阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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楽園の到達者

 博麗神社の境内に到着すると、そこはすでに人でごった返していた。

 出店の勢いは階段下のそれより遥かに大きく、祭り櫓の準備も鬼が主導して進めている。

 

「すごい人だかりね……。境内の方はもっと少ないと思ってたわ」

「これほどとなると、私も見たことがありません」

「私も初めて! でも、こういうのって素敵だなあ……」

 

 人も妖も垣根はなく、祭りを楽しむという共通の目的で笑い合い、酒を酌み交わしていた。

 祭りの様相を呈しているが、これはただの宴会だ。始まりの合図などなく、終わりの合図もない。

 各々が好きに飲み、好きに遊び、飽きたり疲れたら帰る。そんなお気楽なものである。

 きっとあの祭り櫓も楽しそうだからという理由だけで建てられ、騒ぎたい連中があの場所で騒ぐのだろう。

 

「まずは霊夢さんを探そうか。あ、その前に焼きそば買って!!」

「一つだけですよ。あまり食べすぎると後が辛くなります。店主、一つくれ」

 

 最近になって外の世界の知識が多く流れるようになっており、幻想郷にも食文化の変化が起きようとしていた。

 もとよりレミリアが来た辺りから洋食がチラホラと見受けられるようになったりと兆しはあったため、それが今になって如実に表れていると言った方が正確かもしれない。

 

 ちなみに信綱も洋食が作れる側の人間に当たる。

 阿求が食べたいと言った時に用意できないなど側仕えとして失格である、と未来の側仕えが苦労しそうな思想を持っていた。閑話休題。

 

 ソースの香ばしい匂いがプンプンと漂うそれを受け取り、信綱は阿求に手渡す。

 阿求は早速ハフハフと焼きそばを食べながら、再び人混みを歩き始めた。

 

「お祭りの空気で食べるとなんでも美味しいよね、お祖父ちゃん」

「同感です。ですが食べられる量が変わるわけではありません。ご注意ください」

「はぁい。あんまり羽目を外しても泣くのは私だもんね」

「その通りです。暴飲暴食のツケは自分自身が払わないといけません」

 

 先代などはしょっちゅう飲み過ぎのツケを支払っていたと記憶していた。

 彼女が死体のような顔色で自分に助けを求めてきた姿は、今でも鮮明に思い出せる。大体見捨てていたが。

 

「あ、お祖父ちゃんが奥さんのこと思い出してる」

「……なぜそう思うのでしょうか?」

「お祖父ちゃんが私のことをなんでも知っているから、かな?」

 

 答えになっていない答えだったが、阿求は自分でその答えに満足したらしく話を切り上げてしまう。

 信綱は阿求の言っていることがわからない様子で首を傾げながら、阿求と並んで歩く。

 そうして賽銭箱の前まで到着すると、そこでは多くの人に囲まれた霊夢の姿があった。

 

「え、出店の管理? それなら向こうの方に貼ってあるからそっち見なさい! 祭り櫓の順番? そもそも祭り櫓の建設自体に関与してないわよこっちは! そっちで好きに決めて! なに、迷子? 少ししたら一緒に探してあげるから泣くの我慢して待ってなさい!」

 

 元々誰が管理しているかもわからない宴会のわからない部分を聞かれているらしく、霊夢は四方八方から飛んでくる質問に目を回していた。

 それでもしっかり捌きながら、はぐれた親を求めて泣いている子供の手を引いてあげている辺り面倒見が良い。

 阿求はその姿を見て小さく笑い、信綱を見上げた。

 

「うふふっ、霊夢さんったらお祖父ちゃんみたい」

「私みたい、とは?」

「いっぺんに問題がやってきてもちゃんと解決しているところとか、口では色々と言うけど優しいところとか」

「私は彼女ほど素直ではありませんよ」

 

 信綱のそれは大半が打算だが、霊夢のは違う。

 彼女はそんな小難しいことなど考えず、ただ見捨てたら後味が悪いとかそういった単純な理由で誰かを助けているのだ。

 きっと自分などよりよほど上等な理由だろう、と信綱は肩をすくめた。

 

