東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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第2.5部
5月25日 白の巫女と、黒の夢


 

 両親を亡くして二年の月日が過ぎ去った頃から、不思議な夢を見るようになった。

 私は真っ白な一枚の塗り絵を机に広げて、どの色を選ぼうか悩んでいる。赤にしようか、それとも青にしようか。複数本の色鉛筆と睨めっこをして、幼いながらも真剣に考える。しかし決心が付き色鉛筆を手に取った私は、「あれ?」と首を傾げてしまう。赤を取ろうと思っていたのに、手にしていたのは青。青を取ろうと思ったのに、緑。どういう訳か、私は己の意思に反して別の色を選び、塗り絵に色を与えていく。そうして完成した塗り絵を、私を取り巻く大人達は一様にして賛美してくれる。私の目には大して綺麗に映らないけど、皆が言うのだからそうなのだろうと、疑いもせずに受け取り、自室の壁に飾った頃になって、漸く夢から醒める。

 年齢を重ねるに連れて、夢もそれに伴う形で世界を変えていく。中学生になって、私服の色に考えを巡らせる夢が多くなった。高校へ入学した頃には、催しの際に身に着ける衣装へ。夢によって様々だけど、一番多いのはやはりパーティードレスだ。

 私は何時だって悩み、考える。考えはするけど、ふとした瞬間に悟ってしまう。ああ、今日はこの色だと。そして私は衣装に手を伸ばしながら、最近は考える時間が段々と短くなっていることに気付く。だって私は、決して『それ』を選ばない。選択肢なんて、初めから無いのだから。

 

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 ―――5月25日の早朝、午前6時半。

 夢から覚めると、私は決まって汗だくで、喉が渇き切っている。今日も例外ではなく、寧ろ目覚めがいつもよりも数段悪い。貴重な睡眠時間を満喫した直後だというのに身体が重く感じられ、まるで眠った気がしなかった。

 

「・・・・・・また、ですか」

 

 正直なところ、そろそろ例の夢を見ることになるだろうと考えてはいた。あの夢は忘れた頃にやって来る。そして最近になって漸く、傾向が掴めてきた。大抵の場合、私が「ああ、この人は裏表の無い人間なんだな」と思えることができる人間と出会った後に、私はあの夢を見る。今回に関して言えば、一昨日の一件がそうなのだろう。

 あの六人の誰に対してそう感じたのかは分からない。そして何故あんな夢を見るのか、どうして法則性があるのかも。分からないというより、分かりたくない。

 

「やれやれ、ですね」

 

 私は重い足取りで窓際へ向かい、カーテンを開けた。窓枠の向こう側から差し込んでくる陽の光が眩し過ぎて、私は朝空を直視することができなかった。

 

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「あら、四宮君」

「ん・・・・・・」

 

 部屋を施錠してエレベーターへ向かっていると、私と同じタイミングで部屋を出た四宮ユウキ君の背中が映る。私は小走りで四宮君に追い付き、彼と歩調を合わせ始めた。

 

「おはようございます、四宮君。今日は随分と早いのですね」

「どーも。別に理由はないけど。早く目が覚めただけだから」

 

 素っ気無く返す四宮君の出で立ちをちらと見る。制服の上から緑色のパーカーを羽織り、両耳にはヘッドホンと、肩掛けの鞄。杜宮学園は服装については寛容で、好き好きの上着を身に付けて登校する生徒が多い。この点に関して言えば、私や風紀委員も余計な手間が掛からずに助かっている。四宮君も普段通りの服装だった一方、今日に限って顔の下半分がマスクで覆われていた。

 

「風邪、ですか?」

「多分ね。熱は無いから平気だけど、咳が鬱陶しくて喉が痛い。変な夢も見た」

「そうでしたか。余り無理をなさらないで下さいね」

「平気だって言ってるだろ」

 

 良い傾向だと思う。少し前の四宮君なら、こうして私と一緒に登校を共にすることは無かったし、体調が悪いのなら尚更だ。彼にどういった心境の変化が訪れたのかは、大方想像が付く。憎まれ口や後輩らしからぬ態度ばかりが目立つけど、悪い人間ではない。少なくとも、裏表が無い。

 

「何でしたら、学園までご一緒しますか?」

「冗談でしょ。あんな車で登校する先輩の気が知れないよ。どういう目で周りから見られてるのか分からない程、先輩も鈍くはないんじゃないの」

「フフ、耳が痛いです」

 

 ハイグレード車での登校を指して言っているのではないのだろう。侮言の類なら、度々私の耳にも届いていた。

 私を支えてくれる生徒会の人間がいれば、学園内で際立ち過ぎている私を良く思わない者もいる。誰からも好かれる人間はいないし、そんな幻想を抱く程、私は愚かではない。

 

