堂島金一の華麗なる食卓   作:神田瑞樹

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少年少女達は思い悩む

 圧巻だった。

 眼前を埋め尽くす大量の水も。

 熱い風に乗って鼻腔を突き抜けていく潮の香りも。

 ギラギラと天空で輝く太陽も。

 広がるは紛うことなき大海原。

 熱された砂を素足で踏みしめながら、金一は思わずにはいられなかった。

 

 ……本当に来たな。

 

“みんなで海へ行きましょう!”

 

 そんな宣言をアリスが夕食の席でしたのが夏休み半ばの8月16日―――つまりは昨日のこと。遠月でも屈指のトラブルメーカーにしてトリックスターである彼女から何かを切り出すことは決して珍しいことじゃない。

 実際えりなとアリスの両方が絡むプライベートなイベントの殆どはアリスの発案によるもの。ただその発案の殆どは突発的かつ人の都合を考えないものなので、その時夕食の場にいた金一とえりなは「あぁ。またいつものか」と半ば呆れ顔で聞き流していた。

 アリスは興味を持つのも速いが、冷めるのはそれ以上に速い。

 だから今回もどうせ一晩もすれば忘れている。

 そう甘く見積もっていたのだが、

 

「……アリス嬢を甘くみてたな」

 

 首を左から右へと回してみるが自分たち以外は誰もいない。

 だがそれも当然だった。

 なにせこの地域一帯は誰にも邪魔されることなく海水浴を楽しめるよう開発されたセレブご用達のリゾート地。その中でも左右の大きな二つの崖に区切られた今いる超一級スポットは薙切家専用のプライベートビーチなのだから。

 朝一で無理やりリムジンに押し込まれた金一は大きく欠伸を噛み殺すと、さっきから後ろでせっせとビーチパラソルを広げる海パン姿の後輩に目を向けた。

 

「しかし、よくあのお嬢を連れてこれたな? 絶対嫌がったろ?」

「そうですけど……そこはまぁ、こう。ウチのお嬢が上手くなんとかして……」

「上手く、か。あっ、手伝わなくて平気か?」

「大丈夫っす。慣れてるんで……」

 

 どことなく哀愁すら漂う虚ろな黒木場の背中に金一は苦笑した。きっと似たようなことが今までに何度もあったのだろう。ご愁傷さまだなと心の中で手を合わせながら再び海を見る。水面はキラキラと星屑のように輝いていた。

 

 ……急とは言え久しぶりの海。

 

 それも滅多にあるものではない貸切だ。

 これは楽しまなければ損と着ていたTシャツを脱ぎ捨てて身体を解していると、

 

「わぁー。金一君、凄いからだ。ねぇ見て見てえりなっ!」

「あ、アリス! そんなに腕を引っ張らないでちょうだい!」

「えー。せっかくの水着なんだし、えりなだって早く金一君に見て欲しいでしょ?」

「そ、そんなわけっ……」

「秘書子もそんなパーカーなんか脱いで脱いでっ!」

「あっ、アリスお嬢!?」

 

 後方が随分と賑やかなことになっていた。

きゃぴきゃぴという一昔前の擬音がぴったりと似合いそうな女性陣の声に金一はゆっくりと振り返り、「へぇ」と心からの感嘆を零した。

 

 ……似合ってる。

 

 金一の視界を占領したのは水着を纏った三人の少女達。

 えりなと緋沙子は恥じらうようにうっすら頬を赤めながらもじもじと、反対に先頭に立つアリスはまるで見せつけるかのような堂々とした態度で砂浜の上に立っていた。

 

「ふふ。どう金一君! 私の水着はっ!」

「あぁ。良く似合ってる」

 

 それはお世辞でも何でもなく本心からの言葉だった。

 アリスが身に着けている水着は肌の色と同じ真っ白なバンドゥ・ビキニ。ハッキリと凹凸のついた綺麗なボディーラインを強調することで女性らしい美しさを醸し出しながらも、ブラとボトムを飾る可愛らしいフリルが十代の少女らしい愛らしさを演出している。

 可愛さと綺麗さ、その両方を併せ持つアリスらしい水着だ。

 

「に、兄様。その、いかがでしょうか?」

「よく似合ってるぞ緋沙子」

 

 一方、緋沙子の水着は同じビキニはビキニでもブラがキャミソールの形をしたタンキニビキニ。すっぽりとお腹を隠す花柄模様はどこまでも可愛らしく、奥ゆかしい妹分に良く似合っているように金一には思えた。