「助け舟を出しましょうか。今回は彼女の自業自得というわけではありません」

「うん。霊夢さんと一緒に宴会を楽しみたい!」

 

 二人が霊夢に話しかけに行くと、霊夢は忙しさに苛立った様子だったのがパッと明るくなる。

 

「爺さんに阿求じゃない! あ、今はちょっとダメ! この子の親を探してるから、後で来て!」

「それは良いが、他の質問は俺の方に来るようにしておけ。そうすればお前も少しは楽ができるだろう」

「お祖父ちゃんは博麗神社で知らないことなんてないはずですから!」

 

 先代が霊夢より少し上ぐらいの年頃から通っているためそれはその通りだが、信綱は阿求がそれを知っていることに首を傾げる。

 

「霊夢さんと話す時は大体お祖父ちゃんのことが中心なの。ほら、どっちにも関わってるでしょう?」

「それはわかりましたが、私のような面白みのない男よりも楽しいことはあるはずですよ」

「爺さんより面白い人生送ってる人なんてそうそういないんじゃ……」

「次の稽古は本気でやるか」

「しまった藪蛇!! 短い人生だったわ……」

「前に人里で一緒した時もそうでしたけど、本当に諦めるの早いですよね霊夢さん!?」

 

 完全に勝てないとわかると諦めるが、可能性が一縷でもあると彼女が判断する限り絶対に諦めないため、意外と諦めが悪いのは信綱が知っている霊夢の特徴である。

 今だって一生懸命になって子供の親を探しているのも、彼女はこの人混みの中であっても見つけられると信じているからだろう。

 そうして、霊夢に手を引かれた子供が親と再会するのはほんの少し先の未来であった。

 

 

 

「はー疲れた! ようやく一息つけるわ」

「お疲れ様です。途中で買ったお焼き、食べます?」

「ありがと、阿求」

 

 適度に冷め、しかし程よく暖かく塩っ気のあるお焼きにかじりつき、霊夢は幸せそうに頬を緩める。

 現在、彼らは神社の屋根に座って、喧騒を見下ろしながら一息をついているところだった。

 すでに屋根の上にも空を飛べる妖怪がチラホラと見受けられたが、それでも地上よりは少ない。

 

「あいつら、あんまり集まると屋根が抜けるってわかってんのかしら……」

「飛べるから問題ないのだろう」

「ここに住んでるのは私だけどね……。にしても、こりゃ宴会ってレベルじゃないわね」

 

 眼下には人、人、妖怪、妖怪の群れ。

 もはや地面の色を探す方が難しいくらいにごった返しており、春が来たことを祝う宴会とは到底思えなかった。

 

「これ、みんなは桜を見に来てるのかしら」

「あはは……でも、ここからだとよく見えますね」

「でしょ? こればっかりは巫女の特権よ」

 

 得意げに微笑んで、霊夢は楽しそうに祭りの人々を見下ろす。

 

「こんなに人が博麗神社に来るのなんて、お祭りの時ぐらいだから結構楽しいかも」

「霊夢さんは普段はここに一人で?」

「そ。まあ魔理沙が来たりレミリアが来たり、紫とかも来るから退屈はしないけど」

「退屈しないのは良いことだ」

 

 誰も来ないからと砂利を数えて暇をつぶすよりはよほど健全である。

 先代のことを思い出していると、ふと脳裏に今と似た光景が浮かび上がってくる。

 

「そういえば昔、あいつにも連れられたかな」

 

 信綱がポツリとつぶやくと、霊夢と阿求が同時に信綱の方を見た。

 

「母さんの話?」

「お祖父ちゃんの奥さんの話?」

 

 なぜそんなに興味津々なのだ、とたじろぎながらも信綱は記憶を辿って先代との時間を振り返っていく。

 

「え、ええ。あれとの付き合いは私が二十になる前のことでしたから」

「半世紀以上!」

「一緒にいた!」

 