「まあどうでもいいけどね。先に行くよ」

「はい、お気を付けて」

 

 エレベーターで一階に下り、裏口から出て行く四宮君の背中を見送る。彼のように自由奔放な人生を歩んでいたとしたら、私はどんな人間になっていたのだろう。そんな取り留めのない想いに浸りながら、私は踵を返し、彼とは反対方向に歩き始めた。何かを象徴しているようで、苦笑いをする私がいた。

 

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 学園へ向かう道すがら、私は後部座席で革製のスケジュール手帳を広げ、ハンドルを握るキョウカさんと今週の予定を確かめ合っていた。

 

「本日は関東マネジメント社の常務取締役、金田様とアクロスタワーにてアポを取ってあります。月例会議の後に来られるそうですので、少々お待ち頂くかもしません」

「仕方ありませんね。あの方が会議に出られると、決まって長引くというお話ですから。良い話題になりそうな動きはありますか?」

「アクロスタウン五階に新しい商業施設を開く計画が進んでおります。それとマスコットキャラクターのモリマルですが、アイドルとのタイアップ企画案の決裁が先週末に下りました」

「ああ、そうでしたか。漸く具体的な話に進めそうですね」

 

 決裁待ちの案件が多過ぎて、定期的に確認しないと忘れてしまいそうになる。上層部の一声を貰う為に時間を浪費してしまうところは、堅実な日本企業の特徴でもある。もっとどうにかならないものかと考えはするものの、女子高生に過ぎない私には動きようがない。

 

「週末には同社の創立記念パーティーが開かれ、れれれれれれれれれれれれれれれ」

 

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「週末には同社の創立記念パーティーが開かれます。お手数ですがお嬢様には、会長の代理としてご出席して頂きます」

「今年はちょうど二十周年に当たりますから、盛大な物になりそうですね。ドレスはキョウカさんにお任せしても宜しいですか?」

「畏まりました。何かご希望がありましたら仰って下さい。ご用意致します」

「あ・・・・・・」

 

 不意に今朝方の夢が過ぎり、声が出なくなる。バックミラー越しに私の戸惑いが伝わったのか、キョウカさんは一度ミラーに視線を移してから言った。

 

「どうなさいました?」

「いえ、何でもありません」

「・・・・・・そうでしたか。私はてっきり、また悪い夢でも見たのかと」

 

 再び声が詰まってしまう。口に出さずとも、どうやらお見通しのようだ。この人の前では、隠し事なんてできそうにない。

 夢の内容に触れたことは一度も無かった。でも時折奇妙な夢を見ると、以前に弱音を吐いたことがあった。キョウカさんと私の間には、何の隔たりやしがらみも無い。あんなあやふやな悩みを聞いてくれる知人も、祖父を除いてキョウカさんしかいない。両親を亡くしてから私を見守り続けてくれた、信頼できる数少ない人間の一人だ。

 

(数少ない・・・・・・か)

 

 いつからだろう。周囲の人間を、斜に構えて見るようになったのは。私は自身の境遇に何の不満も無い。誇りに思える両親に育てられ、孫想いの祖父と姉代わりに愛され、支えられながら生きてきた。でもその結果が今の北都ミツキという人間だと考えると、不義理が過ぎる。どうしてこうなってしまったのだろうと考えて、真っ先に思い浮かぶのは、強引に色鉛筆を握らせてきた人間達。そうやって責任転嫁をする私を天国の両親が見たら、何を言われるか分かったものじゃない。

 

「悩み事でしたら、抱え込まずに仰って下さい。話すだけでも楽になると思いますよ」

「・・・・・・ありがとうございます。お気持ちだけ、受け取っておきます」

 

 私は手帳を閉じて、流れ行く風景に目を向けた。早朝の陽の光と同じで、木々の新緑の眩しさに、私は息苦しさを覚えていた。

 

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 午前の授業が終わり昼休憩に入った後、私は単身生徒会室へと向かった。溜まりに溜まった雑務をこなしながら昼時を過ごしていると、一学年のノドカさんが書類の束を抱えて私を訪ねて来た。受け取った書類達は、先週末に全学年の生徒へ配布した、学園祭に関するアンケート用紙だった。

 

「クラス委員でもないのに、いつもありがとうございます。C組が一番に提出して下さいましたね」

「こ、こちらこそ。ミツキお姉さまの為なら、ノドカは何だってやりますから!」

 

 ノドカさんが目を輝かせて頭を下げ、鼻歌交じりに生徒会室を後にする。すると彼女と入れ違いで、同学年D組のエリカさんが生徒会室の扉を開けた。エリカさんの手には書類ではなく、学園から程近いベーカリー『モリミィ』の店名が書かれた紙袋があった

