東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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12月13日 Jane Doe

 

 

 人類の立ち入りが許されない極限地帯では、異常な頻度で異界化が発生する事例がある。気温や酸性度が生命を拒絶するため、霊脈の流れがひどく不安定なのだ。米国の某湿地帯では、十三時間に一度のペースでフェイズ1の異界化が生じては、消滅するを繰り返している。けれど当然、表沙汰にはならない。多くの場合、結社の手により厳重な管理がなされると共に、『一度迷い込めば出られなくなる』といった都市伝説が形成されることで、真実は曖昧になっていく。

 しかし一方で、異界化を活用する者達がいた。適格者という稀有な存在から選抜され、才を見い出された『執行者候補』は、老若男女を問わず、数多の試練を乗り越えねばならない。異界化を治める術を知り、自らの手で門を閉じる経験が求められる。その際に利用されるのが、高頻度の異界化が観察される土地だった。

 

 

 十二月某日も、何ら変わりない実地訓練の一つに過ぎなかった。教官役に率いられた十三名の候補生達は、間もなく生じるであろう異界化に臨むため、所定の座標で待機を命じられていた。候補生と言えど、既に一年間以上の訓練を積んできた、力ある者の集団。何事もなく、一日を終えるはずだった。

 不意に、暗闇が降りた。身の毛がよだつような殺気。通常の異界化とは違う様相。一人が悲鳴を上げた。血飛沫が舞う向こう側に、何かが立っていた。教官役を筆頭に、誰もが己の魂の耀きを刃に変えた。

 

 

 第二本部に一報が届いたのは、襲撃から間もなくのことだった。特異点を介さない侵蝕。生存者は教官役の一名のみ。一方的な蹂躙と殺戮。絶望が、始まりを告げた。

 あまりの異常事態に、即座に箝口令が敷かれた。限られた者のみが知るところとなり、対象をSSS級グリムグリードに等しい脅威と想定し、排除が命じられた。

 従来の異界化予測プログラムはまるで使い物にならず、しかし追跡は容易かった。次なる犠牲者が報告されたからだ。突如として顕れたグリードにより闇討ちされ、霊力を消耗し切った適格者。グリードは嘲笑うかのように、『結社に属する適格者』のみを、立て続けに襲った。どういう訳か、その殆どが女性だった。

 グリードは明らかに米国西部を目指していた。先回りをすべく、上層部は人員を予測された地に配置した。しかしながら、一時を境にして足取りが途絶えてしまう。カリフォルニア州東部での目撃情報を最後に、行方を眩ませてしまっていた。

 一体何処へ消えたというのか。有力な手掛かりが見付からず、暗雲が立ち込め始めた中―――事の発端から、約七十時間後。オペレーターの一人が、不穏な表情を浮かべながら、上官に告げた。

 

「日本を活動拠点とする執行者、アスカ・ヒイラギより、気になる報告が入っています。それと……例の、分析結果ですが―――」

 

___________________

 

 十二月十三日、午後十七時を回った夕暮れ時。杜宮総合病院南館一階の正面玄関前で、私はサイフォンを片手に、薄暗い冬空を見上げながら、タマキさんと通話を繋げていた。

 

「だから今夜はソラちゃんと一緒に、アスカさんの下宿先に泊まろうかと思ってるんですけど……いいですか?」

『構わないわよ。でも羽目を外し過ぎないように、とだけ言っておくわ。明日は月曜日なんだし』

「それは、はい。節度は守ります」

『まあ、言うほど心配はしてないんだけどね』

 

 別段気にする必要もない、些細な嘘だった。ヤマオカさんにはアスカさんがある程度の事情を伝えてあるはずだし、誰の迷惑にもなりはしない。気持ちの問題だ。

 

『そういえば、聞いてる?マンションの事故の件』

「……知ってます。ニュースで見ました」

 

 振り返り、館内の様子を遠目から覗く。エントランスホールには大型の液晶テレビが設置されていて、今も報道番組の画面が映し出されている。事故発生当時の映像。タワーマンションの根元から漏れ出る黒煙。液化ガスの漏えいに起因するとされる爆発事故の報道は、全国各地に広まりつつあった。

 インターネット上では別の意味で、この杜宮市が注目の的になっているようだ。春の終わり、杜宮学園で発生したガス漏れ事故を連想させる、同種の騒動。真相を知らない一般人の目には、物騒な事故が多発する都市として映ってしまうのだろう。

 

『あれって……確か、アキの友達も住んでるマンションよね?』

「大丈夫です。ミツキ先輩やユウ君も、事故当時は外出していたみたいですから」

 