 そして残る最後の一人。

 じっと金一はトリを飾る少女に視線を注いだ。身内だけとは言え、珍しく人前で肌を大きく晒した生粋のお嬢様が頬を赤らめて一歩後ずさる。

 

「な、なによ……」

「いや……やっぱお嬢はなに着ても似合うな」

 

 ビキニの王道、ホルタ―ビキニ。誰が来ても似合うとされるスタンダードタイプだが、薙切えりなが着るとなると一段も二段もその輝きと魅力を増すというもの。

 赤一色という極めてシンプルなデザインだというのに全く寂しさを感じさせないのは、その圧倒的なスタイルがあってこそだろう。

 少女達の三人が三人ともそこらの海水浴場ではまずお目にかかることが出来ない程の逸材。ここがプライベートビーチで良かったと金一は心底安堵した。

 

「さぁて! 明日のお昼にはここを出ないといけないし。今日は日が暮れるまで遊び尽くすわよっ! 行くわよリョウ君っ!」

「うっす」

「ちょっ!? アリス!? 何でまだ私の腕を掴んだまま―――」

「えりな様っ!?」

 

 次々と海へと走っていく一つ年下の後輩達。

 この場で唯一の上級生は微笑を浮かべて彼女達の後を追うことにした。

8月17日、晴れ。

 燦々と照りつける太陽の下、彼らの海が始まった。

 

 

 

     Ⅱ

 夏の海というものは得てして人を開放的にさせるものだ。

 いつも纏っている衣服を一枚脱ぐだけで身も心も軽くなり、青い海を見れば否が応でも気分は高まるもの。それは料理の世界に身を置く彼らとて何ら変わりなかった。

 緋沙子はちらちらと主の様子を伺いつつも砂浜で何やら熱心に城を建築し、港街育ちの黒木場は血が騒いだのか水泳キャップを被ってからというもの延々沖で素潜りを続けている。最初はあまり積極的に海に入ろうとはしなかったえりなでさえ、今では小言を漏らしつつも何だかんだ従妹であるアリスと仲良く浅瀬で水を掛け合っている。

 正にどこからどう見ても学生らしい青春の1ページ。

 そんなベッタベタな光景を目に焼き付けながら、一先ず海から上がった金一はシートの上に腰を下ろした。

 

「ふぅ」

 

 たかが数キロ泳いだだけで息が上がる自分に苦笑が漏れる。日々の鍛練は怠っていないつもりだったが、どうやらまだまだ甘かったらしい。帰ったらまた鍛えなおすことを心に決め、金一は特に目的もなく目の前の海をぼぉっと眺めてみた。

 果ての見えない水平線。

 寄せては返すさざ波。

 ゆらゆらと震える水面。

 何も考えず、ただただ五感に任せて空っぽにしていた頭の中にふと、あの日の記憶が蘇ってきた。

 

 ―――お前の料理は“薄い”。

 

 尊敬する父親からの指摘。そして金一自身がかねてより感じていたこと。

 

 ……オレの料理には芯がない。

 

 料理を作る目的と言い換えてもいいかもしれない。

 何のために料理を作るのか?

 黒木場リョウならば屈服させるためと答えるだろう、薙切アリスならば従妹に勝つためと答えるだろう、新戸緋沙子ならば主のためと答えるだろう。

 薙切えりななら、きっと頂点に立つためと答えるだろう。

 プロを目指す料理人ならば誰しもが持つ目的、夢、志。

 物心ついた時には厨房に立ち、その圧倒的な才覚からごくごく当たり前に料理界のスターダムを駆け昇って来た堂島金一にはそういったハッキリとした“熱”が存在しない。

 何のために料理を作るのか?

 そう問われても金一にはそれが当たり前だからとしか答えられない。

 だから勝負において真の熱を持てない。

 相手が本気であればあるほど、熱を帯びれば帯びるほどその眩しさに目を逸らしてしまう。

 

 ……普通に考えれば旧時代的な精神論なんだけどな。

 

 心持ちひとつで料理が美味くなるならばそれ程楽なことはない。自分なりの答えを持ったからと言って、それが安易に成長に繋がるわけではないのは金一とてわかっている。

 しかし同時に、答えを得なければ次のステージに昇ることが出来ないという不思議な確信もまたあった。

 

 ……外の世界に触れれば少しは答えが見つかるかとも思ったけど。

 

