器物転生ときどき憑依【チラシの裏】   作:器物転生

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原作名:めだかボックス
原作者:西尾維新


ここから番外
【転生】検体名『被虐思考』【めだかボックス】


 ただ一度、愛されたかった。私を愛して欲しかった。女の子に私を愛して欲しかった。そう願い続けていたけれど、その願いが叶うことはなかった。願いを叶えることなく、私は死んでしまった。女の子に愛されることなく、私の人生は終わってしまった。いつか願いが叶うなんて事もなく、私は死んでしまった。いつか私を愛してくれる人が現れると思っていたけれど、そんな人はいなかった。

 私は死んでしまった。寒さで死んでしまった。灯油を買う金がなくて死んでしまった。私は凍死したんだ。窓のない暗い部屋で、誰にも知られることなく、誰にも見られることなく、私の体は凍りついた。怖い、寒くて――怖い。何よりも、ただの一度も愛される事なく死んでしまった事が怖ろしい。愛される事だけを願って生きてきたのに、その願いが叶うことはなかった。ただの一度も、愛される事はなかった。

 私の人生は無意味だった。無価値だった。愛されなければ何の意味もない。入学したことも勉強したことも就職したことも給料をもらったことも、何一つ意味がなかった。私は愛されたかった。それだけで、生きる事に意味はなかった。誰かに愛されるまで死にたくなかった。その思いだけを頼りに生きていた。愛されたのならば死んでもよかった。愛される以前の人生に意味はなく、愛された後の人生にも意味はない。ただ一度、愛されるために私は生まれた。誰かに愛されて、愛され続けたかった。

 でも、それは何よりも難しい。他人に愛されるのは難しい。私にとって、とても難しい。私は人の愛し方が分からない。どうすれば他人に愛して貰えるのか分からない。女の子に愛して貰える自分が想像できない。そもそも私は、自分が愛されるとは思っていなかった。私は出来損ないだ。優秀な家族の中で、一人だけ失敗作だった。他人に誇れる長所なんて存在しない。他人に愛される訳がない。出来損ないの私を誰かが愛してくれる訳はない。私は生きるべきではなかった……それでも誰にも愛されることなく、死んでいくのは嫌だった。だから私は生きていた。

 でも、死んでしまった。やっぱり死んでしまった。誰にも愛されることなく死んでしまった。私は失敗したんだ。だって私は失敗作だから。こんな私を誰かが愛してくれる訳がない。それでも愛して欲しかった。もしも男の子ではなく女の子として産まれていたら、私は愛して貰えたのかも知れない。女の子ならば愛して貰えたのかも知れない。だって股を開けば、女の子は簡単に愛して貰えるのだから。男の子が股を開けば変態だ。女の子というだけで価値がある。男の子がレイプすれば犯罪だけれど、女の子のレイプならば許してもらえる。むしろ女の子ならば、男の子は喜んでレイプされるに違いない。

 

 私を愛して欲しい。愛して欲しかった。私は女の子になりたかった。そう願っていた影響なのかも知れない。『私』は女の子へ産まれ変わっていた。いいや、「生」まれ変わっていた。どうやら、人生を遣り直したのではなく、全く別の人生が始まったようだ。その事に気付いたのは両親に育児放棄されて、別の病院へ移された後だった。その病院の名前は箱庭病院。この世界は「めだかボックス」らしい。

 この世界において「異常(アブノーマル)」と判断された『私』は調査を受ける。両親が育児放棄したのも『私』の持つ異常が原因とか何とか……せっかく女の子が産まれたのに、その喜びを私は奪ってしまったのか。それは悪い事をした。それで『私』の異常は何だったのかというと、「他人から愛情を奪うアブノーマル」と判定された。両親は『私』に愛情を奪われたために、『私』を愛せなくなったらしい。

 愛されたいと願ったために愛情を奪い、その結果『私』は愛されない。ひどいスキルだ。しかもスキルの発動を制御できない。『私』は周囲の人々から無差別に愛情を奪い、その結果『私』は愛されない。愛情を奪われた人々は無関心になり、まるで『私』を物のように扱う。『私』だけではなく、他の人々にも被害は及んだ。なぜならば『私』は、他人に向けられた愛情も奪い取るからだ。愛情を奪われた人々は、他人に対して無関心になる。それだけならば良かったものの、他人に対して無関心になった人々は、相手を物のように扱う。その結果、病院内で暴力事件が多発した。虐待ともいう。

