東亰ザナドゥ ―秋晴れの空へ向かって―   作:ゆーゆ

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第1部
4月23日 新しい日々


 2015年、4月23日。午後16時過ぎの、夕刻の始まり。

 

「んん・・・・・・」

 

 プーパー、プーパー。

 窓越しに遠方から聞こえてくる、特徴的な二音階の繰り返し。思わず胸の内で「とーふー、とーふー」と口ずさんでしまう。

 こうして聞いてみれば、確かに『豆腐』と聞こえなくもない。誰が初めに考えたのだろう。

 少しずつラッパ音が近付いてくるに連れて眠気が晴れていき、私は大きな欠伸をしながら目元を擦り、半身を起こした。

 

「ふわあぁ」

 

 見慣れない部屋。新品の家具ならではの匂い。馴染みの無い空気。

 引っ越して来てからまだ三日目だからか、夢から覚めると不思議な感覚にとらわれる。それに私が本当の意味で一人暮らしを始めたのは、今日。何もかもが新鮮味に満ちている。

 あっという間の三日間だった。初日からお母さんと一緒に荷解きで汗を流し、必要最低限の生活用品を探して回った。引っ越しに関わる諸手続きは後々の為になるからと考え、一連の手順を頭に入れた。家庭ゴミの収集日一覧表は、真新しい冷蔵庫の扉へ貼り付けた。

 翌日には合間を縫って学園へ挨拶に出向き、夜はお母さんの実家へ。弱り切ったお母さんを置いて、私だけがこのアパートへ戻って来た。それが一人暮らしの始まり。

 いつの間にか転寝をしてしまっていたのは、一挙にして訪れた変化の始まりに、疲れがあったのかもしれない。明日からが本番だというのに、前途遼遠だ。

 

「あっ」

 

 窓を開けてこじんまりとしたベランダに立ち、僅かに夕映えが影を落とす裏庭を見下ろす。

 このアパートは南側が道路に面している。車の通りが多い分、少しだけ走行音が気になるけど、陽当たりや風通しは良い方なのだろう。これ以上を求めるのは贅沢というものだ。

 右隣に視線を移すと、朝方に干された洗濯物が、今も風に揺れていた。

 

「タマキさんは・・・・・・帰ってないか」

 

 一回り年の離れたお母さんの妹、叔母のタマキさん。

 最近は珍しく多忙な日々が続いていると言っていたか。絵描きを目指す身としては、嬉しい悲鳴なのかもしれない。

 考えてみれば、こっちに来てからは簡単な挨拶をしただけで、未だ真面に話すらできていなかった。早いところお礼も言いたいし、今夜ぐらいは頃合を見計らって、私から訪ねよう。

 室内に戻り、実家から持ってきたデジタル式の目覚まし時計を見ると、午後の16時20分を示していた。

 自由に使える時間はまだあるけど、生活に入り用な物は大体買い揃えたし、買い物へ出る必要は無い。明日に向けた用意も一通り済ませてあるから、夜にまた確認をしておけばいい。

 なら今日は、このまま部屋で―――いや、駄目だ。そうじゃない。

 

(・・・・・・いつから、かな)

 

 本当に、いつからだろう。人見知りなんて、少し前までは意味合いすら曖昧だったのに。

 独りでいる時の方が、ずっと楽に―――いやいや、だから違うってば。

 

「よしっ」

 

 最近はジッとしていると、良くないことばかり考えてしまう。

 心機一転の新生活らしく、とりあえず外へ出よう。自転車はあるし、遠出をしなければ日が暮れる前には帰って来れる。

 それに、訪ねたい『店』もある。バスの中から遠目に見えただけだけど、場所は覚えている。ほとんど一本道の筈だ。

 そうと決まれば善は急げ。私は洗面所の鏡と睨めっこをして、若干寝癖が付いたショートヘアを整えてから、綺麗に収納されたばかりのクローゼットを開けた。

 

「うーん」

 

 ・・・・・・どうせなら、少しでも着慣れておいた方がいいかもしれない。

 そう考え、私は森宮学園指定の制服へ手を伸ばした。

 

_____________________________________

 

