それは今日も今日とて妹の部屋に転がり込み、うだうだと時間を潰していた時のことだった。
最近は部屋に入っても何も言われなくなってきたため、自分も好きに彼女の部屋に出入りしている。
どちらかと言えば自分はアウトドア派で外で遊ぶ方が好きなのだが、今は妹に合わせて本を読んでいる時のこと。
「ねえ、お姉様」
「なに、フラン?」
もはや諦めたのか、それとも部屋の一部であると考えることにしたのか、当然のように部屋に居座る姉――レミリアにフランは不意に声をかける。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なになに? 妹のお願いなら大半聞くわよ」
「外に出てみたいの」
「うんうんわかった外ね……外ぉ!?」
レミリアはフランの口から出てきた言葉に仰天し、思わず二回聞き返してしまう。
そんな姉にフランは露骨に鬱陶しそうな表情になる。
「お姉様うるさい。もうちょっと静かに驚けない?」
「い、いや、もっと早く言い出すものだとばっかり……」
「だってここ、居心地良いんだもん。私が四百年以上かけて良くしていった場所ですし?」
「すいませんでした!!」
「別に謝ってほしいわけじゃないよ。こうして部屋で本を読むのも嫌いじゃない」
もしも幽閉されなかったら、ということを考えはするものの、結局何も思い浮かばずにやめてしまう。
過去は過去で今は今。幽閉されていた時も苦痛ばかりではなかったのだ。
ただ少し、ほんの少し静寂を苦しいと思った時もあっただけで。
「でも、魔理沙は外の世界のことをすごく楽しそうに話す。人里であったこととか、最近やった弾幕ごっこのお話とか」
「あ、ああ、あの魔法使いね。パチェが本をよく盗まれるって愚痴をこぼしてたわ。その割に対策は立ててないみたいだけど」
「あれも一つの交流なんじゃない? 魔理沙もパチュリーが本当に必要そうな本は持っていかないみたいだし」
辟易した様子でため息をついているのに、しばらく来なかったりすると非常にわかりやすくそわそわし始めるのだ。仮にも魔女があんなに単純で良いのだろうか。
話がずれてきたな、と思ったフランは軌道を修正して話を戻す。
「で、私が聞いているのは私が外に出ていいか悪いか」
「ダメだって言ったら?」
「魔理沙に頼んでこっそり連れて行ってもらう」
「それ脅迫って言わない!?」
「ちゃんと選ばせてあげてるだけ有情じゃない?」
うぐぐ、と悩むレミリア。
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持っているフランがその気になったら、こんな地下室などあっという間に破壊される儚い牢獄に過ぎない。
いや、実のところ外に連れて行くことに問題はないのだ。
フランの様子は実に落ち着いたものであり、自分より冷静なんじゃないか、と思う時さえもある。
だが能力の性質上、万一を考えねばならないのも事実。
何かが起きてしまった時、それはレミリアのみならずフランにも悪影響を及ぼす可能性が極めて高いのだ。具体的には人里のとある守護者が怖い。
「……た、タイム!」
「許可。誰を私に付けるかって話でしょ?」
「なんでわかるの!?」
「そりゃあ、まあ。私がなんで幽閉されているかって理由ぐらいわかってるし」
フランは理解できているようにつぶやくものの、その顔にはどこか寂しげなものが混じっているのがわかった。
こんな顔をさせて良いのかレミリア。否、それは違うだろうレミリア。
姉たるもの、妹に寂しい顔をさせてはならないのだ。幽閉したくせに何を言っているんだ、という内心のツッコミは無視。
「あ、お姉様以外でお願い」
「なんで!?」
「だってお姉様ってうるさそうだし。身内の恥を見たくはないから」
「あなたにとって私の立ち位置ってどうなってるの!?」
「うるさいなあ。それで答えは?」
どうしたものか、とレミリアは頭を悩ませる。
外に出ると言っても、霧の湖や魔法の森の散策だけでは満足しないだろう。
