放課後に三者面談を控えた5月29日の朝、私は登校したその足で本校舎三階に向かい、二人の先輩が待つ生徒会室を訪ねた。エリカ先輩とミツキ先輩は、私が知る同窓の中で最も舌が肥えている。勿論良い意味で、の話だ。試作品の味を見て貰うには正に打って付けの先輩であり、例によって今朝早くに仕上げたサンドを食べて欲しいと、メールで依頼したのが昨晩のことだった。
「ど、どうですか?」
「・・・・・・どう、と言われましても。もう在り来たりな表現しか思い浮かびませんわ」
「ええ、とっても美味しいですよ。今回の物が一番バランス良く仕上がっていると思います」
「強いて言うなら、顔が少々地味ですわね。メインの具材が隠れてしまっていて、見た目にシズル感が欠けていますわ」
サンドを一齧りした後、先輩らは言葉少なに高評価を与えてくれた。この二人の「美味しい」はシンプルでありながらも最上級の褒め言葉。嬉々として飛び上がりたい一方で、エリカ先輩の指摘は尤もなポイントでもある。いくら味が良くても、それが視覚として映らない限り、手に取っては貰えない。商品としての魅力に乏しくなってしまう。
「やっぱりそうですか・・・・・・もう少し考えてみます。流石はエリカ先輩ですね」
「当然でしょう。この私を誰だと思っていますの?」
「後輩の為に駅前の書店でベーカリーブックを購入したエリカさんですよね」
「ミツキさん、妄言を吐くのも大概にしなさい」
何はともあれ、これでサンドの基本設計は定まった。具材のバランスはそのままに、もっと彩りの良い顔作りを目指して改良すればいい。後は詳細な原価を割り出して、レシピと一緒に必要な一式を揃える。購買層やコンセプト、販売価格といった全てを詰めておかないと、サラさんには伝わらない。もうひと踏ん張りだ。
「それにしても商品の立案だなんて、アルバイト業務の域を超えていると思いますわよ。試作をするだけでも大変でしょうに。今朝も早かったのではなくて?」
「私から願い出たようなものですから。忙しいですけど、新鮮で楽しいですよ」
「面倒見の良いエリカさんも新鮮で楽しいですね」
「貴女はさっきから何を笑っていますの」
「フフ」
「フフじゃありませんわよ。そもそもミツキさんはアキとどういう間柄で―――」
含み笑いをするミツキ先輩にエリカ先輩が突っ掛かると同時に、予鈴が鳴った。私は二人にお礼を言った後、生徒会室を後にした。
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―――午後12時半。
「司書、ですか?」
「うん。私ね、進学して司書資格を取ろうと思ってるんだ」
私はシオリさんと伊吹君の二人と一緒に学生食堂で昼食を取った後、一息付きながら今週末が締切、つまり今日中に提出しなければならない『進路希望調査表』を取り上げ、お互いの胸の内を明かしていた。ちなみに時坂君と小日向君は、伊吹君曰く「コウは柊さんがジュンは女子共が強引に連れて行ったからちくしょう!!」だそうだけど、よく分からなかったので聞き流していた。
今目を向けるべきは、シオリさんの進路についてだ。今になって初めて聞いたけど、シオリさんは既に進学先をある程度明確にしつつある様子だった。
「司書っつーと、図書館のコマチさんみたいなやつか?」
「似てるけど、少し違うかな。コマチさんは学校司書さん。学校司書は司書教諭と一緒に学校図書館を運営する人なの」
「成程な。全っ然分かんねえ」
伊吹君に同じく。たった今の会話だけでも三種類ぐらいの単語が出てきた気がする。詳細な違いはピンと来ないけど、図書館を運営するという部分は共通していると考えてよさそうだ。
シオリさんのお父さんは駅前で書店を経営していて、親子揃って本が大好きな読書家だ。休日は開店時間よりも前に店先に並ぶこともあるし、新刊発売日は尚更。それに杜宮市には複数の図書館があって、目的に応じて使い分ける。純文学、洋書、児童書、ライトノベル、どれも分け隔てなく読み漁る。感想を聞くだけでも、聞いている側が楽しめてしまう。シオリさんはお父さんの背中を追うように、行く行くは同じ本の世界に飛び込む覚悟でいるのだろう。
「将来のことは、まだよく分からないけど・・・・・・最近コマチさんが色々教えてくれるんだ。だから進学して、司書資格だけは取っておこうって、前々から考えていたの」
