Ace Combat side story of ZERO - Skies of seamless - 作:びわ之樹
体が、鉛のようだ。
表現するとしたら、それ以外に言葉は思いつかない。肉体も頭も、まるで重りを括りつけられたように働きを鈍らせているような気がする。
クーデター軍『国境なき世界』が拠る五大湖沿岸の拠点、フィルルテーゲン。基地制圧に先だって解放された空港に降り立ち、カルロスは疲れ切った体を格納庫の壁に預けて休息を貪っていた。鈍った感覚の中、コーヒーの芳しい香りと、それ以上に強烈な油と鉄の匂いが鼻孔を満たしてくる。耳には時折、彼方から砲撃のような音が飛び込んでくるが、それもここ2、30分は鳴りを潜めているようだった。基地の奪還も、おそらく大詰めにかかっているのだろう。
カルロスはゆっくりと目を開き、嗅覚と聴覚に凝らしていた意識を、視覚へと押し戻す。
数名の整備兵を纏って目の前に佇むMiG-27M『フロッガーJ』は、幾つもの銃創を受けてひどく傷ついている。コクピット付近にも弾痕を受けており、操縦席周りの装甲が強化されているこの機体でなければ、『中身』もおそらく無事ではなかっただろう。応急整備を仰せつけられているらしい基地職員は、被弾痕を見て開口一番にそう言っていた。
その証左とも言うべきか、ほぼ同様の位置に被弾したヴィクトール曹長は、コクピット内に貫通した弾丸の破片で右手の親指を切断。大腿にも重症を受けたという。機体も本人もこの場にはおらず、それぞれのあるべき場所で治療を受けているのだろう。命に別状はない――そう聞いていることだけが、唯一安心できる点だった。
胸の底に沈んだ澱を絞り出すように、カルロスは深く溜息をついた。
あまりにも多くの事が起きたこの一日を飲み込むには、時間が短すぎる。早朝の奇襲に始まり、アンドリュー隊長の負傷や元ベルカのエースとの再戦。重傷を負ったヴィクトール曹長。そして壮絶なヴァイス1の最期。目に焼き付いたその全てが、ほんの数時間の間に起きたとは思えないほど色濃く、衝撃に満ちている。
一日を追うように流れた目が、駐機した『タイガーⅡ』の向うの壁掛け時計を捉える。
時刻、おおむね13時半。予定が順調に進んでいるなら、『国境なき世界』本拠地のアヴァロンへ連合軍攻撃部隊が近づきつつある頃合いだろう。
それで、漸く終わる。長かったこの一日も、クーデター軍との戦いも。
溜息一つ、コーヒーへ伸ばしかけた手。それを止めたのは、無慈悲に鳴り響く最終幕のベルだった。
《緊急事態!緊急事態!作戦行動可能な航空部隊は出撃準備に入れ!詳細は追って通達する!》
壁に備えられたスピーカーから流れる、焦燥した男の声。反射的に立ち上がったカルロスの眼が、『タイガーⅡ』の向うに座っていたニコラスの眼と合った。
頷き一つ。最早それだけで、言葉は無い。
まだ動ける。立ち上がれる。命令を受け、人馬ともに無事ならば、兵士でも傭兵でもやることは一つである。
「フロッガー出せるか!?」
「傷は塞いでないが飛ぶには飛べる!武装は!?」
「時間がない、23㎜だけ補給してくれ!あと増槽!」
怒号と喧騒、熱が満ちる格納庫。その中を、カルロスはヘルメットを掴んで機体の方へと歩いてゆく。
黒い切り欠きの翼端、蝙蝠を象ったエンブレム。そして隊長から受け継いだ『フロッガーJ』と、その信念。『ニムロッド』の名を冠する、もはや唯一無二となってしまった機体の下へ、脚は一歩、一歩と進んでゆく。
「ニムロッド3、出撃準備に入る」
カルロスの声が、喧騒を割いて響き渡った。
******
《全機出撃を完了した。管制塔、指示を頼む》