 

「あら、エリカさん。どうされました?」

「コホン。ミツキさん、貴女昼食はもう取りましたの?」

「いえ、まだですが」

「なら結構。味見に付き合って頂きますわよ」

 

 そう言って差し出された紙袋の中身に視線を落とす。中にはラップに包まれたサンドイッチが数切れと保冷剤が入っており、食欲を誘う良い匂いに思わず喉が鳴った。

 

「アキがアルバイト先で新しいレシピを任されたみたいで、私に出来栄えを見て欲しいと頼んできましたの。ですから、その。別に差し入れとか、そういった物ではないですわよ」

「フフ、そうでしたか。ちょうど区切りも付いたところですから、今お茶を入れますね」

 

 三年D組、高松エリカさん。部活動はテニス部に所属。北都グループと規模は違えど、エリカさんも大手企業グループを統括する取締役代表のご令嬢。私と似通った立場にあり、この学園へ入学して以来の付き合いだ。何かに付けて競争事を申し込んでくる一面は別として、私にとっては気兼ねなく話せる女子生徒の一人でもある。

 私はアールグレイのミルクティーを入れて、エリカさんからサンドイッチを一切れ受け取った。包んであったラップを取り、パン生地を捲って恐る恐る具材を確認すると、『チーズ』は挟まっていなかった。

 

「大丈夫、チーズは入っていませんわ」

「・・・・・・助かります」

 

 私が唯一苦手とする食材、チーズ。キッカケは十年前の失態にある。

 事が起きたのは、北都グループが主催となって開かれた記念式典パーティー。両親に連れられて向かった会場には、見たこともない豪勢な料理がテーブルの上にずらりと並べられていた。まだ幼かった私は無邪気にはしゃぎ、彩り豊かな料理をつまみながら回った。その中にあったのが、ゴルゴンゾーラ。ブルーチーズの強烈なクセなど私には知る由も無く、私は慣れ親しんだプロセスチーズの味を期待して頬張り、そして嘔吐した。パーティー会場のど真ん中での嘔吐に、周囲の参加者の悲鳴が連鎖し、一時は混乱さえ生じ掛けてしまったのだ。

 

「今思い出しても、顔から火が出そうになります」

「無理もありませんわ。貴女にとってはトラウマと言っていいものでしょう」

 

 考えてみれば、東京震災はあれから三日後の出来事だった。会場内で謝罪して回る両親の背中を見詰めながら、私は自分がひどく情けなく思え、涙が止まらなかった。これからは絶対に両親へ迷惑を掛けない、幼少の身でそう決心した矢先に―――その両親が、何処にもいなくなってしまった。それからというもの、私は二つの意味合いで、心身ともにチーズを拒絶するようになっていった。忘れたい過去の一つだ。

 物思いに耽っていると、エリカさんは今し方ノドカさんと擦れ違った部屋の入り口を見てから言った。

 

「先程の女子生徒は、頻繁に貴女を訪ねているようですが。随分と慕われていますのね」

「慕うと言うより、あれは崇拝に迫る物がありますね」

「それを口に出す貴女も相当ですわよ・・・・・・」

 

 ノドカさんの目に、私はどういった人間として映っているのだろう。きっとそれは、表面上の北都ミツキ。本当の私ではない。ノドカさんには申し訳ないけど、彼女は私を知らなさ過ぎる。彼女の期待に応えられる程、私は清廉潔白な人間ではないというのに。

 

「エリカさん。エリカさんは、私をどういった人間だとお考えですか」

「何ですの、藪から棒に」

「私は自分のことを、打算的で利己的な人間だと思っているのですが」

「・・・・・・まあ、敢えて否定はしません。ですがそれを言うなら、私も似たようなものですわ」

「そんなことはありません。エリカさんは素敵な人です」

「ち、調子が狂いますわね。何か変な物でも食べましたの?」

「変な夢なら見ましたけど・・・・・・すみません、忘れて下さい」

 

 私が言うと、エリカさんは怪訝そうな面持ちで手にしていたサンドイッチを一口齧った。私もそれに続いた途端、口の中一杯に濃厚な味わいが広がっていく。パストラミポークとツナサラダ、粒入りマスタードにガーリックバター、スライスされたトマト。全てが主張し過ぎず、絶妙なバランスで噛み合っている。これならすぐにでも商品化されそうだ。

 

「それにしても、あの本は貴女が借りた物で?」

「え?」

 

 遠藤さんの腕前に感心していると、エリカさんの視線は先程まで座っていたデスク上へと向いていた。その先にあったのは、先週末に図書館で借りた一冊の本だった。

 