「そうだったんですか。じゃあ、その資格が取れる大学に進学するんですね」
「うん。実は杜宮学院大学に、一昨年前から司書養成課程が設置されてね」
「えっ。お、一昨年?」
「そうなの!自宅から通える距離にあるし、ラッキー♪ってね。今年の夏に早速、オープンキャンパスに行く予定なんだよ」
「「・・・・・・」」
一言で表せばラッキーなんだろうけど、それにしても一昨年前って。強運というか、剛運の持ち主というか。まるでシオリさんの為に新課程が設置されたようなものだ。しかしある意味で私も似たような立場にあるし、人のことは言えないか。
「でもよー、折角の進学だぜ。他の大学も視野に入れといた方がいいんじゃねえの?」
「そのつもりだよ。まだ時間は沢山あるしね。リョウタ君は、調査表に何て書いたの?」
「俺は一応就職って書いたけど、正直に言って悩んでんだよな」
「あれ、そうなの?」
私はシオリさんと同様の反応を示し、伊吹君の声に耳を傾ける。
勿論、家業の青果店を継ごうという意思はある。でもお店をこの先も存続させていく為には、サービスや流通、経営学といった専門知識が求められる。それに生活環境が常に変化し続ける以上、数年先を見据えてお店も変わらなければならない。伊吹青果店に限らず、商店街自体を見直していかなければならないと、伊吹君は考えていた。
「俺はあの商店街が好きだからな。変えちゃいけないものはあるけど、『へいらっしゃい』だけで物が売れる程、甘くはねえさ。ほら、来週に商店街へテレビ局の取材が来るだろ?」
「ああ、前に言ってましたよね。確か、木曜日でしたっけ」
「そういうのも必要なんだと思うぜ。俺は頭が悪いから、理屈では話せねえけど・・・・・・今のうちに色々勉強しておいて、先々に活かすってのもアリじゃん?」
だから進学も視野に入れている、という訳か。きっと伊吹君なりに真剣に、真摯に自営店の未来と向き合っているのだろう。意外と言ってしまったら失礼に当たるけど、私は「へいらっしゃい」と声を張る伊吹君しか知らなかった。こうして眉間に皺を寄せてうんうんと考えを巡らせる伊吹君も、伊吹君。そしてシオリさんもシオリさんだ。
(・・・・・・別々、か)
二人共進学が希望でも、進学先はそれぞれ異なっている。成績は勿論、大学で学びたい分野が違えば当然のことだ。この杜宮学園を卒業すれば、誰しもが新たなステージへと歩を進めていく。少なくともシオリさんと伊吹君は、二年後の自分を明確にしつつある。
私の場合はどうなのだろう。先は見えているけど、寧ろ足元がぼんやりとしている。私の将来についてサラさんに相談するようになってから、そんな感覚を抱くことが多くなっていた。
「遠藤さんは何て書いたんだ?」
「え?いえ、私はまだ提出してませんよ。三者面談の時に見て貰おう思っていたので」
「でも面談って放課後だよな。もう書いてはいるんだろ?」
「ひ、秘密です」
「秘密って・・・・・・まあ、聞かなくても大方想像は付くけどな」
「フフ、そうだね。アキちゃんはアキちゃんだもん」
「ええ?」
二人の想像は、きっと当たらずとも遠からず。でも決して正解には届かない。だって私の調査表には、答えが無いのだから。
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放課後。サラさんは面談予定時刻のちょうど十分前に来客用の玄関を訪ね、私のサイフォンを鳴らした。サラさんは普段とは異なるフォーマルな服装をしており、しかしトレードマークである奇抜な髪型は変わらず。バレッタで豪快に逆立てられた髪はどうやったって周囲の目を引き、控えめなヒソヒソ声は私の耳にも届いていた。
「ふふん、いい女は罪ね。視線を沢山感じるわ」
「絶対に違うと思います」
「うっさいわね」
やがて案内した先の教室には、中央に机が向い合せで並べられていて、一方の席にクラス担任の九重先生が座っていた。私達に気付いた九重先生はすぐに立ち上がり、サラさんと簡単な挨拶を交わした後、用意されていた椅子にそれぞれ座った。
「改めまして、遠藤さんのクラス担任をさせて頂いている九重と申します。本日は御足労頂きありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。アキがいつも大変お世話に」
