Ⅰ
―――最近、お嬢の機嫌が悪い。
最下級生であった1年から真ん中である2年に進級しておよそ1か月。ここしばらくの間オレは親しい少女―――薙切えりなが妙に不機嫌であることが気になっていた。
いや、お嬢が機嫌を悪くすること自体は別に珍しくもなんともない。何せプライドとエリート意識が服を着て歩いている様な女王様だ。ちょっとしたことで拗ねたり癇癪を起こしたりするのは半ば日常茶飯事、オレも見慣れている。
が、こうも長引くと流石に話は変わる。
独裁者よろしく、基本的にお嬢は生活圏の中に存在する自分の美意識にそぐわないものは速やかに排除しようとする傾向がある。少し前に潰されたちゃんこ鍋研究会なんかはその典型だろう。嫌いなものは消せばいいじゃないという何とも単純で子供染みた発想だがお嬢にはそれを可能とするだけの権力、そして何よりもその実力がある。
だからこそ1月もの間お嬢が自分を不機嫌にさせている要因を放置したままにしているのは中々に珍しかった。もしかして意外と嫌いじゃないのか、あるいは排除しようとしたけれど出来なかったのか。
まぁ。いずれにしろ興味はある。
お嬢に直接聞いた所で答えは返ってこないだろうと思って理由を察しているらしい緋沙子に尋ねてみたが、どうもその口は重かった。万が一影響を受けたら困りますって何じゃそりゃ。結局お嬢の機嫌が悪い理由は不明なままこうして5月に突入したわけだが、
「いったい何が理由だと思います?」
「そ、それを俺に聞かないでよ」
心底困った顔で司先輩はぶんぶんと首を横に振った。これまで幾度もの振るいを潜り抜けてきた最上級生にしては随分と可愛らしい反応だが、見た目がやや線の細い美少年だけに実に似合っていた。いやまぁ、仮にも遠月の頂点がそれで良いのかと思わないでもないけど。久しぶりに会ってもやっぱ司先輩は司先輩だった。
そのことに不思議と安心した気持ちになりながら振る舞われた紅茶に口を付ける。相も変わらず見事な腕前に感心していると、司先輩は弱弱しく笑った。
「久しぶりに会って話がしたいって言うからいったい何事かと思ったけど、薙切のことだったんだね」
「同じ十傑なら何か知っているかなと思いまして……急にマンションに押しかけてすいません」
「特にこれといって用事もなかったし別に構わないよ。しかしこうして顔を合わせるのは卒業式以来かな?」
「あー。多分」
大体二か月ぶりくらいか? 別に大して長い期間というわけでもないんだが、一時期はほぼ毎日行動を共にしていただけに実際の数字以上に久しく感じる。
あっ、そういや。
「まだ言ってなかったですよね? 遅くなりましたけど第一席就任おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「まぁ実力的に考えて司先輩が第一席になるのはわかってましたけど実際なってみてどうです? やっぱなんか変わりました?」
お嬢もその名を連ねている遠月学園における最高意思決定機関『遠月十傑評議会』、通称十傑。この春からその頂点、つまりは事実上遠月の生徒達のトップにある先輩に頂に立つ感想を聞いてみることにした。先輩は紅茶で唇を湿らすと静かにカップを置く。
「そうだね。前よりも使える権限の幅は広くなったし取り寄せられる食材の種類も多くなった。熊本岳父竹山の“黄金”なんて第一席でもないと手に入れるのは難しかっただろうし」
先輩が例として挙げたのは料理人の間では半ば伝説とされるタケノコの名前だった。別に十傑になれなかったことにそれ程大きな未練があるわけではないけれど、こう言う話を聞くとつくづく十傑という地位は便利だなと思う。相変わらずの出鱈目ぶりにオレが素直に感心していると、司先輩はふっと儚げな笑みを浮かべた。