 ―――これも、嘘。

 幸いにも怪我人はなく、人的被害はゼロ。住民らは一時的に避難を強いられているけれど、富裕層が所持していたハイグレード車が数台犠牲になっただけだと報じられていた。

 でも真実は違う。昨晩の悲劇の繰り返しだ。二人の先輩が、二人の後輩が襲われ、今も尚意識を取り戻せていない。

 まるで悪夢だ。厭な夢だと思いたい。けれど、逃避をしている時間すら、私達には残されてはいなかった。

 

___________________

 

 東館に移り、四階に上がって西へ。朝方にも使った講堂に向かっていると、廊下の反対側から歩いて来る時坂君の姿が映る。お互いに扉の前で立ち止まり、声を潜めて会話を交わす。

 

「どうだった?」

「特に何も。変に思われたりはしませんでした」

「こっちもだ。アオイさんには、今晩ユウキは俺の家に泊まるって伝えたよ。また後で本人から連絡させるって言っといたけど……」

「……早く、目が覚めてくれるといいですね」

 

 時坂君が開けてくれた扉を通り、室内に入る。リオンさんはほっそりとした手をひらひらとさせて、一方のアスカさんは腕を組みながら硬い表情を崩さずに、視線で応じてくれた。

 私を含め四人。奇しくも同学年のみが残された。そこに意味はなくとも、徐々に追い詰められているかのような不安を抱いてしまう。

 

「状況を整理するまでもないわ。私が話せることは、貴方達に全て伝えてある」

 

 アスカさんが組んでいた腕を解き、剣呑な顔つきで言った。

 ソラちゃんとユウ君がここへ搬送された際に、明かしてくれた驚愕の事実。事の発端は昨晩ではなく、それより三日間も前の出来事だった。米国で発生した襲撃。増え続ける犠牲者。結社による追跡。西部での失踪。そしてその丸三日後に、ミツキ先輩と高幡先輩は襲われた。

 共通点しか見当たらないのだ。SSS級と想定されるグリードの外見、付随する現象、サーチアプリの不感知。狙いは適格者に限られており、とりわけ女性は霊力の異常な消耗が見られる。時系列も一致していた。

 唯一の相違は、『結社に属する適格者』という部分だ。襲われた四人全員が不一致。この点を考慮したとしても、導き出される答えは一つしかない。

 

「でも変ね。仮に一連の元凶が同じグリードだったとして、どうやって海を渡ったって言うのよ。グリードが密航でもしたって言うの?」

「グリードに距離や時間なんて概念は通用しないんじゃねえのか。あってないような物だろ」

「……それもそっか」

「それよりも、グリードの狙いだ。どうして―――」

 

 そこまで言って、時坂君は口を噤んだ。

 もし仮に、グリードの標的が適格者に限られるとして。四人が襲われたことそれ自体に、意味を見い出すか否か。どちらの可能性も否定したいけれど、最悪を想定するなら、前者を選ばざるを得ない。

 少なくともグリードは何らかの手段を以って、広大な太平洋を渡った。私達にとって最大の不運は、道すがらに私達がいたこと。それ以上は推測の域を出ないだろう。考えるべきは、今この瞬間だ。

 

「何れにせよ……みんなも、襲われるかもしれないってことですよね?」

 

 張り詰めていた緊張感が、更に鋭さを増す。

 不幸中の幸いと言うべきか。現時点では、異界と関わりを持たない人間に、直接的な被害は及んでいない。けれど、もしこの病棟が戦場と化したら。時坂君が、私に続いた。

 

「アスカ、結社としての意向はどうなんだ。増援が来るって話だったよな?」

「ええ。米国本部から、私以外の適格者が派遣されることになっているわ。それまでの間、私達は総出で事に当たりましょう。キョウカさんに事情を明かして、ゾディアックとの共同戦線を―――」

「その必要はない」

 

 すると突然、背後から横槍が入る。独特でちぐはぐなアクセント。C組のカレンさんを思わせる、日本語慣れをしていない発音。

 振り返るよりも前に、アスカさんが上擦った声を上げた。

 

「き、教官っ?」

 

___________________

 

 大柄で屈強な男性だった。肌は浅黒く、頭髪は全て剃り上がっている。黒色のサングラスで目元は隠され、同様に黒のロングコートを羽織り、インナーも黒。全身を黒で統一した異質な様は、まるで外国映画の世界から飛び出してきたかのよう。

 

(誰、この人……教官?)

