東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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6月5日 終焉

 

 五感の中で、視覚だけを奪われていた。遥か遠方でグリードが蠢く音は聞こえるし、柊さんと同じで檻に閉じ込められてしまった状況も理解していた。嗅覚も味覚も残っている。与えられたのは、『見えない』という恐怖だけだった。

 駄目で元々、手探りでサイフォンを操作してみたはいいものの、まるで使い物にならなかった。意識を取り戻したのが何時で、今日が何日なのかさえ分からない。喉の渇きと空腹感から、おそらく四、五時間は経っているだろう。ただでさえ消費が激しい異界の内部に捕われた事実に、底無しの恐怖が込み上げてくる一方で、上着に入れておいた補給食がそのまま残されていたことが唯一の救いだった。しかし生理現象は当然のように発生し、どうせなら嗅覚も奪って欲しいのにと苦笑いをしながら、私は夢の世界を求めて瞼を閉じた。

 

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 ずっと眠ったままでいられたら。願いは叶わず、私は途方も無い気怠さと共に瞼を開けた。見えないのは相変わらずで、寧ろ睡眠から覚めたことで現実感が増し、わんわんと泣き腫らしてしまった。一度流せば止め処が無く、様々な感情が入り混じり、嗚咽を繰り返す。嗚咽は吐き気を促し、一度嘔吐してしまった。

 漸く涙が収まった頃に、閉鎖空間の中で五日間を生き延びた女性に焦点を当てた、ドキュメンタリー番組を思い出した。女性は雨水を啜りながら、好きな楽曲を口ずさむことで己を励まし、生還を信じて耐え忍んだそうだ。物は試しにと、私は『Seize the day』に没頭した。歌詞は頭に入っていなかったから、ラ行の五文字を使って代用した。主旋律を奏で、何度も何度も歌った。そうしているうちに、河川敷でパフォーマンスを披露するリオンさんを想い起こし、私は初めて自然に笑った。

 すると不思議なことが起こった。サイフォンを操作していないにも関わらず、私の右手にはライジングクロスが握られていた。これがあれば、ここから出られるかもしれない。そう思いきや、ライジングクロスのスキルは発動せず、小さな希望はすぐに消え去ってしまった。でも、とても温かかった。ライジングクロスを抱きかかえると懐かしさを覚え、確かな温もりが胸の中にあった。

 

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 更に一時間が経過した頃。不思議なことは続くもので、柊さんの声が聞こえた気がした。或いは幻聴に苛まれるぐらい、精神的に参ってきているということか。そろそろ限界が近付いてきているのかもしれない。

 

―――アキさん。

 

 ほら、まただ。柊さんはここには居ない。本当に、どうかしている。また『Seize the day』でも歌って、気を紛らわしてしまおうか。

 

―――違う、そうじゃないわ。

 

「・・・・・・柊、さん?」

『アキさん、聞こえる?アキさん?』

 

 思わず身体を起こして、耳を澄ませる。幻聴にしては、しっかりと耳に残っている。確かに聞こえた。今の声は間違いなく、柊さんの声だ。

 

「ひ、柊さん、なんですか?」

『ええ、そうよ。やっと繋がったわ』

「そんな、ど、どうして。ど、何処にいるんですか?」

『落ち着いて聞いて。まずはアキさん、貴女が置かれている状況を教えて貰えるかしら』

「う・・・・・・うぅ」

『アキさん?』

「ひ、ぐっ。う、ううぅ」

『・・・・・・ごめんなさい。少し、時間を置きましょうか』

 

 収まった筈の涙が、せきを切ったように溢れ出る。情けなさや不甲斐無さといった惨めな感情は、もう歯止めにならない。それらを遥かに上回る何かが、雪崩のように押し寄せて来る。私はライジングクロスを抱きながら、むせび泣くことしかできなかった。

 

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「じゃあ柊さんは、別の異界に捕われているんですね」

『そうみたい。でも術式が成功したということは、何らかの接点で繋がっているのだと思うわ』

 

 涙の限りを流し尽くし、ある程度の思考を取り戻した私は、柊さんの声に耳を傾けていた。

 私と柊さんは、お互いに別々の異界へ閉じ込められている。私は視覚を奪われてしまったけど、柊さんは五感の全てを保っていて、異なる点はソウルデヴァイスを手離してしまっていたという不運。あらゆる手段を以って脱出を試みたものの、檻の中からでは打つ手が無い。そこで柊さんは、私との意思の疎通を図ることにした。

