したシオリさんに、刃を向けた」

「俺だけじゃねえよ。あの時は、みんな同じだった。それに俺だって、アスカがいてくれたからだ」

「貴方の覚悟が、私達を動かしたの。それはきっと、誰よりも重かったはずだわ」

「アスカ」

「え―――」

 

 不意に握られた右手から伝わってくる体温。想い。気恥ずかしさを覚える暇もなく、素直に温かいと思える。

 

「よく覚えてるぜ。お前はあの時、全力で俺を支えるって、そう言ってくれただろ。だから俺は前に進めた。全部同じだ。今度は俺が、お前を支えてやる」

「コウ……」

「不満か?」

「……ううん。少し、このままでいさせて」

 

 二人の恩師の目に、私はどう映っていたのだろうか。あの頃の私には、もう戻れない。一度知ってしまえば―――いや、思い出してしまったら、手放すことなんてできやしない。

 母親の情けが、過ちだったとも思えない。それが惨劇の引き金を引いてしまっていたのなら、エクセリオンハーツに込められた両親の意志と共に、受け止めなければならない。そのための勇気は、彼が与えてくれる。

 

「コウちゃーん!」

「ん……シオリ?トワ姉に、みんなも」

 

 柔らかな声に二人が振り返ると、漸く顔を覗かせた朝陽が、大切な宝物を照らしてくれた。

 以前の自分なら、反射的に握っていた手を放していたのだろうに。照れ笑いを浮かべつつ、コウとアスカが互いの手をそっと解くと、アキが呼吸を整えながら言った。

 

「こんな所にいたんですね。結構探したんですよ、電話にも出ませんでしたし」

「ああ、ワリィ。一服しながら、アスカと作戦会議をしてたんだ」

「ええ、そうなの。キョウカさんと話をして、既に動き始めて貰っているわ」

 

 アスカの誤魔化しに嘘はなく、事実、関東圏に控えていたゾディアックの対異界部隊員らは、人知れずこの杜宮で行動を始めていた。個の力を重んじる結社とは対称的に、ゾディアック側は国軍を模した集団で編成されている。仮にジェーンが万全の状態であっても、数の利を活かした人海で臨む策が取られていた。

 

「そうか……遠藤と玖我山はともかく、俺達はこの有り様だ。本当なら、力になってやりてえんだが」

 

 シオの声が尻すぼみになっていく。ミツキにユウキ、車椅子に座っていたソラも、一様に同じ色を浮かべていた。単に歩いているだけでも疲労を感じる身では、足手纏いどころの話ではない。仕方ないと割り切るにしても、己の無力さを嘆かずにはいられないというのが、四人の本音だった。

 

「ああ、それは気にしなくてもいいッスよ。四人は眠ってるだけで構わないッス」

「あん?」

「まあ、詳しいことは後のお楽しみってことで」

 

 含みのあるコウの物言いに、怪訝そうな視線が集まり出す。唯一事情を察していたアスカだけが、同様に悪戯な笑みを浮かべていた。

 

「よく分かんないけど、でもセンパイ。どうやってジェーンを追うつもりなのさ。探しようがないって状況は、今も変わらないんじゃないの?」

「……ええ、そうね」

 

 ユウキの疑問は尤もだった。行方を眩ませたジェーンに対する有効な追跡手段は、今現在でも見付かっていない。狙いがアスカである以上、いずれは姿を見せるはずではあるのだが、ジェーンに回復の隙を与えることに繋がる。アスカ以外の適格者が襲われる可能性だってあるのだ。

 

「サーチアプリの感度を最大にして捜索を始めてはいるけど、感度を上げると誤作動の確率も上がってしまうのよ。いずれにせよ、人海戦術で炙り出すしか、今は方法が―――」

「あ、あのー」

 

 アスカの声が遮られる。声の主は身を縮ませながら、おっかなびっくりといった様子で、右手を小さく上げていた。

 

「シオリさん?」

「えーと、あのね。私に、心当たりがあるの。相談してみるのも、アリかなーって思って」

「相談?誰にだよ。異界関係者か?」

「ううん、そうじゃないの。実は今も、ちょっとだけ聞いてみたんだ」

「……はあ?」

 

 何時、誰に、どうやって、何を。無言の突っ込みが、容赦なくシオリに突き刺さる。

 病室で皆と合流して以降、誰かと連絡を取った様子がなければ、この屋上に着いてからも、一言二言しか話していないというのに。シオリの傍に立っていたリオンが、気遣わしげな表情でシオリに声を掛ける。

 

「ねえシオリ。頭でも打った?」

「もう、違うってばっ」

「じゃあ誰に何を相談してたのよ?」

 

 シオリは右手の人差し指を伸ばし、上空に掲げながら、快活な声で告げた。

 

「神様っ!」

 

 

 

 


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