 キャーキャーと興奮したように顔を見合わせる霊夢と阿求に、信綱は何が楽しいのかと疑問に思ってしまう。

 

「別に面白い話ではありませんよ。吸血鬼異変が終わってからしばらく、私に嫁をあてがおうとする輩から逃げる時の話です」

「聞きたい聞きたい! 母さんの話を爺さんの口から聞いてみたい!」

「私も知りたい! 英雄って呼ばれるようになったお祖父ちゃんと先代の博麗の巫女のお話は幻想郷縁起に載せなきゃ!」

「載せる必要性が感じられませんが……かしこまりました」

 

 年頃の少女はこういった話が好きなのかもしれない、と無理に結論を出すことにして信綱はかつての思い出を振り返り、明確な言葉にして語り始めていく。

 

 

 

 春が来るということはめでたいことであると言われている。

 その理由には長い冬が終わったことへの開放感も含まれているだろうし、再び一年が本格的に始まるという始まりの季節であることもあるだろう。

 ともあれ過ごしやすい気候になり、桜の開花はいつになるかと楽しみに思うのが春という季節である。

 

「で、めでたいついでに嫁を取れって話が来ているわけ」

「そうなるな」

「それが面倒であんたはこうして逃げてきたと」

「……そうなるな」

「……っ! ……っ!!」

 

 声も出ないといった様子で板張りの床をバシバシと叩き、目の端に涙を浮かべて笑う巫女。

 その巫女に対し、不本意極まりないとばかりに憮然とした顔になっている信綱。

 やがて笑い続ける彼女に腹が立ったのか、信綱が巫女の脇腹に手刀を入れて強制的に黙らせる。

 脇腹を打たれて痛そうにし、それでも巫女は笑って目尻の涙を拭う。

 

「はー笑った笑った。この一瞬で間違いなく去年より笑ったわ」

「うるさい。お前を楽しませる話題じゃないんだぞ」

「いや楽しいわよ? あんたの困ってる顔が見れないのが残念ね」

「……別に困ってなどいない。ただ面倒なだけだ」

「それを困ってるって言うのよ」

 

 意地を張ってみたものの、巫女の言葉に反論できず黙るしかなかった。

 巫女はそんな信綱の様子をおかしそうに見て、手元のお茶を飲み干す。

 

「ありゃ、もうなくなっちゃった。喋ってると喉が渇くのも早いわね」

「邪魔したなら帰るが」

「帰っても逃げ回るだけでしょ。お賽銭も入れてくれてるし、無下にしたりしないわよ」

 

 そう言って立ち上がって新しいお茶を用意しに向かった巫女を見送り、一人になった信綱は何をするでもなく上を見上げる。

 すでに八分咲きほどの桜が視界いっぱいに広がり、仄かに色づいた花弁がひらひらと舞い踊るそれを眺める。

 

 結婚とは基本的に縁起物だ。結婚をした後のことは誰にもわからない以上、なるべく良い縁起の時にやりたいと思うのが人情である。

 だから桜の開花も始まりつつある今、併せて人里の英雄となった信綱の婚姻話も出れば、めでたい話が二つになる。単純に二倍だ。

 それはきっと人里の機運を高め、さぞ沸き立つことだろうとは信綱にも予想できた。

 

 ――が、そこまで人里に挺身する義理はない。

 人里の守護者として、そして御阿礼の子らが健やかに生きられる場所を提供してくれる場所とはいえ、阿礼狂いの献身は御阿礼の子ただ一人に向けられるべきものである。

 あくまで人里の守護者は片手間。本業は御阿礼の子の側仕え。

 片手間の仕事で後々まで続くかもしれない厄介事を呼び込む気にはなれなかった。

 

「全く、どうして誰も彼も俺を放っておかないんだ。俺は阿弥様のお側にいたいだけだというのに」

「そんだけ有名人ってことよ。大変ね、英雄様」

「……その呼び方はやめろ」

 