「はい、そうですよ。最近は児童図書を借りることが多くって。気楽に読めますし、息抜きにちょうどいいんです」

「『星の王子さま』が児童向けの図書だとは思えませんわよ」

「その辺りの線引きは曖昧ですから。エリカさんも読んだことが?」

「以前に一度だけ。捉えどころがないと言いますか、私には合いませんでしたわ」

 

 それは大半の読者が抱く感想と同じだろう。作者があの本を通じて何を伝えたかったのかは諸説あるようだし、長年に渡り様々な観点から研究がなされている一方で、結論は出しようが無い。明確な答えが無い以上、読者の数だけ受け取り方がある。

 私はあの掴みどころの無いふわふわとした世界観が好きだった。答えが無くていいという事実に、どういう訳か安心感を覚えることができる。

 

「エリカさんは、何か好きな児童図書はありますか?」

「そうですね。『走れメロス』の分かり易さは好きですわよ」

「・・・・・・意外な答えが返ってきましたね」

「むっ。それはどういう意味ですの?」

 

 目を細めて睨み付けてくる鋭い視線を躱して、それとなく理由を聞いてみる。

 テニスに代表されるペア競技は、パートナーとの信頼関係が何より重要。試合が長期戦となり白熱していくと、己のミスによる失点が何より許せず、狂おしい程の悔しさを抱く。それこそパートナーに頬を殴って貰わないと気が済まないぐらいに、申し訳が立たなくなる瞬間があるそうだ。

 

「劇中の二人の男性らも、『一度だけ君を疑ってしまう悪夢を見てしまった、自分を殴ってくれ』と言って、本当にお互いを殴り合うでしょう。行動の是非はともかく、二人の心境は理解できますわ」

「成程。エリカさんは最近、遠藤さんとペアを組むことが多いと言っていましたね」

「試合形式の練習では自然とそうなりますわね」

「フフ。遠藤さんと上手くやれているようで良かったです」

「まあ、いい後輩だとは思いますわ。引っ込み思案ではありますが、アキは裏表が無い分、付き合い易いですわね。根が良い子なのでしょう」

 

 遠藤さんはテニス部で唯一の二年生であり、後輩。彼女の性格も相まって多少気に掛けてはいたけど、無用な心配だったようだ。呼び方も知らぬ間に「遠藤さん」から「アキ」に変化していることから考えても、理想的な関係を築けているに違いない。

 

「・・・・・・そうですか」

 

 そして私はまた、妙な後ろめたさを感じている。エリカさんと遠藤さんにも、きっと裏が無い。だからこそこのサンドイッチの具材のように、上手く噛み合っている。走れメロスの二人のように、信じ合うことができている。

 でも正直なところ、私は走れメロスが嫌いだ。一度友人を疑っただけで許しを請わなければいけないのなら、私は何度頭を下げればいいのだろう。悪い夢として忘れ去り、それでも殴られなければならないと言うのなら、人間社会は成り立たない。彼女らのような人種は極一部に過ぎないというのに。なんて、そんな歪んだ感想を抱いてしまう私も私だ。本当に、今の私はどうかしている。

 

「ミツキさん、出なくて宜しいのですか?」

「え・・・・・・あっ」

 

 言われてから漸く、デスク上に置いてあったサイフォンの着信音に気付く。私は手にしていたティーカップを戻し、サイフォンを取って通話着信先を確認すると、画面上には高幡君の名が浮かんでいた。こんな時間に電話だなんて、何かあったのだろうか。

 

「はい、北都です」

『高幡だ。今話せるか?』

「ええ、構いませんよ。どうされたのですか」

『急に変なことを聞いちまうが、頼むから正直に答えてくれ』

 

 ―――お前も柊と同じで、裏の世界を知っている人間なのか。

 高幡君の声は焦燥感に満ちていて、彼が言わんとしていることはすぐに察することができた。私はエリカさんから距離を取り、声を潜めて返す。

 

「・・・・・・立場上多くは語れませんが。ある程度は通じているとだけ、言っておきます」

『そうか。やっぱり、お前もそうだったんだな』

「何かお困りのようですね。異界絡みですか?」

『ああ、おそらくな。BLAZEの一件で世話になった後輩共の様子がおかしいんだ。時坂がミズハラって人を呼びに行ってるんだが、お前にも診て欲しい。頼まれてくれねえか?』

 

 世話になった後輩達。様子がおかしい。風邪気味の四宮君。異界絡み。頭に浮かんだキーワードを繋ぎ合わせれば、状況はある程度想像が付く。異界が関係しているともなれば、一時の猶予も許されない。

 

「分かりました。何処へ向かえばいいですか?」

『レンガ小路にある喫茶店だ。こんな時間に悪いが、すぐに来てくれ。表で待ってる』

 

 こうしてはいられない。私は高幡君との通話を切り、アドレス帳からキョウカさんの連絡先を選んだ。

 

