器物転生ときどき憑依【チラシの裏】   作:器物転生

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原作名:GS美神 極楽大作戦!!
原作者:椎名高志


【転生】横島忠夫の魔導書【GS美神】

<200回目>

「ギンちゃんの中には誰がおるん?」

 と他の生徒もいる小学校の教室で、私と肉体を共有するタダオは親友に聞いた。

 いや、共有という言い方は正しくない。肉体を操作できるのはタダオであって、私では無いからだ。視覚を共有できるものの私は目を動かせず、触覚を共有できるものの私は体を動かせない。私はタダオの体に憑依しているようなものだ。

 憑依していると言っても幽霊や妖怪の類ではない・・・と思う。タダオが生まれた時から肉体を共有しているし、タダオが生まれる前の記憶もない。タダオの二重人格のような物であって、寄生虫や悪霊の類ではないはずだ。

 ところで「ギンちゃんの中には誰がおるん?」と聞かれたタダオの親友はハテナマークを浮かべていた。それは親友の中には誰もいないからだ。誰もいないのが当たり前の事なのだが、タダオにとっては私がいる。タダオにとっては、他人の中に私のような者がいるのは当たり前の事なのだ。だからタダオの中に私がいるように、親友の中に誰がいるのか気になってしまった。

 さて、親友とタダオの認識が異なることをタダオが知覚する前に、私は助言を伝えなければならない。少しずつ自分と他人の違いを感じていくのならば兎も角、ここで親友から否定の言葉を聞けばタダオの精神に傷がつく。小さな傷でも大人になる頃には大きな歪みとなってしまうからだ・・・と昨日、タダオが晩御飯を食べている時にテレビ番組で言っていた。

 タダオはテレビ番組どころか晩御飯の内容さえ覚えていない。だが、代わりに私は覚えている。タダオに聞かれれば教科書の文字や挿絵、さらに教師の言葉の始めから終わりまで、全てを教える事だってできる。とは言っても私の記憶能力が役に立つのはテストの時だけだ。体を動かせない私は、もっともタダオに苦痛を与える無意味な漢字の練習作業や、私が教えた計算問題の答えを淡々と書く作業を代わることはできない。残念なことだ。

(タダオよ。こういう時は『答えはギンちゃんや』と言うのだ)

 私はタダオに思念を伝える。どういう仕組みなのかは兎も角、私は言葉やイメージを思念としてタダオへ伝えることができるのだ。その思念を受け取ったタダオは「答えはギンちゃんや」と呟く。タダオの言葉を聞いた親友は「オレはマトリョーシカ人形やないで・・・」と答えた。タダオはマトリョーシカ人形の存在を知らなかったために「マトリューシカ人形ってなんや?」と聞き、会話の内容はマトリョーシカ人形になっていく。これでタダオが自身と他人の違いを良くない形で知覚する危機は回避された。

 

(私は神様から御主に送られたプレゼントなのだ。タダオのクラスメイトも、大人だって私を持っている者はいない。だから私の事は秘密にして置かなければならないのだ。もしも知られれば、皆がタダオを羨ましく思って私を奪おうとするだろう)

 寄生虫や悪霊の類ではないと私は自覚している。しかし、私の存在を知って他人が思うことは別だ。タダオから私を排除する者が現れないとは限らない。それに、テストの答えをタダオに教える私が不正な存在として扱われれば、タダオの不利に繋がるだろう。だから私は、私の存在を隠すようにタダオを教育する。

(へー、そうなんや。どうして神様はワイにだけプレゼントをくれたんや?)