 駐輪場はアパートの南側にある駐車場の隣。一旦『杜宮商店街』と呼ばれているらしい賑やかな通りに出てから、道路側へぐるりと回る必要がある。

 一階へ繋がる階段を下っていると、商店街の方角からこちらへ向かって歩いて来る、一人の女の子の姿が目に映った。

 そっと、後ろ歩きで階段を上り直す。うん、私は何をしているのだろう。馬鹿なのか。

 

(・・・・・・何年生かな)

 

 凛々しくも初々しい風貌で、髪は私よりも少し短め。可愛らしい女の子だった。あれは私と同じ、森宮学園の制服だ。外見から察するに、一年生か二年生だろうか。

 女の子は私が借りている部屋の真下、101号室の前で立ち止まり、「はぁ」と大きな溜め息を一つ。数秒間俯いてから扉を開けて、何処となく重い足取りで部屋に入っていった。

 どうしたのだろう。元気溌剌そうな外見とは裏腹に、あからさまに暗い影を落としていた。

 まあ考えても仕方ないし、一人かくれんぼは終わりにしよう。私は無駄に足音を潜めて、駐輪場へ向かった。

 

______________________________________

 

 大きな通り沿いに、北東へ自転車を走らせる。

 この街には本当に沢山の顔がある。自転車はまだしも、バスに乗っていると周囲の風景ががらりと変わる瞬間があった。

 私はまだ極一部のそれしか知らないけど、駅前の大広場一つとっても、近代的な街並みに圧倒された。故郷の伏島と比べれば、何もかもが大違いだ。

 厳密に言えば、この杜宮市こそが私の『生まれ故郷』。ではあるのだけど、小さい頃の記憶は少ない。物心が付く前の話だ。お母さんの実家も、多分二回しか訪ねたことがない。

 何よりあの『震災』が起こって以降、この街は大きく姿を変えた筈だ。たとえ記憶が残っていたとしても、きっと郷愁を感じるまでには至らない。

 でも、お母さんは違う。お母さんは人生の大半をここで過ごしている。どう感じているのだろう。実家に戻って来れて、少しは気が楽になったのだろうか。

 

(あった!)

 

 考え込みながら自転車のペダルを漕いでいると、約15分の道のりの先に、目的地はあった。

 ここから更に北へ向かい踏切を超えれば、確か『レンガ小路』と呼ばれる通りがある。もしかしたらタマキさんもいるかもしれないけど、今日はここまでだ。

 駐車場の隅に自転車を停めて、周囲を見渡してから頭上の看板を見上げる。

 

「『ブーランジェリー・モリミィ』・・・・・・」

 

 モリミィ。十中八九『杜宮市』から取った店名なのだろう。近付くに連れて、パンが焼ける匂いが鼻に入って来る。

 私にとっては、10年前から当たり前にあった物。両親の匂い。パンが焼き上がる匂いで、私達の朝は始まった。

 居心地の良さと―――胸を締め付けるような寂しさを、半分ずつ抱いた。

 恐る恐る店内を覗こうとすると、ガラス張りの扉に貼られたA4サイズの紙に目が止まった。

 アルバイト募集中。時間帯と時給は要相談。内容はレジ打ちや簡単なパンの製造作業。年齢や性別、経験の有無を問わない。大まかにはそのような内容だった。

 

「・・・・・・うーん」

 

 いずれにせよ、今は内容を覚えておくに留めよう。焦る必要は無い。

 私は少しだけ胸を弾ませて、店内へ続く扉を開けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 入るやいなや、レジカウンターに立つ男性の声が耳に入る。ちら見をすると、随分と若い男性だった。私と同年代か少し上ぐらいか。

 店内の広さは個人経営としては中の上程度、おそらくオールスクラッチだろう。カウンターの向こう側に映る工房も含めて、それなりの規模がある。

 品数が少ないのは時間帯の影響だ。ざっと見渡した限り、外観から想像していた通りの雰囲気や品揃えだった。うんうん、こういう明るくて気取らない売り場は私の好みでもある。

 客層も自然と理解できた。元々ベーカリーは女性客が主だけど、この店はきっとその傾向が顕著だ。整った顔立ちの男性がレジに立っているのも、それが理由に違いない。

 