 けれども『私』は満たされていた。奪った愛情を感じ取れるからだ。これは『私』らしいスキルだった。これが『私』の望んだスキルなのかも知れない。顔を殴られても腹を蹴られても、『私』は相手の愛情を感じ取れる。本当は他人が『私』を愛していると分かる。そんな他人が『私』に暴力を振るうのは、『私』が愛情を奪っているからだ。他人が暴力を振るうのは私の責任だった。ならば愛してあげなければならない。他人の愛に応えなければならない。だって愛情は、『私』が何よりも望んだ物なのだから。

 『私』はヨロヨロと立ち上がって、他人へ近付く。殴られた顔がジンジンと痛んで、目を開けていられない。蹴られた腹が痛くて、足が震えた。それでも歩みを止めてはならない。歩き続けなければならない。他人を愛さなければならない。『私』は病院服を片手で摘み、肌が見えるように持ち上げる。白いパンツと平たい胸が露わになった。『私』は他人の手に優しく触れ、『私』の下腹部へ誘導する。他人のズボンを下ろして、立ち上がっている棒の先端を口に含んだ。すると『私』が愛情を奪った他人は、『私』の髪を グ シ ャ リ と乱暴に掴み、前後に動かし始めた。

 

 『私』を愛して欲しい。私を愛して欲しかった。やっと『私』は愛してもらえた。でも、足りない。まだ足りない。愛で満たされているはずなのに、まだ心は乾いている。もっと愛が欲しい。もっと『私』を愛して欲しい。これでは満たされない。もっともっともっともっと『私』を愛して欲しい。だから『私』は病院の中を歩き回る。手当たり次第に男性を物陰へ引っ張り込んで、『私』を愛してもらった。口の端から白い液体が零れる。無理に突っ込まれた下腹部は裂けて、血が垂れていた。こんなに汚い状態だと愛してもらう他人に失礼だから、『私』は体を洗いに行く。

 

「ちょっと如何したの?」

「ちょっと愛してもらいましたぁ」

 

 病院の廊下をコソコソと歩いていた『私』を見つけたのは、診察担当の医者だった。上から白い液体を、下から赤い液体を零す『私』を見て、医者は不審に思う。愛情を奪っている影響で、『私』の様子を見ても驚きはしなかった。小学生のように身長の低い女性だ。女の子は男の子と違って愛してもらえる。だから『私』が愛す必要はない。そう思って通り過ぎようとした『私』の肩を、女性は掴んで止めた。そんな事をされると、折れた骨に響いて痛い。

 他人に対する愛情を奪われているはずなのに、医者は『私』に関心を持った。きっと医者としての義務や人としての倫理に従って半ば機械的に動いているのだろう。体に染み込んだルーチンが、医者を動かしている。医者として設定された優しいテンプレートを自身に貼り付けている……ああ、なんて気持ち悪い。医者から奪い取った愛情を吐き出したくなる。ネームプレートを見ると、人吉瞳と刻まれていた。異常(アブノーマル)でも過負荷(マイナス)でもない普通(ノーマル)な人吉善吉、その母親だ。

 ミニ女医に捕獲され、『私』は連行される。浴室で体を洗われ、清潔になると怪我を治療された。ギプスやテープを使うことなく、針と糸を使って治された。いいや、これは治されたのではなく、直されたと言うべきだろう。激しく動くと糸が千切れるので、一週間は大人しくしているように言われた。まあ、あの怪我が一週間で治るのならば早くて助かる。お礼を言って去ろうとすると、回り込まれて扉の前を塞がれた。

 

「まだ、その怪我を誰にされたのか聞いてないわ」

「誰にされたのかなんて覚えていませんよぅ。たくさんの人にされましたからぁ」

 

 頭痛を抑えるように、ミニ女医は頭を抑える。たくさんの人とは患者に限られず、職員も含む。むしろ職員がメインだ。その事に気付いたのだろう。この病院は『私』のスキルによって、暴行事件が多発している。大怪我を負った『私』の様子から、『私』も被害者の一人だと勘違いしたのか。この件を解決する方法として、この病院を『私』が出て行けば暴行事件は収まるに違いない。しかし、黒神めだかですら強引に脱走できなかった病院だ。『私』が脱出するなんて無理だろう。そもそも――、

 

「暴行事件について病院側は、『私』が原因だと気付いているんですかぁ?」

「貴方のアブノーマルは職員に通知されているわ」

 