となるとやはり人里が一番見応えがある。人と妖怪の往来が絶えない市場など、あそこにいるだけで一日退屈せずに時間が潰せる。
では誰をお供に付けるか。真っ先に浮かぶのは咲夜と美鈴だが、彼女らは万に一つ暴走してしまったフランを止められるかという点で疑問が残る。
「む、むむむ……」
「……そんなに悩むこと? というか私、そんなに危ない風に思われてるの?」
「外の世界は危険がいっぱいなの! あなたに万一があったら本当にマズイのよ!?」
「あ、うん」
予想外な姉の剣幕にフランは思わずうなずいてしまう。この姉がここまで必死になるなど、外の世界は一体どうなっているのか。
「……一日! 一日だけ時間を頂戴フラン! その一日で私が信頼できる人にお願いするから!」
「お姉様、屋敷の外に友達いたの?」
「そろそろ怒るわよフラン!?」
「良いじゃない。あの時の喧嘩の勝ち負け、今度こそ決めましょう?」
挑発的な笑みを浮かべてレーヴァテインを作り出すフランに、レミリアは感情の赴くままにグングニルを作って応える。
この二人で過ごす時間は大体、最後にこうした姉妹喧嘩とも言い切れない何かをすることで終わりを迎える。
いささか以上に過激なやり取りだが――これもまた、ほぼ不死に等しい再生力を持つ吸血鬼同士の戯れなのだろう。
……部屋の修繕が大変であると咲夜と美鈴が愚痴をこぼしあっているのはここだけの話である。
騎士が槍と盾を片手に打ち合いをしていた。
片方が鋭く槍を突き出すと、もう片方が円形の盾を使って巧みに受け流す。
受け流された方もまた上手い槍捌きで体勢を崩すことなく、追撃に供える。
槍と盾、というのは攻守に優れた組み合わせであると同時、形が非常に限定される形でもある。
細身の槍と盾であれば話は別だが、馬上槍と見紛うような太い槍と身体の半分を隠す盾では、手足の動きがどうしても阻害されてしまう。
それ故、傍目から見る分には突きを防ぎ、突きを返すという単調なものになってしまいかねない。
だからこそこの場面をいかに上手く魅せられるかが腕前の見せ所と言うべき点であり――
「わ、すごいすごい! まるで踊ってるみたい!」
「ええ、見事なものです」
アリスの操る人形たちは彼女の細くしなやかに動く指に操られ、他者に見せるための派手な動きを繰り出して見物人を楽しませる。
今回の人形劇はわかりやすく身分違いの恋物語で、万国共通で親しまれる題材だ。
仕える騎士に恋をしてしまった姫と、彼女を愛しながらも自分の身分に悩まされる騎士の物語。
人形劇という形式を取るため、話はさほど長くない。盛り上がりを重視して、動きも多く見る人を飽きさせないようにできている。
やがて物語も佳境に入りアリスの淡々とした、しかし聞き手を惹き込ませる感情を宿した声が最後の締めを行う。
「――かくして姫と騎士は結ばれ、幸せな日々を過ごしたのでした」
人形と共に一礼。そして沸き起こる大喝采。
人形劇を見ていた時も騒がしかった見物人の声は、ここに来て最大の盛り上がりを見せる。
それは阿求を肩車することで人形劇を見ていた、信綱らも例外ではなかった。
阿求は自分を支えている祖父にすっかり興奮した様子で話しかける。
「すごく面白かった! お祖父ちゃん、こんなのどこで知ったの!?」
今回の人形劇は信綱が阿求を誘ったのだ。
寒い日が続き、来る日も来る日も部屋の中で資料の編集と文字を綴るばかりの阿求を慮り、春の陽気が暖かい今のうちに気晴らしでもされてはいかがかと。
ちょうど彼女を楽しませられる娯楽にアテもあったため、この信綱の提案は見事に阿求を楽しませることになった。誘った彼としても阿求が喜んでいる姿が見られて万々歳である。
「彼女本人から聞きました。これから戻るでしょうし、少し話でもしましょうか?」
「いいの?」
「話しかける時節を見計らえば難しくはありません。阿求様、一旦降ろします」
「わかった。でも本当に大丈夫?」
「ご安心ください」
