終了後はソラとユウキに焦点を当てた、アフターストーリー2を考えています。
野性味のある高鳴きが届いた。余韻が残っているうちに、もう一度。犬の遠吠えが、真夜中の住宅街から九重神社の境内に到来する。
もう電車も走っていない時間帯だ。音源は限られている。時折眼下を横切る自動車の走行音に、動物の鳴き声。深夜特有の音色が、十二月中旬の乾いた大気を介して響いていた。
「こんな時にあれだけど、この季節の深夜帯って、あたし好きだな。雰囲気があるわよね」
「分かります。冬ならではって感じですよね」
私の隣に立ち、微笑みながら遠くを見詰めるリオンさんに、頷きで返す。
既に十二月の第三週に入っている。色彩豊かなイルミネーションはそこやかしこで見掛けるし、世間はすっかりクリスマスムードに染まりつつある。そして聖夜を過ぎればあっという間に年越し。この時期は時の流れを早く感じるのが常だ。
けれど、この二日間はまるで逆だった。満ち足りた週末を過ごして、名残惜しさを抱きながら月曜日を迎えるはずだったというのに。私達の平穏は、何処へいってしまったのだろう。
「リオンさんは……今回の件、リオンさんはどう思いますか」
何の意味も成さない質問。分かってはいても、会話が途絶えてしまうと考えてしまう。
「どうって。それ、ジェーンのことを言ってるの?」
「はい。一連の事件の、元凶の正体が……その」
言葉にするのが躊躇われて、声が尻すぼみになっていく。リオンさんは両手を脇の下に入れて暖を取りながら、静かな声で言った。
「事実だって言われても、流石にね。多分アッキーと一緒よ。きっとコウ君も、同じなんじゃないかしら」
期待していた曖昧な返答に、妙な安堵を覚えた。結局私達は、未だ受け入れることができていない。
異界。隔絶された別世界に、私達は何度も足を踏み入れてきた。私自身、異界化に見舞われた回数を正確には記憶していない。それ程に異界化が引き起こす異常現象を経験して、目の当たりにしてきたということだ。
しかし今回は、そのどれとも異なっている。杜宮の異変とも決定的に何かが違う。あの怪異が、本当に―――私達と同じ、人間なのだろうか。
「どっちにしたって、あたし達があれこれ考えても仕方ないわよ。頼もしい助っ人もいることだし、今は素直……にっ……」
「リオン、さん?」
突然、声が途切れ途切れになる。顔を上げると、リオンさんの両目が見開かれて、私の後方へ釘付けになっていた。途端に背筋が凍り、言葉を忘れた。
「ひっ!?」
「うお!?」
がたがたと身を震わせながら振り返ると、そこにはジェーン―――ではなく、驚きの表情を浮かべた時坂君が立っていた。思わず膝が折れそうになり、冷や汗が一気に体温を奪っていく。
「な、何だよおい。急に変な声出すなよな」
「っ……り、リオンさん!」
「あはは、冗談よ。アッキー驚き過ぎ。って、ちょっと、やめ、あひっ」
それなりの力を込めてリオンさんの脇腹を小突く。こういった場面でやられっ放しにならない辺り、我ながら成長したなと思える。
というか本当に止めて欲しい。現役アイドルの真に迫る演技に騙されたのは今日が初めてではない。普段なら笑い話で済ますところだけれど、もう一発入れておこう。
「ふう。時坂君、どうかしましたか?」
「どうってお前、見回りから全然戻ってこないから心配になって見に来たんだよ。何かあったのか?」
言われてから漸く気付く。色々と話し込んでいたせいで、見回りに出てから大分時間が過ぎていたらしい。知らぬ間に無用な心配を掛けてしまっていたようだ。
「恋バナよ、恋バナ。ただの女子トーク」
「こいば……何だって?」
「何でもありません気にしないで下さい」
気恥ずかしさが込み上げ、右手を大きく振ってリオンさんの言葉を誤魔化す。少なくとも今この場で話すような内容ではない。
「とりあえず、一旦戻りましょう。何か温かい物を飲みたいです」
「あたしも賛成。すっかり冷えちゃっ……て?」
瞬間。弛緩し切っていた空気が消え去り、辺りの木々がざわついた。リオンさんが浮かべた驚愕の表情には、先程とは打って変わって嘘偽りが微塵も見当たらない。
足元が僅かに感じた初期微動で、直後に襲うであろう地震に身構えるように。取り戻した適格者としての感覚と勘が、激しく警鐘を打ち始めていた。
(き、来た?)