(それは・・・)

 『良い子でありますように』ではダメなのだ。タダオが例え悪であろうと、例え女子更衣室を覗きに行こうと、その行動を戒めず、私は肯定する。『神の子だから』もダメなのだ。自分を特別な存在だと思うまでは構わないが、他人を見下すようになればタダオの不利に繋がる。善でもなく悪でもなく、傲慢であらないように、私はタダオに言葉を伝えた。

(宝くじで一億円が当たったような物なのだ。数億分の1の確立で、偶然タダオは私を引き当てた。しかし、その事を他人に知られてしまえば、その金を盗むために家へ忍び込もうとする者や、御主の父や母を人質として金を奪おうと考える者が現れる。それこそ、宝くじに当たらなかった数億人が御主の命を付け狙うだろう)

 私の思念にタダオは恐怖を覚える。言葉だけではなく、タダオの父親と母親が殺されるイメージを伝えたからだ。逆に私はタダオの恐怖を感じ取り、やり過ぎたと反省した。両親が殺されるイメージはタダオにとって強過ぎたようだ。私の考えた以上に、タダオにとって親という存在は大きいらしい。まあ、タダオと肉体を共有する私にとっても親ではあるのだが、アレが死んでもタダオほどのショックは受けないだろう。例え保護者が居なくなっても、私がタダオのために最良の未来を引き当ててみせる。

 

 横道を通りつつ下校中だったタダオの視界に霊が写る。少しずつ接近するもののタダオは霊の存在に気付かず、私だけが霊を感知していた。これは私がタダオの霊力を封じているからだ。封じているとは言っても、霊力が体外へ出ないように抑えているだけで、複雑な術式を用いてはいない。いつもは曲がっている背筋を、意識して伸ばすようなものだ。完全に封じている訳では無いし、私が気を抜くと霊力は漏れる。

 肉体を操作できない私だが、霊力は操作できる。逆にタダオは霊力を操作できない。これは良い事だ。もしも肉体に続き霊力までタダオに主導権があったのならば、永遠にタダオは幼児のままだっただろう。なにしろタダオは産まれた瞬間から悪霊に狙われていたのだから。

 この肉体の霊力は、霊に好かれているようだ。産まれる前ならば母親の肉体に包まれて隠されていた霊力が、産まれたことで剥き出しになり、近くの霊を誘い始めた。無害な霊だけならば死ぬことは無かったのだが、悪霊に憑かれた影響で呪われ、タダオは体調を崩して死んだ。

 ならば、なぜ生きているのかと聞かれれば、再び母親の肉体から産まれたからだ。その事を知っているのは私だけで、タダオに死を繰り返した記憶はない。繰り返しているのは私だけだ。始めから終わりまで記憶できる私だからこそ、あの繰り返しを突破できた。もしも私ではなくタダオが繰り返していたのならば、知能の低い赤ん坊のまま訳も分からず永遠に死に続けていただろう。

 最初の難関であった霊力を抑える感覚を学んだ後は簡単だった。数百回も繰り返したのは最初で最後だ。後は出来る限り霊力を抑え、どうしても回避できない悪霊は、抑えた霊力を一気に放出して追い払った。微かな霊力しか感じなかった子供から、急に霊力が噴き出るのだ。急に猫が犬へ変身して吠え始めたように、悪霊は驚き去っていく。今までは、それで何とかなっていた。

 

 下校中にタダオが悪霊に殺された。殺したのは自殺者の霊だ。タダオの霊力は抑えていたので、悪霊の通り魔殺人に巻き込まれたのだろう。その悪霊は初めて会ったタイプであり、呪い殺すのではなく物理的な破壊力を持っていた。霊に質量などある訳がないので、霊的な干渉の結果としてタダオの肉体は破壊されたと思われる。

 悪霊の中で一番厄介なのは自殺者だ。生きている頃は優しい人でも、死ぬと抑圧していた感情を抑える表層意識が失われ、他人に対する恨みや妬みによって悪霊となる。生きている間に正しくあろうと無理をした人ほど、性質の悪い悪霊と化す。特定の対象を持っていないからだ。だから近くにいたタダオが犠牲になった。

 さらに、特定の対象を持っていないために悪霊の欲は果たされず、犠牲者は次々に出るだろう。まあ、意図してタダオを殺した訳では無いのならば、わざわざ危険な悪霊と関わる必要はない。悪霊に殺される犠牲者が、タダオである必要はないのだ。

 

<201回目>

「おぎゃー」

 とタダオが産声を上げる。タダオが死んだので、私は再び産まれた。いつものようにタダオの霊力を抑圧し、霊の誘引を防ぐ。これからタダオの人生の遣り直しだ。これも悪いことばかりではない。前回と異なる行動を促すことでタダオの人生を、より良く改変できるからだ。