 

 言葉に窮していると、男性がゆっくりとした足取りで室内に入って来る。背後には、もう二つの人影があった。一人は教官と呼ばれた人物と同様の出で立ちをした、ファッションモデルのようにスラリとした白人男性。そしてその傍らには、見知った女性が立っていた。

 

「ゆ、ユキノさんまで……あの、どういうことですか?ど、どうして」

「私はただの道案内役よ。話せることは何もないわ」

「はぁ」

 

 疑問符を浮かべるアスカさん。無理もないかもしれないけれど、それ以上に置いてけぼりを食らっている私達三人のことも考えて欲しい。正直に言って、全てが理解不能だ。

 

(勘弁してくれ。訳分からな過ぎて頭がいてぇ)

(アスカっていつも、説明を後回しにするわよね……さっき、教官って言った?)

(そう、聞こえましたけど……あれ?教官?)

 

 教官。極近い時間帯に、その単語を耳にした記憶がある。教官。教官役。執行者候補生。唯一の生き残り。

 漸く僅かな繋がりを垣間見ていると、アスカさんは先頭の男性と握手を交わしながら、声を弾ませていた。

 

「お久し振りです、教官。お元気そうで何よりです」

「お互いにな。第二本部から聞いてはいなかったのか?」

「私は増援が来るとしか。まさか教官自ら来て頂けるとは思ってもいませんでした。それに、副教官も。最終試験以来になりますね」

「……ああ。君は益々、母親に似てきた」

 

 やり取りを耳にしながら、アスカさんの過去を脳裏に想い描く。

 アスカさんが執行者として活動を始めたのは、三年前と聞いている。米国で執行者となるための訓練と試験を受けたと言っていたから、きっとその指導役を担っていたのが、眼前に立つ二人の男性なのだろう。

 今から三年前と言えば、日本で言えば中学校の二年生。訓練期間は想像するしかないけれど、膨大な知識と技能を身に付けるには、少なくとも年単位の時間を要する。逆算すると、執行者を志したのは小学生の時期だろうか。

 

「お前が作成した報告書には目を通してある。彼らが協力者か」

「はい。この地で起きていた異変の解決に貢献した、仲間達です」

「……仲間、か」

 

 コツコツと革靴特有の足音が鳴り、『教官』が時坂君の前で足を止めた。後方に私とリオンさん。教官は私達を一瞥すると、斜め下の方を向いて、背後のアスカさんに問い掛ける。

 

「対象を間近で目撃した者がいると聞いているが?」

「あっ……え、と」

 

 サングラスが、私を見下ろした。頭の頂上から足元に至るまで、威圧的な視線を這わされた。

 直接目にした人間は私だけだ。リオンさんと地下駐車場に飛び込んだ際、既にグリードの姿はなく、ソラちゃんとユウ君の二人だけが、力無く横たわっていた。あの異様な全貌は、今も目に焼き付いている。

 

「私、です。確かに見まし―――た、え?」

「強制走査だ。見せて貰おう」

 

 突然視界が暗転し、世界がぐにゃりと歪んだ。

 

___________________

 

 まるで糸の切れた操り人形だった。アキの膝が折れ、下半身が折り畳まれる。コウが慌ててその背中を受け止め、次いでリオンがアキの顔を覗き込む。

 

「な、何よ。どうしたの、ねえ、アッキー。き、聞こえてる?」

「走査の余波だ。直に動けるようになる」

 

 動揺する二人を意に介さず、教官は手にしていたサイフォンをロングコートの内ポケットに戻しながら、平坦な口調で静かに告げた。

 

「成程な。確かに同一の個体のようだ」

 

 記憶の強制走査。術式は一瞬だった。アキの記憶に刻まれた情報を脳波から直接読み取り、己の物とする。記憶は視覚に限らない。アキが見聞きした、肌で感じた物を部分的に吸い上げる。異なる記憶同士の照合を図った結果、一致の程度に疑いの余地はなかった。

 

「教官。今のは、何ですか」

 

 戸惑いと怒りをない交ぜにした、感情露わな声。アスカは両手を硬く握りながら、努めて丁寧な言葉を選んだ。

 

「確証を得るためだ。致し方あるまい」

「だ、だからと言って!告知もせずに記憶走査を強制する必要がっ……ああぁ!?」

 

 するとアスカが、濁った呻きを漏らした。コウとリオンがハッとして見上げると、目を疑うような光景が広がっていた。

 

「……は?」

「問い質すのはこちらだ、アスカ。何故彼女が『知っている』?」

 

 厚みのある逞しい五指が、アスカの首根っこをぎしぎしと締め上げていた。アスカの両足が宙に浮き、体重と握力が食い込んでいく。見ている側の息が詰まりそうになり、吐き気を催させた。

 コウとリオンは愕然として、目を瞠った。先程まで取り合っていた互いの手が、一方の首を拘束して、もう一方が弱々しく抵抗する。狂的な一枚絵。教官は言及した。

 