興奮した観客によるおひねりが投げ込まれることもあるが、彼女は金銭は受け取らない主義だったため、それらを静かに微笑むことで拒絶する。
彼女は一仕事を終えた汗を拭きながら、群がってくる人々に愛想笑いを浮かべながら荷物をまとめていく。
荷物をまとめて戻ろうとするアリスだが、興奮した人々の喧騒は収まらず、すぐには帰れそうにない。
普段はこんなに大盛況にはならないはずなのに、今日に限って人が多い。どうしたものかと内心で困っていると、救いの声が投げかけられる。
「お前たち、あまり彼女を困らせるな」
語り部であったアリス以上に淡々として、それでいて無視できない静かな迫力を持つ声。
人里で自警団としての時間を過ごした大人たちは皆、一度は聞いたことのある声に思わず振り返ってしまう。
そこに立っているのは人里で最も歳を取った老爺であり、同時に人妖が入り乱れる人里の秩序の維持を担っている守護者であった。
「一仕事を終えた後だ。労ってやるのも良いが、そんなに引き止めてやるな。あんな面白い劇を見た後だ、仕事にも気合が入るだろう」
言っている内容に特別なものはない。ごくごく当たり前のこと。
しかし彼の口から出ると、不思議とそれが大きな意味を持っているように聞こえてしまう。ある種の年の功がそこにあった。
人々は信綱の言葉を聞いて、その興奮をアリスにぶつけるのではなく隣の友人と話すことや、仕事の活力につなげるように気合を入れ直すことに変わっていく。
程なくして観客は思い思いにアリスに礼を言い、それぞれの持場に戻っていった。
僅かな言葉であっという間に人々を動かしてしまったことに、アリスはぽかんと呆けた顔で信綱を見る。
隣に立つ仕立ての良い服に身を包んだ少女を守るように立っており、守られている少女はどこか誇らしげな顔をしていた。
「……驚いた。あなたはこういった娯楽に興味を示さないと思っていたわ」
「そっちの人形劇に許可を出したのは俺だぞ。どのようなものか、確認ぐらいするさ」
蓋を開けてみればこの人気なのだから、もっと早めに来て欲しかったとすら思ったくらいである。
彼女の人形劇があれば、吸血鬼異変の時の白霧でも少しは明るくなっただろう。
「その子は?」
「初めまして、稗田阿求と言います! すっごく面白い人形劇でした!」
興奮で顔を赤くした阿求がペコリと頭を下げて自己紹介をする。
その可愛らしい様子にアリスも目元が緩むが、この少女と信綱の関係性については疑問が増すばかりだった。
「丁寧にありがと。アリス・マーガトロイドよ。それで……この子との関係は? 孫娘?」
「俺の主人だ」
「主人……主人!? あの、主人と従者のあれ!?」
「その通りだが、なぜそんな変なものを見る目で俺を見る」
御阿礼の子に阿礼狂いが仕えることなど、人里に住んでいれば常識である。
アリスは魔法の森にかなり昔からいたようだが、その辺りの事情には未だ疎いため、信綱と阿求の関係に驚いてしまう。
そんなアリスに阿求が大きく胸を張って、信綱と続いてきた関係を説明する。
「お祖父ちゃ――信綱さんは私が生まれるずっと前から家に仕え続けているんです! もう七十年以上もですよ!」
阿求は信綱がどれだけの期間、心を砕いて自分たちに仕えてきてくれたのか、まるで我がことのように喜んで説明していく。
その様子は先ほどの人形劇を見ていた時よりも興奮しており、頬が林檎のように赤くなっていた。
「阿求様、私が仕えているのは稗田家ではなくあなたにですが――」
「話をややこしくしないためです!」
「かしこまりました」
確かに知り合って間もないアリスに、御阿礼の子の説明をしても混乱させるだけだろう。
信綱は自分が口を挟むのは補足を求められた時だけにしよう、と心に決めて二人の会話を眺める方に回る。
アリスも阿求の説明に理解が及んだのか、冷静さを取り戻して子供の相手をするように阿求と話していた。
いやいや相手をしている様子はなく、意外と面倒見が良いことに信綱は内心で感心する。
阿弥に仕えていた頃の異変に次ぐ異変で騒がしかった幻想郷で、誰とも関わらずに魔法の研究をしていたと聞く少女だ。もっと根っこは冷めていると思っていた。