「お話は伺っていますよ。遠藤さんのアルバイト先を、御主人と営んでいらっしゃるそうですね」
「拙いお店ですが、おかげ様で何とかやれています。学生の利用客も多いですから。先生も今度いらして下さい、サービスして差し上げますよ」
「あはは。機会があれば、立ち寄らせて頂きますね」
お願いした私が言うのもあれだけど、この奇妙な感覚が何ともむず痒いというか、照れ臭い。保護者の代理、というのは形式上の話ではあるにしても、薄らとメイクされたサラさんのこんな顔は初めて見るし、やはり気恥ずかしい。
それに一時期は教鞭を執っていた経験があるからか、随分と場馴れしているようにも映る。以前にハルトさんが聞かせてくれた話では、八年前までサラさんは中学校の教師だった。年齢から逆算すれば、それなりの年数を教師として生きてきた筈だから、立場が逆とはいえこういった面談はお手の物なのかもしれない。
「・・・・・・変ですね。九重先生とは別の場所で、全く逆の立場でお会いしたことがあるような」
「・・・・・・奇遇ですね。私もそこはかとなく、そんな気がします」
「あのー。何の話ですか?」
まるで意味不明なやり取りを挟んだ後、九重先生が漸く本題へと移る。内容は面談と聞いて思い浮かぶ話題に沿うように、普段の授業態度や成績、部活動にアルバイト、私生活。私の想像を超えるような話題は無く、特に当たり障りの無いそれがほとんどだった。
「アルバイトと部活動の両立が少々心配でしたけど、上手くやれているようですよ。勉学の面でも悪い話は聞きませんから。遠藤さん、何か困っていることはある?」
そこに異界探索が加わるからとても忙しい、なんてことは口が裂けたって言えないから、胸の中にしまっておこう。私が薄ら笑いを浮かべて「特にありません」と答えると、九重先生は一枚のプリントを机から取り出し、私達の目の前に置いた。放課後のSHRの後、私が提出した進路希望調査表だった。
「本題に入ろっか。ねえ遠藤さん。私はこれを、どう受け取ればいいのかな」
「それは・・・・・・」
九重先生が言うと、隣にいたサラさんも表情を変えた。
調査表に記された『進学』と『就職』の、二項目。具体的な進路希望先が無い場合は、何れかを選ぶだけでいいと事前に説明を受けていたし、用紙の下部にもそう記載されている。でも私は考えに考え抜いた末に、進学と就職の両方を、丸印で囲った。九重先生が戸惑うのも、無理はなかった。
「私は・・・・・・その、九重先生。もう少し、時間を下さい」
「それもしっかりと説明して貰える?」
「考え無しに、こんな真似をしたつもりはありません。可能性を調べる時間が欲しいんです」
「アキ」
私のしどろもどろな受け答えに、サラさんが私の肩に右手を置いた。
「九重先生。この子抜きで、貴女とお二人で話せませんか」
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私が一旦教室を出ると、廊下に置かれていた二つの椅子のうち片方に、私の次に面談を予定している柊さんが座っていた。柊さんは予定よりもかなり早い退室を訝しむような表情を浮かべて、私の下へ歩み寄ってくる。
「アキさん、もう終わったの?随分と早かったのね」
「え、えーと。まだ終わってはないんです」
私が事情を説明している最中、視界の端にもう一人の顔が映る。柊さんの隣に腰を下ろしていた女性はゆっくりと立ち上がり、艶やかな笑みを浮かべながら歩を進めたと思いきや、私の顔をまじまじと覗き込んでくる。というか、近い。顔が近過ぎる。
「あ、あの?」
「ふうん?貴女がそうなの。話は聞いているわよ、色々とね」
女性が私から一歩距離を置いて「ユキノ」と名乗ると、すぐに一昨日の晩に交わした会話が思い出された。柊さんが言っていた『憧れの女性』がこの人で、サラさんと同様に柊さんの保護者代理として来訪してくれたのだろう。話に聞いていた通り、ユキノさんはとても整った顔立ちをしている一方で、ミステリアスな微笑は妖艶さに満ちていて、不思議な魅力を全身から発する様は、あのミツキ先輩を連想させた。
「コホン。ユキノさん、余計な真似は謹んで―――」
「何か言ったかしら」
「・・・・・・ゆ、ユキノ姉。彼女がクラスメイトのアキさんよ」
どういう訳か、柊さんは頬を引き攣らせていた。