 結果は全敗。

 十傑という地位を蹴ってまで一流の料理人達と触れ合い、その料理を味わった時間は確かに金一の血肉となったがこれだと思える答えは見つからなかった。

 現状でさえ遠月でも三指に入る実力者なのだから別に焦ることはないのかもしれない。

 しかし料理人にとって停滞とは退化と同意。いくらか小手先の技術が上手くなろうと、やはりどこか閉塞感は感じてしまうものだった。

 

 ……いっそ司先輩みたいに割り切れたら楽なんだけどな。

 

 個人としての感情を一切排し、ただただ料理の追及のみに全てを注いでしまえばきっと簡単で楽なのだろう。些細な悩みなど抱かず次のステージに辿りつけるに違いない。

 だがそれはきっと自分の求めている答えではないと、金一は断言できた。

 もういっそ童話みたいに答えは最初から持っていたみたいなオチにならないかなぁと半ば現実逃避に走った時だった。

 兄様と自分を呼ぶ声が耳に飛び込んできた。 

 ハッとなって現実に帰還する。

 そして首を左に捻ると、

 

「緋沙子……」

「何やらぼうっとされていましたがお加減は大丈夫でしょうか? もしやこの日差しで体調を崩されたとか」

「いや大丈夫だから。砂の城はもういいのか?」

「はい。その、完成いたしましたので」

 

 金一は先ほどまで緋沙子が砂をいじっていた砂浜に目をやる。

 そこにはサイズこそ然程大きくないものの、細丁寧に作られたことが一目でわかる立派な西洋の城が立っていた。まるで本人を表しているかのようなキッチリとした仕事振りにさっきまでの悩みは一時的にどこかへと消え去った。

 金一は頬を緩ませ、その出来栄えを称賛した。

 

「いい出来だな」

「ありがとうございます。隣、よろしいでしょうか?」

「へ? あ、あぁ」

 

 失礼いたしますと、緋沙子は金一のすぐ隣に腰を下ろした。

 肌と肌がぶつかりそうなほどに近い距離。

 節度や風紀といった慎みを人一倍気にする緋沙子が水着でここまで接近してくることに金一は困惑していた。彼もまた思春期の男子高校生なのだ。いくら妹分とは言え、流石に布きれ一枚の状態でこうも近づかれれば少なからず意識はする。

 ちらりその顔を伺ってみれば、案の定大胆な行動をとった少女の顔は真っ赤だった。

 そのことに金一は幾分か気を楽にした。

 

「そういや選抜の課題は順調か?」

「はい。まだ完全にというわけにはいきませんが、形自体はもう」

「今年はカレー料理か。まぁカレーも奥が深いからな」

 

 単純な香辛料の種類は勿論、その組み合わせ方は多岐にわたる。

 誰でもそれなりに美味しく作れるが、本当に美味なものを作ろうと思えば苦労する。

 簡単なように見えて実は奥が深い。

 カレーとはそんな料理だ。

 

「何なら一回試食してやろうか?」

 

 だから。金一からそんな気遣いの言葉が出るのは半ば当然だった。

 別に料理にケチを付けようとかそんな思惑は一切なかった。

 ただ純粋に味見をして、先達として少しばかりのアドバイスを送ってやる程度の軽い気持ちだった。それはこれまで何度となく行ってきたこと。

 だというのに、

「いえ、兄様の御手を煩わせるようなことはいたしません。私は一人で秋の選抜を勝ち上がってみせます」

 返ってきたのはいつになく明確な否定の言葉だった。

        

    ◇

 

 ……申し訳ありません。兄様。

 

 驚いたように目を瞬かせる金一に緋沙子は心の中で深く謝罪した。

 せっかく申し出てくれた厚意。普通に考えればきっと受けるべきなのだろう。

 例え本格的な指導でなくとも、遠月でも指折りの料理人である金一から簡単なアドバイスを貰えるだけで間違いなく料理の質は上がる。

 それを理解しつつも、緋沙子は断る以外の選択肢を持たなかった。

 

 ……ここで兄様の手を借りてしまえば私はいつまで経っても変わらない。

 

 初めて出会った時から今の今まで、緋沙子は金一に何度となく助けられてきた。

 何度となくその手を借りてきた。

 その無償の優しさに甘えてきた。

 だが、それでは駄目なのだ。

 

 ……今回の選抜はいつもとは毛色が違う。

 