(どれにしよっかなぁ)

 

 余りジロジロと見るのは不自然だし、生活費も極力抑えたいから、今日は一つだけ。・・・・・・というのは流石に気後れするので、ニつ。

 手作りならではの活きが良いクロワッサンと、ブルーベリーとクリームチーズが乗ったデニッシュを一つずつ。手早くトレーに取ってから、私はレジへ向かった。

 

「ありがとうございます」

 

 男性は慣れた手付きで打ち込みと袋詰めを始めた。

 若干声のトーンがあれだけど、これぐらい落ち着いていた方が女性ウケもいいのかもしれない。私にはよく分からない世界だ。

 

「クロワッサンが一点とブルーベリーデニッシュが一点で、計539円になります」

「あ、はい」

「それと、一つ聞いてもいいか」

「はい?」

「明日からB組に転入してくる女子生徒って、君だよな?」

 

 暫しの静寂。そんな物に収まる筈もなく。

 私の全てが、止まった。

 

「・・・・・・っ」

「・・・・・・」

「ぇ・・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・ぁぅ」

 

 うん、落ち着こう。まずは落ち着いて呼吸を再開しよう。死ぬ。

 制服を着ているのだから、私が杜宮学園の生徒だというのは見れば分かる。多分彼もそうなのだろう。思っていた通りに同年代、杜宮学園の男子生徒だった。よし、ここまではいい。

 でも『転入生』って何。何で分かるの。色々とおかしいでしょ。今の私から転入生というキーワードを捻り出す要素が何処にあるの。

 ワケが分からない。この人は何だ。少なくとも私は知らない。超能力者か何かか。

 

「あー、悪い。流石にいきなり過ぎたか。実は―――って、ちょ、おい?」

 

 キッチリ539円をカウンターに置き、パンを受け取ってから、私は早足に店内を後にした。

 自転車に駆け寄ってパンが入った袋をカゴに放り、呼吸を整えていると、後方から再び声を掛けられる。

 

「なあ、ちょっと待ってくれ!」

 

 取り乱した様子の男子が、エプロン姿のまま後を追うように店外へ飛び出していた。

 思わず「ひっ」と小さな悲鳴を上げて後ずさりをしてしまったが、思うように身体が動いてくれなかった。

 

「な、なな、何ですかっ」

「驚かせちまって悪かったって。その、昨日の午後だったか。親御さんと一緒に、杜宮学園へ来てただろ?」

「え?」

 

 男子が言ったように、私は何度か杜宮学園へ足を運んだことがある。

 転入試験は勿論、学園側に案内されて見学にも来たし、昨日にはお母さんと一緒に訪ねている。その際には教頭先生と、クラス担任となる先生に立ち会って貰った。

 

「遠目にだけど、そん時に顔をちらっと見てんだ。それに転入生が来るって話は、トワ姉から聞かされてたからな」

「・・・・・・とわねえ?」

「あっ。いや違った、九重先生。担任の。B組に入るんだろ?」

「そう・・・・・・ですけど」

 

 意図せずして、声が尻すぼみになっていく。

 男子はそんな私の様子を見て、バツが悪そうに後ろ頭を掻きながら、困り顔を浮かべた。

 何となく事情は察したけど、やはり突然過ぎてどう振る舞えばいいかが分からない。結局私も、同じ表情を浮かべることしかできないでいた。

 

「えーとだな。自己紹介ぐらい、してもいいか」

「あっ・・・・・・ど、どうぞ」

 

 何とかそう返すと、男子はほっと胸を撫で下ろした様子で言った。

 

「同じクラスの時坂洸だ。あー、君は?」

「と、遠藤亜希、です。(とお)(ふじ)と書いて、トオドウ」

「トオドウ・・・・・・間違えてエンドウって呼ばれることないか?」

「トオドウですっ」

 

 もう何度目になるか分からない、私にとってお決まりのやり取り。その分、自然と語気が強まってしまう。

 すると男子―――時坂君は小さく笑ってから、踵を返してモリミィへと駆け出した。

 

「悪い、まだバイト中なんだ。また明日な」

 

 私は詰まってしまった声の代わりに、深々と頭を下げて時坂君に応えた。

 

