「おおぉらああっ!!」
焔を纏った高幡先輩の斬撃が、眼前の通路を塞いでいた蔓状の植物達を斬り上げる。時坂君の鎖撃や私の霊子弾ではビクともしなかった異界植物は一気に枯れ果て、その大部分が燃やし尽くされていく。
「こんなもんでどうだ」
「ええ、助かります」
異界の最奥部を目指していた私達は、思いの外に順調な足取りで迷宮内を突き進んでいた。要因の一つは、柊さんを除いた私達三人のソウルデヴァイスに、焔属性の霊力が宿っていたことにある。植物は火に弱いというイメージに反せず、異界の内部にひしめくグリードのほとんどは風属性。グリード戦においては終始優勢に立ち回ることができ、とりわけ覚醒したばかりの高幡先輩の剣技は、大半のグリードを一撃で仕留めていた。
と言っても、これにはしっかりと理由があるらしい。単にこの異界の主も焔属性を嫌っていたから、自然と触手は私達三人を避けて、ユウ君とソラちゃんに襲い掛かったというのが柊さんの考察だ。柊さんが狙われなかったのも、私達の後方に立って『しまっていたから』。柊さんは重々しい声で、そう言った。
(柊さん・・・・・・)
私の視線に気付いたのか、柊さんは立ち止まって振り返り、私達を見回した。
「もうかなり奥まで来ている筈よ。グリードの反応も近い。作戦を整えて戦闘に備える為にも、一分間だけ小休憩を取りましょう」
本来ならたとえ一分間と言えど、立ち止まっている暇は無い。柊さんが過去に対峙したとされるダークデルフィニウムの特徴の一つが、霊力吸収。触手や蔓の先端部で捕えた獲物から霊力を吸い出し、糧とする。一方の獲物は吸い尽くされ、果ててしまう。柊さんが言った「時間が無い」は、そういった意味合いが込められていた。
でも今回の相手は脅威度『Aクラス』のエルダーグリード。指標が今一分かり辛いけど、あの死人憑きでも精々『Cクラス』がいいところだそうだ。これまで対峙してきたグリードとは次元が異なる、かつて柊さんに与えられた最終試練でもあった難敵。ここは素直に従って、体制を立て直した方がいいに違いない。
「遠藤さん。少しいいかしら」
「え?あ、はい」
柊さんは私の隣に立ち、左手で私の右手を握った。お互いの指と指を絡ませるように握り合う、所謂『恋人つなぎ』。手から伝わってくる柊さんの体温がとても心地良くてドキドキ、って違う違う。
「ほう。お前さん達はそういう仲だったのか」
「ち、違います!こんな状況で変なこと言わないで下さい!」
こんな状況で仲良く手と手を繋ぎ合っている私も私だけど、何だこれは。柊さんは一体何をしようとしている。気恥ずかしさで一気に手汗が吹き出し、変に思われていないか気になって仕方ない。
「おい柊、マジで何のつもりだよ。時間が無いんだろ」
「後々説明するわ。でもその前に、元凶の情報を共有しておきましょう」
努めて冷静さを保ちながら、柊さんの声に耳を傾ける。
ダークデルフィニウムは植物型のエルダーグリード。脅威度は個体差によるけど、触手が入り口付近まで届いたことから考えて、サイズは規格外と言っていい。対峙する際に最も気を払わなければならない部位が、霊力吸収の起点となる触手と蔓。一度でも捕まったら即座に霊力を吸われ、眩暈や吐き気といった症状を引き起こす。その先に待っているのは、死。獲物が干乾びるまで、ダークデルフィニウムは霊力を吸い続ける。
「弱点は本体の頭部、体内が剥き出しになっている部位よ。幸いこちらには高幡先輩がいるわ。時間が限られている以上、隙を突いた一撃で短期決戦に臨みましょう」
「好いとこ取りをしちまっていいのかよ?」
