―――秘書子。
遠月学園にはそう呼ばれる一人の女生徒がいる。勿論、本名ではない。
彼女の立場を揶揄する一部の生徒達が勝手につけたあだ名だ。けれど余りにも端的に彼女の在り方を現したその名は、呼ばれる本人にとっては不本意ながらも今や全校生徒に認知されつつあった。
新戸緋沙子、15歳。遠月学園一年生にして、かの薙切えりなの付き人。
彼女の朝は早い。まだ日が昇る前に起床すると、最低限の身支度を整えてからパソコンへと向かう。メールボックスには昨夜から今朝にかけて届いた、えりなへの依頼や相談が画面一杯にびっしりと並んでいる。
……今日はまた多いな。
手早く全てのメールに目を通し、重要かつ急務なものから片づけていく。大よそ高校生らしからぬ作業だが緋沙子にとってはもう慣れたものだった。画面とスケジュール帳を睨むことおよそ30分。最後に『フランシェ』のオーナーにお断りの返事を送信し終えると、緋沙子は小さく伸びをした。えりなのスケジュール管理を任されてから何ら変わらない朝のルーティーン。ただ最近はそこに加わる作業があった。
「ふんふふ~ん」
鼻歌交じりに大きな化粧台の前でパジャマから制服へと着替えていく。鏡には先程までの敏腕秘書の姿はなく、頬を緩めた年頃らしい一人の少女が映っていた。
……制服に皺なし、寝癖なし、目に隈もない。
軽く化粧でもすれば更に映えるのかもしれないが、料理を行う人間にとっては邪魔なだけ。また更に言えば、化粧は美を取り繕っているような気がして緋沙子はどうも好きにはなれなかった。今の自分に出来る範囲で身だしなみを整え、屋敷を出る。
扉を開いた途端に頬を撫でていく春の朝の風は未だ冷たかったが、それは緋沙子にとって何ら障害になりえなかった。どこまでも軽い足取りで向かった先は本邸から5分ほど歩いた場所にある小さな離れ。とりあえずはいつものようにインターホンを鳴らしてみるが、この一か月返事が返ってきた試しはない。この日もまたそうだったため緋沙子は苦笑を浮かべつつも預かった合鍵を使って戸を開いた。
「失礼します」
律儀に断ってから敷居をまたぐ。
丁寧に脱いだ靴を揃えてから緋沙子はふすまの前で膝を折った。
「兄様。緋沙子です。もう起きていらっしゃいますか?」
尋ねるものの返事はない。ただ中から微かな物音が聞こえてくるあたり、部屋の中にいることは間違いなさそうだった。失礼しますと静かにふすまを開ける。
目的の人物はすぐに見つかった。12畳の和室中央に置かれたこたつ。
その人物はまるで亀のようにこたつ布団の中にすっぽりと身体を埋め、座椅子を枕代わりにして静かな寝息を漏らしていた。
……そんな所で寝ては風邪を引いてしまいますといつも申していますのに。
座椅子の近くに料理本が転がっているあたり、また例の如く読書中に寝落ちしたらしかった。緋沙子は呆れ顔で金一の傍によると、優しくこたつ布団に埋もれた大きな身体を揺らした。
「兄様、朝です。起きてください」
「ん……んん…」
「あと五分ではありません。早くしないと朝食の準備に―――」
「ん……ん、ンん…」
「わ、私も一緒にこたつの中に!? そ、それは大変うれしい……こほん、金一兄様。そろそろ本当に起きてください!」
「んん……」
どうやら今日の金一はいつにも増して寝起きが悪い。緋沙子は時計を確認すると、仕方ないとばかりにこたつ布団に手をかける。そして一気に捲りあげると、金一の瞼が薄らと開いた。
「……緋沙子?」
「はい、緋沙子ですよ兄様。おはようございます」
「ん」
「あまり時間がありませんで、シャワーを浴びるようでしたらお急ぎください」
「ん」
のっそりと体を起こした金一は、どこまでも眠たげな顔でバスルームへと向かった。それを見送ってから緋沙子は「さて」と腰に手をあて、12畳ほどの室内を見渡す。