 決め手になったのは、出現座標の変化対策として、私のサイフォンにインストールされていた『追跡アプリ』。何を隠そうあのアプリは異界探索用に開発された代物で、現実世界は元より、同一の異界においてのみ、座標の特定が可能だった。元凶が共通しているのなら、異界同士の繋がりを介して追跡できるかもしれないと考え、柊さんは目論み通りに私の座標を突き止めた後、とある術式を利用した。それが音声通話さながらの、遠距離間での会話。一種のテレパシーのような物だそうだ。

 

『この術式自体、成功するのは稀なの。でも私とアキさんは、相性が良いようね』

「相性、ですか」

『一度だけ、クロスドライブで繋がったことがあったでしょう。あれが何よりの証よ』

「・・・・・・あれって、一体何だったんですか?」

『言葉では説明し辛いけど、高度な連携術、とだけ言っておくわ』

 

 確かにそういった表現が一番適しているように思える。お互いの感覚や思考を共有し合えたからこそ、私達はダークデルフィニウムを足で翻弄することができた。理屈はまるで分からないけど、今は深く考えないでおこう。

 

『話を戻しましょう。あのアプリは現実世界への浸食が深い場合にも有効よ。つまり現実世界側から、アキさんが捕われている異界の在り処を特定できるかもしれない、ということね』

「でもそんな話、私は初めて聞きましたよ。時坂君達も同じだと思いますけど」

『それは私の落ち度だわ。でもミツキさんなら、きっと気付いてくれる筈よ。そう信じて助けを待ちましょう。その為にも、サイフォンの電源は絶対に切らないこと。いいわね?』

 

 追跡アプリはされる側の電源が入っていて、初めて利用できる。いずれにせよ今の私は目が利かないのだから、サイフォンを使えない。柊さんのサイフォンにも追跡アプリは入っているようだし、手立てが無い以上お互いに時坂君らの救援を待つしか助かる術は無さそうだ。

 

「柊さん。あの魔女は・・・・・・あれも、グリードなんですか」

『・・・・・・グリムグリード。そう呼ばれているわ』

 

 グリム童話の名を借りてそう称される異質な存在は、通常のグリードとは根本から異なる災厄の主。特異点すら介さずに現実世界を浸食し、街一つを滅ぼす程の脅威性を孕んでいる。マユちゃんが一瞬のうちに異界へ飲まれてしまったのも、起点を要さないという信じ難い浸食度によるものだった。

 

「私は何も、分かっていなかったんですね。柊さんや、ミツキ先輩の気持ちも知らずに」

『駄目よ、アキさん。今はそこから脱出することだけを考えて』

「・・・・・・柊さんは、優し過ぎます」

『違う、そんなことない。私だって・・・・・・私、は』

 

 その先が、続かなかった。柊さんに言いたいことは山積りだけど、きっと柊さんも同じだ。お互い様のように思える。目一杯の怒気を込めて吐き出したい気持ちもあれば、泣きながら抱き締めたい衝動もある。現時点では前者しか叶わないけど、前者と後者はセットでないと話にならない。それなら、全部後回しだ。

 

「柊さん。何でもいいので、話をしませんか。気分転換をしたいんです」

『ええ、いいわよ。アキさんは放課後に、倶々楽屋を訪ねると言っていたわね』

「はい、行きました。マユちゃん曰く、ライジングクロスは『利かん坊』だそうですよ」

『奇遇ね。私も以前に似たようなことを言われたわ』

「やっぱり、そうなんですね。柊さん、知っていたら答えて下さい」

『え?』

「私のお兄ちゃんは、適格者だったんですか?」

 

 唐突な私の問いに、案の定『無言』という応えが返ってくる。肯定も否定もしないということは、前者だと受け取っていい。異界と関わりを持つようになってから、積り続けてきた数々の疑問達。そこから逆を行けば、私だって辿り着けてしまう。

 

『アキさん。それを聞いて、貴女はどうするつもりなの?』

「知りたいだけです。その権利が、私にはある筈です」

『・・・・・・そう』

 

 柊さんは少々の間を置いて、静かに語り始める。

 始まりはあの日。7月31日に、全てが始まった。

 