「米国における一連の事件は組織外秘。お前も当然把握しているはずだ。組織外秘の情報を、何故一般人に話した。執行者としての義務を忘れたのか?」

「ぞれ、は……な、がぁっ……っ」

 

 強制走査で得た記憶は、点ではなく線。アキの脳内にあった、存在しないはずの情報達。発信者は、アスカ本人だった。

 勿論、知らなかった訳ではない。そして今回が初という話でもない。明確な意思の下、そしてお互いの立場を理解した上での決断だった。

 

「それにお前は先程、ゾディアック側に事情を明かして共同戦線を、などと吐かしていたな。ふざけるのも大概にしろ。『今のお前』に執行者たる資格はない。いいか、次はないと思え」

 

 ―――ドサッ。

 アスカが解放されたのと、コウが教官の腕を掴み掛かったのは、ほぼ同時。厳密に言えば教官が一手早く、嘲笑に似た色を浮かべた。コウは教官を一睨みした後、咳込むアスカの肩を抱きながら、吐き捨てた。

 

「初対面で言っちゃなんだが。アンタ、第一印象最悪だぜ。SSS級に気に入らねえ」

 

 教官は視線を合わせようともせず、踵を返して出入り口に向かった。扉に寄り掛かっていたユキノは、臆することなく向かい合う。

 

「場所を移す。この近辺で人払いができ、結界を張るに適した場所を知りたい」

 

 すぐに思い至る場所があった。ユキノは敢えて熟考するような素振りを見せ、教官の背後を見やる。視線で会話を交わすと、苦笑混じりに答えた。

 

「了解が得られたわよ。少年に感謝することね、教官さん?」

「何を言っている」

「アンタらは表でタクシーでも拾っといてくれ。ジッちゃんには俺から頼んでおく」

 

 退室を促すようなコウの言い回しに逆らわず、教官らが無言で室外に出ると、ユキノもコウに向けて手を振りながら、後に続いた。

 途端に、凍て付いた静けさに包まれる。嵐が過ぎ去った後の静寂。ちょうどその頃になって、夢見から覚めるように、アキが顔を上げた。

 

「んん……ん。リオン、さん?」

「はああぁ。何なのよもう、あいつら。ほらアッキー、立てる?」

 

 そして、アスカも。呼吸が落ち着き、冷静さを取り戻すに連れて―――肥大化していく、漠然とした不安。根底を覆されてしまったかのような畏れ。

 初めてだった。私の過去を知る人間が、『今』の私を否定した。分からない、どうして。私は一体、何を間違えたのだろう。

 

「私、は……」

「気にすんな。お前は何も間違っちゃいねえよ」

 

 毅然とした声と一緒に、差し伸べられた手。まるで女性のような繊手は優しく、男性的で力強くもある。確かな感情が宿っていた。

 

「いつだったか、俺に言ったよな。アスカも同じだ。お前がこの杜宮で積み上げてきた物を、俺は全部見てきた。今のアスカを、俺達は誰よりも知ってる。だから、大丈夫だ」

 

 コウが小さく頷き、微笑む。釣られてアスカも笑った。時刻は既に、午後十八時を回っていた。

 

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 総合病院前からタクシーに乗り、国道沿いに南へ。目的地の九重神社まで、二十分と掛からない道のりだ。

 

「アッキー、どう?」

「大丈夫です。もう何ともないですよ」

 

 席順は自然と男女で分かれた。助手席に時坂君、後部座席に女子が三人。

 中央に座るアスカさんは乗車して以降、一言も喋ろうとしない。重苦しい空気に耐え切れなかったのか、リオンさんが話題を振った。

 

「ねえアスカ。教官さん達の名前を聞きそびれちゃってたけど、何ていうの?あの人達」

「それは……知らない」

「は?」

 

 想定外の返答のせいで、車内に間抜けな声が広がった。

 

「私は教官、副教官って呼んでいたから。あの二人には、確かに『表の顔』もあるけど……年齢とか出身とか、私には分からないの」

「え、えーと」

「別に珍しいことじゃないわ。名前や国籍さえ持たない、表の顔を完全に捨てた者もいる。結社はそういう組織なのよ」

 

 相槌を打つことさえできなかった。自然と前方を走る同型の車両に目がいく。

 再会の喜びを分かち合う程の間柄で、名前を知ることすら許されない。ありふれた日常の中には存在しない関係を、どう言い表せばいいのだろう。それよりも気になるのは、病棟での一件だ。

 記憶を走査された後も、五感は生きていた。意識はあったし、やり取りは全部覚えている。組織外秘の情報だったなんて話を、私達は一度たりとも聞かされてはいなかった。「でも」と前置いてから、静かに告げた。

 