それに私は、一度間近で体感している。ジェーンが発する殺気、吐息、足音、匂い。五感に刻まれた記憶が呼び覚まされて、身体が小刻みに震えた。
間違いない。幾許もなく、『彼女』はこの場にやって来る。
「コウ、みんな!」
悴んだ手でサイフォンを操作していると、アスカさんの緊迫した声が届いた。見れば、後方には教官と副教官の姿もあった。恐らくは私達よりもいち早く接近を察したのだろう。
「アスカ。ジッちゃんとトワ姉は?」
「母家の奥で待機して貰っているわ。下手に離れるよりも安全よ」
手短なやり取りの後、私達の眼前に二つの背中が並んだ。教官らは利き手にサイフォンを構え、前方のやや上方を見やりながら仁王立ちしていた。アスカさんは二人の代弁をするように、場違いな程に冷静な声で言った。
「手筈通り、私達は下がりましょう。ここにいては巻き込まれてしまうわ」
私とリオンさんは首を縦に振り、一方の時坂君は若干渋々といった様子で、アスカさんに続いて教官らから距離を取っていく。三メートル、五メートル、約十メートル。そろそろ充分かと思い振り向こうとすると、アスカさんが私の手を引いた。
「まだ、もっと離れないと」
言われるがまま、足早に歩を進める。見る見るうちに教官ら二人の背中が小さくなっていき、結局私達は境内の隅にまで追いやられてしまった。離れ過ぎではないかと感じつつ、アスカさんの有無を言わさぬ態度に畏縮してしまい、口には出せなかった。
「あ……」
声が漏れ出そうになり、慌てて両手で蓋をする。
結界に歪みが生じていた。目には映らない。視認できずとも、九重神社の敷地を覆っていた結界の一部分が、ぐにゃりと捻れていく。
(あれが、ジェーンの力なの?)
女性の被害者に共通する症状、霊力の異常な消耗。種明かしと言わんばかりに、結界を成していた霊子達が一点に吸い寄せられていき、消えていく。もし霊力の吸収がジェーン固有の能力だとするなら、結界なんて用を成さない。
やがて歪みの中央から、何かがぽとりと音もなく落下した。水道の蛇口から一粒の雫が落ちるように―――ジェーンは静かに、私達の目の前に降り立った。
衝撃もなく、ただただ静かで。胸の鼓動ばかりが、耳の奥に響いていた。
「為せ、ドミネーター」
しかし静寂は、たちまちのうちに消え去ってしまう。
「始まるわ。みんな、私に掴まって」
「はい?」
アスカさんの声を合図にして、途方もなく巨大な力が、私達を襲った。突然足元が揺れて、上下左右の感覚がなくなっていく。
「ぐああぁ!?」
「きゃああ!!」
電流が引き起こす身体の痺れの最大級。嵐をこの場に凝縮したかのような圧力。刺すような痛みが全身に広がり、四方八方から押し潰されて呼吸が遮られる。意識が遠退きそうになり、しかし強引に覚醒させられ、込み上げた吐き気が見えない何かで圧せられる。
(な、に、これ―――)
自分が今どんな体勢なのかが分からない。このままでは身体が千切れてしまう。四肢は繋がっているのだろうか。
呼吸がしたい。せめて一息だけでも。もう限界だ。私は、まだ―――
「落ち着いて。大丈夫だから。口を開けて、ゆっくり吸うの」
「か、はっ……!」
「そう、もう一度よ」
すると柔らかな声が、指先を温めてくれた。指から手に、腕を介して肩へ。段々と痺れが薄れ、圧力が緩んでいく。
声に従い、恐る恐る息を吸い込んで、吐き出す。涙で視界が滲み、鼻と口から液体が垂れていたけれど、気に掛ける余裕はない。一旦唾を吐き捨てて、上着の袖で口元を拭ってからもう一度。大きく吸って、吐く。
「はぁ、は、ふうぅ。んん……え?」
呼吸が落ち着きを見せ始めた頃になって、漸く自分の状態に気が回った。
膝立ちの姿勢になり、アスカさんの右足の太腿を抱いていた。顔を上げると、時坂君は左肩へ。リオンさんは右腕に。三人の子供が母親へ甘えるように、我を忘れて縋り付いていた。
「気にしないで。リオンさんにコウも、そのままで構わないわ」
「わ、ワリィ」
「お、お言葉に甘えるわ」