 阿弥のためにやるべきことをやったらそう呼ばれていただけである。

 今後阿弥が行っていくであろう幻想郷縁起の編纂のため、可能な限り妖怪との距離を縮めようとは思っているが、結果がどうなるかはわからない。

 ひょっとしたら悪い方向に転がり、幻想郷の大罪人として名を残すかもしれないのだ。

 英雄とは人が無造作にかけてくる期待であり、応える気のさらさらない信綱にとっては煩わしいものでしかなかった。それはそれとして使えるのだから利用もするが。

 

 茶化すように放たれた英雄という言葉に苛立ったように返答しながら振り返り、信綱の顔が再び渋面に彩られていく。

 新しいお茶を用意してきたのだとばかり思っていたが、彼女の手に持つ盆に用意されているのは驚くべきことに酒だったのだ。

 どれだけ酒好きなんだ、と信綱は呆れてしまう。

 

「まだ日は高いぞ」

「こんな場所、祭りの時でもないとあんた以外誰も来ないわ」

「信心深い者がいるだろう」

「そういう人はちゃんと相手するけど、ちゃんと相手するからいつ来るかはわかるのよ」

「そんなものか」

「妖怪も出る危険な道を護衛まで付けてきて、それで肝心の私が買い出しに行ってましたー、なんて悲しいでしょ?」

 

 言われてみれば納得できるため、信綱は素直に首肯する。

 それで信綱は了承したと思ったのか、二つの盃に並々と注がれた酒の片割れを信綱に差し出す。

 

「はい、これ」

「……いや、俺は飲まないぞ」

「なんでよ。吸血鬼異変を解決した後の宴会では飲んでたじゃない」

「いい大人が昼間っから酒を飲めるか戯け」

「いい大人は昼間っからこんな場所に逃げてこないわよ」

 

 そう言って巫女は自分の分の盃を美味そうに飲み干す。

 信綱は呆れてものも言えないとばかりにため息をつき、自分の分を横に置く。

 

「あら、本当に飲まないの? 誰かが隣りにいる花見酒は最高よ?」

「誰かと書いて介抱する人間だろう。酔い潰れたお前の面倒は見ないからな」

「えー」

「そんな生活してると身体を壊すぞ。ちゃんと飯を食え」

 

 彼女が倒れて困るのは彼女自身であり、何より人里も困るのだ。

 それに信綱も逃げ場所にしているこの場所が使えなくなるのは非常に困る。

 ダメならダメで妖怪の山に逃げ込む手もあるが、あそこはあそこで知り合いが寄ってきて騒がしい。

 そういった私心しかない注意を信綱がすると、巫女はぽかんと口を開けて信綱を見ていた。

 

「どうした」

「え、あ、いや……な、なんでもない!」

「そうか」

 

 反応に気になるものはあるものの、別に追求するほどでもないだろうと判断して信綱は引き下がる。

 博麗の巫女は焦ったように盃に口をつけるが、ほとんど中身は減らないまま横目でチラチラと信綱を見ていた。

 なぜ見られているんだ、と信綱は自分の言動におかしなところがあったかと思いつつ口を開く。

 

「……俺が何かしたか?」

「うぇっ!? な、なんでもないって言ってるじゃない!」

「態度が全くそう見えない。気に障るようなことを言ったなら謝るが」

「あー……違う違う」

 

 巫女の反応がわからず眉をひそめる信綱に、巫女は観念したように息を吐いて盃を置く。

 そして信綱と同じように桜を見上げ、ポツポツと話し始める。

 

「……そんな風に心配されたの、久しぶりだった。というか前にもあんたにそう言われたっけ」

「心配?」

 

 人として当然の忠告をしただけだと思っている信綱は、その言葉の意味がわからず首を傾げる。

 

「酒ばっかりだと身体を壊すって」

「人が来ないから当然と言えば当然か」

 

 信綱が訪ねるようになる以前は、この巫女は本当に一人でやっていたのだろう。

 誰も来ない博麗神社で一人技を磨き、一人で寝食をまかない、一人で酒の味を覚えた。

 もちろん、人里とのつながりは存在する。博麗大結界を維持し、有事の際の妖怪退治も行う彼女を養うのは人里の義務のようなものであり、物資面では何不自由ない生活が約束される。