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 ―――2014年、夏。関東某所で発生した異界化は、現実世界に大規模な竜巻災害を生み出した。百単位の家屋全半壊に千台を超える自動車被害、数百名の負傷者。国内観測史上二番目に強力なF3クラスとされ、日本国民に竜巻災害の脅威を知らしめる悲劇となった。

 その根底となった異界化をいち早く察知したゾディアックの現地民は、即座に対異界部隊の派遣を要請。被災地周辺ではソフトテニス競技のインターハイも開催されており、国の未来を担う若者らを救命すべく、迅速な対応が求められた。

 被害規模から考えて殲滅対象をS級グリムグリードと暫定、異界化が発生して約一時間後に、先行部隊が異界へ踏み込む。約二十分後に中間地点へ到達した隊員らは、目を疑うような光景を見せつけられた。見覚えの無い一人の少年がソウルデヴァイスを握り、異界に飲まれた被害者らを護る為、交戦の真っ只中にあったのだ。部隊はすぐに少年を援護するも、負傷した少年は意識不明の重体。治癒薬や術式の効果も見られず、早急な治療が必要とされた。

 しかし異界化が収束した後、隊員らは少年の姿を見失っていた。少年の出現座標だけが被災地を外れ、遠地に帰還してしまっていた。これが原因となり処置が遅れ、少年は搬送先の病院で、親族の立ち合いの下、死亡が確認された。呆然と立ち尽くす母親と妹に対し、真相を知る者は声を掛けることができなかった。

 後の調査で、少年はインターハイの出場者であったことが判明。少年は異界化に巻き込まれた際に、初めて適格者として覚醒したと考えられた。対応に当たった部隊は、身を挺して同窓生を護り抜いた勇敢な少年に敬意を表し、人知れず『遠藤ナツ』の名は、隊員らの間で語り継がれていくことになる。出現座標の大幅な変化による、『十件目』の死亡例であった。

 それから約十ヶ月後。東亰都杜宮市近郊を担当する北都ミツキより、『遠藤アキ』という名の適格者の存在が報告される。ソウルデヴァイスの特徴と出現座標の変化という共通点から、遠藤ナツが息を引き取った際、その場に居合わせていた実妹である遠藤アキが、無意識のうちにソウルデヴァイスを継いでいたと推察されていた。

 

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『私がミツキさんから聞かされたのは、これで全部。全て事実よ』

「柊さんも、同じだったっていうことですよね。そう考えると、辻褄が合います」

『・・・・・・そうよ。私のエクセリオンハーツは、適格者だった母の形見。貴女と同じで、肉親から継いだ物だわ』

 

 繋がった。今になって漸く、全部が繋がった。

 私の中にライジングクロスが眠っていたこと。覚醒した時、お兄ちゃんの声が聞こえたこと。お兄ちゃんがラケットを握った本当の意味。アカネさんが言った先天的と後天的、二つの性質を併せ持つ理由。ライジングクロスの扱いに苦労した原因。ライジングクロスとエクセリオンハーツの共通点。柊さんとのクロスドライブに、相性の良さ。出現座標の変化と、二人が敢えて聞かせてくれた十件の死亡例。

 何より―――この温もり。サイフォンを操作していないにも関わらず、独りでに顕現したソウルデヴァイスが与えてくれる、家族の温かさ。繋がったのはいいものの、私はどう受け止めればいいのだろう。散々泣き喚いたせいか涙は出ないけど、吐息が熱を帯びていた。

 

『大丈夫。焦る必要は、何処にも無い』

「柊さん・・・・・・」

『全ては貴女次第よ、アキさん。時間を掛けて、ゆっくり考えてみて』

 

 グリップを握り、瞼を閉じて耳を澄ませる。声は聞こえないし、柊さんが言ったように、おそらく答えは無い。お兄ちゃんが何を想ってライジングクロスを振るったのか、どうして私はこれを継いだのか。こんな状況では、見い出せそうにない。

 

『アキさん、聞こえる?』

「はい、聞こえますよ。どうかしましたか?」

『ごめんなさい。そろそろ、会話は終わりみたい』

「えっ。ひ、柊さん?」

 

 今度は私が、柊さんが口にした言葉に唖然とした。

 

