堂島金一の華麗なる食卓   作:神田瑞樹

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新戸緋沙子は悩み、父親達は語る

夏休みというのは一種の魔物だ。学校というルーティーンを失くした世の学生達を瞬く間に怠惰な生活へと陥れる怖い魔物。ある者は時間を忘れてゲームやネットに熱中するあまり昼夜が逆転し、またある者は外気の暑さから家に引きこもるあまり運動不足へと陥る。

 新学期になると怠けた後遺症に数多くの生徒達が苦しむものだが、こと新戸緋沙子という少女に限って言えばそんな心配は全くの無縁だったりする。

 夏休みが始まって早一週間。

 いつもよりも少し早く起床した緋沙子は今日も今日とて離れへと続く道を歩いていた。

 

……兄様。今日はちゃんと布団の上でお休みになられているでしょうか?

 

 ここ数カ月の間ですっかり定着した朝のルーティーン。

堂島金一を学校に行かせるためという本来の目的を思えば学校のない日にわざわざ起こしに行く必要などないのだが、緋沙子は夏休むという長期休暇に入った今でもこうして毎朝敬愛する兄様の下へ足繁く通っていた。

 

……暑くなってきたとはいえ、ちゃんと布団を被って頂かなければお風邪を召しかねない。やはりここは私がキツク申し上げないと!

 

決意を胸にこじんまりとした和風な建物の前に立つ。

内心の意気込みが歩を急がせたのか額には薄らと汗が浮かび、元から血色の良かった頬は更に紅くなっていた。緋沙子は乱れた呼吸を整え、ハンカチで汗を拭ってからインターホンを鳴らした。ピンポーンとお決まりの電子音が戸を隔てた奥から聞こえてくるが、やはりというべきか応答はない。

最早慣れきったものとばかりに緋沙子は持ってきていたカギを使って戸を開け、

 

「失礼しま―――」

「あっ」

「―――す」

 

 “それ”を目撃する。

 一言で言えば肌色だった。

 身に纏っているのは局部を守るボクサーパンツただ一枚のみ。いつもは衣服に隠されている鍛え上げられた肉体が緋沙子の目にハッキリと映る。

 広い肩幅、分厚い胸筋、綺麗に割れた腹筋。

 見せるための筋肉ではなく、使うための筋肉。

 恐らくは湯上りなのだろう。タオルの隙間から覗く黒髪はしっとりと濡れ、小麦色の肌にはいくらかの水滴が残っている。

「あー」と家主が困ったように頬をかいた。

 

「そんなに見つめられると流石に恥ずかしいな」

「っつ!?」

 

 その言葉で緋沙子は未だ自分が視線を逸らしていないことにようやく思い至った。

 途端、先の比ではない熱が頬を一瞬にして深紅へと染め上る。

 

「も、も……」

「も?」

「申し訳ありませんでしたっ!?」

 

 逃げるようにして開けたばかりの戸を力一杯閉めなおす。

 決して優雅とは呼べない音が戸からしたような気がするが、そんな些細なことはすぐに消え去った。緋沙子はさっきから嫌に鼓動を早くする胸元を抑えて瞼を閉じる。

 瞼の裏には今尚、さっき見た光景が焼き付いて離れなかった。

 

           ◇ 

 

 いつもより少し早く離れに着いたにもかかわらず、緋沙子が金一と共に離れを出たのはいつもよりも少し遅かった。時間がかかった理由は―――まぁ、言わずもがなであろう。

 三歩前を歩く大きな背中を見るたび、緋沙子の頬に仄かな熱が帯びる。

 

……大きかったなぁ……って、私はなにをっ!?