「どうして私達に黙っていたんですか。私だって、一連の真相を知りたいとは思いますけど、まさかあんな風に責められるだなんて」

「黙っていたつもりは……私はただ、話さなきゃって、思ったから」

「執行者としての義務があるって言われてましたけど」

「仲間への義理だってあるわよ。だから、だから私はっ……な、なに?」

 

 自然と穏やかな笑みが浮かび、私はアスカさんの首に刻まれた痣を見詰めた。

 アスカさんの深い部分、過去へ触れる度に、時折距離を感じてしまう私がいる。私達の知らない世界があり、未だ見えてこない何かがある。けれど、アスカさんはアスカさんだ。何も変わらない。私達が知るアスカさんが、今ここにいる。

 

「彼女達は演劇部の学生かい?」

「いや、ただの遊びッス。今のもラノベのワンシーンなんで。無視していいッスよ運転手さん」

 

___________________

 

 境内の東側に佇む二階建ての道場には、何度か足を運んだことがある。高幡先輩が大怪我をした時が初だ。廊下を更に東へ進むと、母家―――つまり九重先生の実家、九重家の一階と繋がっていた。

 私達が案内をされたのは、広々とした客間。室内は純和風といった感じで、築年数は古そうだけれど、生活感に溢れている。畳や座布団の匂いに居心地の良さを覚えた。

 

「えーと、日本のお茶です。お口に合うか、分かりませんけど」

 

 九重先生が、人数分の湯呑を丸テーブルに置いていく。アスカさん、リオンさん、時坂君、私。それに教官と副教官、ユキノさん。計七人分。ユキノさんは部屋の隅で傍観を決め込んでいるから、湯呑は妙な位置に置かれた。

 九重先生が退室すると、入れ違いでソウスケさんが襖を開けた。袴の側面からは、護符のような物が顔を覗かせていた。

 

「あり合わせじゃが、魔除けの霊具を設けておいた。結界の足しにはなるじゃろう」

「ワリィな、ジッちゃん。その、巻き込むような真似を、しちまって」

「構わんよ。何やら込み入った事情があるようじゃが……最早何も言うまい。皆の力になってやりなさい」

「ああ。詳しいことは、後で話すよ。話せる範囲で」

 

 ソウスケさんは朗らかな笑みを浮かべて、私達を見回した。会釈で返すと、ユキノさんも姿勢を正して、日本人らしい一礼を見せる。対する教官と副教官は、微動だにしなかった。

 文化の違いや無礼とは違うらしい。アスカさんがタクシーの車内で聞かせてくれた。機密な案件に関わっている以上、他者との関わりは必要最低限に留めなければならない。会話は勿論、名乗ることさえ許されないそうだ。私達はアスカさんに倣い、二人を『教官』『副教官』と呼称せざる得なかった。

 

「先に言っておこう。改めて状況の詳細を把握させて貰うが、本来お前達は知る立場にない。勘違いをしないことだ」

 

 何度目か分からない念押し。あからさまな悪態を見せるリオンさんと時坂君に肝を冷やしつつ、教官とアスカさんのやり取りに耳を傾け、頭の中で整理をする。

 大まかな部分は、アスカさんの話の通りだった。目立った食い違いは見当たらないし、未だ謎に包まれている点を除けば、既に私達が把握している事実が並んでいく。

 

「……一点、確認させて下さい」

 

 するとアスカさんが、躊躇いながら切り出す。

 

「この杜宮市の状況を、私は逐一本部へ報告していたはずです。それなのに何故、米国で発生していた異変が、私に伝わらなかったのですか」

「オペレーターが報告を入れただろう」

「では報告が遅れた原因を聞かせて下さい。一度目の襲撃の後、すぐに知らされていれば、少なくともソラちゃんに四宮君……二度目の襲撃には備えることができました」

「確証がなかったからだ。襲われた四人も結社とは無関係の者だ。だから我々が事実確認と対象の排除をかねて派遣された。何か不満があるのか?」

「答えになっていません。教官と副教官が米国を発ったのは半日も前のことです。その時点で報告がなかった、だから私達は後手を踏んでしまった。どうしてですか?」

「此度の件は組織外秘でもある。下手に広めては漏えいの恐れもあった。事実としてお前は一般人に明かしただろう?厳罰物の愚行だぞ」

「それはっ……そもそもの話が、そうまでして情報操作を徹底する理由は何ですか?状況から考えて、あまりに不自然では―――」

「決まっているじゃない。体裁と面子を保つためよ」

 

 全員の視線が、声の主に注がれる。ユキノさんは肩を竦めて、うっ憤を晴らすように言葉を並べた。

 