《こちらフィルルテーゲン管制塔。出撃各機、方位170へ変針せよ。当基地は制圧戦進行中につき状況が錯綜している。以降は『サンダーヘッド』の指示に従われたし》
緊急事態が告げられ、幾ばくか。フィルルテーゲンの空に上がった機影が、やや東寄りの南方へ向けて舵を切った。未だ黒煙の上がる基地を後に、機体は五大湖に沿って、フトゥーロ運河へ至る航路を進んでゆく。
機数、僅かに5。それは、偏にクーデター軍の抵抗が、そして元ベルカ軍のエース部隊『グラオガイスト』隊との交戦による損害がどれだけ大きかったものかを如実に物語っている。
先頭を飛ぶ白い『ミラージュ2000-5』は、ベルカ軍のエース部隊『ヴァイス隊』で唯一継戦が可能だった『ヴァイス2』。その後方に並ぶ2機のF/A-18C『ホーネット』は、オーシア空軍機の生き残りから選抜された『アスター2』と『アスター6』だった。そのさらに後方にはニコラスのF-5E『タイガーⅡ』とカルロスの『フロッガーJ』が並び、機種も所属も雑多な5機編隊という様相を呈していた。これに、やや遅れて空中管制機『サンダーヘッド』が続くことになる。
緊急の出撃であり、何より基地に置かれていたミサイルの規格が合わない可能性もあったため、カルロスの『フロッガーJ』は2連装23㎜ガンポッドを2基搭載した他は、固定武装の30㎜6銃身ガトリング砲のみという軽装備である。空となったロケットランチャーは外しており、機体そのものは常と比べて軽い印象を与えていた。事情はニコラスも同様らしく、外観で判別した限りでは短距離用
《サンダーヘッドより各機へ、状況を伝える。本日1305時、フトゥーロ運河を封鎖していたサピン護衛艦隊が所属不明機に奇襲攻撃を受け、壊滅したとの情報が入った。同空域の偵察情報では強襲揚陸艦を擁した複数の艦艇が南下中であり、おそらくこれらの艦隊によるものと思われる。同時に、沿岸部のオーシア・サピン両空軍基地へ巡航ミサイル攻撃が行われ、滑走路が破壊されたとの情報もある。以上のことから、両軍による迎撃は著しく遅延している状態にある》
《待て、オーシアの州軍や内陸の基地はどうなっている?》
《オーシア、ならびにサピン国内では現在小規模な武装蜂起が複数発生しており、鎮圧作戦のため各部隊は分散している。そのため、周辺基地でも迎撃態勢構築が遅延しているのが現状だ。クーデター軍は、各地で周到に準備していたらしい》
脳裏に、昨晩のミーティングの内容が蘇る。
警戒のためサピン艦隊が運河を封鎖するという話は、確かにあった。奇襲とはいえそれを突破する辺り、クーデター軍が擁する艦隊も相応の戦力を備えているのだろう。クーデターによる蜂起にも関わらず、艦艇を動かせるほどに人員を集めている点はまさに驚異的と言えた。強襲揚陸艦ならばヘリや
だが、ここまでの情報ならば、単なる残存部隊の追撃作戦である。続く言葉に、カルロスは思わず息を呑んだ。
《しかし、事態はさらに悪い。先ほど、フィルルテーゲンに残されていた資料から、大量破壊兵器『アロンダイト』の詳細が判明した。その正体は、航空機搭載型の多目的炸裂弾頭ミサイルらしい。ベルカ軍内開発コード『ハイパーシン』と同様の、または量産に向け性能を引き下げたタイプにクーデター軍が新たにコードを設けたものと推定される。同時に発見されたシミュレーションによれば、中規模の基地ならば1発で壊滅させられる威力だそうだ》
「航空機搭載型…。……!まさか!?」
《事前情報では、強襲揚陸艦を含めた複数の艦艇がフィルルテーゲンに停泊していたが、その一部が消息を絶っている。…間違いない。奴らは『アロンダイト』を発射する積りだ。目標は不明だが、オーレッド湾への突破を許せばオーシア首都オーレッド、サピン首都グラン・ルギドも射程に入る。アヴァロンでの友軍の奮闘を無駄にしないためにも、何より我らの国を守るためにも、攻撃は是が非でも阻止しなければならない》