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「では遠藤さんは、パン職人を志していると?」
「ええ。ここ最近は主人と一緒に、相談に乗ることも多いんです」
アキが退室した後、トワは真剣な面持ちでアキの将来に関する話に耳を傾けていた。そしてアキの生い立ちや家庭内事情を知っているトワにとっては、想像するに難くない内容だった。
「お恥ずかしい話ですが、私はまだ教師になって日が浅くって。パン職人を目指す生徒も、遠藤さんしか知りません。そういった業界について、聞かせて頂けませんか」
「ブランジェになるだけならそう難しいことではありません。道のりも様々ありますから、アキもこんな書き方をしたのだと思いますよ」
取っ掛かりは複数存在する。大手パンメーカーに就職する者もいれば、専門学校や大学で知識と技能を身に付けるという方法もある。修行先となる店舗を探し出して飛び込み、下働きを積む人間もいる。目的に応じて向き不向きはあれど、順序も到達地点もこれといって決まった物がない。だからアキは二択から選ぶことができず、考える時間が欲しいと申し出たことには、しっかりと理由があった。
「実際のところどうなんでしょう。彼女の夢は、叶うと思いますか?」
「技術は勿論、製パン理論や業界の動向、経営に求められる知識にも精通しています。家業の手伝いだけではあの域に達しません。それ程の学びを積んできたという証です」
「そうですか。誇張している、という訳ではないみたいですね」
「ええ。ですが先程も言いましたように、あくまでブランジェになるだけなら、の話です」
サラが表情を変えずに言うと、トワは瞬く間にサラの言わんとしていることを察した。一連の話を聞く限り、アキがブランジェという道で成功を収める可能性は十二分に感じられた。だがそれでは、二人っきりになった意味が無い。アキを抜きにして彼女の将来を語り合う理由がある筈だと、トワは受け取っていた。
「もしかして遠藤さんは・・・・・・その先を、目指しているんですか?」
「話が早くて助かります。あの子の願いは、新店を開業すること。つまり独立です」
自営のベーカリーを開業する。それはブランジェとして生計を立てるという枠に収まらず、ゼロからの起業に等しい。当然だが、起業には様々なリスクが伴う。膨大な資金調達は勿論、開業後も常に長期的な経営をシュミレーションしなければならない。その上ベーカリー業界自体が今の日本では頭打ち状態で、そもそも開業まで漕ぎ着けることが困難極まりないとされていた。
「『神がパンを創造し、悪魔が作り手を創造した』という格言がヨーロッパにあります。それぐらい過酷な世界だということですね。私と主人は、運が良かったんです」
「き、急にスケールが大きくなりましたね」
「十年先か、二十年先になるか分かりませんが・・・・・・だからこそ若いうちから、真剣に考えたいのでしょう。きっとアキは、失った物を取り戻したいんです」
そして茨の道を往こうとするアキの意志の根底には、確かな土台があった。
「・・・・・・病んでしまったお母さんと、お店ですか。彼女の生い立ちも、知っているんですね」
「勿論、動機は一つではないと思いますよ。でも少なからず、そういった願望はある筈です」
トワは一度呼吸を落ち着かせて、手元の調査表に視線を落とす。こんな書き方を選ぶぐらいだから、抱えている物があるとは考えていた。突拍子も無い進路を選ぶ生徒は沢山いるし、無計画で向こう見ずな生徒を諭す覚悟もあった。
でもアキは既に、十数年先を見据えた道のりを歩もうとしている。高校二年生という青春を謳歌すべき立場にありながら、明確な行く末を見失わないように、足元を固め始めている。新米の自分には荷が重い案件だと思う一方で、それがとても誇らしくもあり支えてあげたいと、トワは素直に感じていた。
「アキは最近、変わったと思いませんか。初めは接客すら嫌っていたのに、今は自分で焼いたパンを積極的に薦めたり、新しい商品を考えたりしているんですよ」
「あはは、同感です。それによく笑うようになりましたね。何かキッカケがあったんだと思います」
「それも同感です・・・・・・九重先生。私はアキを、全面的に支援します。独立に必要な物は、理解のある個人店での修行と経験ですから。アキの意思を尊重して、私はあの子を受け入れるつもりです」