 例年秋の選抜といえばその時点における一年の頂点を決める闘いだが、今年はその最有力候補であるえりなが十傑として運営に回るために選抜に参加しない。つまり今年度の選抜で決定されるのは事実上のNo.2。

 緋沙子にとってはこれ程都合のいいこともなかった。

 

 ……本選に上がってくるメンバーはある程度予想がつく。

 

 筆頭はやはりえりなと同じ薙切の血を引く薙切アリス、その従者である黒木場リョウ、そしてえりなに次ぐ成績で中等部を卒業した葉山アキラ。この3名は恐らく余程のイレギュラーがない限りはほぼ確実に本選に出場し、緋沙子の大きな障害となるだろう。

 またその他にも安定して好成績を残し続けているアルディーニ兄弟、そして業腹だが奇抜な発想で1学期に結果を示してみせた編入生の幸平創真も決して侮っていい相手ではない。きっと厳しい闘いになる。

 だがそれでも、

 

 ……負けるものか。

 

 否、負けてはならない。

 昨年、堂島金一は現在の十傑の面々を抑えて見事この選抜で優勝を果たした。薙切えりなはその余りの実力差から参加そのものを拒まれた。

 ならばえりなを主と仰ぐ自分が、金一を兄と慕う自分が、二人を終世支えていこうと心に決めた新戸緋沙子がこの程度のことに躓いてどうするのか。

 えりなのいない、同年代の中でさえ自分一人の力で頂点に立てないようなら――――

 

 ……私がお二人の、兄様のおそばにいる資格はない。

 

 

 

         Ⅲ

 料理は総じて二つに分類することが出来る。

 すなわち美しい芸術か、醜い駄作か。

 中華、和食、洋食などといった細かなジャンルなど関係ない。最高の食材、最高の技術、最高のレシピ、最高の才能によって形作られる皿はそれ自体が一つの芸術であり、高貴な限られた作品。

 だから君はその選ばれた芸術だけを楽しめばいい。

 かつて、冷たい鳥籠の中でえりなはそう教えられた。

 

 ―――いいかい、えりな。世には無数の料理があるけれどその大半は取るに足らない駄作、家畜の餌にも等しい屑だ。君のような才ある人間は同じように選ばれた料理人が作る厳選された品だけを味わえばいい。

 

 何度も何度も何度も。来る日も来る日も来る日も。

 その男はささやき、まだ幼かったえりなに“教育”を施した。 

 外界から隔離された屋敷の一室で毎日同じ時間、同じ教師の下で行われた特別な訓練。

 その締めになると、男は決まって優しい顔で娘の金糸を撫でたものだった。

 

 ―――悲しいことだけれどこの世界には本当の芸術を生み出せる料理人は限りなく少ない。だからね、えりな。これから先、もしも君の目の前に心奪われる芸術を生み出す料理人が現れたのなら、そしてそれが欲しいと思ったのなら迷わず囲いなさい。遠くから見惚れているだけでは美しい鳥は大空へと羽ばたき、彼方へと消えてしまう。

 

 けれど、

 

 ―――鳥籠に入れてしまえばいつまでもその美を鑑賞することが出来るのだから。

 

 

「っつ!?」

 

 人工の灯りが存在しない暗い部屋の中、えりなは薄い毛布を押しのけて勢いよく上半身を起こした。はぁはぁと小さな口から零れる吐息はやけに荒く、心臓が鳴らす鼓動はまるで運動後のように早かった。きょろきょろとさ迷った視線が捉えたのは、レースのカーテン越しに注ぐ月明かりによって仄かに照らされた余り見覚えのない家具や調度品。

 それが別荘にあるものだと認識し、そして同時に今の今まで見ていたものが夢であったことを確信してえりなは大きく形の良い胸を撫で下ろした。

 

 ……何であの頃のことを今になって。

 

 当時の記憶を夢に見るなどいったい何年振りだろうか。少なくともえりなの覚えている限りだと、金一と出会ってからは殆ど見ていなかった筈だった。

 ギュッと心臓を掴まれたような冷たい感覚に陥ったえりなは夏にも関わらず身を大きく震わせ、可愛らしいピンクのネグリジェの胸元を強く握り締めた。

 

 ……今何時かしら?