「でも何よりも変わったのは俺にかかる責任の重さなんだけどね……」
「あぁー」
「はぁ。もともと俺に一席なんて向いてないんだよ。かかる期待は重いし向けられるプレッシャーは大きい、まだ1か月しか経ってないけど既に気が重いよ。会議なんかじゃ俺より1年の薙切の方がよっぽどしっかりしてるしさ。ほんと、何で俺が第1席なんだろ? こういうのは君のお父さんみたいな人がやるべきなんだよ」
「えっと……」
「それに今年十傑確実だと思ってた後輩は出席が足りなくて選ばれないしさ。はぁ、サボり気味なのは知ってたけど3分の1も休むって……秋の選抜で優勝したんだからそのまま素直に十傑になって俺の苦労を減らして欲しかったよ」
虚ろな瞳でぶつぶつと呟きはじめる司先輩。
どうやら年度をまたいでもそのネガティブさは相変わらずらしい。一度こうなった先輩を無理やり現実に引き戻すのは中々に骨が折れる作業だ。
だからオレは、
「やっぱうまいっすねぇ」
静かに紅茶を楽しむことにした。
いや別段急ぎの用事があるわけでもないし、先輩が自分で戻ってくるまで放置しといても特に問題ないだろう。まぁ先輩の負担の一因が遠からずオレにあることには些か心が痛まないわけでもないけど、
「ほんと『食卓の白騎士』とか仰々しい名で呼ぶの止めてくれないかなぁ。俺はそんなに立派なものじゃないって早く気付いてほしいよ。それならまだ『遠月の双子龍』の方が……あれも恥ずかしいけどまだ堂島と一緒の分だけ多少は……」
うん。放っておこう。なんか下手に関わると飛び火してきそうだし。
カップに口を付ける。
あぁほんと、美味いなぁ。
◇
厳重なセキュリティーの施されたエントランスの自動扉を潜って外に出ると空はもうすっかり暗くなっていた。今の今まで時計を気にしていなかったが、来た時がまだ昼前だったことを考えればどうやら随分と長い時間先輩の部屋にお邪魔していたらしい。
ここまで長居することになったのは先輩が想像以上に深く自分の世界に籠っていたこともあるが、何よりもその後に話が弾んだことが主たる原因だった。遠月の生徒らしく会話はその殆どが料理について。あれやこれやと議論している内に気付けば互いに厨房に立っているというパターンは去年と何ら変わらなかった。
やっぱり外で趣向の違う料理を学ぶのも大事だがこうして感覚が似ている人と料理を作るのもまたいい勉強になる。ここに来た本来の目的は果たせなかったが素晴らしく充実した時間だった。オレは随分と温かくなって来た夜風を感じながら、くるりと体の向きを入れ替える。
「それじゃ先輩。遅くまで失礼しました」
「構わないよ。また近い内に会おう」
「はい」
わざわざ外まで見送りに来てくれるあたりに司先輩の人の好さがわかる。これがお嬢ならオレが見送りに行くことはあっても逆はまずあり得ないし。そんなことをぼんやり思いながらオレは帰るために止めていたバイクに跨ってヘルメットを被り、
「あっ、最後に少しいいかな?」
呼び止められる。
エンジンに火を入れたまま振り返るとそこには少しだけ目を細めた司先輩がいた。纏う空気がやや鋭くなっているのが肌でわかった。
「堂島は今の遠月についてどう思う?」
「どうって……」
「このままでいいのかってことだよ」
質問は随分と漠然としていた。
今の遠月とは具体的に何を指しているのかもわからなければ、このままとはどういう状態を意味しているのかもわからない。ちゃんと答えるなら聞き返すのが普通だろう。
ただ真っ直ぐにこっちを見つめる真剣な瞳がそれを躊躇させた。
オレが返答に詰まっていると先輩はふっと柔らかく微笑んだ。
「突然変なことを聞いたね。忘れてくれていいよ」
「はぁ」