《…くそっ!何てことを考える奴らだ…!!》
通信に滲む、唇を噛みしめたようなニコラスの声。
都市への、大量破壊兵器による攻撃。声を上げないまでも、カルロスも同様に衝撃を受けていた。
ありえない事ではない。事実、今回の戦争でベルカ軍は連合軍の侵攻迎撃に際し核を使用し、自国民へ相当な被害を出している。過去の戦争でもそのような事例が無かった訳ではなく、20世紀中ごろの戦争では爆撃で消滅した都市さえあるのだ。
だが、その事実を知っていても、いざ目の前でそれが実行されることには理解が及ばない。本当に、彼らはそれを実行する積りなのか。民間人虐殺の謗りをも辞さないのか。それほどまでに容易に――その信念の為に、民間人の命をも奪えるのか。
「…認めて、たまるか…!」
《ヴァイス2、部隊の指揮を取れ。目標、クーデター軍艦隊および全艦載機。オーシア州軍ならびにサピン艦隊の迎撃態勢が整うまで、フトゥーロ運河の突破を許すな》
《ヴァイス2了解。各機、増速》
幾度もの戦いを経て、幾つもの信念に触れて、信念というものに抱いた想い。それが、カルロスの口端から滲み出るように零れていた。信念は人を強くする。しかしそれに捉われ過ぎては、自分も殺してしまい、非道すらも肯ずる事へと繋がってしまう。
信念の為の、必要な犠牲。彼らが抱いているであろうその意図を、認めることはできなかった。
増速。フットペダルを踏みこみ、機体が徐々に足を速めてゆく。
国を隔てる眼下の南流を、5機は滑るように飛んでいった。
******
長い。
遠い。
運河は地平の彼方へ、見果てぬ先へと続いている。じりじりとした時間だけが過ぎ、焦りが額に汗を滲ませる。既に1時間は経ったかと時計を見やれば、まだ20分ほどしか経過していない。
まだか。どこだ、一体どこに。旧式機ゆえの理由に加え、対地攻撃機の悲しさである。普段のMiG-23MLDならいざ知らず、今のMiG-27Mには対空用レーダーを持ち合わせていない。唯一の頼りたる目を、カルロスは彼方の先へと走らせる。
無線に、ざ、ざ、と雑音が入ったのはその時だった。
《こちらサンダーヘッド、レーダーに敵艦を捉えた。大型艦1、中型艦1が南進中。周辺に機影複数、艦載機と思われる。方位そのまま、じきそちらのレーダーレンジにも入る》
《ヴァイス2了解。各機へ、エスクード2と本機は制空戦を行う。アスター2、アスター6およびニムロッド3は対艦戦を実施されたし》
サンダーヘッドの情報を受け、カルロルも脳裏で戦況を思い描く。
大型艦1というのは、おそらく艦載機の母艦である強襲揚陸艦だろう。中型艦というのは護衛の艦船だろうか、おそらく運用人数は定員を大きく割っていると思われるが、
もっとも艦載機についても、強襲揚陸艦に搭載できる機種は自ずと限られる。空戦能力が限定的なV/STOL機なら、旧式のMiG-27MやF-5Eならいざ知らず、『ホーネット』や『ミラージュ』の敵ではない。
目標目指してひた走る、雁行の5機。エンジン音の他は静寂に包まれた一時の間も、カルロスの脳裏は目まぐるしく回転していた。敵の機種は、機数は、そしてその目標は、何だ。
――見えた。
曇天の鈍い色を映した水面に浮かぶ2つの影。そしてその上空に、ぽつりぽつりと浮かぶ小さな機影。出せる限りの速度で南進しているのだろう、航跡は長く伸び、白波を左右へ広げているのが空からも判別できる。僅かながら徐々に大きくなる機影は、迎撃のためかこちらへと向かってきているらしい。機数は見える限り、2。
《敵機長距離ミサイル発射!