「勿論です。機は私達で作ります。さあ、行きましょう」
「ああ。早いところ三人を取り戻すとしようぜ」
柊さんの手に引っ張られる形で、私達は歩調を合わせた。本当に、どういうつもりなのだろう。柊さんはいつも説明を後回しにして行動することが多い。何か理由があるのだろうか。
(あ・・・・・・)
前方から僅かに差し込んだ光に照らされて、初めて気付く。私達の手の間には、真っ赤な液体が浮かんでいた。手汗だと思っていた体液は、入り口で柊さんが爪を突き立てたことで掌から流れ出た、柊さんの血だった。
手を介して伝わってくるのは体温だけじゃない。明確な自責の念に苛まれる、柊さんの冷たくも熱い感情があった。もし異界化が発生する前に事態を収拾していたら、アキヒロさんを無事解放できていたのに。あの時すぐ動いていれば、二人をこんな目に遭わせずに済んだのに。取り込まれたのが、自分だったらよかったのに。
「・・・・・・あの、柊さん」
「何かしら」
「いえ、その。絶対に、助け出しましょうね」
「ええ。その為にも、もっとしっかり握って貰える?」
「な、何でそうなるんですか」
戸惑いつつ、柊さんと強く指を絡め合う。何も彼女だけが苛まれる必要は何処にも無い。時坂君も言っていた。柊さんの協力者である私達の傷は、柊さんの傷だと。ならその逆も然りだろう。この血は私の物でもある。胸に刻んで、必ず助け出す。
覚悟を決めて通路を進んでいると、やがて開けた広大な空間が現れる。足場は極端に少なく、前方に広がる大穴は海面にぽっかりと口を開くブルーホールを思わせた。壁面や天井には一層の緑が生茂っていて―――天井から蔓で吊るされた人影に、目が止まった。全身を巻かれて力無く項垂れる、アキヒロさんとユウ君、ソラちゃんの三人だった。
「アキヒロと後輩共かっ・・・・・・!」
「迂闊に手を出しては駄目です。あの状態で蔓を斬れば、切断面から霊力が漏れ出て一気に果ててしまうかもしれません。元凶を滅ぼすのが最優先です」
死人憑きとはまた違った意味で随分と厄介な相手だ。幸いまだ命は繋ぎ止めているようで、三人共僅かに頭を動かし、私達に視線を向けた。間に合ってくれたのはいいものの、まるで生気が感じられない。残された時間も、あと僅かな筈だ。
「来るぞっ!」
時坂君が叫ぶと同時に、大穴の中から無数の蔓がうねうねと奇妙に動きながら立ちはだかる。続いてユウ君とソラちゃんを引き摺り込んだ、二本の巨大な触手、そして頭部。徐々に露わになっていくエルダーグリードの全貌に、私は尻餅を付きそうになる程の威圧感と恐怖を覚えた。
「な、なんて大きさ・・・・・・!?」
規格外という表現にも、視界にさえも収まり切らない。食虫型植物のような外見とは裏腹に、これまで相手取ってきたグリードの十数倍はある巨体が、眼前に広がった。私が身体を小刻みに震わせる一方で、柊さんは声を張って言った。
「作戦通り、私と遠藤さんが注意を引き付けるわ。その隙に時坂君が動きを封じて、高幡先輩が仕留めて下さい。あと数分以内に決着を付けないと、捕われた三人の命に関わります」
「ああ、やるしかねえみたいだな!」
「お膳立ては頼んだぜ、後輩共!」
注意を引くと言っても、動ける足場が余りに少ない。既に無数の蔓が、私達に牙を向こうとしている。ギアドライブを使った俊足には自信があるけど、あらゆる条件が悪い方向に働いていた。あの全てを掻い潜るなんて真似が、私にできるのだろうか。
「クロスドライブ第二段階、同期開始」
「え・・・・・・こ、これって」