_____________________________________

 

 午後19時過ぎ。自室の201号室。

 モリミィから買ってきたパンは明日の朝食へ回すことに決めた後、私は市役所で貰った杜宮市に関するパンフレットを読み耽っていた。

 杜宮市の人口は約40万人。駅近郊に代表される商業地区の他、昔ながらの商店街や明治以来のレンガ作りの通りもある。市の北西には国防軍の防災基地がある一方で、名湯として知られる温泉地や自然公園も存在する。

 街と自然、発展と伝統、喧騒と静けさ。様々な二面性を併せ持つ懐の深さが、杜宮市最大の特徴と言えるのかもしれない。そんな表現で、紹介文は締め括られていた。

 

「二面性かぁ・・・・・・わわっ」

 

 ピンポーン。

 初めて耳にしたドアチャイムで、身体がビクリと反応する。

 直後にコンコンと玄関のドアをノックする音。更に不安を駆り立てられたところで、ドアの向こう側から発せられた声に、深い安堵を覚えた。

 私は鍵を開錠してドアを開けてから、大きく溜め息を付いて言った。

 

「た、タマキさん・・・・・・驚かさないで下さい」

「え?いや、チャイムは鳴らしたでしょ。変ね、聞こえなかった?」

 

 声の正体は叔母。お洒落なベレー帽を被った、タマキさんの姿があった。

 勝手に驚いたのはこちらなのだから、責める気も起きない。モニター付きのインターホンなんかがあればいいのだろうけど、やはり贅沢は言っていられない。

 タマキさんは右手に買い物袋らしき物をぶら下げていて、既に玄関には食欲を誘う良い匂いが漂い始めていた。

 

「晩御飯、もう食べちゃった?」

「いえ、まだですよ。これから準備しようと思ってました」

「ならちょうどいいわね。色々貰ってきたから、今夜は一緒に食べよ。お邪魔してもいい?」

 

 帰って来てから直で訪ねてくれたのだろう。タマキさんは一旦私に袋を預けて、隣の自室へと向かった。中身を覗き込むとコロッケや肉団子、オニギリやパックに入ったサラダなどが入っていた。

 『貰ってきた』という言葉が気にはなったけど、私は適当な皿を二人分選んで盛り付けを始めた。それが終わった頃に、ラフな格好へ着替えたタマキさんを部屋へ招き入れた。

 

「あ、出してくれてたんだ。まだ温かいでしょ」

「はい。こんな感じでいいですか?」

「何だっていいわよ。ほら、座って座って」

 

 促されて椅子へ座ると、タマキさんは持ち込んだ茶色の小瓶の詮を開けて、テーブルへ置いた。瓶の側面に貼られたラベルには『ポーランドビール』と書いてあった。

 

「さてと。これはアタシからの転入と引っ越し祝いってことで。迷惑じゃなかった?」

「そ、そんな。勿体無いぐらいです」

「あはは。じゃあカンパーイ」

 

 ビール瓶とお茶が入ったグラスを鳴らして、ささやかな晩餐が始まった。

 何だか言われるがままに事が進んでしまっている気がする。今晩はこちらから訪ねてお礼を言おうと思っていたのに。手を付けるよりも前に、言うべきことは言っておきたかった。

 

「その、タマキさん。色々とありがとうございます。部屋を紹介してくれたり、相談に乗って貰ったり・・・・・・すごく助かりました」

「いいわよそんなの。アキはこれからが大変なんだから、多少甘えるぐらいでいいの。でも、そうね。商店街のみんなには、アキからもお礼を言っておきな」

「商店街の、みんな?」

「これ、表通りのお店から貰ってきたのよ。アキの話をしたら、半ば強引に色々持たせてくれてね。基本的に親切な人が多くってさ、あの商店街」

 

 まだ温かいコロッケを頬張りながら、タマキさんは教えてくれた。

 精肉店、惣菜店、蕎麦屋。蕎麦屋さんがオニギリを持たせてくれたという事実に首を傾げてしまったけど、この辺では良い意味で常識が通用しないことが多々あるそうだ。

 ポーランド産のビールは別として、初めは安っぽく映った品々が、豪勢なご馳走のように見えてくる。目頭が熱くなる想いだった。

 