「もう撃ってきた!?」
《全機散開。アスター2、アスター6、前進し妨害弾を射出せよ》
ミサイル攻撃。
サンダーヘッドの通信に、即座に応えたのはやはりヴァイス2だった。動揺も一瞬、カルロスは操縦桿を倒し、左側へと大きく舵を切って散開する。編隊最右翼のニコラス2はおそらく同様に右へと急旋回している所だろう。体に受けるGを増したコクピットの中からは、アスター2とアスター6の『ホーネット』がやや左右に開きながらチャフとフレアを散布し、ヴァイス2はそのまま直進していくのが見えた。
最新鋭機と比べ機動性に劣るこちらとニコラスを逃がし、妨害弾を搭載した2機のホーネットで安全を確保。そしてヴァイス2本人は、その技量と機体性能でミサイルを回避する。咄嗟に描かれた対策はおそらくそれであり、実際に思い返しても隙の無い対応だったと言えるだろう。その点、ヴァイス2の判断は間違いなく妥当だった。
――ならば。
その『結果』は、偏に敵兵器の力によるものだったに違いない。
「――なっ!?」
衝撃。
いや、感覚としてはそんな生半可なものではない。まるで、すぐ傍で爆弾が爆発したような凄まじい圧力である。
機体を傾けて回避行動に入っていたカルロスは、その一瞬平衡感覚を失った。
主翼展開、左ロール。風に呑まれる機体を懸命に立て直し、漸く『フロッガーJ』がバランスを取り戻す。一体、何があったというのか。
見上げたその先、つい先程までヴァイス2達が飛んでいた、衝撃の源の空。そこには曇天を背に、信じられない光景が広がっていた。
ヴァイス2が、白亜の『ミラージュ』がいない。代わりに見えるものと言えば、黒煙と炎を纏い、幾つもに分かれた金属片が空に散っているだけである。ヴァイス2の前方左右に進出していた2機の『ホーネット』も、主翼や尾部を失い急速に高度を失っていた。
――まさか。
脳裏に挟まったその疑念は、空に散った欠片の一つを捉えてしまったことで、確信へと変わった。変わらざるを得なかった。
焔に包まれた、黒い縁取りの白い三角翼。ベルカの国籍マークを刻んだ、ヴァイス2の残骸――。
《ヴァイス2の反応が消えた。各機へ、どうなっている》
「あ…!……こちらニムロッド3、ヴァイス2が撃墜…いや、消滅した!アスター2、アスター6も大破!」
《何だと!?》
《間違いない…!例の散弾ミサイルだ、『アロンダイト』だ!…ふざけんな、あんなもんどうしろって言うんだ!!》
唖然とした様子のサンダーヘッド、そして絶望に声を荒げるニコラス。カルロスもまた、しばし茫然と残骸散った空を眺めていた。
レーザー兵器、そして超大型爆撃機。これまでの戦いでもベルカが開発してきた兵器群の脅威は思い知っていたが、これほどまでの絶望に浸されたのは初めてだった。エースパイロットすら回避を許さず、一瞬で屠るほどの威力と効果範囲。これが都市に撃ち込まれれば、その結果は言うまでもないだろう。
《まさか…奴ら、対空攻撃に『アロンダイト』を使うとは…。……レーダーに捕捉、敵強襲揚陸艦より3機が新たに発艦、オーレッド湾へ向かっている。現在オーシア首都防空部隊は迎撃部隊を編制中、迎撃態勢配置完了まであと40分。グラン・ルギド防空部隊は配置完了まで1時間を予定。このままでは迎撃態勢が整う前に、防空圏内に侵入される》
落ち着け。これまでの戦いを、隊長の指揮と信念を思い出せ。
心に浮かんだその言葉とサンダーヘッドの茫然としたような声が、カルロスの脳裏を再び動きださせる。
考えられる限り、状況は最悪だった。攻撃の要であったヴァイス2やアスター隊は脱落し、残ったのは旧式機しか擁していない自分とニコラスのみ。友軍の支援は望めず、たとえ1機でも攻撃圏内へと突破を許してしまえば都市への攻撃は避けられなくなる。おまけに、ニコラスの『タイガーⅡ』は短射程のAAMしか搭載しておらず、カルロスに至ってはミサイルすら載せていないのだ。