「結社の象徴でもある執行者候補が全滅した上に、次々と増える犠牲者達。結社に通じる適格者のみが狙われていることを掴んでおきながら、後手後手に回り一向に対象を捕えられない。一組織として、外部には知られたくない失態と体たらくだわ。とりわけ他の『二大勢力さん』には……はいはい」

 

 語り終えるやいなや、ユキノさんは降参とばかりに両手を上げる素振りを見せる。

 理由は明白だった。教官から放たれる殺気とも形容すべき威圧感。図星を突かれたのだろう。

 

(……何、それ)

 

 下らない。率直な感想だった。アスカさんの指摘には考えが及ばなかったけれど、「ああ成程」と同意をするよりも前に、愕然としてしまった。

 理路整然としているようで、前提がおかしい。こちらは実際に被害者が出ているのだし、その点においては組織としても同じはずだ。優先すべきは何か。その基準が私にはまるで理解できない。時坂君が後ろ頭を掻きながら言った。

 

「敢えて何も言わねえけど……でも、ユキノさん。もしかして、自分で調べたんスか?」

「さあ?でも身の危険を感じたから、私から歩み寄ったのよ。『協力するから見逃して』ってね。記憶を消されるぐらいなら、案内役を買って出る方がマシでしょう」

 

 組織がひた隠しにしていた情報を調べ上げた挙句、先回りをした、と言っているのだろうか。相変わらず得体が知れない。この人の異質さは、他の誰とも異なっているように思える。

 

「あれ、何処に行くんスか?」

「あとは貴方達に任せるわ。私も暇じゃないのよ。構わないわね、教官さん」

 

 無言の返答を肯定と受け取ったのか、ユキノさんが堂々と部屋を出ていく。

 

「ばいばーい、少年達♪」

 

 そして去り際に見せた目配せ、大仰な身振り、意味深な笑み。あからさまに何かを企んでいることが窺えたけれど、気に掛けるだけ無駄に違いない。

 ともあれ、過ぎたことに固執していては始まらない。ユキノさんの退室後、議論の焦点は最も重要な部分へと差し掛かる。

 

「状況はこちらも理解しました。ですがグリードに関する手掛かりは、私達も掴めていません。どうやって排除を?」

「決まっているだろう。追跡が困難であるならば、迎撃で仕留める。その為の面子だ」

 

 これまでグリードの手に掛かった者は、結社に属する適格者、そしてX.R.Cの先輩後輩ら四人に限られる。グリードが未だ杜宮に潜伏しているとして、標的に明らかな傾向が見られる以上、次に狙われるとすれば、この場に集う私を除いた五人。条件が合致する誰かである可能性が極めて高い。

 

「結界は用を成さないだろうが、接近の感知には役立つだろう。その時が来れば、我々二人で対象を無力化する。手出しは無用だ」

「お、お二人だけで、ですか?」

「我々のソウルデヴァイスはお前も知っているだろう?」

「それは、そうですが……」

 

 たったの二人だけで敵うとは思えない。言葉にはせずとも、アスカさんの言い分は尤もだ。何人もの適格者を強襲してきた相手に、無策が過ぎやしないだろうか。事実、教官は一度グリードを取り逃がしているはずだ。

 すると教官は大きく溜め息を付き、少々の間を置いてから言った。

 

「私のソウルデヴァイスは無形だ。名を『ドミネーター』という。例えるなら、念動力に近い」

 

 無形の念動力。二つの単語から、現実世界には存在しない力を思い描く。参考になりそうな創作物は多数浮かんだ。不可視の力を以って物体に干渉する。概ね間違ってはいないだろう。

 想像を働かせていると、そっと襖が開かれ、九重先生が顔を覗かせた。

 

「あのー。お茶を入れ直したいんですけど、いいですか?」

 

 手伝った方がいいだろうかと思い、私が腰を浮かせかけた、その時。予想外の人物が、先んじて立ち上がる。

 

「ちょうどいい。アスカ、手を貸してくれるか」

「……了解です」

 

 ずっと口を閉ざしてばかりいた副教官が、九重先生の下に歩み寄る。アスカさんもそれに続いて、先生の背後に回った。

 

「先生、身体を楽にして下さい。少しだけ、失礼します」

「え、え?」

「みんなも心配しないで。すぐに終わるわ」

 

 一体何をしようというのか。二人の身振りに注視していると―――眼前で起きた信じ難い現象に、私は言葉を発するのを、一時的に忘れていた。

 

「なっ……お、おい!?」

「待ってコウ、大丈夫だから」

 

 副教官の左手が、九重先生の胸の中央辺りに吸い込まれていく。液体の中に手を入れるかの如く、先生の胸部に光り輝く波紋が広がり、やがて胸の中から、何かが取り出される。

 