「――そう。あなたと彼が一緒にいる姿がちょっとわからなかったから、驚いちゃったの。ごめんなさいね?」
「良いんです。信綱さんは外だと結構怖いって聞きますから!」
「それはわかるわ。彼、いつも顔が硬いもの」
誰から聞いた話だそれ、と信綱は頭痛を覚えてしまう。
基本的に調子に乗った相手や、面倒なことをやらかそうとしている輩以外には普通に接しているつもりなのだが。
信綱が自分の振る舞いに一抹の疑問を抱いていると、阿求が信綱の方に駆け寄ってくる。
「お祖父ちゃん、アリスさんが少しお話でもしないかって! 良いよね!?」
「もちろんでございます。とはいえ立ち話もよろしくありません。こちらへ、良い店を知っています」
そう言って阿求とアリスを連れて適当な店を探して歩いていると、アリスが信綱の隣に並ぶ。
「少し意外だったわ。あなたはてっきり人里の守護者が生業だと思っていたから」
「阿求様の側仕えが主だ。守護者の方が兼業になる」
「あなたのような歳でも仕事ってあるのね」
「ほとんどお飾りだがな」
実際、守護者と言ってもやることは空いた時間に見回りをする程度である。
他の煩わしい事務作業などは全て別の若い者にやらせてあった。ただでさえ色々な妖怪に絡まれて面倒事が増えるのだ。別の誰かができることであれば容赦なく任せていた。
「ああ、それと……阿求様は好奇心旺盛なお方だ。おそらく質問攻めになるだろうが、頑張ってくれ」
先ほど阿求がこっそり耳打ちしてきたのだ。
いい機会だから、この人も幻想郷縁起に乗せるための取材もしてしまおう、と。
確かに阿求はまだ生まれて間もないため、天真爛漫な子供の部分が多く存在する。
だが――それでも彼女は転生し、知識を受け継いでいく御阿礼の子であるのだ。
その彼女がここ最近で人里に現れるようになった人形遣いを無視するはずがない。
信綱にはアリスのほんの少し先の未来が克明に予想できていたが、それ以上何かを言うことはなかった。
なにせ阿求の願いなのだ。信綱がそれを叶えるために動くのは当然のことである。
そうして一時間ほどアリスは阿求の質問攻めに遭い、疲れきった表情で店のテーブルに突っ伏す。
「つ、疲れた……一仕事終えた私を労うってのはなんだったの……」
「あ、あはははは……で、でも、個別で私のお屋敷に招くともっと時間がかかりますよ?」
「妖怪の対策本のための取材でしょ!? 妖怪側が疲れ果てるぐらいに人間が図々しいってどういうことなの!?」
そこは妖怪に怯えて質問などは短く済ませようとするのが人の感情ではないだろうか。
根掘り葉掘り聞いて、むしろ妖怪の弱点から何まで丸裸にしてやるぜ、とも言うべき意思が感じられたことにアリスは呆れたような、驚いたような顔で二人を見る。
阿求は自分が聞きすぎたと自覚していたのか、恥ずかしそうに身体を縮める。
対し信綱は何を不思議なことを言っているんだ、という顔だった。
「……あなたは全く疑問に思ってなさそうだけど」
「この程度で怒るようなら人里ではやっていけないだろうよ」
「試金石も兼ねてるってわけ?」
「度量を試されているのかもしれんぞ?」
アリスが鋭く睨みつけてくるが、信綱は涼しい顔のまま。
阿求にも心配している様子はない。なにせ隣に世界で最も信頼できる人がいるのだ。何が起ころうと対処してくれると信じられる人が。
睨み合っていたのは数秒にも満たなかった。
アリスは諦めたようにため息をついて、その後仕方がないと気の抜けた笑みを浮かべる。
「ま、次からは普通に声をかけてもらえると前向きに考えましょうか」
「信綱さん、この人ってもしかしてものすごく優しい?」
「あの人形劇を見ればわかるかと」
信綱がこれまで会ってきた妖怪たちの中で、最も少女らしい少女のように見えた。
見た目のこともそうだが、人形劇で好む題材もよく言えば王道、悪く言えばありきたりなもの。
そして最後には王子とお姫様が一緒になる、というこれまたありがちな結末が多いのだ。