 

 ぶんぶんと邪念を捨て去るために首を勢いよく横に振る。

 傍から見れば酷く奇妙な行動ではあったが、幸いそれを目撃する人間は誰もいなかった。

 緋沙子は何度か深呼吸を繰り返してから改めて目の前の背中に視線を落とす。

 

……兄様。

 

 行きし同様、離れから屋敷に戻るまでにかかる時間はおよそ5分ほど。

 決して長い時間ではないものの、緋沙子にとってはこの上なく大事な5分だ。

 特段会話に興じるわけじゃない。

 無論日によっては何か話す時もあるが、なにぶん時間が限られているうえに常日頃から顔を会わせている間柄。大抵は今のように黙って歩くことの方が多い。

 でもそんな静かな時も全てひっくるめて、緋沙子は金一と二人きりで過ごすこの時間を愛していた。

 

……初めてお会いした時はこんな風になるなんて思ってもみなかった。

 

 それこそ最初は敵対心に近い感情すら覚えていたほど。

 今となっては赤面する他ないが、まだ幼かった緋沙子は主が心を許していた金一に嫉妬していたのだ。どうやってあいつをえりな様の心から追い出してやろうか―――当時はそんなことばかりを考えていた。

 

……まったく。我がことながら嘆かわしい。

 

 弱点を探るために金一の背中を追いかけて。

 その料理を盗むために見て、食べて、研究して。

 でも何度やっても再現できないから恥を忍んで教えを乞うて。

 

―――気が付いた時には嫉妬は憧れへと変わっていた。

 

 主と同じ、天賦の才を持った料理人。

 その料理はどこまでも繊細で、どこまでも美しい。

凡人には夢見ることしか叶わない“美”を目の当たりにして幼心ながらに緋沙子は悟った。あぁ。きっとこの人も特別なんだと。

 自分では例え一生かかっても到底到達できない領域にいるのだと直感した。

 そしてその時からだ。

緋沙子が金一を“兄様”と呼ぶようになったのは。

 

……私の想いはあれから変わっていない。

 

 数年という年月を経ても当時抱いた尊敬の念は失われるどころか、日に日に増す一方。

 薙切えりなと堂島金一。

 どちらがではなく、どちらも特別で大切な存在。

 だからそんな自分よりも余程大切な二人が仲睦まじいのは歓迎すべきこと。

 そう。喜ばしいことの筈なのになぜ。

 なぜこんなにも、親しくしている二人の姿を思い浮かべると心がざわつくのか。

 

……少し前までこのような想いをすることはなかったのに。

 

 それもこれもアリスお嬢のせいだと緋沙子は内心で毒づく。

 あの合宿最終日の夜を境にそれまで噛み合っていた歯車が狂い始めた。

 アリスの発したたった一つの問いかけが全てを変えてしまった。

 

……この遠月に戻ってきてからというもの、えりな様は以前にも増して金一兄様と一緒に時間をお過ごしになることが多くなった。

 

 外部の仕事が入っている時でさえもギリギリまで金一の傍を離れようとはしないのだ。

 金一と二人きりで過ごすこの時間もいったいいつまで続くかわかったものではない。

その時のことを思うと緋沙子は泣きそうな気分になる。

 

……恐らくえりな様はまだご自分の本当の気持ちに気付いていらっしゃらない。

 

 そしてそれはきっとアリスもまた同じだろう。

 だからこそ今はまだ一見すれば穏やかな関係でいられている。

 けれどもし。

もしもえりなやアリスが自分の想いに気付いたら。

その時そこに、自分の居場所は残っているのだろうか―――

 

 

 

          Ⅱ

 在籍したという実績だけで箔がつき卒業までこぎつければ生涯日本料理界のスターダムを歩けるという屈指の料理名門校、遠月学園高等部。

 長い歴史を誇るその学園はこれまで幾人もの素晴らしい料理人達を輩出してきたが、その中で最も優れていたのは誰かということになると些か解答は難しくなる。

 何せその時代の学園最高の料理人である十傑第一席だけを数えても優に五十人を超える上に、時代を跨ぐせいでおいそれと比較することもできないのだから。

 ある者は日本人初のプルスポール勲章を受章した四宮小次郎を推すだろうし、またある者は書物にしか残っていない伝説の初代第一席を推すかしれない。

 つまりは千差万別。答えが出ないのが答え。

 しかしそれでもなお答えを追い求めるならば、きっとこの人物の名が最有力候補として浮かぶに違いない。

堂島銀。

 かつて歴代最高得点で卒業試験をクリアした第一席。

 現遠月リゾート総料理長兼取締役会役員の名が。

 

 

 

「ふむ」

 