 

 だが、それだけだ。彼女には友人らしい友人もおらず、幻想郷のために戦う理由も博麗の巫女であること以上に存在せず、一人の時間を寂しいとわかっていながら一人でいるしかなかった。

 その人生に選択肢がなかったという点で言えば阿礼狂いと同じだが、曲がりなりにも自分の意志がある阿礼狂いと自分の意志すらなかった博麗の巫女では違う。

 昔の人々は何も思わなかったのだろうか。まだ年若い――それこそ親子と同じぐらいに歳が離れた村人もいるだろう――少女に危険な役割を押し付けることに。

 

 御阿礼の子以外がどうでも良い自分に怒る筋合いも資格もない。

 博麗の巫女のために怒り、彼女のために全てを投げ打つことができない以上、彼女の不幸に怒りをぶつけたところで責任を背負いたくない第三者の戯言にしかならない。

 しかし、それでも気持ちの良い話ではなかった。信綱は不機嫌そうにため息を吐いて巫女の言葉を待つ。

 

「……あんたは私を心配してるの?」

「当然だろう。お前が倒れたら人里にとって痛手であり、俺の隠れ家も一つ減る」

「隠れ家って……」

 

 微妙に巫女が望む答えとは違ったようだが、それでも納得したらしく巫女は嬉しそうに桜を見る。

 

「だから酒は程々にしろ。飲み過ぎで死んだ博麗の巫女なんて前代未聞だぞ」

「明日から考えておく……ああっ!」

 

 彼女に任せたら絶対に止まらないと察し、信綱は呆れてものも言えない様子で巫女の酒を取り上げた。

 

「やめろと言っているだろう。これは俺が戻しておく」

「ひどい! こんな綺麗な桜があるのに飲ませないとか鬼畜! 変態!」

「毎年見てるだろうお前は」

「誰かと一緒に見るのは別物なのよ!!」

「だったらそれで満足しろ。見る分には付き合ってやるから」

 

 必死に手を伸ばしてくる巫女をあしらいながら話していると、不意に巫女が抵抗を止める。

 

「……一緒に桜を見てくれるの?」

「さっきまでだって見ていた。酔い潰れたお前の世話は絶対やらんが、普通に桜を見るのなら問題ない」

 

 どうせ今は人里に戻るのも難しい。それなら酒を飲んで酔っ払った巫女の介抱をするより、並んで桜を眺めていた方がマシである。

 

「だから酒を片付けてこい。事あるごとに酒を持ち出すのはお前の悪い癖だ」

「酒が飲めないのは辛いけど……たまには良いか」

 

 肩の力を抜いた笑みを浮かべ、博麗の巫女はあっという間に酒を片付けて縁側に出る。

 

「ここも悪くないけど、もっとよく見える場所があるのよ。手、出して」

 

 そう言って手を差し伸べてくる巫女の目は屋根の方を向いており、信綱にも特等席とやらがどこか理解する。

 

「いや、不要だ。よっと」

 

 そしてそれぐらいの高さなら別に手を借りるほどでもない。文字通りひとっ飛びだった。

 縁側に立ち、地面を蹴り、屋根に軽々と着地する。阿礼狂いとしての身体能力なら造作もない。

 博麗の巫女の手を煩わせるまでもないと、信綱は善意でこの行動を取っていた。

 しかしやってきた博麗の巫女はたいそう納得行かないという表情になっており、信綱は首を傾げる。

 

「どうした?」

「……少しでもこいつに期待した私がバカだったわ」

「はぁ?」

 

 何を言っているのかわからなかった。

 

 巫女は自分の愚かさを呪うように片手で顔を覆って大きなため息をつく。

 それで意識を切り替えたのか、信綱の隣に座って桜を見下ろす。

 桜の木を幹から枝葉までを地上から眺めるのとは違い、桜の咲き誇る頭頂部が並ぶ――さながら桜で織られた敷物のようであり、違った趣を感じさせる。

 