 あの物理的な破壊力を持つ悪霊に対しては、下校ルートを変える。それでもダメならばゴーストスイーパー協会へ通報する。タダオの霊力を用いた徐霊という方法も考えられるが、タダオを戦わせる気が私にはない。タダオの身の安全が最優先だ。それに、もしもタダオが霊と戦う事態になっても、霊力による攻撃力が足りない。

 なぜか死ぬ度に霊力の最大値は少しずつ上がるものの、私が使えるのは霊力の開放による目くらまし程度の物だ。悪霊のように物理的な破壊力を持つ性質を霊力に持たせなければ、悪霊の表面を削ることすら出来ない。タダオが襲われた時に試したから分かる。私が霊力を武器として用いるためには、専門的な知識を修得する必要があるだろう。

 そして再び小学校へ入学して数年後、タダオは前回と同じことを親友に聞いた。その前に介入し、タダオの質問をなかった事にする気はない。タダオの意志を優先するために、私の助言は後出しを心掛けているからだ。これはループの180回目に忠告を行い過ぎた結果、タダオが私に対して反発するようになった経験を生かしている。

 

「ギンちゃんの中には誰がおるん?」

「・・・なんやて?」

 「答えはギンちゃんや」

 「オレはマトリョーシカ人形やないで・・・」

「ギンちゃん、マトリューシカ人形ってなんや?」

「人形の中に人形が入ってるんや」

 「なるほど・・・ワイはマトリューシカ人形みたいな物なんやな」

 「なんでやねん。よこっちの中に、よこっちがいたら怖いわ」

「いや、中にいるのはワイやないで」

「じゃあ、誰がおるんや」

 「名前が無いから付けようと思って、いま考えてるんよ」

 「じゃあ、マトリョーシカ人形の中に入ってる・・・アレ、アレや・・・入れ子」

 同じ会話でも、結果は異なる。マトリョーシカ人形へ逸らされた話題は、タダオによって元に戻された。しかし、親友はタダオの言葉を否定することなく、私の名前を決める話題に加わってすらいる。この現象は一見偶然に見えるものの、実際はタダオの行動が変化した事による結果だ。一つの行動ではなく、多数の行動が変化した事による結果が、タダオにとって良い影響を与えた。狙ってやった物ではないが、このサンプルがあれば、再び遣り直しになっても私ならば再現できる。

(タダオよ。この先には悪い物がいる。このまま進めば御主は死んでしまうだろう。別の道を通るのだ)

 その日の下校時、私は別の道を通るようタダオに忠告した。すると、テストの答えを教えるなど実績のある私の言葉を、タダオは素直に受け入れる。もちろんタダオの霊力は抑えていたため、無事に家へ帰り着いた。翌日の朝、テレビ番組では悪霊による殺人事件について放送されていた。3人ほど犠牲になったものの、悪霊の凶暴性からゴーストスイーパーが直ぐに派遣され、夜の間に徐霊されたそうだ。

 

(なー、シンガン。ワイの代わりに、あの人達は死んでしまったんか?)

(そうでは無い。タダオには私がいて、彼等には私がいなかった。それだけの事だ)

(そんならワイがゴーストストリッパー協会に電話した方が良かったんやないかな)

(大人は子供の言うことを信じてくれないものだ。御主が電話を掛けたとしても信じてはくれなかっただろう)

(そうかー、残念やな)

(それというのも子供の頃に信じてもらえなかった子供は、大人になると子供を信じなくなるものだ。だが、御主は大人になっても子供の言うことを信じてあげるのだぞ。私のことを信じてくれなかった両親のようには成りたくなかろう)

(んー)

 タダオは返事を曖昧にする。やはり今のタダオにとって親というのは大きな存在だ。どうしても親を否定できないらしい。子供にとって親とは、神のように絶対の物なのかも知れない。もう少し成長すれば反抗期とやらが始まり、親への反発で依存から抜け出す流れになるだろう。それも自立する意識を育てるためには必要なことだ・・・と人生の繰り返しによって何度も見ることになるテレビ番組で言っていた。あの番組の知識は意外に役立つものだ。

(ところでタダオよ。シンガンと言うのは、もしや私の名か?)