「・・・・・・そう言って頂けると、返す言葉もありません」
「そのままあの子にお店を継いで貰うという方法もありますけどね」
「ケホッ、ごほっ!?」
予想だにしないサラの案に、トワが思わず喉を詰まらせ、ごほんごほんと咳を繰り返す。アキが杜宮学園に編入したのは約一ヶ月前。そしてアルバイトを始めたのも今月に入ってからのことだ。そんな付き合いの短いアルバイト店員に「店を継がせる」と言われては、懐の深いトワでも理解の範疇を超えてしまい、ただただ咳込むことしかできないでいた。
「あ、あのー。それ、どこまで本気で言ってますか?」
「単なる思い付きですよ。主人にだって話していません」
「はぁ・・・・・・フフ、あはは!サラ先生は、少しも変わっていませんね」
「は?」
「遠藤さんから聞いてますよ。ご結婚される前は、中学で教師をされていたそうで」
「え、ええ。そうですけど」
「まだ思い出せませんか。私の目標は、サラ先生。いつだって貴女でした」
トワは掛けていた眼鏡を外し、髪を結っていたリボンの結び目を直して、再度視線を上げた。トワは初めから気付いていた。だから「初めまして」を敢えて言わずに、少々の悪戯心を以って接していた。「別の場所で、全く逆の立場で」というサラの言葉に、間違いは何一つ無かった。
「杜宮北中学三年Ⅳ組、生徒会長の九重トワです。遅くなりましたけど、ご結婚おめでとうございます」
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翌日の5月30日、土曜日。午後13時。
「―――という訳なんです」
『教師と生徒が八年振りに、かぁ。でも先生にとってはどうなのかしら。その先生、体罰問題を追及されて辞めちゃったんでしょ?』
「体罰って言っても、男子の頭を軽く小突いただけだって聞きました」
『ふーん。確かに一時期は、そういう問題がやたらと取沙汰されていたっけ』
「昨晩は二人でお酒を飲みに行ったそうですよ。ほら、以前歓迎会をしてくれた居酒屋です」
『いい話じゃない。それでアキ、今どの辺にいるの?』
「えーと。さっき上野駅を出たところですね」
私はサイフォンでタマキさんと通話をしながら、東京駅から高速鉄道路線沿いに北へ向かっていた。車両は各駅停車の新幹線『やまびこ』で、今現在は犀玉と東京の県境周辺を走行している。目的地は伏島駅から程近い場所にある、街中の貸倉庫。当初の予定通り、実家で使っていた製パン用の備品に関する商談をする為に、東京駅発の新幹線を使って移動中の身だった。
『でも本当に大丈夫?泊まりなら事前にそう言ってよね。てっきり日帰りだと思ってたのに』
「す、すみません」
肝心なことを伝えていなかった私の落ち度は明らかで、言い訳のしようがない。叔母のタマキさんが私を見る目は、お母さんの代わり。家族として私を守ろうと接してくれている。余計な負担は掛けたくないと宿泊の手配も自分で済ませていたけど、今回ばかりはそれが裏目に出てしまったようだ。
『とにかく、逐一連絡は入れなさい。駅を降りた後、要件を済ませた後と、それに宿泊先へ着いた後には必ず一報を入れること。いいわね?』
「は、はい。必ずそうします」
『まあ折角の休みだし、ゆっくりしてきなよ。久し振りに伏島の空気を吸うのもいいかもね』
「・・・・・・あの、タマキさん」
『何?』
「いつもありがとうございます。全部、タマキさんのおかげです」
『急にどうしたの、改まっちゃって。っとと、ごめん、そろそろ切るわ』
「あ、はい。また後で」
通話を切ってサイフォンを上着にしまい、デッキの窓から流れ行く風景を見やる。自分は本当に恵まれていると思う。サラさんもタマキさんも、私と正面から向き合って応えてくれている。一般的な高校生とは少し外れた道を歩いている自覚はあるけど、確かな幸せがある。そしていつの日かきっと、お母さんも一緒に。今はそう信じて、前に進むだけだ。
「さてと」
荷物を持ち直して、再度今後の予定を確認する。伏島駅から普通列車に乗り換えて、約束の場所で今回の依頼人と落ち合う。先方は備品の買い取りを希望しているけど、実のところ売却するつもりは毛頭無い。実家で使用していた備品達は、私の夢を叶える為に先々必要となる。事前にそう伝えてはあるし、事情を説明すれば納得してくれるだろう。今回は直接私が出向いて、説得をすることが目的だった。