恥じらいを覚える暇もなかった。リオンさんと時坂君も形振り構わず、アスカさんを抱きながら肩を上下に揺らしていた。原理は分からないけれど、恐らくアスカさんに触れていなければ、先程の生き地獄をまた味わう羽目になるのだろう。それだけは勘弁願いたい。
「これが教官のソウルデヴァイスよ。ジェーンを対象に絞ってはいるけど、教官はドミネーターの拘束力を全力で展開しているの。これだけ離れていても、霊力を上手く流さないと巻き添えを食らうわ」
「い、今ので巻き添え程度かよ?とんでもねえ力だな」
これだけ距離を取っていても、こちらに被害が及ぶ程に巨大の力。その全てが今、ジェーンに向いていた。
想像を絶する世界だった。念動力という形容では済まされない。教官が両手を向ける前方の空間が、目に見えてねじ曲がっている。荒れ狂う雷雲が立ち込めているかのようで、重々しい轟音が鳴り響いていた。
「無形の、ソウルデヴァイス……」
唯一無二の魂の耀き。無形。単純にして強大。私はアスカさんが語っていた、結社に属する一部の者の生き様を連想していた。
名前や住所、国籍。家族や友人。平穏な日常。私達が当たり前に所有する物の全てを捨て去り、結社から与えられた使命を全うするためだけに生きる人間達。数多の代償を払ってこその、無が生み出す力。そういった強さも、あるのだろうか。
「ねえアッキー。あれが、ジェーンなの?」
「あ、はい。そのはず、ですけど……ち、小さいような気が」
「小さい?」
無意味な想像を捨てて、目の前を注視する。半円状に展開した力場の中央で、ジェーンは教官と対峙していた。
見間違いではないのだろう。辛うじて両足で立ってはいるものの、明らかに一回り以上体型が縮んでいた。途方もない力に圧せられ、身動きが取れないどころか、原型を保つだけでも精一杯といった様子だった。
一方的とも言える攻勢が続く中、教官の隣で控えていた副教官が動いた。驚いたことに、副教官はドミネーターの支配下で、ゆっくりと歩を進め始めていた。
「あ、アスカさん?」
「言っていたでしょう。これからジェーンの魂を具現化して、ソウルデヴァイス化させるの。本来の用途とは違うけど、それでジェーンの意識を奪える」
「あ……そ、そうでしたっけ」
ドミネーターと並ぶ無形のソウルデヴァイス『ハンプティダンプティ』。他者の魂の耀きを己の刃として揮う異質な力。その間に魂の所有者は意識を失うという欠点を逆手に取った奇策。既に副教官は、ジェーンの一歩手前まで迫っていた。
「す、すごい。アスカさんもそうですけど、どうしてあの中で動けるんですか?」
「霊力の流動性を……って、今説明しても仕方ないわ。さあ、始まるわよ」
詳細は後回しにして、固唾を飲んで見守る。頭上に掲げた副教官の左手が光を放つと、その先端がゆっくりとジェーンの胸に向いた。副教官と言えど、ドミネーターの拘束力を完全に流すことは困難なのか、動きはひどくぎこちない。しかし左手は着実に、胸の中へと埋まっていく。
制圧の瞬間。それは同時に、ジェーンが人間であることの証明。あと少しで全てが終わり、真相が明かされる。逸る気持ちを抑えていると―――光が、真っ赤に染まった。
「があああぁ!!」
「「っ!?」」
突如として、副教官の左腕が炎上していた。焔属性の霊力。火の手は一気に勢いを増して、周囲を照らした。副教官は身の毛がよだつような悲鳴を上げながら、地面の上を転がり始める。
「ふ、副教官!?」
異変は続けざまに生じた。愕然としていると、ぱきんという渇いた音が鳴り響いた。
直後、ドミネーターによる支配が止んだ。ジェーンを縛り付けていた力が霧散し、風と化して砂埃を巻き上げる。思わず目を逸らしてしまい、暗転。両手で砂埃を遮り、どうにか瞼を開き掛けたところで、目を疑うような光景が飛び込んでくる。
「あ―――」
地に這ったジェーンの右腕が、斜め上に振るわれる。手刀だった。途端に教官の身体から血飛沫が上がり、膝が地面に崩れ、糸が切れた人形のように前方へと倒れていく。声を発する間もなく、教官は動かなくなっていた。
