「ん・・・・・・」
微睡みの世界と現実を行ったり来たりしながら、重い瞼をそっと開く。初めに在ったのは、浮遊感。長い長い夢から覚めたかのような現実感の無さ。一方では帰宅時に扉を閉めた時に抱く、帰ってきたという実感と安堵。
「お目覚めのようですね」
「へ?」
そして『柔らかい』何か。無意識のうちに枕だと思っていたそれは妙に温かく、視界の上端から何者かの顔が覗き込んでくる。
「ほ、北都先輩?」
「フフ。おはようございます、遠藤さん」
慌てて半身を起こすと、私が置かれていた状況がすぐに理解できた。どうやら私は生徒会室の床に大の字で寝そべりながら、北都先輩の足の上に頭を置いていたらしい。生徒会長様の膝枕なんて畏れ多いにも程がある。というより、一体何がどうなっている。事態が上手く飲み込まない。
「ど、どうして北都先輩が、ここに?」
「私は生徒会長ですから、生徒会室にいるのは当然だと思いますが」
「あ、そっか・・・・・・じゃなくって!あの、その」
「それより遠藤さん、気分は如何ですか?中々目を覚まさないので、心配していたんですよ」
「・・・・・・ええっと」
北都先輩は事の経緯を簡単に教えてくれた。と言っても、小難しい話は一切無い。
空調機の異常が収まり、校内の温度も外気温と同程度にまで上昇したのがつい先程のこと。生じかけた混乱も鎮火し、漸く一息付けると生徒会室へ足を運んだ北都先輩は、豪快に寝そべる私を発見した。体温の低下により体調を崩したのかと思い、膝枕をして私の様子を窺っていたところ、何事も無かったように私が目を覚ました。ということだそうだ。
「最近は柊さん達と何かをされていたようですから、疲れがあったのかもしれませんね」
「え・・・・・・し、知っていたんですか?」
「詳細は存じていませんが、一応は。先日も貧血で倒れたと聞いていますし、余り無理をなさらない方がよいかと思いますよ」
何を聞いても生徒会長ですから、の一言で全てを済ませてしまう北都先輩。今日の騒ぎの真相に踏み入ろうとしないところを見ると、時坂君達のように異界云々の話に通じている訳ではないようだ。だが生徒会の長だからといって、一介の生徒である私の事情を把握しているのはどういうカラクリがあるのだろう。
「それにしても遠藤さん。随分と晴れやかな顔をされていますね」
「・・・・・・そう見えますか?」
「フフ、はい。以前に記念公園で聞かせて頂いたお話に、何か関係がおありですか?」
「それは・・・・・・あはは、そうですね。あるかもしれません」
勿論、記憶はある。北都先輩とどんな話をしたのか。そしてつい今し方、何が起きたのかも。随分と昔のように思えてしまう原因は定かでないにせよ、私は確かに帰って来た。もう寒気は無いし、私を取り囲んでいた漆黒の世界も消えた。
時坂君ら四人が言っていた『異界』とは一体何なのか、私は身を以って知った。それに今なら、『死人憑き』の名の真意を理解できる。死人憑きは死者ではなく、残された者の闇を見い出して憑り付く。あの声は私の心を投影し、私自身が生み出していた幻聴と幻影だったのだろう。だから、もう終わりだ。偽りは消えて、全てが終わって―――いや、待て待て。少し落ち着こう。何か大事なことを忘れているような気がする。
「あ゛。え、エリス先輩、アリサ先輩!?」
肝心なことに思い至ったところで、後方の廊下側からドタバタと喧騒が聞こえ、扉が勢いを付けて開かれる。
「アキ先輩!?」
全力で走って来たのだろう。ソラちゃんの額には大粒の汗が浮かんでおり、ヘアピンで留めていた筈の前髪が乱れ、肌に張り付いてしまっていた。
「そ、ソラちゃん?」
「アキせんぱあぁいっ!!」
「わわっ」
文字通りの弾丸タックル。北都先輩に倣いお嬢様座りをしていた私の腰元に、ソラちゃんが飛び込んでくる。手痛い攻撃に呻き声を上げてしまい、ソラちゃんは先輩らについて問い質す隙を中々見せてくれなかった。まるで子供のように泣きじゃくりながら私を抱くその姿に、私の目元にも薄らと、温かな感情を起因とする涙が浮かんだ。私は両目を拭って、静かに問い掛ける。
「ソラちゃん。テニス部の二人は、エリス先輩とアリサ先輩は?」
「安心して下さい、二人共ご無事です」
ソラちゃんの声に、漸く深い安堵を覚えた。深々と息を吐いた私とは裏腹に、今度はソラちゃんが私の身体をべたべたと触りながら聞いてくる。
「それより、アキ先輩はどうなんですか?怪我とか、痛い所とかありませんか?」
「うん、大丈夫。私は大丈夫だから」
「よかったっ・・・・・・本当に、よかった。わ、私、本当に」
「まったく、人騒がせにも程があるでしょ。おかげで寿命が縮んだ気がするよ。どうしてくれる訳、先輩」
「ユウ君もほら、ソラちゃんと一緒に」
「アンタはもう一回異界に行け」
白い目をしながら口を閉ざしたユウ君の隣には、疲れ果てた表情の時坂君と柊さんの姿もあった。気兼ねなく話ができる数少ない友人に対し、私は感情を上手く言葉にできず、口をパクつかせてしまっていた。