だが、それでも。
《もはや、君たち二人に頼る他ない。エスクード2、ニムロッド3。…頼む。サピンを、オーシアを…皆を、護ってくれ》
「ニムロッド3了解。基地制圧分に報酬上乗せかな」
《な…カルロスお前、そんな簡単にな…!》
「俺達だけしかいないんだから、他にないだろ?ニムロッド3よりサンダーヘッド、敵艦確認。中型艦の方はフリゲート艦と思われる。脅威は低いと判断し、艦載機の追撃を優先する。ニコラス、上の2機任せる」
《…分かったよ。しゃーねーな、やるか相棒!あーあー、俺にも臨時ボーナス出ないかなー!》
今は自分たちしかいない。否、武装も機体も技量も心許ないが、それでも自分たちがいる。それならば、できることは一つ。出撃の時に抱いた想いを再び胸に、カルロスは機体の高度を徐々に下げた。対するニコラスは上空の2機の応じるためだろう、憎まれ口を叩きながら機首を上へと向けてゆく。
相棒、か。ふと、そんな言葉が脳裏に過った。
眼が、水面の敵を見据える。
向かって左には強襲揚陸艦、右の艦は駆逐艦ではなく一回り小さいフリゲート艦らしい。既に先行したという敵の3機もある以上、ここでかけられる時間はせいぜい一航過。ならば、航空機への脅威が小さいフリゲートは無視し、強襲揚陸艦へ狙いを絞るべし。
広い――それでも空から見れば極めて小さい甲板を見定め、カルロスは6銃身30㎜機関砲の安全装置を解除した。
目の前を曳光弾が飛び交う。艦の至る所が光る。対空砲弾の網目の中を、カルロスはひた奔った。大丈夫だ、以前カークス軍曹が言っていた。対空砲はそうそう当たるものではない。
光。迎撃用短距離ミサイル。フレアとチャフ弾を相次いで射出し、飛び迫るそれと正面から入れ違う。狙うは甲板、そして駐機した敵機。すなわちこちらに尻を向けたAV-8B『ハリアーⅡ』と、横腹を見せる2機の哨戒ヘリ。
引き金を引いた指に、未だに慣れない30㎜の反動が響く。機体下の6銃身が唸る度にその甲板には大穴が開き、『ハリアーⅡ』ごと破砕。爆発し炎に包まれたそれを尻目に、カルロスは甲板を舐めるように抜けて、すぐさま主翼を畳んで加速に入った。撃沈までは至らないものの、甲板にあれだけのダメージを受ければ以降の離着艦は当面不可能になったと見ていいだろう。
《よし!一丁上がりだ、急ごう。あれだけ大見得切ったんだ、遅れるなよ!》
「分かってる!」
上空から落ちて来た声に、カルロスも応えるように空を見上げる。鉛色の空には、炎に包まれた2機と、それを抜けて南へ向かう『タイガーⅡ』の機影。首尾よくニコラスも突破できたのだろう、機首を上げてその横に並んでも、目立った損傷は見られなかった。
エンジンが唸りを上げ、風を孕んだ翼がひたすらに空を切る。既に遥か先には運河が途切れ、オーレッド湾の端も見えつつあるのが見て取れた。
視界の端には、白い粒が一つ、二つ。雪が降って来たらしい。
《レーダー捕捉!いたぞ、高度約1300、機数3!》
「了解、このまま接近する。ニコラス、こっちはミサイルが無い。先手頼む」
《応!》
ニコラスの『タイガーⅡ』が敵機を捉え、2機が機首を下げてゆく。
向けた視線の先には、確かに水面に映える機影が3。肩翼配置の小柄な機体に全長の割に小さな機首、そして全体的に丸みを帯びたフォルムは、先程と同じAV-8B『ハリアーⅡ』と判別できる。先の艦隊や護衛機を囮として先行した辺り、おそらくは全機が『アロンダイト』を装備していると見ていいだろう。
カルロスはその機種と装備を判別すべく、最後尾のシルエットを凝視した。そしてそのまま2番機、1番機へと視線を移していき、その最後に見てしまった。
先頭を飛ぶ『ハリアーⅡ』が、見慣れた塗装を施されている。鋭角を描く『ハリアーⅡ』の主翼を、まるで切り欠いたように黒く染め抜いた翼端。自分のMiG-27Mと同じ、ニムロッド隊を示す独自の塗装パターン。
まさか。そんな。