『この術式を使うと、サイフォンのバッテリーを急激に消費するのよ。異界探索用の設計ではあるけど、もう電源が切れる寸前まで来てるの』

「そ、そんな・・・・・・電源?電源って、ま、待って下さい!」

 

 どうして気付かなかったのだろう。サイフォンの術式には膨大な電力を要すると聞かされたことがあった。電源が切れてしまったら、追跡アプリは用を成さない。柊さんの座標を追えなくなってしまう。

 

『好都合よ。電源を切っておいた方が、先に貴女が救い出される確率が上がるわ』

「なっ・・・・・・馬鹿なことを言わないで!!」

 

 それに柊さんが捕われている異界の深度は、濁度はどうなんだ。私は補給食を摂取できたけど、柊さんもそうとは限らない。そもそもソウルデヴァイスによる保護が無いと、生身の身体は異界によって蝕まれてしまう。何故今になって、こんな肝心なことを思い出す。今の今まで私は何をしていた。何度同じ轍を踏めば気が済むんだ。

 

『安心して。私は自分で何とか脱出して見せるから』

「それができないから困ってるんでしょ!?駄目、すぐに術式をやめて!!」

『大丈夫、すぐ楽になるわ。できることなら、良い夢を』

「だからな・・・にっ・・・・・・?」

 

 柊さんが何かを囁いた途端、真っ暗な筈の視界が歪み、身体の自由が利かなくなり、急速に意識が遠のいていく。

 二つの術式による、テレパシーと強制睡眠の合わせ技といったところだろうか。この期に及んで、何て馬鹿げた真似を。こんなのは優しさじゃない。本当に―――馬鹿だよ、アスカさん。

 

______________________________________

 

 夢を見ていた。私は普通の女子高校生で、柊さんもそう。みんながそう。異界は存在せず、裏も表も無い。私は時坂君とシオリさん、小日向君に伊吹君らといつも登下校を共にする。時折二人組の後輩や先輩らと一緒に集まり、夜更かしをして朝寝坊を繰り返す。放課後は部活動とアルバイトで忙しく、でも決定的な何かが欠けている。何か一つが足りないけど、思い出せない。何の不満も無い、平穏な毎日なのに。

 

「ん・・・・・・」

「あ、起きた?」

「・・・・・・シオリ、さん?」

 

 失っていた筈の視界の端に、クラスメイトの不安気な表情が映る。恐る恐る上半身を起こし、布団を捲って身体を確認すると、身なりは整っていた。制服や下着は汚れていないし、不快感の一切が無い。外傷は見当たらず、休日の朝のような爽快感すら覚える。

 

「あの。ここ、何処ですか?」

「保健室だよ。保健室のベッド」

「今日って、何日ですか?」

「6月5日の金曜日。ねえ、アキちゃん」

「じゃあ、今何時ですか?」

「午後の16時半。って、アキちゃん?私だって、聞きたいことは沢山あるんだからね!」

「は、はい?」

 

 乱れに乱れた記憶と状況を整理しながら、シオリさんの問い質しをやり過ごすと同時に、必要な情報を聞き出していく。

 今は6月5日の夕刻、つまり私が檻の中へ閉じ込められてから丸一日間が経過している。クラスでは病欠という扱いになっていて、シオリさんらクラスメイトもそう受け取っていた。そして放課後になり、図書館に向かっていたシオリさんの下へ、昼休みに早退していた時坂君から連絡が入る。「体調が悪い癖に外を出歩いたせいでぶっ倒れたアキを拾ったから面倒見といてくれ」という意味不明なお願いに戸惑っていると、ミツキ先輩の秘書を名乗る女性が、私を背負って現れた。という経緯があったそうだ。

 

「コウちゃんはいつの間にか早退しちゃうし、アキちゃんを拾っちゃうし、知らない女の人が運んで来ちゃうし。もう訳が分からないよ」

「あ、あはは。その、ごめんなさい」

「私に謝られても困るんだけど・・・・・・あ、ちょっと待って」

 

 時坂君、か。きっとみんなと一緒に力を合わせて、助け出してくれたに違いない。異界化も収束して、私と同様に捕われていたアスカさんも無事に―――アスカ、さん?