「ここからだと桜が見下ろせるの。見上げるのも悪くないけど、こうやって桜の絨毯を眺めるのも悪くないでしょう?」

「贅沢な景色だ」

 

 これは桜が多くないとできない。一本だけでは上から見たところで大して意味はない。

 巫女が得意そうにするのもうなずける、と信綱は感心して巫女の隣に腰を下ろす。

 そうしてぼんやりと二人で桜を眺め続ける。

 

「――誰かと一緒に桜を見るのも悪くないわね」

 

 そんな風につぶやく、巫女の言葉は聞こえないフリをして。

 

 

 

 

 

「それで後は適当に桜を見て帰りました。……どうかしましたか、阿求様?」

 

 この場所で博麗の巫女――先代と見た話をすると、阿求は顔を喜びにキラキラと輝かせ、対照的に霊夢は何を思ったのかげんなりとした顔になっていた。

 

「すごく楽しいお話だった! やっぱりお祖父ちゃんと先代さんは仲良しだったんだね!」

「まあ、仲が悪かったら婚姻を結んだりはしないかと」

「母さんが私に惚気けた理由がよくわかったわ……」

 

 霊夢はかつて先代に信綱の話をねだったところ、信綱との出会いの話から延々と聞かされた思い出を想起してしまい疲れた顔になる。

 先代の葬儀の時、信綱は色々と言っていたが彼なりに先代との時間を大切に思っていたのだろう。

 でなければもう半世紀近く昔の思い出をあそこまで克明に語れはしない。

 

 そして自分は血の繋がりもなく、世間一般で言う親子とはだいぶ異なる関係ではあるが――この二人を両親と慕っているのだ。

 霊夢は気合を入れ直すにように自分の頬を軽く叩き、立ち上がる。

 

「ちょっと宴会の様子見てくる。またさっきみたいな子供がいないとも限らないし、魔理沙たちとも合流したいし」

「わかった。どうせ妖怪連中は片付けなどしないだろうから、体力は残しておけよ」

「覚えとくー!」

 

 霊夢は屋根の上から飛び、再び人混みの中に紛れていく。

 どんな心変わりがあったのかは知らないが、やる気を出しているのは良いことである。

 

 それより今は阿求と共に桜を見られる方が重要だ。

 信綱は柔和な微笑みを浮かべ、隣で楽しそうに桜を見ている阿求に声をかける。

 

「阿求様、お楽しみいただけてますか?」

「うん、とっても楽しい! こんな風に人も妖怪も垣根はなく、一緒に楽しめて……本当に楽園のよう!」

 

 そう言って喜ぶ阿求だったが、不意に目眩がしたように目元を押さえる。

 

「阿求様!?」

「あ、ううん、大丈夫。ちょっと私のじゃない記憶が見えただけだから」

 

 阿求の顔に消耗の色はなく、本当にいきなり浮かび上がってきた光景に驚いただけだと読み取ることができた。

 それでも信綱は阿求の身を案じて身体を支えながら、阿求の気をほぐすように穏やかな声で話しかける。

 

「……どのような記憶が浮かんだのですか?」

「んと、阿弥の記憶だと思う。場所もここじゃなくて、人里で……夕焼けに染まった里をお祖父ちゃんと並んで見て……」

 

 あの日のことだ、と信綱はすぐに思い当たる。

 阿弥が自分に生きてくれと命じたその日は、確かに今のような光景があった。

 人も妖も共に楽しむという点に違いはなく、一日の疲れを癒やすように酒を、食事を、団欒を求めに行く姿を眺めていた。

 

「……良い景色でしたか?」

「うん。なんでここで浮かんだのかはわからないけど――きっと、これを見た阿弥はとっても幸せだった。記憶からもそれがわかるくらい、キラキラした綺麗な景色だから」

「――それは良かった」

 

 阿求がどこまで見えているのか、信綱にはわからない。

 もしかしたら阿弥から見た自分の姿も映っていたかもしれない。

 しかし、答えを知るつもりはなかった。

 それは御阿礼の子である阿求だけの特権であり、信綱が踏み込んで良い場所では決してないのだ。

 