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 私が案内された先は、レンガ小路外れの喫茶店『壱七珈琲店』の二階にある一室。柊さんの下宿先には、ベッドの上で額に大粒の汗を浮かべながら、力無く寝そべる柊さんがいた。柊さんの他には高幡君と、柊さんを無言で見守る時坂君、そして私よりも一足早く駆け付けたミズハラさんの姿があった。

 

「一年の郁島と四宮にも、同じ症状が見られるそうだ。郁島は遠藤が、四宮にはあいつの姉が付いてくれてる」

「そうでしたか・・・・・・でも、どうして異界が関係していると?」

「サーチアプリ、だったか。時坂のサイフォンに、微弱な反応があったらしい」

 

 典型的な異界症例の特徴の一つだ。異界物質が原因となって発症する異界病を患った人間は、異界化の際に生じる二次的な変化と同じ類のそれを引き起こす。つまりサーチアプリが示す僅かな誤作動は、柊さんの身体を異界病が蝕んでいるという可能性を示唆している。一昨日の異界化と発症した人間、状況から考えて、十中八九異界病が原因と当たりを付けていい。

 

「ミズハラさん、どうッスか?」

「フム・・・・・・症状自体は、肺炎と似ているね」

 

 柊さんの具合を窺っていたミズハラさんが、顎に手をやりながら立ち上がる。

 

「おそらく異界の瘴気が原因だろう。近年では『腐海病』とも呼ばれているよ。一昨日に君達が踏み入ったっていう異界には、沢山の異界植物が生茂っていたと言っていたよね?その中に強力な瘴気を吐き出す種が生えていたのかもしれない」

 

 ミズハラさんと私の見解は大方一致していた。二日前に柊さんらが治めた異界は、異界ドラッグの原材料の出処でもあった場所だ。どんな異界植物が存在していてもおかしくはない。あの異界で瘴気にあてられた三人は、二日間が経過した今になって発症してしまったのだろう。一方の高幡君と時坂君、遠藤さんらは焔属性の霊力を宿しているそうだ。風属性への耐性が強い三人に症状が見られないことも、異界植物が原因であることと繋がっている。アキヒロさんもドラッグを多用していたことで、知らぬ間に抵抗力が付いていたのかもしれない。

 

「強力な瘴気か・・・・・・シオ先輩。心当たり、あるよな」

「ああ。異界の一画に、黒い霧みてえなモンが立ち込めている場所があった。どうやらあの辺りに、その植物とやらが生えていたみてえだな」

 

 近寄らなくて正解だ。私の『ハーミットシェル』なら瘴気を防げるだろうけど、たとえ適格者と言えど生身で触れてしまえば、まず無事では済まない。それに直接その瘴気に触れずとも、異界に入ってしまった時点で手遅れだったのだろう。流石の柊さんでも、その存在を事前に察知するなんてできる筈がない。

 ともあれ状況は理解できた。重要なのは、これからどう動くべきかという一点にある。私は視線を柊さんからミズハラさんへ向けて、可能性の程を聞いた。

 

「ミズハラさん。自然治癒の可能性はありそうですか?」

「幸い現時点で命に別状は無いよ。でも症状が重いから、何とも言えないかな」

「異界植物の瘴気が原因の場合、治療法は二つしかないと聞いておりますが」

「・・・・・・うん。一般的には、そうだね」

 

 ミズハラさんが時坂君と高幡君にも理解できるよう、掻い摘んで二つの方法について話し聞かせ始めた。

 異界の瘴気に毒された患者への対処法は二択に限られる。一つ目は現実世界の医学を駆使して症状を軽減しながら、当人の生命力に期待する方法だ。病状や容体に左右されるけど、異界病を自力で克服した事例ならいくらでもある。しかしミズハラさんの口振りでは、自然治癒を望める程に症状は軽くないのだろう。

 そして二つ目が、特効薬を調合して処方すること。異界植物の瘴気が原因なら、その植物を入手して分析すれば、病状を的確に治める特効薬を生み出せる可能性が極めて高い。ミズハラさん程の専門家がいれば、きっとそれが可能な筈だ。元凶の植物さえ、手に入れば。

 

「その植物が手元にあったら、すぐにでも分析を始めたいところだけど・・・・・・君達の話では、もう異界は消滅してしまったんだよね」

「ま、待ってくれ。あの異界以外にも、その植物ってのが生えてるかもしれないッスよね」

「話を聞いた限りでは、かなり希少な種だよ。そんな植物が存在する異界との特異点を、都合良く探し出せると思うかい?」

「それは・・・・・・」

 