 

「コウちゃん?うん、アキちゃんなら今さっき起きっ・・・・・・あ、アキちゃん?」

 

 胸中で謝りながら、シオリさんのサイフォンを強引に奪い、耳元に当てる。

 

「と、時坂君ですか?」

『ようアキ。やっと目を覚ま―――』

「アスカさんは!アスカさんは、一緒ですか!?」

『つぁ・・・・・・耳が痛えよこの馬鹿!ったく、ほら』

 

 急速に胸を打つ鼓動音が煩くて仕方なく、一気に口内が渇いていき、私は喉を鳴らした。

 

『もしもし、アキさん?』

「あ、アスカさん!?」

『少し声を抑えて貰えないかしら』

 

 人の気も知らないで、よくもまあそんな台詞を言えたものだ。他人の頬を叩きたいと本気で感じたのは、今日が初めてのことかもしれない。馬鹿呼ばわりをするのも、初体験だ。

 

「アスカさんの馬鹿!本当に、馬鹿だよ・・・・・・っ!」

『・・・・・・ええ、そうだったみたい。ごめんね、アキさん』

「あのー、アキちゃん?おーい」

 

 この一日間で流した涙も、相当な量に違いない。私は目元を拭いながらシオリさんにサイフォンを返し、箱ティッシュで一頻り鼻をかんでから、ベッドの脇に置かれていた自前のサイフォンを手に取った。複数件のEメールと二桁の着信履歴、そのほとんどがタマキさん。考えてみれば昨晩はアパートへ帰らなかったのだから、大変な心配を掛けてしまっていたのだろう。きっとソラちゃん辺りが適当に誤魔化してくれたとは思うけど、私も私で今回のような真似は今日が最後だ。

 

「え?」

 

 サイフォンを上着にしまいスリッパを履き、両足で立った時になって、初めて夕陽が無いことに気付く。窓の向こう側は、昨日と何も変わってはいない。濃い霧が陽の光を遮っていて、地面には薄らとしか影が落ちていなかった。

 

「何だか不思議よね、コウちゃん・・・・・・もしもし、コウちゃん?」

「どうして、まだ霧が・・・・・・え、地震!?」

「わ、うわわっ?」 

 

 訝しんでいると、突然校舎が揺れた。一度大きく縦に揺れた後、ガタガタと横に揺れて、再び縦揺れへ。

 直後、高らかな嘲笑いが聞こえた。束の間の平穏は瞬く間に奪われ、私はシオリさんの腕を掴みながら、覚悟を決めた。まだ何も、終わってはいなかった。

 

_________________________________________

 

 振動と異音が収まった頃、私はそっと閉じていた瞼を開く。

 

「・・・・・・来ちゃった、か」

 

 アスカさんから何度も教わった手順を踏んで、異界の情報をすぐに調べ上げる。濁度は低い一方で、深度は見たこともない深さを示していた。それにゲートを介さず飲まれてしまった影響か、私が立っていた場所は異界の始点ではない。おそらく中腹か、やや始点寄り。体育館のように開けた一室で、壁には紫色の太い茨のような異界植物が生い茂っていた。

 

「う、うぅ・・・・・・」

「これって・・・・・・」 

 

 一室を見渡すと、そこやかしこに横たわる人間がいた。学年や性別はばらばらで、中にはクラスメイトの伊吹君やテニス部のエリカ先輩、教職員のサキ先生の姿もある。手を離した覚えはなかったのに、どういう訳かシオリさんは見当たらなかった。

 

「伊吹君、エリカ先輩。聞こえますか?」

 

 全員に見られる共通点は、意識を失い苦悶の表情を浮かべていること。身体には茨と同じ色の瘴気が纏わり付いていて、それが悪さをしていることは分かっても、手の施しようが思い付かない。ミツキ先輩の結界やアスカさんの術式ならともかく、私では無理だ。いずれにせよ、みんな異界化に巻き込まれてしまったのだろう。一辺に大人数を異界へ引き摺り込む、悪魔の所業。いや、魔女だったか。アスカさんが言ったグリムグリードが、この異界にいる。

 さあどうする。こんな状況下で、私はどう行動すればいい。絶対に仲間が駆け付けてくれる、そう信じるのはいい。でも私にできることが、きっとある筈だ。

 

「・・・・・・疾れ、ライジングクロス」

 