いささか釈然としないものを感じながら改めて前を向きハンドルを握りなおす。今度は呼び止められなかった。アクセルを回すと二輪特有の排気音が唸りを上げ、重い車体が勢いよく前方へと飛び出す。軽い発進の反動と向かい風を受けながらオレはちらりとミラーに映る小さくなった先輩に視線を送る。
さっきの質問は一体なんだったのか。
答えを求めて来たにもかかわらず余計に多くの疑問を増やしてオレは先輩のマンションを後にした。
Ⅱ
ソレに気付いたのは司先輩のマンションから戻ってきた後、今の自宅としてお嬢から貸し与えられている薙切の離れについて少ししてからのことだった。いつもならもう少し早く気が付いたのかもしれない。ただその時は最後に聞いた質問のことが未だ気になっていたこともあって、玄関扉にカギを差し込んでからようやく異変を認識した。
「あれ?」
いつもの様に右に回そうとするがなぜか上手く回らない。力任せにやれば壊れそうだったため一度抜いてみるがやはり鍵の種類は間違っていなかった。不思議に思いながら戸を引いてみると、しっかりと閉まっていることを確認してから出かけた筈の扉が少し開く。おまけに耳を澄ますと何やら家探ししている様な物音まで聞こえてきたではないか。明らかな異常。
ただオレの心に然程大きな動揺はなかった。
「泥棒―――はないな」
何せここは天下の薙切一族が居を構える敷地内。強固なセキュリティーを潜り抜けることができる泥棒など早々いないし、仮にいたとしても金目の物などないこの離れを訪れる理由がない。必然、今離れの中にいる人物はオレが知っている人物―――つまりは薙切の関係者に絞られる。候補としては合鍵を持っている緋沙子とお嬢が真っ先に浮かんだが二人の美意識を思えば家主に無断で家の中に上がる可能性は低い。
となればだ。
戸にかけた右手に力を籠める。ガラガラと音を立てて露わになった玄関にはどこか見覚えのある白のレディースサンダルと無骨な黒のブーツが仲良く揃って並んでいた。
「……はぁ」
やっぱりかこの野郎。これで物音の正体はハッキリとした。ついでにどうやって部屋にがったのかも。そりゃ元々ここは薙切のモノなんだからスペアの鍵くらい簡単に手に入るよな。だからと言って無断で上がっていいというわけではないけど。
これが育った環境の違いというやつだろうかと呆れながら靴を脱ぎ捨てふすまを開く。
すると、
「おかしいわねぇ。何でないのかしら?」
「もういい加減止めないっすかお嬢。こんだけ探しても見つからないってことはないんすよ、多分」
「何言ってるのリョウ君! お母様が一人暮らしの男性の家には必ずお宝があるって言ったのよ。きっとどこかに隠れているに違いないわ! ところでお宝って何のことかしら?」
「あー。なんでしょうねー」
したり顔で部屋のあちこちを物色する銀色のお姫様と、口では止めるものの基本的にイエスマンな寝ぼけ顔の従者がいた。あー。頭がイテェ。
「……仮にも人の家でなにやってんだ?」
「あっ。金一君おかえり。呼びに来たのにいなかったから勝手に上がらせてもらっているわよ。あっ、冷蔵庫に入ってたプリン美味しかったからまた今度作ってね」
「……そうか」
いやなんかもう、ここまでフリーダムだと逆に何も言えなかったりする。一応部屋の隅でぼうっと立っている従者に視線を送ってみるが返ってきたのは無言の否定。
だから仕方なく自分の手で止めることにした。というかそろそろ止めないとトレジャーが眠る本棚に目を付けそうだったし。
「部屋を漁るのはそこまでだアリス嬢。つーか何の用だ?」
「うーん、仕方ないわね。金一君も帰って来たし探すのはまた今度にしましょう」
「な・ん・のようだ?」
「金一君、夕飯はもう食べたかしら?」
「夕飯? まぁ食べたと言えば食べた―――」