「……成程な。断固たる正義感の表れか」

 

 副教官の手に握られたそれは、私の目に『拳銃』として映った。曲線的な形状をしていて、神秘的な青々とした光を放っている。凛然さを感じさせる力の象徴。思わず見惚れていると、副教官が告げた。

 

「これが俺のソウルデヴァイス『ハンプティダンプティ』の力だ。他者の魂の耀きを、己の力として揮うことができる。無論、異界の支配下においてのみ有効だがな」

「ま、待ってくれよ。じゃあそれは……と、トワ姉のソウルデヴァイスなのか?」

「厳密には違う。彼女は『適格者ではない』からな。だがヒトは適格者か否かに限らず、固有の魂を所有している。俺は本人に代わり、その輝きを顕現させているに過ぎない」

 

 やがて副教官が握っていた手を離すと、拳銃は光の粒へと変貌し、持ち主の下へと戻っていく。最後の一粒が消えると同時に、アスカさんに背中を預けていた九重先生が飛び起きる。気を取られ見過ごしていたけれど、先生は意識を失っていたようだ。

 

「この通り、欠点もある。顕現させている間、魂の所有者は意識を失い無防備の状態になってしまう。だが今回は、それを逆手に取るつもりだ」

「逆手に……副教官、どういうことですか?」

「教官のドミネーターで対象を拘束している隙に、俺が強引にソウルデヴァイスを顕現させる。そうすれば対象は意識を失い、容易に無力化できる」

 

 単純でありながらも、確実な策であるように聞こえた。しかし思考が瞬時に一回りをして、何かにぶつかった。真っ先に触れたのは、リオンさんだった。

 

「ちょ、ちょっと待って。ソウルデヴァイスを、顕現させ……で、できる訳ないじゃない」

 

 駄目だ。あり得ない。あってはならない、だって。

 でも確かにあの瞬間、私は感じた。底なしの憎悪。煮えたぎるような恨み辛み。感情は、私達だけの―――人間の、証だ。

 

「数度の交戦で、手傷を負わせることには成功している。対象の体液の入手にもな。分析の結果、成分はヒトのそれと完全に一致していた。俺達が追っている対象は、グリードではなくヒト。『女性』だ」

 

 結社内での呼称は『ジェーン』。身元不明の女性に与えられる、名のない名だった。

 

___________________

 

 結界に異常が見られないか、一時間に一度の頻度で見回りをする。それが私達に課せられた全てだった。『ジェーン』との戦闘行為は教官と副教官、サポートとしてアスカさんの三人で当たる。適格者か否かに関わらず、リオンさんに時坂君、私は『その他』として扱われ、見回りをはじめとした雑用だけが許されていた。 

 そして―――三時間後。午後の二十二時過ぎ。

 

「リオンさん」

「なーに?」

「飽きませんか?」

「飽きないわよ。アキだけに」

「はぁ……痛たたた」

「あ、ごめんごめん」

 

 暖房の効いた道場内の片隅にある畳敷きのスペースで、その他三人組は思い思いの時を過ごしていた。リオンさんは私の髪型を弄っては解くの繰り返しに楽しみを見い出したようで、私は完全に遊び道具へ。時坂君も寝転がりながら小説を読み耽り、寛いでいた。

 初めのうちは客間で待機をしていたのだけれど、沈黙を続ける教官と副教官の異様さに耐えられず、逃げるように場所を移したのが二時間前。アスカさんだけが気を遣い、残留を表明していた。今も二人の傍にいるのだろう。

 

「コウ君、今何時?」

「二十二時……っと、キョウカさんからメールだ」

 

 時坂君がサイフォンで時刻を確認すると同時に、キョウカさんから届いたメールを開く。

 もしかして。期待を胸に見守っていると、時坂君は満面の笑みを浮かべた。

 

「吉報だ。シオ先輩とミツキ先輩が、目を覚ましたってよ」

「えっ。ほ、ホントに!?」

「またすぐに寝ちまったらしいけど、何の心配もないってさ。ユウキとソラも、状態は良いみたいだぜ」

 

 座りながら、三人で交互にハイタッチ。次いで天井を仰ぎ、深々と息を吐く。

 漸く心の底から安堵を覚えた。一時は生きた心地がしなかったけれど、天にも昇る思いだ。ソラちゃんとユウ君も、きっと。

 

「あークソ。安心したら眠くなってきた」

「いいんじゃないですか。時坂君、昨日から全然眠れていないですし」

 

 大きな欠伸を隠そうともせず、目元を擦る時坂君。昨日はほぼ徹夜だった上に、僅かな仮眠しか取れていないのだから無理もない。リオンさんも同じ考えのようで、突っ伏した時坂君の頭をぽんぽんと叩きながら声を掛ける。