さして汚れているというわけではないが男子学生の部屋らしく畳の上には脱ぎっぱなしになった制服やレシピ本が散在していた。
「もう、しょうがいないですね」
そう言った緋沙子の表情は明るい。少しでも真面目に金一が学校に行くようにと、えりなが金一を半ば無理やりこの薙切の離れに住まわせてからおよそ一か月。毎朝こうして緋沙子が離れを訪れる甲斐あって今の所金一は真面目に学校に通っている。
緋沙子はテキパキと落ちていた本を元の本棚へと戻し、制服をハンガーにかけた。
……ほんと兄様は私がいないとダメなんですから。
この一か月の間に緋沙子は敬愛する兄貴分が意外と普段の生活ではだらしないことを知った。繊細で細やかな料理を作る兄様にしては意外な一面だと最初こそ驚いたものだったが、今では私がお世話をしなければという使命感が緋沙子の心にはある。
……掃除機は放課後にかけるとして、他に落ちているものは。
こたつ布団を4方向から全てめくり上げてみる。すると白いカッターシャツがその姿を現した。あぁよかったと細い手がそれを掴んだとき、ふと、とある願望が真面目な少女の中に芽生えた。魔が差したとでもいうのだろうか。
気が付けば緋沙子はシャツを胸に抱き、その中に顔をうずめていた。
「……兄様の匂い」
そこでハッとなる。
もしかして今自分はとんでもないことをしているのではないかと。
刺激が強すぎてえりなにはとても見せられなかった少女マンガにこんなことをしている登場人物がいなかったかと。
「あっ」
ぽとりと、緩んだ両手の隙間から白いシャツが零れ落ちる。慌ててそれを拾うと緋沙子はいつにも増して俊敏な―――そしてギコチナイ動きで襖を開き、廊下に置かれた洗濯かごに放り込んだ。
「はぁ、はぁ」
熱くなった体、荒くなった呼吸。
金一がシャワーから戻ってくるギリギリまで、頬の赤みが抜けることはなかった。
◇
薙切本邸の厨房は高級料亭よりも恐ろしい。
かつて薙切から追い出された料理人はそう語った。
美食の一族薙切家、そしてその薙切の血族の中でも最高傑作と噂される薙切えりな。彼女に提供する料理に失敗は許されない。なにせもしも出した料理に些細なミスや不備でもあろうものならたちまち『神の舌』によって無能の烙印を押され、次の日にはそれまで築き上げてきた実績が全て無へと帰してしまうのだから。
精鋭揃いの料理人達をもってしても尚、地獄の調理場と言わしめる薙切の厨房。
しかしここ最近、朝という一時のみに限ってはいささか勝手が異なるものとなっていた。
「緋沙子。そっちの用意はできたか?」
「はい、できましたっ!」
「うっし。ありがと」
緋沙子から切り揃えられた食材を受け取ると金一はそれを他の具材と混ぜ合わせ熱したフライパンへと落とし込んだ。決して炒めなさすぎず、そしてまた炒めすぎず。
適度に火加減を調整しながら華麗にフライパンを振るうその姿はまるで一種のショーを見ているかのよう。緋沙子はうっとりとした瞳で目の前で行われている芸術を鑑賞した。
……食材によって火の通りが違うのに焦がすことなく全ての食材に火を通し、更には最高の状態に持っていっている。
一見単純なように見えるがこれをできる料理人がどれほどいるか。
正に神業。食材の声を聴く堂島金一だからこその妙義。
……こうして金一兄様の調理を手伝っているといかに自分が未熟なのかがよくわかる。
タダで薙切の離れに済ませてもらう礼にと、金一が薙切えりなの朝食作りを買って出たのが3週間ほど前。今では緋沙子が金一を起こしに行き、それから一緒になって朝食の用意をするというのがこの薙切の敷地内では日常となっていた。
……毎日毎日、私は兄様から学ぶことばかり。
調理の手伝いもどれだけ金一の役に立っているかは怪しいもの。そのことを緋沙子は申し訳なく思っていたが、それ以上にこうして金一と料理が出来るのを嬉しく思っていたりしていた。勉強になるというのもそうだが何よりこの場には自分達しかいない。