「時坂君と、柊さんも。その、何て言ったらいいか」
「まあなんだ、詳しい話は後にしようぜ。それより、お前にお客さんだ」
「お客さん?」
お客さんも、時坂君らの向こう側に立っていた。二人の先輩はゆっくりとした足取りで私の前方に歩み出て、無言で私の顔を見詰めた。
「・・・・・・あはは」
何て顔だろう。思わず笑ってしまった。
腫れぼったい目元は、積りに積もった物を涙に変えて出し尽くしたことを。真っ赤に染まった頬は、お互いに想いの内をぶつけ合ったことを。影や曇りの無い爽快な表情は私と同じで、前に進むことができたということを。二人の間に何があったのかは、その全てが物語っていた。
「アリサ先輩、エリス先輩。お二人にお願いがあります」
だから私も一緒だ。いや、私にとってはここからがスタート。後ろではなく、前を向いたというだけの話だ。前進するには、足を動かさなくてはならない。おそらく今日がその一歩目。私が杜宮に来てから、本当の意味での一歩目を私は踏み出す。それにはまず、進むべき道を決める必要がある。
分からないことは依然として山積みで、手探りをしながら私は探し求める。一人では自信がないから、存分にお世話になろう。時間は掛かるかもしれないけど、いつの日か、きっと。
「決心が付きました。私をテニス部に入れて貰えませんか」
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アキが入部の決意を示した頃、皆の輪から一歩下がり、アスカとミツキはやれやれといった表情で事の成り行きを見守っていた。
「お疲れさまでした、柊さん。そのご様子では、彼女のことを含め、全て把握されているようですね」
「大方は。この場で何が起こったのかも、察しがついています」
二つの異界は同種族の主によって高次元に繋がっていた。とりわけ最奥部はそれが顕著で、無事にリサとエリスを解放したアスカらが目の当たりにしたのは、別世界に潜んでいたもう一体の元凶に対し、たった一人で立ち向かうアキの姿だった。
「遠藤さんについても、術式が効かなかったことから予想はしていましたけど・・・・・・まさか一人で異界化を治めるなんて」
「死人憑き自体の脅威度は高くありませんから。遠藤さんの心と光が、死人憑きの幻影を打ち破った。そういうことでしょう」
グリードとしての単純な脅威度で言えば、死人憑きは精々C級上位。エルダーグリードの中でも底辺に分類される。最も厄介とされる『幻影』を打破しさえすれば、アスカは勿論他の三人の手にも負える低級グリードだった。
「でも今回ばかりは、失態が続きました。何を言われても返す言葉が見つかりません」
「そう気に病む必要はないと思いますよ。複数体の同種族が、全く同じ場所、同じタイミングで異界化を引き起こす・・・・・・そんな異例が起きるとすれば、国内でもこの杜宮ぐらいだと考えます」
「・・・・・・慰めになっていませんが」
「フフ。言っている私も、背筋が凍る思いです」
苦笑いを浮かべるミツキの表情とは裏腹に、事態の深刻さは異例の一言では済まされない。異界化の頻度一つ取っても只事ではない上に、過去に例を見ない特異な現象が生じ始めている。アスカが後手に回ってしまったのも無理はなく、犠牲者が出なかっただけでも幸いと言うべき結果だった。
しかしそれすらもが、これから杜宮を襲うであろう異変の一端。氷山の一角にすらなり得ないという事実に、誰一人として辿り着くことはできなかった。誰もが眼前の日常、杜宮学園女子テニス部の新たな一歩を、温かな目で見守っていた。
「今は素直に、一先ずの解決を喜んでもよいかと。エリカさんも入って来られては如何ですか?」
「わ、私は別に。余計なお世話というものですわ」
5月15日、金曜日。十年前に端を発した運命の歯車は、少しずつ加速し始めていた。
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同時刻、屋上。
喫煙率の低下、分煙や禁煙化の進行に伴い、喫煙者の居場所は減る。ひどく肩身が狭い思いで居場所を探し、探せど探せど見付からないケースも珍しくはない。それが学び舎ともなれば尚更で、下手な真似をすれば煙草一本で立場を危ぶまれてしまう。
「やれやれ。これでも一応、真っ直ぐに生きてきたつもりだったんだがな」
男性は不良生徒の如く、屋上の隅で紫煙を吐き散らす。着任以降、学園の敷地内で煙草に火を点けたことは数回あった。度々ストレスに苛まれては、普段の温厚な立ち振る舞いや仮面を捨て去り、己の欲求に逆らわずに煙草を咥える。原因は週初めに見舞われた一件にあった。
「仕方ない。フェンス代ぐらいは、『自腹』を切っておくか。テニス部の人数も増えそうだしな」