全てが一瞬だった。左腕が鎮火した副教官も、微動だにせず蹲っている。その場に立っていたのはジェーン一人。そして遠方に身を隠していた私達四人。思考が追い付かず、重い沈黙が淀み始めた中で―――ジェーンが、言った。
「ひぃ、ら、ぎ」
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立て続けの想定外に、また一つの驚愕が重なる。
それはあまりに自然で、見過ごしてしまいそうな違和。
「……おい。今の、聞こえたか」
コウの投げ掛けに、誰も応じようとしない。コウはそれを無言の肯定と受け取った。
辛うじて耳に入った擦れ声。眼前のグリードが、言葉を―――いや。人間の女性が、声を発した。たったそれだけの事実が、遠くから彼女を見詰める四人にとって、受け入れ難い事態だった。
「い、らぎ。ひぃらぎ、ひいらぎ」
疑惑が確信へと変わる。聞き間違いではない。ジェーンは取り憑かれたように、アスカの姓を繰り返し呼んでいた。当のアスカはジェーンと視線を重ねながら、思考を巡らせ始めていた。
ひいらぎ。ジェーンが姿を見せて以降、私を姓で呼んだ者はいない。私を柊アスカと認識できるはずがない。
なら、どうして?何故ジェーンは私を知っている。私を見詰める、その眼差しの意味は?
考えろ。考えろ。考えろ。考えないと、正常な思考が泥濘に引き摺り込まれてしまう。
「ひいらぎ、ひいらぎひいらぎひぃらぎらぎらぎらぎ、ぎいぃいい!ひいらぎ!ひいらぎひいらぎいぃ!!!」
呟きが慟哭に、視線が殺意に変わる。得体の知れなかった脅威が、今にもアスカを手に掛けんとする狂気に満ちた女性へと変貌していた。
考えるのは止めだ。優先すべきは他にある。たとえ理解に及ばずとも、抗うことはできる。
アスカがエクセリオンハーツを顕現させ、三人が続く。レイジングギア、セラフィムレイヤー、ライジングクロス。四つの覚悟が集結し、再び境内が戦場と化す、その直前。ジェーンは動きを止め、身体を震わせた。
「がはぁっ!?」
「え……」
血と胃液混じりの嘔吐。大きく咳込み、人間の証を口部から地面に垂れ流していく。膝が折れ、尋常ではない量を吐いては痙攣し、再度吐き出す。アスカ達は身を固めたまま、痛々しいその姿に手出しができないでいた。
ドミネーターによる拘束は、ジェーンの身に深刻な損傷を与えていた。Sランクのグリムグリードを数秒で葬り去る程の力を、長時間単身で受け止めていたのだ。同時にハンプティダンプティによる強制を跳ね除け、直後の攻勢。怪異染みた再生力は、深手に追い付いていなかった。
「う、ううぅっ、うううぅぅうう!!」
殺意よりも優先される生存本能。そして脳裏を過ぎる『記憶』。呼び起こされた感情に身を委ね、ジェーンは後方へと大きく跳躍して、アスカ達から更に距離を取った。
「ま、待ちなさい!」
今なら勝機はある。アスカ達が駆け出そうとするやいなや、鈴の音が鳴った。思わぬ横槍に、ジェーンも頭上を仰いだ。
ちりりんと、もう一鳴り。やがて暗闇から姿を見せたのは、蒼白い輝きを身に纏った少女。異界の子―――レムは光と共に顕れ、落葉のようにゆっくりとした速度で、ジェーンの眼前へと降り立った。
何故彼女がこの場に。予想だにしない展開に戸惑うアスカらを余所に、レムは微笑みを浮かべながら言った。
『やあ。君は、何処から来たんだい?』
レムがそっと差し伸べた手が、ジェーンの頬に触れた。すると一層の光が発せられ、レムとジェーンを包み込む。辺り一面が光で溢れ、まるで真夏に咲いた花火のように全てを照らしていく。
やがて再び暗闇が降りると共に、レムは瞼を閉じながら告げた。
『……そう。君は、そうだったんだ』
レムの笑みが深みを増した後、ジェーンが勢いを付けて飛び上がる。瞬時にその姿は夜に溶け込んでいき、風と共に忽然と姿を消した。彼女の襲来から僅か五分間にも満たない、あれよあれよという間の出来事だった。