不意に温度を感じた途端、負の感情が立ち消え、身体の震えが治まる。柊さんの手から伝わってくるのは、絶対に助け出すという断固たる意志。おかげで視界が開け、先程よりもダークデルフィニウムの巨体が一回り小さく映った。
「遠藤さん、私を信じて。全力の私に付いて来れるのは、貴女しかいない」
「柊さん・・・・・・」
「絶対に立ち止まらないと約束して。遠藤さん、できるわね」
刹那。十数本の蔓が一斉に動き出し、私達を襲った。私と柊さんは地面を蹴り、左方向に身を躱した。先程まで立っていた足場には束状になった蔓達が突き刺さり、間髪入れずに次の攻撃が始まる。あれに捕まったら、私達も三人の二の舞だ。
「止まらないで!」
「はい!」
殺気は全方向から発せられていた。後方からは石造りの足場に蔓が刺さる音が鳴り、一歩の遅れが致命的と言わんばかりの連撃が続く。立ち止まったらそれまで、私達も捕われてしまう。
(足場が―――)
弧を描くように限られた足場を走り抜く私達の視線の先には、何も無かった。このまま行けば、底が見えない巨大な穴の中へ真っ逆さま。でも私の隣を行く柊さんは、立ち止まらない。私も止まらないと約束した。だったら、このまま駆け抜けるまでだ。
「ギアドライブ、全開っ・・・・・・!!」
走り幅跳びの要領で跳躍し、眼前の壁面に垂直で着地する。勢いを殺さずに一歩踏み出し、もう一歩、更に一歩。ギアドライブの限界値を振り切り、壁面を破壊しながら足を動かし、重力を無視した歩法で前進を維持する。無数の蔓はお構い無しに私達を追跡して、壁面に刻まれた足跡に突き刺さるを繰り返していく。止まるな、走れ。走れ、走れ。
(は、速い)
上下を左右に置き換えて、柊さんと一緒にジグザグの軌道を描き、ダークデルフィニウムを翻弄する。こちらは既に限界速度まで達しているのに、柊さんは私の俊足に遅れる気配が無い。そればかりか、敢えて私に合わせているかのような足取りで僅かに私の前を行き、軌道のイメージが明確に伝わってくる。これが執行者としての柊さんの、全力なのだろうか。
「っ!?」
柊さんに気を取られていると、壁面を三分の二周したところで、今度は前方から殺気を感じた。蔓は私達よりも先回りをして、機関銃のように前方から続々と襲い掛かっていた。
「はああぁっ!」
すると柊さんは更にギアを上げて加速し、目にも止まらない無数の斬撃で、蔓を斬り刻んでいく。感心している暇も無く、私は柊さんから距離を取る方向にハンドルを切って、できる限りの注意を引き付けながら壁面を走る。続いて目に止まったは、二人の後輩を捕えた巨大な触手。対のうちの一本がしなり、私達を待ち構えていた。
「させるかってんだ!!」
一周して戻って来た私達が足場へ着地すると同時に、レイジングギアの先端が触手に巻き付き、鎖の伸縮を利用した力で、時坂君が触手を拘束する。しならせていた反動と相まって触手は引っ張られ、ダークデルフィニウムの巨体が大きく揺らいだ。蔓や触手と違い、本体部の動きはひどく鈍重で、けたたましい音を轟かせて頭部が足場へと倒れ込む。
「シオ先輩、出番だぜ!」
「おうっ!!」
後方で身構えていた高幡先輩が跳躍し、焔を纏ったヴォーパルウェポンを頭上に振りかざす。落下の勢いを味方に付けて、振り落とされた斬撃は―――その刃が届く前に、触手は先端部を放棄してしまった。
「「っ!?」」
突然拘束していた部位が切り捨てられ、勢い余って時坂君は後方に倒れ込み、一方のダークデルフィニウムはたちまちに体勢を立て直してしまう。続けざまに襲い掛かった蔓達の攻撃で、時坂君と高幡先輩は後方へと吹き飛ばされ、次々に追撃を叩き込まれていく。