 きっと同じものを心に浮かべ、阿求と信綱が微笑み合って屋根の上から景色を眺めていると、二人の肩に手が置かれる。

 

「――九代目の阿礼乙女とは初めまして。そして久しぶりね」

「あなたは……」

「お前も来ていたのか、スキマ」

 

 信綱がスキマと呼ぶその少女――八雲紫は常と変わらず日傘を差し、超然と佇んでいた。

 だが顔に浮かぶ微笑みは見る人の疑心を煽るものではなく、どこまでも穏やかに、慈愛に満ちたそれだった。

 

「霊夢も頑張ってましたし、私からも労いの一つはかけておこうかと」

「お祖父ちゃん、この人が……」

「スキマ妖怪、八雲紫です。ご安心を、あなたに危害は加えません」

「あなたにそう言ってもらえるとは、少しは信頼を得られたと思っても良いのかしら」

「――彼女が何かするより私が倒す方が早いです」

「ええそうですよねあなたはそうですよね知ってましたわ!!」

 

 無論、それとは別に幻想郷の管理者としての信用もある。

 あるが、それは阿求の安全性を確約はしてくれないのでより確実な戦闘力の根拠を提示しているのだ。

 やけくそ気味な紫に信綱はさり気なく阿求を隠しつつ、話を続ける。

 

「で、何用だ? さすがにこんな場所で面倒な話は持ってきてないと思うが」

「当然ですわ。私も今日は純粋に宴会を楽しみに来ましたの」

 

 ほら、と紫がスキマを開くとその手に盃が浮かぶ。一目で高級であるとわかる硝子のグラスだ。

 そこに注がれている透明な酒を美味しそうに飲み干し、紫は阿求たちに微笑みかける。

 

「素晴らしい、の一言以外に言葉が浮かばないわ。ねえ、阿礼乙女であるあなたも私と同じでしょう?」

「――はい。今より遥か昔、まだ人と妖怪が争っていた時代に生きた最初の阿礼乙女――稗田阿礼はきっと、こんな光景を夢見ていた」

 

 紫の問いかけに阿求は御阿礼の子としての顔と、稗田阿求自身の顔を織り交ぜ――どちらでも幸せな顔で笑い、答える。

 

「そうね、その通り。私もあの子も、ずっとこんな未来を望んでいた」

 

 見てみなさい、と紫はいくつかのスキマを阿求らの前に開く。

 そこには多くの人と妖怪がいた。

 

 霊夢は人里の人々と話しながら、やってきたレミリアたちの相手をしている。

 魔理沙はアリス、パチュリーの三人と桜の側に陣取って酒を片手に何やら話し合っている。

 咲夜はレミリアの側に常と変わらず侍りながらも、手には酒が握られており美鈴と並んで仄かに顔が赤い。

 慧音はすでに酒を飲んでいたのか、泣きながら楽しそうに笑うという曲芸をして人里の者たちを困らせていた。誰彼構わず抱きついており、相当ハメを外していることがわかった。

 文は宴会の中を飛び回って面白そうな情報収集に余念がない。今はどの屋台が美味いか実地調査、という名目で食べ歩いているようだ。

 天魔は幾人かの大天狗と共に来ているようで、普段の様子に似つかわしくないしみじみとした表情で何かに思いを馳せながら、彼らと盃を交わしている。

 勇儀は何人かの人間と鬼を率いて屋台荒らしをしている。あの調子では用意した食物が残らず食い尽くされて、屋台の人々が急な収入に嬉しい悲鳴をあげるのもすぐだろう。

 橙は藍と一緒に妖怪の山では見られない桜に目を輝かせていた。

 そして椛は道中で合流したのだろう、にとりと一緒に宴会を見て回っている。不意に彼女の目が動くのは、こんな時でも――こんな時だからこそ周囲で何か起こらないか気をつけているのだろう。真面目なことだ。

 