 音を立てることなく手にしていたフォークを置き、銀はナプキンで口元を丁寧に拭った。

 眼光鋭く見つめるのは目の前に並ぶ二つの皿。

 ジャンルやコンセプトは異にするものの、共に高度な技術と溢れる才能が詰め込まれた品であったことに疑う余地はない。それこそ今すぐ遠月リゾートのメニューに付け加えたとしても何ら問題ないであろう。

 

……二皿とも極めてレベルの高い料理。本来なら判定は難しくなる所だが―――

 

 銀の心は自ずと決まっていた。

 懐から出したコインを右の皿の前へ置く。

 

「勝者、城一郎」

「お粗末っ!」

 

 躊躇うことなくその名を読み上げると勝者となった料理人はにかっと笑った。

 後ろへと流したぼさぼさの髪に無精髭。

 経過した年月が年月だけにその容貌はいささか変わってはいたが、それでも純白なコックコートに身を包んで子供っぽく笑うその姿は銀がよく知るもので。 

 胸中から込み上げてくる温かい感情に思わず目尻を優しく緩めながら、銀は敗者となったもう一人の料理人へと視線を移した。

 

「判定の説明は必要か?」

 

 8割方返ってくる答えを察しつつも一応そう問うてみると、案の定帰ってきたのは否定のサイン。そのまま銀がじっと見つめると、堂島金一は大きく息を吐き出した。

まるでこうなることをあらかじめわかっていた、そんな顔のように銀には見えた。

 

「お前の料理はまだまだ“薄い”。今のままでは例え十年費やそうと次のステージに上がることなど出来はしない」

「……はい」

「急に呼び出してすまなかったな。もう厨房に戻っていい」

 

 遠月リゾートの臨時シェフは静かに総料理長へ頭を下げてから地下室を後にした。閉じられた扉越しでも聞こえてくる階段を駆け上がっていく足音。

 まるで今の心情を示しているかのような荒々しいテンポに上司として、そして父親として苦笑せずにはいられなかった。

 

「やはりまだ答えは見出せてはない、か」

「おいおい。随分と息子に厳しいじゃねぇかよ?」

「別に厳しくなどない」

「そうか? 遠月にいた時はもっとこう……びゅーん、ぎゅっ、がばっ! って感じじゃなかったっけか?」

「……全く説明になっていないぞ、城一郎」

 

 呆れ顔で呟いて、銀は柔らかい表情を見せた。

 

「すまなかったな。突然あいつと料理対決など頼んで」

「別にかまわねぇよ。俺がここに来たのも結構急だったしな」

「結構どころではなかったぞ」

 

 何せ見知らぬ番号からかかってきた電話を取ってみれば、第一声が「おっ。銀か? 俺今リゾートの前にいんだけど迎えに来てくれねぇ?」だ。

 せめて名前ぐらい名乗れよとか、リゾートの前ってどこだとか、もっと事前に連絡して来いよとか色々思う所はあったものの、結局はこうして久方ぶりに顔を会わせている。

20年たっても変わることのない親友の突拍子のなさに諦観8割、懐かしさ2割の配分で感情を混ぜ合わせながら銀は肩を竦めた。

 

「この後に予定はないんだな?」

「あぁ。ちょっとした用事もあるにはあっけど、んな大したことじゃねぇよ」

「そうか。ならもう少し話していられるな」

「おいおい。もうじき夕飯時だろ。料理長が現場にいなくていいのかよ?」

「各厨房の管理は全て瀬名に一任してある。それに今しがた優秀なシェフを一人送り出したばかりだ」

 

 だから今日ぐらいは懐かしい親友との会話をゆっくり楽しむさ。

 そう言って銀はグラスの水を煽った。

 才波―――幸平城一郎は目を丸くしながら、近くにあった椅子に腰を下ろす。

 

「銀。おめぇ、なんか昔より柔らかくなってねぇか?」

「さて、どうだかな。そういうお前の方こそ随分と変わったみたいだが?」

 

 銀は置いていたフォークを手に取ると自分が勝者とした皿に手をつけた。

 口一杯に広がる美味の世界。

 その世界はどこまでも広く雄大で、そしてどこまでも優しかった。

 