(おお、そうやった。ギンちゃんと相談して決まったで、お前の名前はシンガンや)

 タダオからシンガンというイメージが私に伝わる。それは大きな眼球だった。漢字は心眼と書くのだろう。その名は私に、とても馴染む。なぜか懐かしい気持ちになったが、200回繰り返した私の記憶にも見当たらない単語だ。これまでにタダオの見たアニメやマンガの記憶にも無く、タダオの親友による言葉が初出だった。それにも関わらず、心眼という言葉を懐かしいと思うとは不思議なことだ。私にとっては異常と言える。これは原因を考える必要があるだろう。

 

<失われた世界>

 オレの子であるタダオは天才だ。分厚い辞書でも一度見ただけで覚えてしまうし、学校でテストがあれば必ず100点を持ち帰ってくる。家で見つからない物があっても、タダオに聞けば何所にあるのか分かる。オレよりもタダオは頭が良いので、妻である百合子が浮気をしたのではないかと本気で疑ったくらいだ。うっかりして、その事を口に出した時は酷い目にあった。

 しかし、やはりオレの子だ。学校では女子のスカートを捲ったり、着替えを覗いたりして、女性への興味は尽きないという。誰から聞いたのかというと、家庭訪問で会ったタダオの担任教師からだ。成績は良いのに、あの問題行動さえ無ければ・・・と嘆いていた。その話を聞いた妻がタダオを矯正していたが、今も問題行動が止んだ様子はない。オレの遺伝子に刷り込まれた本能なのだろう。

 親としてはタダオの問題行動を止めるべきなのだろうが、オレは安心していた。オレに似ている所があるからだ。もしも成績優秀な上に欠点もなければ、オレに似ている所が全くない。タダオの顔がオレに似ていると他人に言われても、自分では実感できなかっただろう。ああ、本当に、オレに似ていて良かった。

 

「あなた・・・タダオが・・・怪我をしたって」

 珍しく私用で会社に掛かってきた妻からの電話は、そんな内容だった。怪我と言うわりに妻は混乱しているし、指を切った程度で会社に電話を掛けてくるはずがない。言い知れない不安を抱えたまま妻の下へ急行したオレを迎えたのは、我が子が死んだという結末だった。

 そもそも病院ではなく警察署に呼ばれた時点で、おかしいと思うべきだった。オレも自分で思っている以上に、冷静ではなく慌てていたようだ。タダオが悪霊に襲われたという説明を受けた後に、死体の確認を行う。タダオの体は見るに耐えられない状態らしいので、誰よりも早く会いたいと思っている妻を落ち着けて、先にオレが見ると主張した。

 そうして、死体袋の中に入っているタダオの様子を覗いてみると潰れていた。見慣れたタダオの体が奇妙に潰れている様は、たしかに見れた物ではない。口や鼻から血を流した跡があるし、潰された皮を砕かれた骨が突き破っている。それ以上を認識することは耐え切れず、オレはタダオから目を逸らした。駆け巡る血で全身が熱く、今すぐ壁を殴り、人の目も気にせずに泣き喚きたくなった。

「たしかに・・・うちの子です・・・!」

 オレはタダオを見るのが精一杯で、体に触れることも出来ない。いや、そもそも接触は禁じられていた。どう見てもタダオは変死体の類だ。状況から悪霊に殺されたと考えられているものの、タダオが殺された所を見た者はいない。事件の検証が終わるまで、タダオの死体はオレ達の下に帰ってこないだろう。役所から交付される心霊被害者への給付金は、その後に支払われるそうだ。そんな物は必要ないから、早くタダオを家に帰して欲しいのだが・・・。

 

 タダオの葬式には学校の校長や生徒の代表と、学校の授業を休んで仲の良いクラスメイトも来てくれた。地域の住民などが来てくれたものの、その多くは私や妻の関係者として来たのではなく、タダオの人徳によるものだ。周囲に与える影響の大きかったタダオは、たくさんの人に死を悼まれていた。