「時坂君、高幡先輩!?」
思わず振り返ってしまったのが仇となった。視線をダークデルフィニウムから切った途端、蔓が私の四肢に絡み付き、私の身体は一気にダークデルフィニウムの上部へと舞い上がった。ライジングクロスも蔓に奪い取られ、視界の端には私と同様に捕われた柊さんと、エクセリオンハーツが映っていた。
「か、はっ・・・・・・ゲホッ、かはっ」
即座に始まった、霊力吸収。一気に視界が歪み、込み上げた吐き気のせいで、九重道場で口にした夜食が胃液と共に流れ出てしまう。口内に不快感が広がり、今自分がどんな体勢で捕えられているのかが、分からなくなっていく。
霊力吸収の速度は、私の予想を遥かに上回っていた。たったの十数秒で重々しい脱力感に苛まれ、蔓を振り払おうにもまるで力が入らない。こんな蔓に捕われては、柊さんでも手の出しようが無いに決まっている。
「応えて、エクセリオンハーツ!!」
「うぅ・・・・・・え?」
閉じかけていた重い瞼を見開く。視線の先には、柊さんの声に応えるかのように、独りでに動き出した刃があった。エクセリオンハーツは柄を握っていた蔓を刀身で切り刻むと、真っ直ぐに私の下へと飛来した。
(柊さん・・・・・・!)
不思議な力による繋がりは、まだ生きていた。エクセリオンハーツが的確に絡み付いた部位を斬り裂きながら、柊さんの感情と考えが流れ込んでくる。諦めては駄目だ。今動けるのは私しかいない。柊さんは己の身よりも私を案じて、反撃の機を私に託してくれた。応えられるのも、私だけだ。
エクセリオンハーツが最後の蔓を斬り捨て、一時的に空中で拘束が解かれる。エクセリオンハーツは私のイメージ通りの位置で動きを止め、私は刀身を足場にして、残された力を振り絞り跳躍した。
「だああぁっ!!」
私を追い越したエクセリオンハーツがライジングクロスに巻き付いていた蔓を斬り、私はグリップを握ると同時に、ダークデルフィニウムを見下ろした。真上となるこの位置からなら、剥き出しになった頭部を狙える。
でも私の霊子弾だけでは威力不足は目に見えている。高幡先輩の斬撃に遠く及ばない。既に蔓は私に照準を合わせているし、一か八かで撃つしかないけど、この弾撃が届くのだろうか。
(え―――)
躊躇いながら宙で構えていると、右方向から何かが近付いていた。私はこの力を知っている。鋼属性と風属性、二つの霊子弾。私達の中で両属性を扱える人間は、二人しかいない。
「や、やられっ放しじゃ、カッコ悪過ぎでしょ」
「アキ先輩っ・・・・・・!」
あんな状態で、何て無茶を。色々と言ってやりたいけど、全部後回しだ。
私は体勢を立て直し、ストロークからオーバーヘッドサーブの構えに切り替える。ギアドライブに続く、ライジングクロスに秘められた二つ目の力、『ギアバスター』。打点とタイミングさえ噛み合えば、何だって撃ち返せる。本来はカウンター技だけど、やれと言われたからには、応えて見せる。
「おおおぉりゃああああっ!!!」
三人分の力を込めた特大の霊子弾を、ダークデルフィニウムの頭部へと撃ち下ろす。光弾が弱点とされた剥き出しの部位に着弾すると、耳をつんざくような鋭い悲鳴が周囲へ響き渡り、全ての蔓がピンと真っ直ぐに伸びて、確かな手応えを感じさせた。
お願いだから、そのまま倒れて。落下しながらダークデルフィニウムの様子を窺っていると、無数の蔓は息を吹き返し、本来の動きを取り戻していく。私を嘲笑うかのように、再び私の身体に絡み付いていた。
「そ、そんなっ・・・・・・!」