「分かっていながら見逃しているんですかぁ」

「ごめんなさいね。そもそも、この施設は治療を目的としているはずなのに……」

 

「いいえ、それは構わないんですぅ。『私』の場合は、『私』のアブノーマルが引き起こした結果なんですからぁ。でも、他の人には悪い事をしたと思っていますぅ」

「小さいのに偉いわね。そんなに傷付けられても、ちゃんと他人の事を思っていられるなんて……」

 

「気持ち悪いですかぁ?」

「え?」

 

 ふと思った。異常(アブノーマル)と判定されたけれど、これは本当に異常なのだろうか。もしかすると異常では無いのかも知れない。愛を奪うという性質はプラスではなくマイナスだ。この時期は過負荷(マイナス)について、詳しく分かっていなかったはずだろう。劣悪な環境によって受けるストレスから発生する過負荷。そのスキルは先天的ではなく後天的に身に付き、強大かつ制御不能な能力が多い。

 『私』の場合は生まれた頃から先天的にスキルを持っていた。だから両親に捨てられた。でも、前世の事を考えると先天的ではなく、後天的なスキルと考えられる。前世の私は――『私』の前世は――他人に愛されたいと願った。その願いは『私』の精神に過負荷をかけて、他人から愛情を奪うスキルを発現させている。前世の事なのだから無かった事にしても良いはずだ。それでも『私』は再び愛を求めた。

 

「『私』はアブノーマルではなく、マイナスなのかも知れませんよぉ」

「アブノーマルではなくマイナス?」

 

「外部から受けるストレスによって、発現するスキルの種類ですぅ」

「マイナスなんて聞いた事もないわ」

 

「『私』は気持ち悪いですかぁ?」

「え?」

 

「『私』を気持ち悪いと感じますかぁ? 正直に教えてくださいなぁ」

「……そうね。初めて人が殺される所を見た時のような気分になるわ」

 

「なるほどぉ。では、やはり『私』はマイナスでしょうねぇ」

「そのマイナスって何なの? 貴方は何を知っているの?」

 

 ミニ女医は『私』の両肩を掴んだ。『私』が話すまで逃がさない構えだ。ミニ女医は『私』の肩を強く握り締める。医者としてのルーチンから外れた行動が、ミニ女医の本性を剥き出しにした。しかし『私』が痛みで顔を歪めると、ミニ女医は手を離す。そうしてミニ女医は再び医者としてのルーチンを取り戻した。一時的に増えていた愛情は、医者としてのルーチンへ戻ると減る。『私』としては本性を見せてくれると愛情を感じ盗ることができるから嬉しいのだけれど……まあ、ミニ女医は女性だから如何でもいいか。

 ところでマイナスの話だ。ミニ女医の反応から考えて、やはり過負荷という分類は存在しないのだろう。どうしよう。過負荷について話してもいいのかな……まあ、いいか。もしかすると過負荷を抑える方法を、ミニ女医が見つけてくれるかも知れない。そうすれば『私』も、自身の過負荷を制御できるようになる。過負荷という分類について教えても、『私』に損はない。

 

「先天的なアブノーマルと違って、マイナスは後天的に発現するスキルですぅ。死ぬほど辛い目に会った精神から発現するスキルなので、常に暴走状態、強大かつ制御不能だと言われていますぅ。私の場合は『親に愛されなかった』という経験から、愛を奪う過負荷が生まれましたぁ」

 

 おそらく、親に捨てられた程度で過負荷は生まれない。それは原因の一つでしかない。過負荷とは死ぬほどの経験が重なってから、初めて発現するものだ。そう考えると、『私』が過負荷を得たことは不思議だった。どちらの理由を話しても説得力に欠けるのならば、前世の事は秘密にしたい。それと、ミニ女医の反応から察するに、最低最悪な過負荷である球磨川禊には、まだ会っていないのだろう。

 ミニ女医との話が終わると『私』は大部屋の共同病室に戻り、ベッドで休む。夜になるとミニ女医が病室を訪れて、『私』を見守ってくれた。その機械的な親切の部分が無ければ、文句は無いのだけれど……きっとルーチン化は、『私』の持つ過負荷に対応するための手段なのだろう。やがて『私』は大部屋から個室へ移される。するとミニ女医は来なくなった。その代わりとして昼に会った人々が『私』の上に乗り、ベッドをギシギシと軋ませる。

 

「『だって世界には目標なんてなくて、人生には目標なんてないんだから』」

 