 足りない頭で考えても結論が出ず、代わりに遠方から複数の足音が聞こえてくる。この独特の歩調は、私が苦手とするスケルトン系グリード。よりによってと毒づきたくなると同時に、グリードの軍勢が姿を現し、ライジングクロスが焔を纏う。

 私がこの魂の色を継いだことに、意味は無い。でも私自身が見い出すことはできる。お兄ちゃんが何を想ってこれを振るったのかも、今の私なら理解できる。

 

「絶対に、通さない・・・・・・!」

 

 7月31日の、あの日。お兄ちゃんが所属していたテニス部に、死傷者は一人も出なかった。お兄ちゃんが身を挺して護り抜いたからだ。だったら、私も護って見せる。護りたい物が沢山ある。この一ヶ月半を失う訳にはいかない。絶対にここを、通しはしない。

 

「だああぁっ!」

 

 私が放った霊子弾が着弾すると同時に、スケルトンの軍勢は一気に加速し、剣を振り上げて高速移動で私を取り囲んでくる。遠距離からの攻撃は効果が薄い上に、ダメージが通ればこの変貌。接近戦を不得手とする私にとっては天敵と言っていい。でも私には、ギアドライブが―――

 

(―――足、が?)

 

 駆け出してすぐに、足の裏に痛みが走る。今さっきまで眠っていた私は素足で、頼みの綱のシューズが無い。ギアドライブの俊足を引き出した途端、足を焼かれたかのような感覚に陥ってしまっていた。

 

「ぐうぅっ・・・・・・!?」

 

 だからと言って、立ち止まったら終わりだ。それにこちらへ注意を引かなければ、みんなが攻撃の的になってしまう。私は痛みを耐えて目元を拭い、限られた領域で急激な方向転換を交えながら、着実に攻撃を重ねた。

 やがて最後の一体が光となって消滅し、ジェムが辺りに散らばっていく。今更になって仲間という存在の有難みを痛感させられる。たったの一人というだけで、こうも違う物か。既に両足は、鮮血に染まっていた。

 

「っ!?」

 

 そして一室の反対側に感じ取った気配に、背筋が凍った。今し方の軍勢を上回る、スケルトンの大集団。既にすぐそこまで来ている。もう、時間が無い。

 私は目一杯歯を食いしばり、ギアドライブの限界値を振り切った。みんなの隙間を縫うようにして駆け抜けると、足の爪が割れて皮が剥がれ、肉が裂け石の欠片が深々と突き刺さった。痛みで我を失う前に、有りっ丈を捻り出して、叩き込め。

 

「ヴォルカニック、クロス!!」

 

 自然と浮かんだ名を口にして、ライジングクロスを振るった。巨大な火球は壁面を焼きながら軍勢の中心で破裂し、焔の竜巻が巻き上がる。技を放った私自身の前髪が燃えていた。

 それが最後だった。もう足の感覚が無く、膝から下が動かない。うつ伏せの姿勢から微動だにできず、顔を上げることすら叶わない。今の一撃で、本当に仕留めたのだろうか。グリードの気配はほとんど消えたけど、もし一体でも残っていたら。

 

(嘘・・・・・・でしょ)

 

 思わず額を地に打ち付けた。一体どころか、三つ目の軍勢の足音が、再度反対側にあった。最早何も残っていないというのに。絶望感に打ちひしがれていると、グリードとは全く異なる足音が、一つだけ聞こえた。

 

「ごめんよ。僕は、馬鹿だ」

「うっ・・・・・・だ、れ?」

 

 聞き覚えのある、異性の声だった。しかし頭が働かず、声の主が分からない。その代わりに両足へ何かが触れると、足の痺れが和らぐように、失っていた感覚が元通りになっていく。痛みや熱も、引いていた。

 いつの間にかグリードの気配も消えていて、私は声を掛けてくれた人間の顔を窺う為に、遠方に映る背中を見詰めながら、ひどくゆっくりとした動作で立ち上がった。すると男性は振り返り、目を大きく見開いて、叫び声を上げていた。

 

「こ、小日向、くん」

「遠藤さん!?」

「え?」

 

 首を傾げて後ろを見ると、薄皮を纏った骸骨が、剣を横薙ぎに振るっていた。首が熱くて、身体の中から何かが漏れ出ているような気がして、視界が暗転する。

 首元が熱かった。熱過ぎて、もう何も見えなかった。

 

 

 


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