襲い掛かった勢いで私を壁に張り付けて、今度は四肢に加えて首や腹部にまで巻き付き、残り僅かな力を奪い始めてしまう。蔓の締め付けは先程よりも弱く、万全の状態なら抗いようがあったけど、もう力が入らない。あと一歩のところまで、来ているというのに。
「―――エクステンド、ギア!!」
ああ、そうだった。ごめんなさい時坂君、高幡先輩。すっかり忘れていた。
胸中で二人に謝りながら、前方を見やる。巨大化した鎖がダークデルフィニウムの頭部を捕え、弱り切った本体を力任せに引き摺り倒す。鎖で繋がれた先には、ボロボロになった時坂君と、重剣を構える高幡先輩の姿があった。
「シオ先輩、次に外したらぶん殴るからな!?」
「てめえこそ、また放したら張り倒すぞ!!」
きっとどちらも放さないし、外さない。二人のやり取りに安心し切った私は、瞼を閉じて脱力感に身を委ね、微睡みの世界へと身を投じた。
_______________________________________
「んん・・・・・・え?」
目を覚ました先には、暗闇だけが広がっていた。背中はごつごつとした硬い何かに当たっていて、ひどく寝心地が悪い。少なくともベッドの上ではない。
「え、えーと」
落ち着こう。冷静になって考えよう。記憶はしっかりとある。私はみんなと一緒に異界に飛び込んで、一緒にエルダーグリードと戦って、無事に現実世界へと帰って来れた。最後の方の記憶は曖昧だけど、この感覚は現実世界のそれだ。ここは異界じゃないし、きっと疲労のせいで眠りこけていたのだろう。
次第に暗闇に目が慣れ、周囲の様子が僅かに窺えるようになっていく。私は思い出したようにサイフォンを取り出し、現時刻を確認する。午後の21時半過ぎ、そして音声通話着信が十二件―――え、十二件?
「アキ先輩、何処ですか!?アキ先輩!」
「クソ、どうなってやがんだ。一体何処に行っちまったんだよ!」
着信件数に驚いていると、みんなの声が足元から聞こえてくる。よくよく見ると、私が眠っていた場所はひどく狭い。一辺が二メートル程度の正方形で、その先には何も無かった。これはどういう状況だろう。恐る恐る顔を覗かせようと身体を動かすと、途端にグラグラと正方形が揺れた。
「わわっ!?」
「い、今の声はっ・・・・・・遠藤さん、遠藤さんなの!?」
再び聞こえてきた、柊さんの声。縋るような思いでそーっと下方を覗き込むと、みんなの姿が小さく映った。深い安堵と共に、途方も無く嫌な予感がした。
「・・・・・・嘘」
単純な話だった。きっとまた、私だけが『ずれた』のだろう。異界に繋がるゲートが在ったのは、今の私の位置から見て十数メートル下。出現座標が変化してしまった私は、四角形のコンテナが数個積まれた上に帰って来た。最上段のコンテナの上部、異界最奥部と同じくして僅かな足場の上に、今の今まで私は眠っていた。要はそういうことだ。
「お、驚かせやがって。返事ぐらいしろってんだ。もう一時間近く探してたんだぜ」
「ご、ごめんなさい。じゃなくって!わ、私、どうやって下りればいいんですか?」
「なーんで遠藤先輩だけ出現座標がコロコロ変わるのさ。あの人馬鹿なの?」
「きっとそういった体質なのよ。興味深い点だわ、報告書にも記載しておかないと」
「あの、聞いてますかー?」
「アキ先輩、気合いです!」
「無茶を言わないで!?」
私の悲痛な叫び声だけが、廃工場の上部へ木霊していた。
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元凶は消え、掛け替えの無い弟分を蝕んでいたドラッグも消えた。伝えたかった想いは拳と共に、全てを叩き込んだ。一連の事件は収束に向かえど、シオとアキヒロにとっては終わりではなく始まり。あとは時間だけが解決してくれると信じて、シオは弟分の明日を願っていた。