《アンドリュー隊長、来ちまったか。ヒュドラ3、先に行け。こっちで引き受ける》
「……!カークス軍曹……!」
《…!?おま、カルロスか!?何でその機体に…!》
カークス軍曹。
カルロスは、思わずその名を呼んでいた。
同時期に脱走したエスパーダ1――アルベルト大尉やフィオンがクーデター軍に合流していたことから、軍曹もクーデター軍に参画しているであろうというのは当然の帰結であり、カルロスもその意識は確かにあった。だが、今もクーデター軍はアヴァロンやオーシア・サピン各地で蜂起している最中であり、戦場で邂逅する可能性だって低いに違いない。自らにそう言い聞かせ、カルロスは再会の可能性から意識を逸らしていた。おそらくそれは無意識の、一種防衛本能のようなものでもあったのだろう。
奥歯を噛みしめる。腹に思い切り力を籠める。それでも跳ねた鼓動は収まらない。
2機の『ハリアーⅡ』が反転し、こちらへ鼻先を向ける。こちらへは軍曹の機体、ニコラスへは別の1機。
連装23㎜。引き金に指を添え、照準器の中にその機影を捉える。だが、撃てるのか。撃っていいのか。
距離2200。まだ遠い、しかし思いを巡らせるには短すぎる距離。
思い返せ、隊長との誓いを。サンダーヘッドやニコラスに言った言葉を。
その指を、引き金を――。
《っ!回避、回避!長距離ミサイル来る!!》
「…しぃっ!!」
《…!ヒュドラ2、お前『アロンダイト』を…!》
ミサイルアラート、そしてニコラスの声に、カルロスは反射的に操縦桿を倒す。
発射は正面やや右方、ニコラスの正面から迫るカークス軍曹ではない方の『ハリアーⅡ』。
通信回線が『アロンダイト』の名を拾う。
迫る。
カークス軍曹の『ハリアーⅡ』が機首を急上昇させる。
機体が警報を告げる。
ニコラス、旋回。回避ルートから反転し、ミサイルを発射する。
やめろ。逃げろ。
『ハリアーⅡ』が炎に包まれる。
『アロンダイト』がやや離れてニコラスの左方を抜ける。
避けた。
刹那。
《うぐあっ…!!》
「…ニコラスッ!!おい、大丈夫か!?」
凄まじい爆音が響き、放たれた散弾が『タイガーⅡ』の後方を食い千切った。尾翼や胴部後方は穴だらけになり、煙の尾を曳いている。これほどの威力である、コクピットの1発でも喰らっていたら。
操縦桿を握り、未だ直進し続けるニコラスの隣へ、カルロスは機体を位置させた。
「おい!応答しろニコラス!」
《何だ、心配してくれてるのか?問題無い、体は擦り傷一つないぜ》
「そうか…!もういい、後は俺一人でやる、脱出しろ!」
《そりゃ無理だ、ミサイル持たないお前じゃ逃げる奴を取り逃がしちまう。俺達だけしかいないんだから、やるしかないんだろ?》
「…お前…!」
自らが言った言葉を曳いて、手負いの虎が逃げる1機を追っていく。
速い。巡航ミサイルを追うヴァイス1を思わせるようにその翼は速い。カークス軍曹は斜め後ろ上空、攻撃体勢へ移るにはまだ時間がかかる。カルロスは追撃に備えるべくニコラスの斜め後ろに陣取りながら、急速に距離を詰める敵の姿を捉えた。元より短距離離着陸能力を重視した『ハリアーⅡ』と、高速戦闘も考慮に入れた固定翼機では速度が違う。
だが、それまでにニコラスの機体は持つのか。
爆発。『タイガーⅡ』の左水平尾翼が吹き飛び、機体が大きく揺らいだ。
「…もういい!無茶だ!」
《今更止められるか!…行くぞ、止め任せた!エスクード2、FOX2!》
《…させるかよ、サピンの!》
後方。攻撃体勢に入ったニコラスの後ろで、カークス軍曹の機体からミサイルが発射されるのが見えた。その数2、たとえ片方でも喰らえばニコラスの機体は持たない。
カルロスは操縦桿を倒し、左旋回でニコラスの後方へと強引に割り込んだ。こちらへと誘導が向いたのだろう、鳴り響くミサイルアラートが後方からの脅威を叫んでいる。
チャフ弾散布、フレア射出。ともに残量ゼロ。
ミサイルが誘導を失い飛び去ってゆく。