 

「次の見回りはあたしとアッキーで行って来るわ。だからコウ君は……あら?」

「あん?」

 

 再び震動を始める時坂君のサイフォン。画面上には、シオリさんの名前が浮かんでいた。時坂君の表情が、見る見るうちに曇っていく。

 

「し、シオリ……マジかよ、もう誤魔化し切れねえっての。どう説明すりゃいいんだよ」

「あたしに聞かれてもねぇ」

「私に聞かれても……」

 

 一向に止む気配のない着信に観念したのか、恐る恐る時坂君が通話を繋げる。

 その後は想像通りの展開だった。平静を装っていたのは初めだけで、次第にしどろもどろな態度に変わり、最終的には正座をして敬語交じりの会話。母親に叱られる男子にしか映らなかった。

 

「シオリって妙に勘がいいわよね。流石に隠し切れないか」

「あはは、ですね。でも……実際に、説明のしようがないといいますか」

「……同感だわ」

 

 元凶が、グリードでいてくれたら。下らない冗談にしか聞こえない切実な願望は、きっと意味を成さないだろう。どれが核心で何が真相なのか。謎が謎を生んでは翻弄される。私達は今、どの辺りに立っているのだろうか。

 結局残された道は一つ。『考えない』こと。元凶の正体、力の根源、異界化の影響力を持つ理由も、皆を狙う動機も何もかもを考えない。思考を停止させて、為すべきを為す。それだけだ。

 

「アッキー、貴女のも鳴ってるわよ」

「え?……ああっ!?」

 

 思わず叫び、固まった。全身からだらだらと汗が噴出し、他人事ではなかったことを思い出す。

 アキヒロさんからの着信は何度もあった。その度に「後で連絡します」とメールを打って先延ばしにしていたけれど、それ自体を失念していた。高幡先輩の件を中心に、聞きたいことは山積りに違いない。

 

「ど、どうしましょう、リオンさん」

「だからあたしに聞いてどうするのよ。ていうか、貴女達の関係の方が気になるんだけど」

「ちょっと何言ってるか分かんないです」

「どこかで聞いたフレーズね……」

 

 それはさておき。

 第一声を決め倦ねていると、突然道場の出入り口が開かれる。見れば、客間で控えていたはずのアスカさん、そして副教官の姿があった。

 

「あら、アスカ。と……副教官さん。どうしたの?」

「調べたいことがあって。アキさん、少しいいかしら」

「私ですか?」

 

 名指しをされたのなら仕方ない。ごめんなさい、アキヒロさん。また掛け直します。言い訳がましい理由で着信を切り、立ち上がる。

 するとアスカさんではなく、副教官が私の下へと歩み寄り、サングラスが外される。整った顔立ちと真っ直ぐな目に、自然と胸が高鳴った。

 

「アスカから聞いている。肉親の魂その物を内包し、ソウルデヴァイスとして揮っていたそうだな」

「は、はい。今はもう、消えちゃいましたけど」

 

 ライジングクロス。それが遠藤ナツのソウルデヴァイスであり、私の中に宿っていた力。肉親から継いだという点はアスカさんと共通していたけれど、根本がまるで異なる。私に託されたのは、お兄ちゃんの魂その物だった。

 しかしそれも過去のこと。同化していた魂は再び二つに分かれ、私の下から旅立っていった。もう四ヶ月も前の出来事だ。

 

「一目見た時から、君のことがずっと気になっていた。その理由に気付いたのは、ついさっきだ」

「ふぁ!?」

「試させてくれないか。だが選ぶのは、あくまで『君自身』だ」

 

 強制走査とは真逆だった。突然視界が光に溢れ、真っ白な世界が広がった。

 同時に、私の中へ何かが入ってくる。胸の奥底が熱を帯びて、赤々と燃え盛る意志が視覚として脳裏に映り、熾烈な想いに包まれていく。私はこの感覚を、知っている。

 やがて眼前に、再会があった。違いはある。より丸みを帯びていて、レッドブラウンの色が濃い。秋の色。私だけの色。この混じりっ気のない焔の霊力は―――私の物だ。

 

「これは紛れもない君の魂の耀きだ。自在に操ることも可能だろう。だが一度選べば、もう後戻りはできない。力を欲するか否か。決めるのは、君だ」

「私……私は」

 

 思い出せ。それは恐らく、とてもちっぽけな力だ。救えるものも、極々僅か。

 でも、私にできることがあるなら。皆の力になれるのなら、私はこの耀きを信じて希望を託す。迷う必要なんか、何処にもない。

 

「疾れ―――ライジング、クロス!!」

 

 

 


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