「タダオがさ・・・自分の中に誰かいるって言ったことあったわよね」

 ああ、とオレは相槌を打つ。タダオの中にいる誰かが、タダオが知りたいと思ったことを教えてくれるという話だ。オレは「そうかー、凄いな!」と言ったが、内心では信じていなかった。それを感じ取ったのか、しばらくタダオは不機嫌になり、その後は自分の中に誰かいるとオレ達の前で言い出す事はなかった。

「まだタダオが何所かで生きているんじゃないかって・・・私は思うの」

 タダオの遺体を火葬している間に、そんな事を妻は言う。有り得ないとオレは思うが、タダオの死体を見たオレでさえ、じつは同じ事を思っていた。実感が湧かないと言うか・・・何かを見落としているような、そんな気がする。もしかするとタダオは幽霊になって、どこかで生きているのかも知れない。タダオの遺体が灰になっていく灼熱の炉の前で、オレと妻は、そう思った。

 

 

 

loop number 200 → 201




<if ギンちゃんは・・・>
「ギンちゃんの中には誰がおるん?」
 タダオに聞かれた親友は、驚きの余り呼吸を止めた。予想外の反応に私も驚き、親友が平静を失った理由を考える。触れてはいけない物に触れてしまったような、言い知れない恐怖が私を襲った。
「オレの中にはな・・・」
 タダオの親友が立ち上がり、体を大きく揺さぶり始める。始めは小刻みに体を動かしていたが、首をブンブンと振り回すように体を揺らし始めた。異様な雰囲気を感じたタダオは、思わず親友から後退る。
「オレの中にはな・・・」
 その時、スポンと音を鳴らしつつ親友の上半身と下半身が分離した。宙を舞った親友の上半身は、教室の机に当たって大きな音を立てる。しかし、体が真っ二つになったにも関わらず、親友の体から血が出ることは無かった。なぜならば、真っ二つになった親友の中に、一回り小さな親友が入っていたからだ。
「マトリョーシカや」

<if タダオを救った神父さん>
 悪霊に襲われたタダオを救ったのは、黒いカソックを着た男だった。タダオと悪霊の間に割り込み、物理的な破壊力を持つ悪霊の腕を受け止めている。邪魔をされた悪霊が怒って叫び、腕を振り回して地面をアスファルトごと削り取った。しかし、悪霊の腕に対して男は撫でるように触れ、そのまま悪霊を側方へ投げ飛ばす。その様は、まるで悪霊が自ら横へ飛んだようだった。
「おめでとう、少年。だから君は生き延びた」
 投げ飛ばした悪霊に構うことなく、男はタダオに声をかける。標的を変えた悪霊は神父に飛びかかるものの、迎え撃った男の一撃によって体を打ち抜かれ、再び地面を転がった。
「――私が殺す。私が生かす。私が傷つけ私が癒す。我が手を逃れうる者は一人もいない」
 男が言葉を紡ぐ、その度に悪霊は苦しむ。全身を焼かれるような痛みが悪霊を襲った。悪霊は地面を転げ回り、やがて体が崩れて消える。すると、タダオの体を男は抱え上げ、悪霊が消え去ったことをタダオに告げた。悪霊に襲われた恐怖で震える体を抑えつつ、タダオは何者なのかを男に尋ねる。
「何者なのかと問われれば、何者なのだろうな。立場としては近くにある教会の神父だ。父より与えられた名は言峰綺礼という。しかし、どれも他人から与えられた仮初の物であり、私が真に何者かという事を表してはいない」
 言峰綺礼と名乗った男は、タダオを抱き上げたまま教会へ運ぶ。通報を受けた警察が現場を調べたものの、悪霊による被害者はタダオだけで、他に襲われた者はいなかった。警察から連絡を受けたタダオの両親が、タダオを保護していた教会へ飛び込んで来たものの、心配した両親がタダオを抱き締めるという出来事以上のことは起こらなかった。てっきり怒られると思っていたタダオは、目を点にして固まっていたものだ。
 後に、タダオと言峰神父の出会いは最大の汚点として歴史に記されるのだが、そのことを今は誰も知らない。

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