 ミズハラさんの指摘で、一気に重々しい空気が漂い始める。ミズハラさんもその可能性が絶望的だからこそ、敢えて現実を突き付けているのだろう。原因となった植物が存在していた異界が、もう無い。それが意味するところは、一つしかない。

 

「いや。まだ可能性はある筈だぜ」

「・・・・・・時坂君?」

「以前に柊から聞いたことがある。異界化が発生した場所との繋がりが強い場合、異界は無害な『フェイズ0』の状態で、現実世界との接点を保ち続けるってな。もしあの異界も同じだったら、やりようがあるかもしれねえ。北都先輩、何か知らないッスか?」

 

 時坂君と高幡君が、縋るような目付き私の反応を窺ってくる。

 時坂君の推察通り、確かに方法は残されている。フェイズ0となった異界は、極稀にフェイズ1へと変貌し、現実世界へ再び牙を向くケースがある。そしてその逆も然り。現実世界側から、閉ざされたゲートを強引に抉じ開ける術式が存在する。ここにいる人間の中でそれが可能なのは、私しかいない。

 

「ですが、私にはできません」

「できないって・・・・・・おい北都、お前何を言って」

「駄目です。文字通り、できないんです」

 

 もう何十年も前に、異界を知る人間達の間で交わされた、裏の世界においてのみ適用される暗黙の国際条約。その中の一つに、フェイズ0の異界に関する縛りがある。異界の主を失ったフェイズ0と言えど、一度フェイズ2に陥った危険極まりない異界のゲートには、干渉の一切が禁じられている。目的がどうあれ、絶対に犯してはならない禁忌が存在しているのだ。実際に過去、無法者による逸脱行為によって犠牲者が生じた事例だってある。だからこその縛りであり、時坂君らも例外ではない。たとえそれが病に侵された三人の為と言えど、私は術式を行使する訳にはいかない。

 

「私も手は尽くします。今は柊さん達の生命力を信じて、見守るしかありません」

「待てよ、北都先輩」

 

 私が言い終えるやいなや、時坂君がベッドの傍らから離れ、私の眼前へと詰め寄ってくる。想像していた通りの反応に、私は努めて冷静に応じた。

 

「俺は北都先輩が何者なのか知らねえし、聞くつもりもねえ。アンタが今どんな立ち位置で喋ってんのかも知らねえよ。だが先輩、アンタ本気で言ってんのか」

「お気持ちは分かりますが、こればっかりはどうにもなりませんから」

「もう一度聞くぜ。頼むから、本音で語ってくれよ」

「仰っている意味が分かりません。初めから嘘偽りはありませんよ」

「ざけんなっ・・・・・・ふっざけんじゃねえぞ!!」

 

 時坂君が声を荒げると、ミズハラさんの肩がびくんと反応する。一方の高幡君は、押し黙った様子で私達のやり取りを見詰めていた。

 

「柊が見えねえのか。あんな苦しそうにうなされてる柊が、アンタには見えねえってのかよ!?」

「そんなことは言っていません」

「同じだろうが!人の気も知らねえでっ・・・・・・あいつが意識を失う前、俺に何て言ったと思ってんだ!?禁忌だか何だか知らねえが、ソラもユウキも今この瞬間に苦しんでんだよ!アンタは生徒会長だろ、もっと何か言うことはねえのか!?」

「落ち着いて下さい、時坂君。柊さんの容体に障ります」

「っ・・・・・・!」

 

 時坂君は私を一睨みした後、部屋の出口へ向かって歩を進めた。

 

「時坂君、何処へ行かれるのですか」

「アンタには関係ねえよ」

 

 それを最後にして、時坂君は部屋を去って行った。教えてくれずとも、行先は分かってしまう。そんなことに意味は無いと言い聞かせても、今の彼は私の声に耳を傾けようとはしないだろう。

 

「ミズハラさん。何か動きがありましたら、私にもご一報願えますか」

「あ、ああ。分かったよ」

 

 時坂君に続いて部屋を後にしようとすると、行く手を遮るように、腕を組んだ高幡君が私の前方に立った。長身の彼を見上げる形で視線が重なり、沈黙を続けていた高幡君がゆっくりと口を開く。

 

「随分とらしくねえ真似をするんだな。お前、本当に北都なのか」

「・・・・・・私らしいとは、どういう意味ですか」

「あん?」

 

 人の気も知らないで、は私の台詞だ。あんな風に取り乱すことに、何の意味がある。それにちょうどいい、私も自分を見失い掛けていたところだ。いい機会だから、彼に聞いてみよう。何かしらの答えを与えてくれるかもしれない。

 

「私も知りたいんです。私らしさって、何ですか。答えて下さい」

「何を言いてえのか分からんが・・・・・・俺の知る北都ミツキは、そんな冷めた目をするような女じゃなかった筈だぜ」

 