「今から私とリョウ君で料理勝負するからその判定をしてちょうだい!」
アリス嬢はもう少し人の話を聞くことを覚えた方が良いと思う。いやそれが彼女の魅力だと言われればそうなんだろうが。ここで断っても強引に連れて行かれるのは目に見えていた。同じ我儘な姫様でもなんだかんだ結構ちょろいお嬢とは違い、フリーダムなアリス嬢は制御が難しいのだ。それに審査員をすること自体には別に異議があるわけでもなく。
「……着替えるから外で待ってろ」
◇
目の前に並べられた二つの皿。そこに乗るのは二人の料理人が技術の粋を集めて作り上げた芸術品。片や最新鋭の理論に基づいた上品で優雅な料理、片や食べる人間の味覚を強引に犯すような迫力ある料理。どちらも美味であることに疑う余地はなく、方向性こそ違うが使われている技術も拮抗している。
これは中々に審査が難しいが、
「アリス嬢の勝ち」
そう判定を下すと勝者は当然ねとも言いたげにコックコートに収まる形の良い胸を張った。ただ表情が綻んでいる辺りやっぱり勝ったことは嬉しいらしい。
一方敗者は、
「うがぁぁぁ! 俺の料理が負けだっていうのか!?」
まるで親の仇でも見たかのような危機迫った顔でオレに近づいてくる。暑苦しいからその顔であんまり近づいてくるな黒木場。余りにもうるさいので頭に巻いてあるバンダナを奪い取ると、瞬く間に猛犬モードから元のぼうっとした忠犬に戻った。料理をすると性格が変わる料理人は結構多いが、そのスイッチがバンダナというのは多分コイツだけなんじゃなかろうか?
「……俺の負けっすか? 金一先輩」
「ヒラメを使った発想は面白かったが結果として少しお題から外れたな。柔らかな食感を残したいなら下処理の方法に気を付けた方が良い」
「後で教えてもらっていいっすか?」
「あぁ」
約束すると黒木場はすごすごと後ろに下がっていった。そんな負け犬となった従者を見て銀色のお姫様は機嫌よく鼻を鳴らした。
「ふふ。これで今週は私の勝ち越しねリョウ君。少しは主の偉大さを思い知ったかしら?」
「……先週はオレが勝ち越したっすけどね」
「んまぁ生意気! でも気分がいいからそんな無礼も許してあげる。今日の料理はいつにも増して回快心の出来よ! これなら金一君にだって負けないわっ!」
そう自信満々に宣言するアリス嬢。
おぉそうかと軽く流すと、我儘なお姫様はぷくりと頬を膨らませた。
「んもう! ノリが悪いわよ金一君! そこは『思い上がるのも大概にしな』って無駄に格好つけて料理を作る場面じゃない!」
「なぁ黒木場。アリス嬢は昨日なんのテレビ見たんだ?」
「確か昔の任侠映画だったような……揉め事起きたら拳銃の代わりに包丁持って料理バトルしてたけど」
「任侠?」
単なる色物じゃなかろうか。とは言えそんな胡散臭さ満載の映画でも影響を受ける人間はしっかりといるようで、アリス嬢は腕組みなどしながらオレが料理を作るのを今か今かと待っている。まぁ別にいいけど。
「厨房借りるぞ。黒木場、丁度いいからさっき言ったヒラメの下処理の方法を教えてやる」
「うす」
「あっ。リョウ君だけずるいわよ! 私もついてく!」
「……素に戻るのが早すぎだ」
そしてその一時間後。
目の前には蕩けた顔で天を仰ぐ主と無我夢中でフォークを動かし続ける従者の姿があったが―――別に珍しい光景でもないので大して気にすることなく料理の合間に用意したティーカップに手を伸ばす。司先輩から譲ってもらった茶葉だけに品質は保証済み。淹れ方にも問題はなく、いつも通り最高の状態で味と香りを楽しめている。
だというのになぜだろうか。
昼間飲んだ時ほど純粋に美味しいとだけ思うことができないのは。
浮かんだ小さな不安を呑みこむため、オレはまた一口カップに口をつけた。