ニコラス。
未だ迫る自らへの脅威も顧みず、カルロスは前を飛ぶニコラスへと目を遣った。
AAM、発射。
煙の尾を曳いたそれが、『ハリアーⅡ』の尾部に炎を爆ぜさせる。
『ハリアーⅡ』が揺らぐ。煙を吐いて高度を落としてゆく。カルロスはフットペダルを踏みこみ、機体を一気に加速させてニコラスを追い抜いた。逃がさない。それを発射させる訳にはいかない。
ガンレティクルに広がる灰色の機体。放たれた曳光弾は、それを砕いて炎に包んだ。
《腕上げたな。ま、俺ほどじゃないけどな》
声に、爆発音が重なった。
爆炎は後方、ニコラスのいた位置。振り返ったその目には、『タイガーⅡ』が炎に包まれ、爆発して果てる様がまざまざと映ってしまった。脱出できたかどうか、その判別さえつかない、一瞬の間だった。
「……ニコラス………!あの、馬鹿…!!」
灰色の空、舞い散る雪。カルロスの声は、煙と濃青の水面の中へと吸い込まれ、虚しく消えていった。
戦いと生死の果ての静寂。そこに残ったのは、黒い翼の2羽の蝙蝠。
2機は、横合いへと円弧を描きながら互いを見据える。
《……カルロス。行かせてくれねえか。お前を落としたくねえ》
「…!軍曹こそ、攻撃を止めて投降して下さい!もう『国境なき世界』の残存機はいません。もう『アロンダイト』を使ったってどうしようもないじゃないですか!」
《…交渉決裂だな》
開戦の合図は、それだけの言葉だった。
操縦桿を引く。互いの機首が正面を向く。
ヘッドオン。機銃が飛び交い、2人の機影は掠めるように入れ違った。
被弾、なし。後方を省みると、カークス軍曹の方にも命中弾は無い様子だった。外れたのか、それとも無意識に外してしまったのか。
「どうして、ですか。何でそこまでして…!」
《ジョシュア大尉が前言ってただろ、『国境を無くす』ためだ。国境を、正しくはそれを作ってるバカ共を消すための力がコレなんだよ。――お前もこの戦争でさんざん見ただろう!くだらねえ争いに俺たちが駆り出されて、奴らの欲のために人が死んでくのを!》
再び機首を向け合う最中、機銃弾のように声が飛び交う。軍曹を止める…いや、それ以前に、その思いを、信念を知る。カルロスは思わず口を開き、応えていた。
軍曹の言う通り、この戦争では多くのものを見て来た。没落するベルカに付け入る諸国の強欲も、同盟国同士の暗闘も、そして数多の民間人の死も。軍曹や、かつてジョシュア大尉やアルベルト大尉が言っていたことだって、理解できないこともない。
だが、国境を無くした所で…国が国でなくなった所で、本当に戦いが無くなるものだろうか。
「…俺の故郷のレサスは、同じ国の中でも長年内戦が続いています。戦争の原因は、国境だけじゃない。たとえ国境がなくなっても、戦いがなくなるとは俺には思えない!」
《なら境界ってやつを、地域や軍閥みてえなもんのエゴに置き換えたっていい。それに寄って集まった集団ができる限り、戦いなんてのは終わらないだろうな。…その最大のものが国境なんだよ。この争いの源も、『あの日』俺の故郷を焼いたのもな!》
「そんな事…!」
正面。『ハリアーⅡ』の20㎜が火を噴き、こちらの23㎜が轟音を爆ぜさせる。
至近弾。擦過。今度は、数発だが手応えがあった。
馳せ違い、反転する。回転する空の中で頭を上げ、目標を見定める。背を取るという発想は、もはやカルロスの頭から消え失せていた。
口にした抗弁に、軍曹の言葉が被せられる。
かつてより遥かに多弁に、『国境なき世界』の理想を口にする軍曹。だが、カルロスはその話しぶりに、微かに違和感を覚えた。言葉遣いを噛み砕いた軍曹らしい話し方だが、その中身はどこか、教義や理想を口伝のまま口にしているような印象にも聞こえるのだ。どう表すべきか分からないが、少なくともその言葉に軍曹の意志が感じられない。
《それでも、誰かがやらなきゃならねえ!誰かがやらなきゃ、またホフヌングやカルガの悲劇が繰り返される!俺がお前らと別れてアルベルト大尉についてったのもそれだ、俺が『