 

 枕元に置いたスマートフォンで確認すると夜明けまでまだ4時間近くもある深夜。普通に考えればもう一度横になるべきなのだが、えりなは今すぐに再度瞼を閉じる気にはなれなかった。緋沙子がいればと思ったものの、こういう時に自発的に起床して話し相手になってくれる有能な秘書は今頃隣の部屋で静かな寝息を立てている真っ最中。

 従妹のアリスであれば無理やりにでも起こしに行くのだろうが、えりなはいくら従者相手とはいえそんな常識に欠けた振る舞いをする気にはなれなかった。

 ならばどうするか。

 色々と悩んだ末、えりなが出した結論は夜風にあたりにいくことだった。

 薄いガウンを上から羽織り、泊まっているコテージをそっと抜け出して昼間遊んでいた砂浜へと赴く。幸いここは薙切が所有するプライベートビーチ。夜間に子女一人の外出とは言え、何かしらのトラブルに巻き込まれる可能性は限りなく低かった。

 夜の海岸線は自然の光によって思いの外明るく、昼間とはまた違う顔を覗かせていた。

 淡い光を受けて幻想的な輝きを放つ水面。

 水平線の向こうで輝く星々。

 それらをより近くで見るために波打ち際に向かって歩を進めていると、えりなはとある人影を発見した。勿論彼女がよく知っている人物だった。

 

「金一」

「ん? あぁ、お嬢か。こんな時間にどうしたんだよ?」

「少し海が見たくなっただけよ。そういうあなたこそ、何でここにいるのよ?」

「まぁ。似たようなもんかな」

 

 ハハと砂浜に片膝を立てて座っていた金一が首を捻り、軽やかに笑い声をあげる。どこまでも見慣れた筈の笑顔。なのになぜだろうか。

 ドクンと、えりなは自分の胸が高鳴ったのを確かに感じた。

 頬に熱が帯びるのを誤魔化すように顔を金一から逸らすと、彼女は服が汚れるのも厭わずに彼の隣で上品に腰を下ろした。

 これと言って最初に交わした以上の会話はなかった。

 互いが言葉を発すことなく広大な黒い海を見つめる中、えりなは少しだけ金一との距離を詰めた。ほんの少しだけ触れ合う肩と肩。

 世間一般からすれば決して大したことはないのだろうが、えりなにとってみればこれ以上ない程に大胆な行動だった。

 

 ……温かい。

 

 触れ合った肌を通して感じる体温、人の温もり。

 えりなは自分の心の中にあった冷たいものが溶けていくのを感じていた。

 暖かいものが芽生えていくのを確かに感じていた。

 

 ……思えば昔からそうだったわね。

 

 出会った時から今の今まで、金一はいつもこうして温もりをくれていた。

 薙切えりなを温めてくれていた。

 宿泊研修で受けたアリスからの問いかけ。それに対する答えをえりなは未だ見出だせていない。けれど一つだけわかることはある。

 そう。それは―――

 

 薙切えりなは今、間違いなく幸せだということ。

 

          ◇

 

 肩を寄せ合って海を眺める薙切えりなと堂島金一。

 直接的な行動こそないものの、その距離の近さと纏う雰囲気には勘ぐらずにはいられないものがある。まるで恋愛漫画にでも出てきそうな一コマ。

 そんな甘酸っぱいシーンを繰り広げている彼らの後ろ姿を、遠いコテージから眺める二つの影があった。

 

「いいんですか、アレ?」

「いいって何がかしら?」

 

 いつにも増して眠たげな少年の問いかけに少女は答えず、更に疑問で突き返した。

 そこには答えを誤魔化そうというよりも、純粋に何を尋ねているのか本当にわからないという疑念の方が大きいようだった。

 コテンと可愛らしく首を横に傾けた少女に、従者である少年は困ったように眉を潜めた。

 

「いや。だから……」

「変なリョウ君。もう遅いし早く寝ましょう」

「……後悔だけはしないでくださいね、お嬢」

 

 はぁと少年の漏らした溜め息が星々の煌めく夜空へと溶けていく。

 それは8月の中旬のこと。

 もうすぐ2学期だった。

 




本当はブログで最新話を上げてから投稿しようと考えていたのですが、ちょっと次話を書くのが苦戦している+一応折り返しに来てキリがいいということで投稿することにしました。
多分次回の更新は結構先になると思いますが、そこはまぁ今迄通りのんびりお待ちください。

P.S 感想返しは出来ていませんが書いて頂いた感想には全部しっかり目を通していますのでこの作品への意見などがあればドシドシ書いてください。
感想が多いとそれだけ励みにもなりますので。

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