商談の後は予約しておいたビジネスホテルで一泊をして、明日は丸一日が白紙。具体的な予定も行先も無く、敢えて言うなら生まれ育った土地の空気を吸うことぐらいだ。タマキさんが勧めてくれた通り、この二日間は余計なことを考えず、羽を伸ばしてゆっくりするとしよう。
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同日、午後21時。
(つ、疲れた)
私は肩に圧し掛かる重々しい疲労感を引き摺りながら、ビジネスホテルの通路を歩いていた。このままベッドに倒れ込んでしまいたいけど、空腹感も相当な物で腹の虫が鳴き止まない。終始ボストンバッグを手に提げていたこともあって、腕が変な疲れ方をしていた。
まさかあそこまで粘られるとは思ってもいなかった。私としては頑なな態度を取り続けたつもりだったけど、相手が女子高生ということで、妙な期待感を与えていたのかもしれない。結局は予想を遥かに上回る時間を費やしてしまい、そこに重なったのがホテルまでの道のり。すっごく迷った。サイフォンでweb上の地図と睨めっこをしながらホテルの近辺をぐるぐると回り、小一時間夜の街中を彷徨い歩いた。タマキさんからは呆れられ、情けなさで胸が一杯になり、今に至る。とりあえず部屋に荷物を置いた後、すぐにでも何か口にしよう。これ以上は体力の限界だ。
「えーと。502、502・・・・・・あ、あった」
割り当てられた部屋の鍵を開けて、室内に入る。真っ暗な中を恐る恐る歩き、キーを机に置いて明かりのスイッチを探す。うん、見当たらない。何処だ、スイッチは。これじゃ何も見えない。
「あっ」
扉が閉まったところで、鍵を開ける際に荷物を通路に置き忘れていたことに気付く。どうも思考が上手く働かない。思っていた以上に疲れが溜まっているようだ。
私は一旦部屋を出て、背伸びをしてからボストンバッグを持ち上げる。そして再びバタンと扉がしまり、思い出してしまう。オートロック、だったか。扉が閉まれば自動的に施錠され、開錠に必要なキーは部屋の中。そんな馬鹿な真似はしないようにとエレベーターの中で自分に言い聞かせた結果がこれである。私はもう、駄目かもしれない。
「あ、あはは・・・・・・はぁ。ぐすっ」
視線を落としてとぼとぼとエレベーターに引き返していると、前方から足音が聞こえてくる。ちらと視線を上げてその姿を確認し、邪魔にならないように通路の端に移動して、思わず立ち止まる。
「あら?」
「あれ?」
以前にも見たことがある服装だった。服装どころか、帽子のつばで隠れていた顔を、私は何度も見たことがある。一度目はモリミィで、学園では複数回、カラオケボックスではその私服と一緒に。
「あ、貴女どうして!?」
「く、くく、玖我山リオンさん!?」
「ばっ・・・・・・シー!こ、こっちに来て!」
驚愕の声を上げた途端、玖我山さんは私の左手を強引に引っ張り、私が借りた部屋の向かい側にあった扉を手早く開錠し、私は室内へ問答無用に連れ込まれてしまった。
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―――それから十分後。
「こうやってここにキーを差し込めば、自動的に部屋の明かりが点くの。部屋を出る時は必ずキーを抜いて持ち歩く。何も難しいことはないじゃない」
「・・・・・・すみません」
「どうして謝るのよ・・・・・・」
私はロビーでスペアキーを受け取った後、玖我山さんの部屋で肩を落としながら、室内の使用法についてレクチャーを受けていた。勿論チェックインの際にも説明は聞かされていたのだけど、疲労のせいで少しも頭に入っていなかった。穴があったら入りたい。
「それにしても驚いたわ。こんな場所で貴女に出くわすなんて、何の偶然かしら」
「わ、私もですよ。伏島でライブイベントがあるって聞いてましたけど、それ関係ですか?」
「あら、よく知ってるわね。SPiKAと書いて『鹿』と読んだ癖に」
「・・・・・・本当にすみませんでした」
そんな失礼な人間は後にも先にも私ぐらいのものだろう。それは別として、ライブイベントについてはタマキさんから週の頭に聞かされていたし、新幹線にもそれらしい話題で盛り上がる男性の利用客が複数人いた。伏島に着いて以降も街中で宣伝ポスターの類を何度か目にしていたことから、度々頭の中には玖我山さんの顔が浮かんでいた。帽子を深く被っていた玖我山さんに気付くことができたのも、その辺りが理由だったに違いない。