アスカらにとっての幸運は、知らぬ間に元凶の数が減っていたこと。複数体存在していたという真相に行き着いておきながらも、その実誰もが誤っている。現時点での正解者は、たったの二人しかいなかった。
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一連の事件が解決に至ってから、約二時間後。時刻が午後の19時を回った頃、事後処理を済ませたアスカとコウはお互いを労いながら帰路に着き、アスカの下宿先であるカフェに向かっていた。
「報告書、か。もうこんな時間だし、明日に回しちゃ駄目なのかよ」
「報告は即日が基本なの。幸い明日は休日だから、少し休んでからゆっくりまとめるわ」
「負担が大き過ぎる気もするけどな。結社ってのは人手不足っつーか、ブラックな組織なのか?」
「私が執行者だからよ。総合職って言った方が理解し易いかもしれないわね」
死人憑きが関わっていたとされる事件は無事に収束へ向かい、残すところは一連の取りまとめと資料作成、報告。定期的な報告は勿論、今回のような案件については詳細な資料作成が義務付けられていた。
執行者にとっての最優先は異界化を未然に防ぎ、或いは収拾すること。それに続く形で、間接的な『調査』や『研究』があった。組織である以上、本質的にそれらを行う研究開発部門は別に設けられており、末端で動く調査員も存在している。一方でアスカをはじめとした執行者は、その全てが求められる。今回の事件を含め、グリードの討伐は執行者としての務めの一つに過ぎないのだ。
「送ってくれてありがとう、時坂君。何ならコーヒーの一杯ぐらいご馳走するわよ」
「いや、また今度にしておくわ・・・・・・なあ、柊」
カフェ店内に続く扉の前で向き合う形で、コウが後ろ頭を掻きながら視線を泳がせる。その姿を見て、アスカは察した。
「駄目よ。聞かないようにしようって、みんなで約束したばかりでしょう」
「まあ、そうなんだけどよ」
死人憑きの幻影。それは当事者にしか幻影として映らない。より正確に言えば、死人憑きに『誰』の姿を重ねているのかは、本人しか分からない。対峙した人間の数だけ、死人憑きは偽りの仮面を被る。
死人憑きは、最も想い入れのある故人へと変貌する。将来を約束し合った恋人を亡くした者には、恋人の姿に。最愛の肉親を失った者には、肉親の声を。人として生きていく以上、別れは常に付き纏う。死人憑きと呼ばれる由来は一つではなく、寧ろ二つ目こそが、アスカらにとっては厄介極まりないものだった。
「柊は・・・・・・その、視えたんだよな」
「ええ、ハッキリとね。二回目になると、大して動じないものよ」
アスカも例外ではなく、その目に映っていた。かつての最愛を、アスカは躊躇うことなくエクセリオン・ハーツで斬り払った。誰よりも先んじて死人憑きをその手にかけ、息の根を止めたのもアスカ。無表情で剣を振るうアスカの胸中を、コウは窺い知ることができなかった。
そしてその逆も然り。アスカにとっても、コウが浮かべる表情の意味が、理解できないでいた。
「そうか。ならやっぱり、俺がおかしいんだよな」
「おかしい?」
「視えなかったんだ」
「・・・・・・時坂君、それは」
「俺には、誰も視えなかった。骨と薄皮の怪異にしか、俺には視えなかったんだ」
コウも覚悟は決めていた。幼い頃に亡くなった親戚、交通事故で失った同窓、友人の肉親。思い当たる人間は複数人いた。だから目の前に誰が顕れても、絶対に取り乱さないようにと、固い意志を貫こうとしていた。
だが異界の最奥部には、誰もいなかった。事前に同じ話を聞かされていたソラもユウキも、感情を押し殺して表に出さないよう努めていたものの、完全に隠し通せる程人間ができてはいない。アスカだってそう。自分だけが、『視えていない』という事態に戸惑ってしまっていた。
「報告書に書いといてくれ。死人憑きの討伐には、薄情者が適任らしいぜ」
「・・・・・・あなたは、違う」
「ハハ、ありがとよ。じゃあ、また来週な」
アスカが一言だけ捻り出した声に、コウが決まりの悪そうな顔で返す。重い足取りでその場を去って行くコウの背中を見詰めていたアスカは思わず駆け出し、彼の右腕を後ろから掴んだ。
「な、何だよ?」
「手伝って」
「は?」
「報告書。コーヒーと言わずに、ポークカレーを奢るわ」
余りにも意外なアスカの提案に、コウは一時躊躇いつつも承諾した。5月中旬の夜空に浮かぶ満月だけが、店内へ向かう二人の背中を見詰めていた。
~店内にて~
「なあ柊。よく自分でプロって言うけどさ、給料って貰えてるんだよな」
「当たり前でしょう」
「ぶっちゃけどれぐらい?」
「これぐらいかしら」
「一万円?」
「あなた私を馬鹿にしているの?」
「なら十万円?」
「ゼロが足りてないわ」
「・・・・・・年間でか」
「月間よ」
「お代わり食っていい?」
「どうぞ」
とりあえず第1部完とします。他作品についてもそろそろ区切りを付けたいですね。複数を手掛けている作者様って本当にすごいと思います。