そしてもう一つの心配事。異界から帰還してすぐ、アキの姿が見当たらないという受け入れ難い現実に直面したシオは、簡単な事情聴取から解放された後、その足で廃工場へと戻っていた。辿り着くまでは気が気でなかったものの、コンテナの上部で狼狽えるアキを目の当たりにして、ほっと胸を撫で下ろしたのが、つい今し方の出来事だった。
「お疲れさまでした、高幡君。どうやら収拾は付いたようですね」
「・・・・・・いつからそこにいた」
「つい先程。騒ぎを耳にして駆け付けた次第です。ただの野次馬ですよ」
「やれやれ。底知れない上に、神出鬼没か。お前、どこまで知ってんだ?」
「質問の意図が分かりかねますが」
「フン、よく言うぜ」
シオは隣に立った同窓と共に、前方から聞こえてくる会話に耳を傾ける。出遅れてしまったこともあったが、先程の死闘が夢であったかのように、五人の後輩が見せる下らないやり取りを、遠目から見守っていた。
「ねえ時坂君。表にクレーン車が停まっていたわ」
「お前は俺のアルバイト経験を勘違いし過ぎてる」
「提案提案。ダルマ落とし形式で、郁島がコンテナを一個ずつぶっ飛ばすってのはどう?」
「こんな超難易度のダルマ落とし聞いたことねえよ」
「コウ先輩、突っ込みどころはそこじゃないです」
「ど、どうやって下りれば・・・・・・う、うぅ?」
「え、遠藤さん?どうしたの、何処か痛むの?」
「い、いえ。そうじゃなくって・・・・・・ぐうぅ」
「お、おいおい。まさか、怪我でもしてんのか!?」
「その、お腹が空いて。思った以上に消耗してるみたいで」
「お前ふざけんなよ!?」
「ふざけてないです!みんなこそ真面目に考えて下さいよ!?」
「ほら郁島、一発やってみ」
「・・・・・・いける気がしてきた」
「えー?」
「もう119番しようぜ。これ俺達の手に負えねえって。言い訳は俺が適当に考えるからよ」
「仕方ないわね。ソラちゃんと四宮君の疲労も相当な物だし、みんなで考えましょう」
「あ、あの。できるだけ、急いで貰えませんか。も、もうそろそろ限界がっ」
「少しは我慢してくんない。僕らだって空腹と眠気が半端無いんだからさ」
「そそ、そうじゃなくって。その・・・・・・お手洗いに、行きたくて」
「柊、任せた」
「郁島、任せた」
「待ちなさい二人共」
「義を見てせざるは勇無きなりだよ。ユウキ君なだけに」
「いや無理無理!マジ無理だろ!?」
「僕らにどうしろって言うのさ!?」
「いいから早く119番して下さいよぉ!?」
ミツキが笑い、シオも釣られて笑みを浮かべる。シオはやれやれといった様子で歩き出し、この一年半の道のりと、ここ数日間の出会いを思い返す。
どうして気付かなかったのだろう。自分は多分、恵まれ過ぎている。帰るべき居場所には、こんな自分を家族と呼ぶ老夫婦がいる。口煩い風紀委員、泰然自若な剣道部の長、不思議と話が通じる空手部主将、隣で含み笑いをする腐れ縁と、彼女にいつも突っ掛かるクラスメイト。数え出せば切りが無い。そして―――こんな夜中に茶番劇を繰り広げる、五人のお人好しがいる。
「なあ北都」
「何ですか」
「学校の先輩ってのも、悪くねえもんだな」
「気付くのが遅過ぎです。高幡君は本当にバカですね」
「お前は何で俺にだけ容赦ねえんだ・・・・・・」
5月23日の、この日。追憶の焔が落としていた影は消え去り、代わりにまだ見ぬ明日を、照らしていた。