 そう聞こえた声に顔を上げると、大きなヌイグルミを持った男の子がいた。過負荷代表の球磨川禊だろう。その近くには女の子がいる。あっちは黒神めだかなのだろうか……よく分からない。球磨川禊ならば、そのカラフルな毛虫が大行進しているような気色悪い過負荷オーラによって一目で分かる。しかし女の子からは何も感じない。少なくとも過負荷の不気味さは感じない。

 まあ、あっちは如何でもいい。それよりも問題なのは診察室へ向かっている球磨川禊だ。お前は『私』にとって、聞き捨てならないことを言った。たしかに、特別(スペシャル)という特権階級が存在する、この世界は最低だ。一点特化型のアブノーマルは兎も角、何のスキルも持っていないノーマルでも特権階級に奉仕する奴隷階級だし、後天的に発現するマイナスなんて実験動物扱いだ。成人できる過負荷なんて数少ないし、モルモット以外の就職先は見つからない。それでも過負荷にだって生きる意味はある。

 

「人は愛されるために生きているんですぅ。たしかに愛されなければ人生に意味はありませんよぅ。ただの一度も愛されることなく死んだ人生なんて意味がないのですぅ。無駄死にですぅ。なぜならば、愛し合って子供を作ることが、人の役目なのですからぁ。愛されずに死んだ者は不幸ですぅ。でも、愛されて死んだ者は幸福なんですよぅ」

「『おいおい、ここはめだかちゃんに人生の指針を示した僕が、格好よく去っていく所だろう?』『そして数年後、思い出補正のかかった僕と再会して、めだかちゃんは恋に堕ちる訳だ』」

 

「すいませんねぇ。『人間は無意味に生まれて、無関係に生きて、無価値に死ぬ』なんて、愛される事を諦めて勝手に絶望したヘタレのような事を言う方がいたので、ついつい口を出してしまいましたぁ」

「『ひどいなぁ。初対面の相手に対して礼儀がなっていないよ。これは名誉毀損の罪として裁判所に訴えるしかないね』『こう見えても僕はヘタレじゃないよ。やる時はやる男なんだ』」

 

「貴方も『私』も過負荷なんですから、裁判所から和解を提案されるに決まっていますよぅ。だから分かり合いましょう。愛し合いましょう。『私』に愛されれば、貴方の人生も無駄ではなくなりますよぅ。愛されることは何よりも幸福なことなのですからぁ」

 

 『私』は球磨川禊に向かって歩きつつ――ズバッと服を脱いだ。ワンピースが宙を舞い、全裸の『私』を曝け出す。パンツは履いていなかった。だって毎回脱ぐのは面倒じゃないか。待合室となっているホールにいる人々の視線を、『私』は肌でゾクゾクと感じる。球磨川禊も『私』の上から下まで舐めるようにジックリと観察していた。そして『私』に近寄ると、『私』の足をペシッと払う。いつものように怪我を負っていた『私』は簡単に転び、球磨川禊の足で顔を踏まれた。

 

「『宗教の勧誘はお断りだぜ』『診察室で若い女医さんが僕を待っている気がするから、先を急がせて貰うよ』」

「『私』の裸を見せたのに、お前は何もしないなんて不公平だよぅ」

 

「『僕に断りもなく裸を見せたのは君だ』『僕は悪くない』」

 

 『私』の全身を脳内フォルダへ永久保存する勢いで凝視してたくせに、この態度だ。球磨川禊が診察室へ入ると、全裸の『私』は立ち上がる。さすがに最低最悪の過負荷である球磨川禊は、一発で攻略できるほど易しくなかった。きっと球磨川禊も昔は愛を求めていたのだろう。しかし、他人に向けた期待を裏切られ続けて、人を愛せなくなったに違いない。『私』が球磨川禊を愛して、満たしてやらねばならない。そんな事を考えつつ放り投げた服の行方を探すと、なぜか黒神めだかが『私』の服を持っていた。

 

「あー、どうもぉ」

「……」

 

 お礼を言って服を受け取る。『私』が服を着ている間も、黒神めだかは無言だった。黒神めだかも難しい年頃なのだろう。今の頃は、母の死や自分の才能について悩んでいたはずだ。一応『私』も「人は愛されるために生きているんですぅ」とか「愛されて死んだ者は幸福なんですよぅ」とか、黒神めだかに伝わりそうな言葉は言った。黒神めだかも愛を伝える同志として、『私』の仲間になって欲しいものだ。けれども、きっと黒神めだかの生き方を左右する人物は人吉善吉になるのだろう。とりあえず『私』は「愛情を奪う過負荷」を制御したいので、黒神めだかに頼んでみた。