「優しい味だ。まさかお前がこんな料理を作る日が来るとはな」

「ふみ緒さんにも似たようなこと言われたよ」

「人は変わる―――か」

「あぁ」

 

 いい方にも、そして悪い方にも。

 人間である以上変化は避けられない。

 そのことを二人は良く知っていた。

 

「そういえば合宿で幸平創真に出会ったぞ」

「おっ。そうか」

「親子だけあって良く似ていた。特に破天荒な性格などそっくりだ」

「ハハ。それを言うなら銀とこだってそうじゃねぇか。金一だったか? まるで昔の銀を見ているみたいだったぜ。まぁ性格はどうも違うようだけどよ」

「そこは母親似だ。まったく。放浪癖までアレに似ずともよかっただろうに」

 はぁとため息をついてから、銀はすっと目を細めた。

「金一のこと、お前はどう思った? 城一郎」

「それ聞くためにわざわざ俺とやらせたのかよ?」

「不満か?」

「いんや。そうだな……」

 

 城一郎はゆったりと背もたれに体重を預けた。

 荷重の抜けた二本の木脚が地面を離れ、座主の思考のようにぷらぷらと宙を漂う。

 

「まっ。いわゆる天才―――ってやつだろうな」

 

 率直な言葉で城一郎は堂島金一をそう評した。

 親友の見立てに金一の父である銀もまた、「同意見だ」と重く頷いた。

 

「勝負の最中にお前の息子が料理する姿を見てたけどよ、ありゃ本物だな。本能的に“最高の瞬間”ってやつを見抜いてやがる」

「あいつは―――金一は幼い頃から食材の良し悪しがわかった。誰に教えられたわけでもなく素材の情報を“声”として感覚的に理解することができた」

「インドで似たようなスキルを持った坊さんを見たことあるぜ。まぁあれは修行の成果らしいけどよ」

「あいつと俺達では見ている世界が違う。少し前まではその尖った感性に技術の方が追いついていなかったが、今ではさっき見た通りだ」

 

 金一が初めて遠月リゾートの厨房に立ったのは一体いつのことだったか。

 当時はまだ見習いでしかなかった料理人はこの数年足らずで目覚ましい進化を遂げ、今や全国各地から腕利きのシェフが集う遠月リゾートの厨房でも5指に入る料理人となっている。それこそまだ学生の時分であった頃の堂島銀、才波城一郎と比べてもその実力は決して引けを取るものではないだろう。

 だが、

 

「たりねぇな」

「あぁ」

 

 その一言が全てだった。

 才能も技術も実力もある。

 しかし肝心なものが欠けている。

 そしてそれが堂島金一の才能が完全に開花することを妨げている。

 

「本人もそのことには気づいている。だが未だ解決には至っていない」

「わかった上で突き放すたぁ、やっぱし息子に厳しいじゃねぇか。アドバイスの一つでもしてやったらどうだ?」

「放任主義のお前が言えたことか。城一郎。お前、殆ど自分の技術を幸平創真に教えていないな?」

「まぁあいつに仕込んだのは定食屋としての腕ぐらいだな」

 

 才波城一郎と言えばかつての遠月十傑第二席にして世界中の高級レストランで腕を振るった超一流の料理人。フランス料理やトルコ料理を初めとしたありとあらゆる料理に精通し、様々な独創的かつ高級感ある料理を世に生み出してきた。

 にもかかわらず、なぜ息子にはそれらの料理や技術を伝えなかったのか。

 おぼろげではあるが銀はその理由を察していた。

 

「息子には自らの力で道を切り開いて欲しいと願う。父親としてそれは当たり前の想いだと思わないか?」

「さぁ。どうだかな」

 

 




明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

追伸:緋沙子はムッツリだと思う。あと、次は時期外れだけど水着回です。

追伸の追伸:ファフナーがこの度最終回を迎えましたが、あの終わり方は色々と波紋を残しそうですね。個人的には映画で続編を作って欲しいのですが……(なかったら最悪自分で書いてやろうか? でもなぁ、ファフナーは思い入れがある作品だけにあんまり書きたくないんだよなぁ)

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