「………」
続く、軍曹の言葉。それが重なるにつれ、カルロスの中でも違和感が大きくなってゆく。
カルロスに退けと言う訳でも、問答無用で撃墜してくる訳でもない。その言葉にも、沈黙するカルロスへ重ねるように言葉を紡ぐその様子も、『アロンダイト』を放つことの正当性を説くというより、弁明のような色すら滲んでいるように思えた。
軍曹は、何故この場でこんな話をするのか。何故時間を引き延ばすように、搭載しているであろうAAMを使わないのか。そして何故、その存在を誇示するように、わざわざ乗機の翼端を黒く染めたのか。
想像は、一つの結論へと導かれる。
存在の顕示、弁明、こちらの戦意を煽るような『国境なき世界』の理想の誇示。
まさか、軍曹は。
「…軍曹」
《あん?》
「理想とか、戦争の原因が何かとか、俺にはよく分かりません。…ただ、俺にも信念はあります。傭兵としての矜持もあります。たとえ軍曹を落としてでも、俺は『アロンダイト』を阻止します…!」
ふっ。
カルロスの言葉の後、通信に聞こえたのはそんな音。
嗤われたという様子でも苦笑でもない、ただ微笑んだような吐息一つ。その反応で、カルロスは軍曹の意志を感じた。
カークス軍曹は、本当は『アロンダイト』を使いたくないのではないか。
『国境なき世界』の理想に対する思いは分からないが、少なくともそれを使用してしまえば、軍曹はホフヌング空爆やカルガ空襲と同じ事をする訳になる。
だが、命令が絶対なのはどの軍でも同じである。何らかの事故が起こるか撃墜でもされない限り、『アロンダイト』発射の方針は変わることは無い。
だから。カークス軍曹はニムロッド隊と同じ塗装を選び、攻撃を引き延ばして、自分に戦闘を促しているのではないか。裏切者は、民間人への攻撃を企てる襲撃機はここにありと宣言し、そして自らを撃墜させるために。少なくともカルロスには、それ以外に軍曹の行動を説明できなかった。
《…ハッ。口ではなんだって言える。お前に信念があるっていうんなら、行動で示してみな。――来い、カルロス》
「――征きます」
操縦桿を引き、MiG-27M『フロッガーJ』が機首を持ち上げる。余計な武装を削ぎ落した機体は軽く、まるで手足のように素直な挙動に感じられた。
照準器の向うには、『ハリアーⅡ』の小さな機影。まさしく真正面、この戦争で幾度となく経験し、勝敗ともに覚えのあるヘッドオンの位置取り。生と死の距離が最も短い、匕首を突き付け合う一瞬の勝負。
雪が舞う。
静寂が空に満ちる。
記憶が脳裏を過る。
空爆に損傷したヴェスパーテ基地。
ニコラスと二人で挑んだ初陣。
ヴァイス隊との戦闘。
アルベルト大尉との出会い。
円卓での死闘。
焔に包まれるホフヌング。
核の黒煙。
ベルカ残党の壮絶な最期。
エスパーダ隊との別れ。
隊長から受け継いだ信念。
皆で笑った、かつての日。
――距離、500。
「――!!」
叫んだ。言葉にならなかった。
30㎜、6銃身ガトリング砲。23㎜ガンポッド、連装2基4門。5筋の射線は、直撃すれば並みの戦闘機ではひとたまりもない。連なる曳光弾が殺到し、灰色地に黒い翼端の機体へと幾つもの穴が刻まれてゆく。
《腕ェ上げたな、カルロス》
銃声に混じった、最期の声。それは轟音に紛れることなく、カルロスの耳に確かに届いた。
『ハリアーⅡ』が、炎に包まれて墜ちてゆく。
千切れた主翼、粉々になった尾部、そして二つに割れた胴体。水を湛えた国境線はそれらを全て呑み込んで、元の静謐な流れへと戻っていった。
「カークス軍曹……。」
鈍色の流れを見下ろし、カルロスはぽつりと呟く。
もはや、涙は出なかった。
悲哀と喪失感、そして言い表せない苦み。去来するその思いを、カルロスはただただ唇を噛んで受け止めていた。
雪が、一際強くなる。
既に、国境は白く染まり始めていた。