「明日にでも、お礼を言いに行ってきます」

「ん」

 

 沢山の親切心を噛み締めながら、私とタマキさんは積りに積もった積もる話に興じ始めた。

 タマキさんとは昔から付き合いがある。私にとっては頼れるお姉さんといった感じだ。

 外見や振る舞いは勿論、我が道を行くというか、確固たる自分を持っているというか。以前から憧れのようなものを抱いていた。外国産のビールを嗜む姿も、何となく様になっている。カッコいい。

 

「今日も遅かったですね。似顔絵描きって、そんなに人気なんですか?」

「ああ、今日は違うの。コマキ姉の様子も気になったから、早めに切り上げて実家に顔を出してたのよ」

「え・・・・・・お母さん、ですか?」

「アキの前じゃ、話し辛いこともあると思って」

 

 タマキさんは少しだけ表情を強張らせて、言った。

 

「少し、時間が掛かりそうね」

「・・・・・・はい」

 

 時間が解決してくれるとは限らない。でも今は時間が必要だ。

 その為にも、私は今日から一人。何事も自分一人で―――

 

「こらこら」

「へ?」

 

 思考を遮るように、タマキさんの右手が私の頭に置かれた。

 

「辛いのは、アキだって同じでしょ。我慢なんてしなくていいの。コマキ姉の代わりに、アタシがいるんだから・・・・・・女子高生らしく、新生活を満喫すること。分かった?」

「タマキさん・・・・・・」

「とは言っても、少し頼りないかもしれないけどね。アタシはフラフラしてばかりだし」

「そんなこと、ないですよ。タマキさんは素敵な人です」

「やめてよ。もしアタシが母親だったら、アタシって絶対に娘にはしたくないタイプ」

 

 タマキさんが苦笑いをして、私は笑った。少しだけ大袈裟に笑った。

 今はただ、誰かに甘えたかった。

 

______________________________________

 

 食べ切れなかったご馳走を冷蔵庫へ入れた後、私は洗い物を、タマキさんは二本目のポーランドビールの詮を開けた。

 私は初めて知ったけど、ポーランドは世界的に見てもビール大国として有名で、タマキさんは最近ドハマりしたそうだ。

 その火付け役となったのが、三つ隣の部屋に住む留学生。アイリさんという女性と親しくなったことがキッカケらしい。

 

「前にも話したけど、このアパートの住民はほとんどが女性なのよ。OLとか学生とか。親しくしてる人も多いから、今度紹介してあげる・・・・・・そういえば、杜宮学園の子も今月の初めに入ったわね」

「あっ。私、夕方ぐらいに見ました。ちょうど下の部屋ですよね」

「そうそう。もう挨拶はした?」

「いえ、隠れ・・・・・・コホン。遠目に見掛けただけなので、まだ」

 

 誤魔化しながら洗い物で濡れた手を拭いて、テーブルの上にあるテレビのリモコンを取る。

 22インチのディスプレイには、明日の関東圏の天気予報図が映った。当たり前だけど、伏島は範囲外。こういった瞬間に、自分が今東亰にいるのだと思い知らされる。

 

「よかったわね。登校初日が晴れそうで」

「はい、幸先がいいです」

 

 何とはなしに部屋の南側へ向かい、カーテンを開けて窓の鍵を外した。

 まだ4月下旬。窓を開けると肌寒い外気が流れ込むと共に、新鮮な空気で肺が満たされていく。

 目に映るのは、車が行き来する道路、電柱の街灯、街路樹。何の変哲も無い夜景だけど、どういう訳か温かい。寒いのに、温かかった。

 

「いい街よ、杜宮は」

 

 振り返ると、瓶を右手に持ったタマキさんが立っていた。

 二本目も底が近い。顔が赤らんでいるのは、酔いが回ってきているから。普段とは違う少し緩んだその笑顔に釣られて、私も笑みを浮かべた。

 

「忘れられない二年間に、なるといいわね」

「・・・・・・フフ、ですね」

 

 私の小さな返事が、4月23日の夜に溶け込んでいった。

 

 


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