……金一兄様を起こして、こうして二人で朝食の準備を行う。
それはまるで緋沙子が憧れる―――
「新婚の夫婦みたいね」
自分の心の声を代弁したような言葉に緋沙子はぎょっとした。
慌てて声のする方へと顔を向ければそこでは見慣れた人物が軽やかに手など振っていたりしていた。
「おはよー、秘書子。朝ごはん食べに来たわよ~」
「ま、またいらっしゃったんですか、アリスお嬢」
緋沙子は自分の顔が若干引き攣るのを自覚した。薙切アリス。その名字を聞けばわかるように薙切の血族の一員にして、緋沙子が仕えるえりなの従妹。
えりなの日輪の如く光り輝く金髪とは異なる、透き通るような銀髪に白雪の肌、北欧出身の母親によく似た彫の深い美しい顔立ち。学園の男子生徒の一部などはそのあまりの美貌から『銀色の妖精』などと呼んだりしているが、およそぴったりな表現だと緋沙子は思う。いい意味でも、そしてまた悪い意味でも。
「今日の朝食はなにかしら? 和食? 洋食? 私としてはパンが食べたい気分なんだけど」
「……食べたいものがあるならご自分の料理人に作らせればいかがです? 別邸にも専属の料理人はいる筈ですが」
「え~。だって金一君のご飯の方がおいしいし」
「今週だけでもう4度目ですよ?」
「たった4回じゃない。もう、相変わらず秘書はお堅いわね~」
あなたが自由すぎるだけです、緋沙子は喉まで出かかった言葉を何とか呑みこんだ。海外生活が長かったためなのかアリスはあまり相手に配慮するということをしない。
やりたいことがあれば素直に行うし、やりたくなければ行わない。自己主張がハッキリしていると言えばそうなのだろうが、あまりにも自分に正直すぎるその在り方は緋沙子の美意識と反するものだった。
「ほらほら。そんな怖い顔しないでもっと笑いましょうよ」
「別に怖い顔などしていません」
「えぇ~? だって秘書子、前にドラマで見たいじわるな姑みたいな顔しているわよ?」
例えるにしてももっとマシな例はなかったのか。そして不機嫌だとわかっているのならとっとと帰ったらどうなのか。色々と思う所はあったが相手は緋沙子が敬意を払うべき薙切の一族。えりなの従者でしかない緋沙子が正面から帰れというわけにはいかない。
……こういう時はありす嬢のお付きであるあの男に。
えりなに緋沙子がいるように、アリスにもまたお付きとなる少年がいる。名前は黒木場リョウ。年はアリスや緋沙子と同じで学校も遠月に通っている。これまでちゃんと話した回数は少ないがそれでも同じ付き人という立場なら今の自分の気持ちを汲んでくれるはず。そう考えた緋沙子はアリスにそれとなく帰宅を促すよう黒木場に頼もうとしたが、
「……金一先輩。下ごしらえ終わったすよ」
「あぁ、サンキューな。それじゃサラダの準備頼むわ」
「うっす」
どういうわけかアリスの付き人は金一の隣で料理の手伝いをしていた。
―――緋沙子の代わりに。
えっと戸惑っている間にも、黒木場は金一から頼まれた作業を黙々とこなしていく。
緋沙子の代わりに。
「に、兄様?」
「ん? どうした緋沙子? オレの方は黒木場が手伝ってくれるから緋沙子はアリス嬢と話してていいぞ」
「ねぇねぇ金一君。今日の朝食って和食? それとも洋食?」
「洋食。いいフランスパンが手に入ったからそれに合う料理を作ってる」
「やった! もちろん私とリョウ君の分もあるんでしょ?」
「まぁ材料はあるしな」
「さすがは金一君ねっ!」
満足そうに頷くアリスとは対照的に緋沙子のテンションは下がる一方だった。金一が許可した以上アリスを追い出すことはできなくなり、朝の自分の役目も黒木場に奪われた。
……うぅ。私の朝が。
はしたないことをした報いなのか。
がくりと、緋沙子は項垂れるのであった。