 やっぱり駄目か。私は胸中で失望して、目を伏せて肩を落としながら、高幡君と出口の隙間を押し通って歩を進めた。自暴自棄になり掛けている自分が情けなく、滑稽で仕方なかった。照明で床面に映る私の影が、底無しの落とし穴のように、『裏の自分』が薄ら笑いを浮かべているようにも思えた。表と裏の境界線までもが、曖昧になっていた。一体私は何処へ向かっているのだろう。

 呼吸が苦しい。深呼吸をしても、肺が充たされない。誰でもいいから、このどうしようもない息苦しさを、代わっては貰えないだろうか。

 

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 午後20時過ぎ。祖父の孫娘としての業務を済ませた私は、キョウカさんの運転でマンションへ戻り、普段通りの挨拶を交わしてから、エントランスホールに立ち尽くした。たっぷり十分間の虚無を過ごした後、私は自分の足で、市内の北東部へと向かった。

 一人になりたかった。悪い夢を見ているのではないかと思い、瞼を閉じても何も変わらない。夜の暗闇に身を投じて、全てが溶け込んで一緒くたになってくれないかと願っても、変わらなかった。私は北都ミツキで、皆が知る北都ミツキは何処か遠い所を歩いている。なら本当の私はここにいるのかと思いきや、私は私ではない。息苦しさは相変わらずで、どす黒い何かが込み上げては意識が遠のいて、肺がチリチリと痛む。まるで訳が分からない事態に対して論理的思考を働かせても、答えなど見い出せる筈も無く。気付いた時には、私は廃工場の入り口に立っていた。

 

「よお。一昨日の晩とは、逆の立場になっちまったな」

「・・・・・・いつから、そこにいたのですか」

「あれからずっとだ。時坂の野郎も同じだぜ」

 

 物音を立てないようにそっと顔を覗かせて、異界化の発生場所となった建屋の中を窺う。視線の先には、胡坐をかきながら微動だにしない時坂君の姿があった。

 

「それで、どうなんだ。接点とやらは残ってんのか」

 

 私は首を横に振って応える。あの異界はもう、何処にも存在しない。時坂君が見詰めている空間には、何も残っていない。フェイズ0という希望は無く、万に一つの可能性すら無かった。

 私はどちらを期待していたのだろう。無慈悲な現実を目の当たりにして心を痛めている私がいれば、これで禁を犯すような真似をせずに済んだと感じる私もいる。客観的に見て、酷く歪んでいる。歪み過ぎていて気味が悪い。馬鹿げている。

 

「高幡君。私はもう、駄目かもしれません」

「北都・・・・・・」

 

 貴女は誰で、お前は誰だ。本当の私は、何処にいる。私はいつから北都ミツキだった。私はいつから北都ミツキではなくなっていた。そもそも北都ミツキは、存在していたのだろうか。考えても考えても、一向に答えは見付からない。探せど探せど、益々深みに嵌まっていく。もう―――息ができない。胸の内が燃えるように、肺が熱い。

 

「・・・・・・ああ、成程。そういうことでしたか」

 

 漸く全てが繋がった。随分と遠回りをしてしまった。答えなら、初めから私の中に在ったじゃないか。こんなことに気付かないなんて、やはり私はどうかしていた。

 私は一度深呼吸をした後、高幡君に身体を預け、厚い胸板に顔を埋めた。高幡君も応えるように、逞しい両腕を私の背中に回し、私を抱いた。

 

「ねえ高幡君。私の好きな色が、何色か分かりますか?」

「色?」

「はい、色です」

 

 上着越しに、彼の胸の鼓動音が伝わってくる。一定のリズムに耳を傾けていると、高幡君は躊躇いがちな声で、言った。

 

「そうだな。青色、か?」

「ぶっぶー。残念、不正解です」

 

 私が口を尖らせて言うと、辺りは私の大好きな色に染まっていった。

 

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(―――来た)

 

 立ち寝から意識を取り戻した時のように、私は姿勢をピンと伸ばした後、ミスティックノードを握り直して『ハーミットシェル』に残り僅かな全霊力を集中させた。この結界を通り抜けて来る程の瘴気は初めてだ。あの柊さんさえもが蝕まれてしまったのも頷ける。相当な量を吸い込んでしまっていたようで、肺が熱く呼吸が儘ならない。

 息を止めて泥沼の中を泳ぐが如く、一歩ずつ足を動かして着実に前進していく。次第に視界が明瞭になっていき、私の帰りを待ち望んでいた三人の表情が目に入る。大きくガッツポーズをする時坂君。今にも泣き出しそうな遠藤さん。そしてやれやれと胸を撫で下ろす、高幡君。さあ、もう一息だ。

 

「ぷはっ!」

 