 

「ごめんなさい、頼みたいことがあるんですぅ。じつは『私』、自分のアブノーマルを制御できなくて困っていますぅ。無差別に愛情を奪っているので、愛情を失った人々が殴りあったり殺しあったりしているんですぅ。どうにかなりませんかぁ?」

「……」

 

 黒神めだかが困っていらっしゃる。黒神めだかの貴重な困り顔だ。やはり黒神めだかの持つ肉体改造系のアブノーマル「完成」では難しいのか。アブノーマル「完成」は他人ではなく、黒神めだか自身に働くものだ。「スキルを改造するスキル」を獲得しない限り、黒神めだかは『私』に対して何も出来ないのだろう。どちらかと言うと「解析」を持つ黒神お兄さんの出番か。黒神お姉さんの「改造」でも良いのかも知れない。しかし、その話を持ち出すのは早過ぎる。『私』と黒神めだかは出会ったばかりだから警戒されるんじゃないかな。おまけに『私』は過負荷なんだ。

 

 黒神めだかは病院から脱走した。脱走したという事になっている。今日は黒神めだかと人吉善吉が出会う日だ。その様子を見学するために『私』は、黒神めだかの潜んでいる職員用の託児室へ向かう。『私』の「愛を奪う過負荷」で愛情を奪われた2人が、どうなるのか気になったからだ。どうせ病院内は『私』の持つ過負荷の射程範囲内だ。どこにいても変わらない。

 『私』は託児所へ向かう途中で、薄白い塊の付いている場所や、赤黒い塊の付いている場所を通り過ぎた。『私』の「愛を奪う過負荷」の影響だ。毎日のように起こる暴力事件によって、病院内は無法地帯と化している。どんどん職員が減って、病院という形を保てなくなっていた。これは過負荷の発生しやすい環境だ。しかし、多くの患者は異常(アブノーマル)なので、過負荷へ転じる可能性は低かった。

 球磨川禊と出会ったためか、ミニ女医も仕事を辞める準備を行っている。最低最悪の過負荷の診察を行って心が折れたのだろう。せっかく『私』が事前に過負荷のことを教えたのに、この様だ。まあ、ミニ女医に人吉善吉という弱点がある以上、球磨川禊による脅迫は避けられない事だった……だからミニ女医は、「病院の環境が劣悪だから」という理由で辞めるのではない。そう信じたい。

 

「善吉! 私とっ……私と子供を作ってくれ!」

「えー、それは無理だよおー」

 

 『私』の知識通りに、黒神めだかの撃沈を確認した。まさか人吉善吉も、このセリフが14年後まで問題を残すとは思うまい。黒神めだかのセリフが微妙に違ったものの問題はないだろう。「結婚してくれ」から「子供を作ってくれ」に変わった程度だ。人吉善吉の表情が困った顔ではなく、本当に嫌そうな顔だったけれど『私』は見なかった事にした。許容範囲、許容範囲。どうせ黒神めだかが振られる事に違いはない。そう考えると『私』は安心した……安心した?黒神めだかが振られる事に安心した? なぜだろう?

 知識と異なる結果になる事を恐れているのか。いいや、違う。黒神めだかが愛される事を恐れているのか。いいや、違う。ならば人吉善吉か。それだ。『私』は人吉善吉を愛している。いいや、違う。そんなことを考えつつ『私』は託児所から離れる。すると背後から近付いていた職員に体を持ち上げられ、職員用のトイレへ運び込まれた。そして『私』は冷たいトイレの壁に、体を押し付けられて愛される。

 そうか、分かった。『私』は『私』以外の女の子に、男の子が愛されている所を見るのが嫌なんだ。他人が愛し合っている光景を見るのが嫌なんだ。思い浮かべるだけで殺意すら湧く。『私』以外の女の子に愛されるのは許せない。『私』だけを愛して欲しい。だから黒神めだかが人吉善吉に愛されるのは許せない。一度も話した事のない相手であっても許せない。これは嫉妬か。嫉妬以外の何者でもない。なるほど。この「他人の愛情を奪う過負荷」は確かに『私』の渇望(マイナス)だった。

 