 他にも多くの人間と妖怪がいる。もう飲み過ぎて気持ち悪そうにしている男の人間もいれば、そんな人間を介抱している女の妖怪がいた。

 無謀にも鬼に飲み比べで勝負を挑み、そして見事に負けた人間を勇気ある人間であると称える鬼がいた。

 彼らにも悩みはあるだろう。怒りもあるだろう。わだかまりもあるだろう。

 しかし今一時、この場所においてそれは全て放り投げられていた。

 

「――楽園、とはこの光景を呼ぶのでしょう。本当に、素敵な景色」

 

 うっとりと、許されるならこの瞬間を切り取って永遠に保存したいと、紫は一分一秒を惜しんで今を楽しむ。

 阿求もまたかつて稗田阿礼でもあった者として、その光景を愛おしげに眺めて横に立つ信綱の手をそっと握る。

 信綱は何も言わずにその手を握り返し、紫に視線を合わせる。

 

「……よくやってくれました、なんて言葉は大上段に過ぎるわね。とうに私とあなたは対等だもの」

「全てを俺がやったわけではない。理想は別のやつから借り受け、手段は皆で考えた。俺もその一翼に過ぎない」

「だとしても。阿礼狂いに生まれ落ちたあなたがその理想に到達したことが、きっと大きな意義のあるものだった」

 

 そう言って紫は深々と頭を下げる。

 心からの感謝を表すのは万の美辞麗句ではなく、ただ頭を下げることである。

 そんな風に感じられるほど、紫のそれは潔く、美しかった。

 

 

 

「――ありがとうございます。あなたが共存に力を貸してくれて、本当に良かった」

 

 

 

「……阿求様」

「私は受け取ってほしいな。お祖父ちゃんは幻想郷の誰にもできなかったことを成し遂げた。

 もちろん、一人じゃできなかったかもしれないけど……それでも、その中にお祖父ちゃんがいるのは確かだから」

 

 自分だけの力ではないと言っている以上、紫のそれは受け取れないと思っている信綱だったが、阿求に言われて考えを改める。

 人妖の共存は自分一人で行ったものではない。

 最初に願った椛がいなければ信綱が動くことはなく、願いに共感する天魔と紫がいなければ願いは願いのまま潰えていた。共存を試そうとした鬼がいなければ、今のような強固な関係は築けなかった。

 誰か一人が欠けても今の姿はできなかった。それは確信を持って言えることである。

 

 皆がいたからできたこと――それはつまり、その中に火継信綱という名の人間も含まれるということ。

 

 ならば紫の言葉も受け取る意味はあるのだろう。

 信綱は阿求と目で言葉を交わし、その手を離して紫の前に立つ。

 紫は一度顔を上げると、待ってましたとばかりに顔を輝かせて信綱に微笑みかける。

 それは幻想郷の賢者としての超然としたものではなく、少女としての可愛らしいものでもなく――

 

 

 

 

 

「あなたが――楽園の到達者でよかった。心からの感謝を、あなたに捧げます」

 

 

 

 

 

 賢者であり少女である八雲紫という存在の、心よりの笑顔であった。




宴会の規模が大きい? 意図して大きく書いてます(真顔)
萃夢想を最後の異変に選んだのは永夜抄前だから――というのもありますが、皆が集まる異変であるという意味もあります。
要するに集大成として相応しい。ノッブという人間が歩んだ軌跡を一望できる異変とも言えます。なので鬼も来ているし、天狗も来ている。

ちなみに回想の形で出てきた先代さんですが、IFのお話として先代ルートの草案があったりなかったり。本編終了後に冥界であれやこれやするお話です。蛇足感がしないかが心配の種。

そしてこれにて本作は完結――ではなく、幻想郷としての物語はほぼ終了です。後は霊夢が異変を解決するのを見守り、後を託せば良い。
となれば後に残るのは阿礼狂いとしてのノッブが最後の役目を果たすお話です。椛たちに別れを告げたり、ゆかりんたちにあれやこれや押しつけ――もとい、頼んだり。

本当にもう間もなく本作も終了となります。どうか最後までお付き合いいただければ幸いです(定型文)

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