 やがて瘴気の塊から抜け出した私は、膝が折れてしまいその場にしゃがみ込んでしまった。こうして異界でソウルデヴァイスの力を使うのも久方振りだったことが、結界が完全ではなかった原因かもしれない。今度ゾディアックの技術部門で見てもらうとしよう。

 

「ほ、北都先輩!大丈夫ッスか!?」

「ええ、大事ありません。少し肺に入りましたが、想定の範囲内です。元凶の異界植物もほら、この通り」

 

 私は上着の中に入れておいた例の植物を取り出し、時坂君に差し出す。見た目はただの道草と言っていいぐらいに特徴が無いけど、現実世界にも美しい外見とは裏腹に、毒性を持つ植物や菌類は数多く存在している。これさえあれば、あとはミズハラさんが万事解決してくれる筈だ。

 

「よ、良かった・・・・・・北都先輩、ありがとうございます。これで三人共、治るんですね」

「はい。この瘴気には幻覚作用もあるようですので、今も悪い夢にうなされているのかもしれません。すぐにでもミズハラさんに託して、分析して貰いましょう」

 

 私は高幡君の手を借りてよろよろと立ち上がり、背後に漂う黒色の霧へと振り返る。本当に厄介で恐ろしい瘴気だった。ある意味で死人憑き以上に質が悪い。たったの数分間が一日に感じられる程に深い幻覚症状なんて聞いたことがない。ハーミットシェルが解けていたら、私も帰っては来れなかっただろう。

 

「北都、無理すんなよ。顔色が悪いぞ」

「平気です。でも、そうですね。あんな自分が私の中に居たなんて、思ってもいませんでした」

「何だって?」

「毒を以って毒を制す、といったところでしょうか。憑き物が落ちた気分ですよ」

「・・・・・・お前、本当に大丈夫なのか?」

 

 あれは私ではなくて、私でもあった。奇妙な夢を見続けてきた過去は現実だし、黒々しい裏の自分が存在していたことも事実。チーズと走れメロスが大嫌いな私も、時折取り留めのない物想いに耽っては我を見失う私も私。全部、私の現身だ。でもおかげ様で、私は真正面から私と向き合うことができた。真っ黒な殻を破り、全てを瘴気の中へ置いてきた。私はもう目を逸らさない。皆が慕い皆が支え、形作ってくれた北都ミツキは、ここにいる。

 

「高幡君、一つ聞いてもいいですか」

「何だよ、改まって」

「私の好きな色が何色か、分かりますか?」

「好きな色・・・・・・『白』、か?」

「ピンポーン。フフ、大正解です」

 

 誰にも色鉛筆は選ばせないし、私は色鉛筆を握らない。真っ白な塗り絵は、大好きな白のままでいい。白という可能性を捨ててしまう必要は何処にも無い。明日の私は今日の私と違うのだから、その日の気分で色を選び想像を働かせれば、塗り絵は何枚でも塗れる。答えが無いなら、答案用紙も白でいい。自由気ままに流れ行く雲のように、真っ白でいい。私が好きな衣装は純白のドレスで、白は私が私の意思で選び取った色だから、白の巫女たる私が歩んできた道のりは、全て私が背負うべき物。ただ、それだけの話だ。

 

「おいこら、何だってんだ。柄にも無く甘えてんじゃねえよ」

「足がふら付いているだけです。でも白を言い当てるだなんて、流石は高幡君ですね」

「言っておくが適当だぜ。お前は白玉あんみつが好きだからな」

「聞きたくありませんでした。流石は高幡君ですね。女心が何一つ分かっていません」

「もう何とでも言え・・・・・・」

「バカっ」

「そういう心にくるのはやめてくれ」

 

 一昨日の晩に柊さんらが繰り広げた下らないやり取りをなぞっていると、その当事者の二人が目を細めて私達を見詰めていた。そろそろ頃合か。

 

「あのー。取り込み中に申し訳ないんスけど、もういいッスか」

「そ、そうですよ。早くミズハラさんに所へ行きましょう」

「だそうだ。北都、歩けるか」

「はい、何とか」

 

 私は自分の足で立ち、再度背後へ振り返る。さようなら、もう一人の私。もう会うことはないし、夢を見ることもないだろう。貴女が居てくれたから、私は前を向くことができた。裏があるから表が存在するように、闇が光を引き立たせ、漆黒が純白を際立たせてくれる。私はこれから白の巫女として、堂々と胸を張って歩いて行く。だから、これでお別れだ。

 

「・・・・・・ごめんなさい。やっぱり、まだ歩けません」

「ったく。おら、掴まれ」

 

 さようなら。そして、ありがとう。貴女のおかげで、今夜は良い夢が見れそうです。

 

 


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