静寂が訪れる。この場で今、一体何が起きたのか。疑問は多々あれど、悠長に構えてはいられない。アスカはぱんぱんと両手を叩き、皆に切り替えを促す。
「教官と副教官の手当てが先よ。みんな、手を貸して」
「あ……え、ええ。そうよね」
「わ、分かりました」
足早に教官らの下へと駆け寄り、アスカが容体を見て取る。
どちらも意識はない。教官の出血がひどく、ドミネーターの全力展開も相まって消耗が激しい。副教官も左腕に重度の火傷を負っており、一刻も早い処置が求められる。時間との勝負だ。
「アキさん。キョウカさんと連絡を取って、二人をすぐに中央病院へ搬送するようお願いして。私は術式で応急処置をするから、コウは私と一緒に。リオンさんは母家に行ってソウスケさんに事情を話して、ありったけの聖水を持ってきて」
自らを客観視しながら、淡々と指示を下していく。平静でない自覚があるからこそだった。
私は今、別のところに気が向いている。ジェーンは何者だ。私の姓を何処で知った。そもそも本当に人間なのか。異界の浸食と同等の支配力を持つ人間なんて聞いたことがない。
冷静に処置をこなす自分、ジェーンに没頭する自分。両者を俯瞰して見比べる自分。気を抜くと三者に分裂しそうで、動悸が収まらない。そんなアスカに対し、異界の子が言った。
『柊アスカ。君は彼女を知る必要がある』
今その話に触れるな。毒づいてしまいそうになるのを堪え、アスカが応える。
「今はそれどころじゃないの。詳しい話は後で聞かせて貰うわ」
『それでも君は知るべきだ。ジェーンはヒトでもグリードでもない。両者の狭間に在る。でもね、元々は君達と同じだったんだ』
アスカの呼吸が止まり、コウの手も止まった。キョウカと通話をしていたアキは、口を半開きにしてレムを見詰めていた。
『二十年ぐらい前の話だよ。ジェーンの母親は彼女を身籠った後、とある異界の中に迷い込んだんだ』
「っ……な、何を言ってるの」
『この世界と同様に、異界は変わる。同じではいられない。ジェーンの母親も少しずつ、異界と共に変わっていった。限りなくグリードに近い存在へと変貌した母親から生まれたのが、彼女さ』
―――『グリーディア』。ヒトとグリードの狭間で揺れる存在を、レムはそう呼称した。コウやアキは勿論、異界の多くを知るアスカでさえもが耳にしたことがなかった。話の行き先がまるで読めない三人を置いてけぼりにして、レムは続けた。
『やがてジェーンの母親は、一人の適格者の手によって討たれた。ジェーンの目の前で、母親は滅ぼされたんだ』
「お、おいレム。まさかそれが、アスカなのか?」
『違うよ。言っただろう、これは今から二十年近く前の話だってね』
二十年前。ジェーンが顕れた地。米国。異界。適格者。柊の姓。点と点を繋いでいき、やがてアスカの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。
杜宮の異変は、十年前の東京冥災に起因していた。けれど、それよりも前。この二日間の全ての始まりは、二十年前。
そんな。嘘だ。もしそれが真相だというのなら。私はずっと、彼女に―――
『その適格者が―――柊アスカ、君の母親だ。その頃には既に、君の生命は母親の身に宿っていたのさ。そしてジェーンは全部知っている。だから彼女はこの杜宮に来た。最愛を奪い去った者の、最愛を奪うためにね。ジェーンの目的は、君だ』
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幸せの絶頂にいたはずだった。想い人と結ばれ、程なくして宿した新たな生命。
どんな言葉で彼に伝えようか。一番に吉報を伝えたかった男性は、しかし二度と帰っては来なかった。何処にでもある、誰にでも訪れ得る不幸の一例だった。
これからどうやって生きていこう。私は何のために生きればいい。絶望の淵に立たされた女性は―――知らぬ間に、とある地に立たされていた。
(ここは……天国?)
