薙切えりな。
日本料理界において彼女の名を知らぬ者はいないだろう。いや仮にいたとしても、『神の舌』を持つ少女と言えばきっと通じるに違いない。
神の舌。それは彼女の人並み外れた味覚を表す言葉であり、また同時に彼女自身をも指し示す記号でもある。その繊細な舌は僅かな甘みや苦み、果ては料理人の心さえ映し出してしまう魔法の鏡。彼女が下す評価と指摘に外れはないとされ、今では洋の東西を問わずありとあらゆる高級料理店が若干16歳の少女の意見を求めて頭を下げる。
食に関わる者であれば誰もが羨んで止まないオンリーワンの才能。
そんな飛びっきりの贈り物を天より与えられてこの世に生を受けた彼女だが、与えられた贈り物というのは決して一つではなかった。どうやら天というのは随分と気紛れだったらしく、他に二物も三物も彼女には与えられていた。
例えば美の女神も裸足で逃げ出す美貌に豊満なプロポーション、例えば日本有数の名家である『薙切』という家格、例えば優れた味覚を活かすことのできる料理の才。
大よそ思い通りにならないことはないのではないかという恵まれっぷりだが、えりなも決して万能ではない。彼女にも当然、儘ならないことはある。
そしてその最たるのが、
「どうよ、お嬢? そのソースかけると爽やかさが増して更に美味いだろ?」
目の前で自信満々に胸を張る一つ年上の少年、堂島金一だった。
彼の言うように、えりなが今食べているジェラートは超高級イタリアンで出されるソレと比べても何ら遜色がないもの。いやえりなの個人的な好みでいえばより素材の味を感じられる分だけ上とさえ言える。つまりは、とんでもなく美味。
けれどそれをそのまま伝えるのは癪だった。だからえりなは緩みそうになるのをなんとか我慢し、ゆったりと器と匙を置いてから声を振り絞った。
「わ、悪くはないわね」
「そりゃよかった」
悪くないと言っただけなのに金一は随分と嬉しそうに笑う。それがまるで自分の心情を見透かされているように思えて、えりなは面白くなかった。しかしこれといった仕返しも思いつかない。結局は逃げるように金一から顔を背け、窓の外へと視線を投げかける。いつも美しい画が見えるようにと職人の手によって整えられた薙切邸の庭には、春らしく満開の桜が咲き誇っていた。
……そういえばこのぐらいの時期だったわね。金一と初めて会ったのは。
あれからもう七年もの月日が流れた。早いものだと、えりなは気づかれないよう横目で金一の顔を伺う。あの頃よりも随分と逞しくなった体、幼少の頃より凛々しかった顔立ちはこの数年で更に磨きがかかり、ますます父親に似通ってきている。
性格は違えども流石は親子だと感心し、ふと、こんな疑問を抱いた。
……金一の子供もやっぱり金一に似るのかしら?
未来の金一ジュニア(男)を想像してみる。
力強さを宿す眼に精悍な顔立ち、髪色はやはり輝かんばかりの黄金で―――
……黄金?
はてとえりなは首を捻った。金一の髪の色は日本人らしく黒、金色ではない。
ではなぜ自然と金色などと思ったのか。今の想像だと母親となる相手が金髪ということになるが、
……金一の周りで金髪の女子。
考えてみるがすぐには出てこなかった。しかしあれだけハッキリと金髪と思ったのだから、その女子が金一にかなり近い位置にいることに間違いはない。そしてまた、えりなも良く知っている人物の筈。
……金一の相手になる女性。
顔のわからない金髪の女が金一の横に立っているのを想像してえりなは苛立った。理由はわからない。ただ何となく、気に食わなかったのである。その後もう少しだけ考えてみたものの、結局これだと思える人物は思いつかなかった。
……こうなれば仕方ないわね。
あまり気は進まないがこのモヤモヤとした気持ちを抱えるよりはずっと良い。そう判断し、えりなは当の本人に聞いてみることにした。
顔を正面へと戻し、こほんと咳払い一つ。
「えっと、き、金一?」
「ん? どうしたお嬢?」
「別に大した意味はないのだけれど、その、あなたが親しくしている女性はいるかしら? き、金髪で」
「どうしたんだ急に?」
「いいから答えなさい!」
えりなの剣幕に金一はたじろいた。
たじろぎ、そうだなと頬を掻いた。
「仲の良い金髪の女性? そりゃまぁ海外に行っていたし、それなりにいるけど……」
「その中の一番は?」
「一番? あぁ、それなら簡単だ」
「誰!?」
「誰って……」
心底不思議そうな顔で金一はえりなを見た。その隣では緋沙子もまた、きょとんと眼を瞬かせている。不思議な空気の中、金一は最も親しく思う人物を告げた。
「お嬢だよ」
「えっ?」
「だから金髪で一番仲のいい女性だろ? そんなのお嬢しかいないって」
その言葉を咀嚼するまでにえりなは数秒の時を要した。
そしてその意味をようやく理解した時、端正な顔は深紅へと染まった。
「っつ!?」
「けど何でこんな質問したんだ?」
「た、単なる気の迷いよ! だからもう忘れなさいっ!」
「はぁ」
金一が訝しそうな目を向けるがそれを気にしている余裕はえりなには欠片もなかった。
何度も何度も深呼吸を繰り返し、高まる胸の鼓動を無理やり押さえつける。
……え? 金一と一番親しい位置にいるのがわ、わたしってことは、私が想像した金一の相手って―――!?