「それより、どうして貴女が伏島のホテルに居るのよ?」
「そ、それはその。話すと、結構長くなるんですけど」
「ふーん・・・・・・まあいいわ。ねえ、貴女さっきホテルに着いたのよね。夕食は?」
「え?あ、まだです。これから食べようと思ってました」
「ならちょうどいいわ。近くにファミレスがあったから、一緒に食べに行かない?」
「ええ!?」
「一人より複数人の方が何かと目立たなくていいしね。そうと決まればほら、すぐに用意するっ」
言われるがままに背中を押されて、私達は夜の街中に逆戻りをするのだった。
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玖我山さんに連れられて向かった先は、ホテルから程近い場所にあったファミリーレストラン。玖我山さんは店内で帽子を脱ぐと、代わりに伊達眼鏡を掛けて私と同じテーブルに座った。有名なアイドルグループの一人ということで、外を出歩く際には簡単に顔を隠さないとたちまちに囲まれてしまうからだそうだ。
「ライブは今日の夕方で、イベント関係はもう終わったの。だから今は完全なオフって訳」
「オフ・・・・・・そうだったんですか。でも、少し意外です」
「意外って、何が?」
「いえ、その。玖我山さんみたいな人なら、もっと立派なホテルに泊まりそうなイメージが」
「それはアキの勝手なイメージでしょ・・・・・・っと。名前で呼んでもいい?」
「あ、はい。どうぞお好きなように」
「でもそうね。現地で宿泊しようって決めたのはあたしだから、ホテルも空いている所を適当に選んだのよ」
話を要約すると、玖我山さんのSPiKAとしての仕事は既に終了済み。久我山さんは久し振りの休日となる明日を謳歌する為に、自分自身の意思で伏島に居残り、宿泊先も決めた。つまり私と似た者同士、という話だった。
「じゃあ、他の四人の方々は?」
「ワカバとアキラは試験が近いとかで、すぐに新幹線で帰ったわ。ハルナとレイナも別の仕事が入ってるから同じ・・・・・・て言っても、アキには誰のことか分かんないか」
「分かりますよ。ハルナさんとレイナさんが玖我山さんの同期で、ワカバちゃんとアキラちゃんは二期のメンバーですよね」
「ちょっと待って。あたしにはあんな態度だった癖に、どうして四人は知ってるのよ。何かムカつくんだけど」
玖我山さんがひどく納得がいかない様子で、私を睨み付けてくる。そう言われても、SPiKAについて詳しくなったのはつい最近のことだ。その全てが伊吹君の布教とやらの賜物ではあるけど、ここは敢えて言わない方が良い気がする。怒らせてしまうのは不本意だ。
「それで、アキはどうして伏島に?」
私は一連の事情を掻い摘んで説明した。生まれ故郷は杜宮だけど、私は以前伏島に住んでいて、両親がベーカリーを営んでいたこと。今はお店を畳んで杜宮に移り住み、今回はお店の備品に関する用事で伏島を訪れたこと。そして明日は特に予定も無く、気の赴くままにかつての生活地を散策しようと考えていることを語った。
「なーんだ。あたしと似たようなものじゃない」
「あはは。そうかもしれませんね」
大まかに話し終えた頃、注文の品々がテーブルに届く。玖我山さんはカルボナーラとサラダ、私はピザとドリアに山盛りのサラダ。お互いにフォークを手にすると、玖我山さんは何かを思い付いたような表情で言った。
「ねえアキ、明日一緒に行ってもいい?」
「えっ・・・・・・わ、私と、ですか?」
「観光地巡りでもしようかと思ってたけど、何の下調べもしてないしね。元現地民である貴女に任せて一緒に回った方が、色々と楽しめそうだわ」
「でも私だって、ノープランですし・・・・・・知っている場所を歩くだけですから、面白くないと思いますよ?」
「それは行ってみないと分からないじゃない。それとも何、リオンちゃんと一緒じゃイヤな訳?」
「ち、違いますよ」
「なら決まりね。それと、貴女もリオンでいいわよ。同い年なんだから」
あっという間に玖我山さん―――リオンさんの同行が決まってしまった瞬間だった。思いも寄らない強引な提案に呆れつつも、私は心の何処かで、笑っていた。