 黒神めだかの脱走から一ヵ月後、箱庭病院は潰れた。人吉善吉と遊ぶために黒神めだかが篭城する事件に『私』は出会えなかった。おそらく『私』が個室でアンアン言っている間に終わったのだろう。そうに違いない。まさか起こらなかったなんて事はないだろう。もしくは黒神めだかも病院の職員が、黒神めだかの要求に従って正常に機能するとは思わなかったのか。ところで箱庭病院を潰す予定だった過負荷の2人組は、どこに居るのだろうか。すでに箱庭病院は潰れたのだけれど……これでは『私』が潰した事になるじゃないか。

 

「『やあ、おめでとう!』『箱庭病院を単騎で潰したって聞いたからお祝いにきたよ!』」

「潰したんじゃなくて、潰れたんですぅ。『私』のせいじゃありませんよぅ」

 

「『病院内の対人関係を無茶苦茶にして、自然崩壊させるなんて見事な計略だよ!』」

「みなさーん、箱庭病院を潰した元凶が此処にいますよー。この人が原因ですよぅ」

 

「『日々を健全に過ごしていた僕に罪を被せるだなんて最低だね』『人格を疑うよ』」

「もう帰れよぅ。あっち行けよぅ。なにしに来たんだよぅ」

 

「『家なき子に仕事を紹介してあげようと思ってね!』『わざわざ来てあげたんだよ!』」

「マジで!? ありがとう球磨川禊! じつは箱庭病院が潰れて困ってたんだ!」

 

「『おいおい』『いきなりフルネームで呼ぶだなんて裏表の激しいやつだな』」

「お礼にエッチな事してあげる! 童貞卒業だよ! よかったね!」

 

「『初めてはビッチじゃなくて、好きな人って決めてるんだ』『だから遠慮するよ』」

「そんなこと言ってたら一生童貞だよぅ? 誰にも愛されることなく死んじゃうよぅ?」

 

「『構わないよ』『尻軽女とやるくらいなら、僕は一生童貞で構わない』」

「……そんなこと思ってないでしょう? 『私』の過負荷が、お前の愛情を感じているよぅ」

 

「『うわぁ、気持ち悪い』『君の過負荷って故障してるんじゃない?』」

「怖がらなくていいよぅ。殴られても蹴られても斬られても焼かれても、お前を愛してあげるからぁ」

 

 そう言って『私』は、球磨川禊に抱きつく。すると球磨川禊は大きなネジを取り出した。そのネジ穴はマイナスだった。それは球磨川禊の過負荷が具現化した物だ。そこに在るようで、じつは存在しない。刺さっても肉体的なダメージは無いけれど、球磨川禊と同じ強さまで強制的に弱体化させられる。「却本作り」と呼ばれる過負荷だ。これの恐ろしい所は下手すると、一生弱体化されたままになる所だろう。おまけに副作用で、『私』の過負荷が今よりも強力になる可能性もある。そんな物を受ける訳には行かないので、『私』は球磨川禊から体を離した。

 

「ガードが固いなぁ。我慢しなくていいんだよぅ。『私』は心配しているんだぁ。お前は愛を得られないまま死んでも不思議じゃないんだからぁ。愛されないまま死ぬなんて、そんなに不幸なことは無いんだからぁ」

「『余計なお世話だよ』『僕は元より不幸(マイナス)だ』」

 

「仕方ないなぁ。じゃあ、仕事ちょーだい」

「『はいはい』『君にピッタリな仕事だよ』」

 

「その言葉で内容は予想できるなぁ」

 

 球磨川禊から紹介された仕事で生活費を稼ぐ。過負荷代表の球磨川禊に仕事を紹介されたのだから、これで『私』も過負荷チームの仲間入りか。おかげで、学校へ入学できるほどの大金を稼ぐことができた。ここからが『私』の人生で一番重要な時期だ。わざわざ学校という空間に男の子が集まっているのだから効率的に愛せる。仕事を紹介してくれた借りも、球磨川禊の指定した学校へ入学すれば返せるから都合がいい。

 そうして『私』の過負荷によって入学した学校は潰れた。箱庭病院と同じように人が居なくなった。でも、『私』の愛した子供達は幸せにできた。さあ、次の学校へ転校しよう。そして次の次の学校へ。さらに次の次の次の学校へ。結果として学校が潰れても気にする必要はない。入学したって勉強したって、何一つ意味が無いんだから。愛されなければ人生に意味はない。『私』は人を幸せにするために生まれてきたんだ。


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