もうまともに金一の顔を見ることが出来なかった。
身体は熱を発し、いつもは理路整然としている脳内がぐちゃぐちゃになる。
ただそんな混乱した頭でもわかるのは、このままここにいるのは不味いということ。
いつになく乱れた動きでえりなは立ち上がった。
「す、少し夜風にあたってきます!」
「あっ。それでしたら私が付き添いに」
「い、いえ結構よ。緋沙子はここにいなさい」
「んじゃオレが一緒に―――」
「っつ!? 絶対にダメよ! 金一はここにいなさいっ!」
自分でも驚くような声を発し、えりなは部屋を離れた。
◇
朗々と降り注ぐ月明かりの下、庭に出たえりなは大きな桜の木の下で涼を取っていた。
季節はもう春とは言え、まだ四月の上旬。いつもは肌寒いと感じる夜風が火照った体には心地よく、乱していた思考を整えてくれる。
……夜桜が綺麗ね。
風に乗ってひらひらと舞い落ちるピンクの花びら。古来より変わることのない日本の風情にしばし浸っていると、えりなは近づいてくる人物に気が付いた。
「……来ないでって言ったわよね?」
「やっぱ少し、気になってな。帰れっていうなら帰るけど?」
「もう別にいいわよ。好きにしなさい」
「ならそうさせてもらう」
金一はえりなの横に立ち、同じように桜の木を見上げた。ついさっきは随分と取り乱したえりなだが、今は夜桜の力のお蔭か余分な感情を抱かずに金一を見ることが出来た。
恐らく金一は純粋に自分の体調が心配でここまで来たのだろう。
そういう所は妙に心配性なんだからと、えりなは小さく口元に笑みを浮かべた。
「綺麗だな」
「えぇ」
静かな時が流れた。会話のない、無言の時間。
それを先に破ったのは金一の方だった。
「……十傑に選ばれたんだってな、お嬢」
「あら? 知っていたの?」
「さっき緋沙子から聞いた。最年少での十傑入りだろ? おめでとう」
「まぁ当然の結果よ。でもこれから学園で会う時はもう少し私に敬意を払うことね、堂島金一2年生」
「はいはい、わかりましたよ。えりな十席」
「むぅ」
敬意の欠片も籠ってない言葉にえりなは小さく頬を膨らませた。
けれどすぐに諦めたようで、やれやれと短く息を吐き出す。
「やっぱりその様子だとあまり堪えてないようね」
「堪える?」
「自分が十傑に選ばれなかったことがよ」
あぁと、金一は納得の声を上げた。えりなが予想していた通りその顔には落胆や怒りと言った負の感情は見えなかった。いつもと何ら変わらない様子で金一は頬を掻き、
「まぁ残念は残念だけど、十傑の選定基準は学内評価だしな。あんだけサボりまくってたら選ばれなかったのも仕方ないって思ってる」
「まったく。だからもう少し真面目に授業に出なさいとあれだけ言ったのに」
「悪いなお嬢。けどやっぱ、色んな料理に触れたかったんだよ。授業だけじゃわからないことも多いし」
「それで確実と言われていた十傑の座を落とせば間抜けもいいところではなくて?」
「全くその通りだ」
ハハ、と金一は明るく笑う。
えりなはとことん呆れた様に肩を竦め、可憐な唇から大きな溜息を吐き出した。
「ともかく、今年はもう少し真面目に過ごすことね。2年生になれば卒業のために重要な演習やテストも増えてくるわ。これまでの様に頻繁に学校を離れているようじゃ、いくらなんでも退学になりかねないわよ?」
「ん。精々気を付ける」
「その言葉、去年も聞いたような気がするのだけれど?」
じとっとした目を向ければ、金一は困ったように頬を掻いた。
「いや、だってさお嬢。熊本に美味いラーメンを作る職人がいる、フランスに3つ星を取ったレストランがある、四川の奥地に2000年間受け継がれてきた味がある。そんな噂を聞いたら食べてみたいと思うのが人間だし、習ってみたいと思うのが料理人だろ?」
「限度を弁えなさいと言っているのよ。堂島シェフのように遠月の歴史に名を残そうとは思わないの?」
「ん~。あんまし考えたことないな。そういうお嬢は……って、聞くまでもないか」
「えぇ。もちろん十席の頂点に立つわ。それが私の使命であり、運命だもの」
そう宣言するえりなの顔は自信に満ち溢れていた。自分の未来がそうなるのだと信じて疑わない、正に女王と呼ぶに相応しい覇気。
金一は眩しそうに目を細め、そんな未来の女王様の姿を目に焼き付けた。
「迷いがないな、お嬢は」
「だって迷う必要がないもの」
遠月十傑の第一席になることは足掛かりだ。いずれえりなは日本料理界そのものの頂に君臨し、そして全ての料理人から傅かれる存在となる。
「金一、あなたは仮にもこの薙切えりなの幼馴染なのだからもう少し自分の立場というものに気を払いなさい。あなたが侮られるようだとこの私の名にも傷がつきます」
「おっと。そりゃ不味い」
「えぇ。ですから頑張りなさい。そうすればいつか―――」
そこで、えりなは言葉を詰まらせた。白く戻った頬が再び熱を灯し、視線が頼りなさげに右往左往する。けれどそんな躊躇も一瞬。
紅くなった顔でえりなは金一の瞳を覗き込んだ。
「私の一番近くで頂の景色を見せてあげるわ」
誰をも虜にする微笑を浮かべ、女王様は囁いた。