見渡す限りの緑。咲き乱れる色取り取りの花畑。鳥の歌声。空と湖の青。息を吸うだけで空腹が充たされ、風が負の感情を洗い流してくれる。微睡みが、生きようという希望を湧かせてくれた。
誰一人として見当たらなかった。友人知人は勿論、家族すらいない別世界。しかし不幸とは感じなかった。孤独を不幸せとする観念さえもが存在しない世界の中心で、女性はいずれ生まれるであろう最愛に語り掛けていた。
一人じゃない。
私はこの子と共に生きていく。
それ以上を、私は望まない。
変化は徐々に訪れた。緑が減り、陽の光が減った。透き通っていたはずの水が濁りを見せ始め、段々と空が緋色に変わっていく。気付いた頃には、異形の化物が我が物顔で徘徊していた。
変わらなかったのは、生きようとする意志。この世界で生きていこうという覚悟。そして我が子を護り抜くという断固たる決意が、彼女自身の在り方を変えた。
(絶対に、護って見せる)
荒廃した世界の中で、女性は力を求め始めた。異界の実を食らい、肉を貪り、瘴気を吸い続けた女性は、少しずつ怪異に近付いていった。やがて人間の身を捨て、魔宮の主へと上り詰めたかつての女性は、孕んでいた我が子を産み落とした。母親とは異なり、赤子の姿形は人間のそれを保っていた。
女性―――強大なグリーディアと化した女性は、赤子に全てを捧げた。人間のままでは、この世界で生きていけない。だから、この子にも力を。それが未来に繋がると頑なに信じ、赤子は異常な速度で成長した。一年が経つ頃には十歳児並の体格を手に入れ、徐々に怪異としての力を有し始めていた。
「第一拘束術式、完全解除」
満ち足りた日々が続く中、『敵』は突然降り立った。単身で異界へと乗り込んできた敵は、怪異の群れを容易く斬り捨て、奥部で待ち構えていた主と対峙した。
一方的とはいかないまでも、敵はあまりに強過ぎた。巧みな剣捌きを以って斬り刻まれ、ものの数分間で主は虫の息となっていた。
「あああ、あああぁぁあ!?」
物陰に隠れて見守っていた少女は堪らずに飛び出し、母親の身体を揺すった。全身の傷から体液を流す母親は、少女の呼び掛けに応える力すら残されてはいなかった。
「……驚いたわ。こんなグリードもいるのね。まるで母娘じゃない」
背後から放たれる殺気。少女は思わず振り返り、敵を見上げた。
頭上に掲げられた断罪の刃。しかし剣は振り下ろされなかった。僅かな情けが生んだ躊躇い。代わりに敵が踵を返して剣を納めると、世界が歪んだ。主を失った魔宮は急速に崩壊していき、少女の意識も深い闇の中へと、落ちていった。
覚醒と共に、喉が焼けるような苦しみに苛まれる。息を吸うだけで吐き気が込み上げ、真面に目も開けていられない。身動きを取ると全身が悲鳴を上げて、肌が爛れていくかのような錯覚を抱いてしまう。
ここは何処だ。この苦痛は一体。息も絶え絶えな身で辺りを見渡すと、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「こちら柊です。ゲートのフェイズゼロ化を確認……ヒイラギ、です。いい加減慣れて貰えますか?籍を入れて、もう三ヶ月ですよ」
敵。最愛の母親を斬り、居場所を奪い去った敵。
己が置かれた立場を、少女は理解していた。相反する両者のいずれにも、自分は属さない。異界の門が閉ざされ、帰るべき道を絶たれた今、私は敵が生きる側の世界に締め出されてしまった。全身を襲う苦痛は、中途半端な存在である私を拒絶している。
「ええ、そうです。今日が最後。明日にでも日本に戻って、産休に入ります。旦那も心配していますから……フフ、分かってます。暫くは一児の母親に専念させて頂きますね」
沸々と少女の胸に湧き上がる感情。流れ出る涙は、焔を思わせる緋色に染まっていた。
どうして。
おかしい。何が違う。
私は、何が違うんだ。
私達だって―――あの二人と、同じであったかもしれないのに。
「オ、カァ、サン」
終わりが始まりを告げ、狭間に在った者が育んだ生命が、再び狭間で揺れる。
柊アスカが生を受ける、九ヶ月前の出来事だった。