娯楽という観点で見れば正しいが、信綱はそれが単純にアリスの趣味であることも理解していた。
「あれは実益も兼ねたものよ。研究テーマの一環」
「研究テーマ、ですか?」
「そう。完全な自立人形の創造。今回の人形劇も一種の動作確認ね」
「予め決められた動きに従う人形を、糸で微調整した形か」
「一から十まで指で操ることもできるけどね。でもそれじゃあ滑らかな動きは出せないわ」
質の良い人形劇にならないでしょう? と言って微笑むアリス。
実益の部分とは関係のない観客の反応までこだわっている辺り、意外と凝り性なのかもしれない。
「なるべく多くの人に見てもらいたいのよ。その方が違和感とかあったらすぐ気づくでしょうから。だから今後とも贔屓にしてくれるとありがたいわ」
「やっているのを見かけたら必ず見るようにします! アリスさんの人形劇、とっても可愛いですから!」
「ふふ、ありがとう。お代は任せても良いのかしら?」
「長々と引き止めてしまった詫びではないが」
「じゃあそろそろ失礼するわ。戻って人形の手入れをしないといけないから」
そう言って颯爽と去っていくアリスを見送り、阿求はほう、とため息をつく。
「格好いいなあ、アリスさん」
「ほう、どの辺りがですか?」
「親しみやすいけどちゃんとしてるっていうか、色々と考えててできる人っていうか……」
「確かに彼女はそういったところがありますね。私にもわかります」
仕事を頼んだらテキパキとこなしてくれそうな感じである。
もっと早く人里に来てくれていたら、面倒事を押し付けることができたかもしれない。
「お祖父ちゃんは立派、って感じの格好良さ。アリスさんはできる人って感じの格好良さ、かなあ」
「見習うべき人が多いことは良いことです。阿求様にもこうなりたい、と思う方はおられるのですか?」
「うーん……そんな先のことはまだ考えたことがないかな。今は幻想郷縁起の編纂が楽しいし」
「……そうですか」
阿求の言葉に信綱は何も言わず、ただ微笑んで話を切り上げる。
先を考えることができない。これも一つの短命の弊害である。
ただでさえ短い命が幻想郷縁起の編纂、転生の準備でさらに大きく制限されるのだ。
阿七も阿弥も本当の意味で自由な時間はごく僅かだった。
その僅かな時間を阿七も阿弥も、家族と穏やかな時間を過ごすことに費やした。
彼女らが告げた願いなど、信綱に生きて欲しいというささやかなものだけ。それすらも次の御阿礼の子を慮ったものであって、自分の願いというわけではない。
「……そろそろ戻りましょうか。阿求様も資料の確認があるでしょう」
「そうだね。アリスさんのお話も聞いたし、そこも見直さないと。後は春が奪われたって異変のお話も聞きたいし……今回の幻想郷縁起はすごく面白いものになりそう!」
ちなみに阿求は春が奪われるという話を聞いて、特に驚かずに受け入れた側だった。
話を聞いてみると遥か昔にも似たようなことがあったらしく、昔の幻想郷はどれだけの修羅場だったのかと思ってしまった。閑話休題。
ともあれ、今すべきは阿求の願いを最大限叶えることである。
信綱は恭しく頭を垂れ、彼女の手を取って家への道を歩いていくのであった。
そしてレミリアが何かを決意した表情でやってきたのは、その後すぐであった。
伴を付けず、一人で日傘を差して佇むレミリアに何かを感じ取り、信綱は何も言わずに自身の部屋に通す。
「用件は手短に。今は阿求様が作業をしておられる」
「ん。でも何も聞かないで部屋に通してくれたことにまずは感謝するわ」
「……お前との付き合いも長いからな」
もう彼女の様子だけで本気なのかそうでないのか、わかるようになってしまった。
その事実に信綱は小さいため息一つで受け入れ、レミリアの話を促す。
レミリアはためらうように二度、三度と信綱の方を見ては顔をそらすことを続けるが、やがて信綱の目を真っ直ぐに見据え、ささやくような声で願いを口にする。
「……妹の見張りをお願いしたいの」
「構わんぞ」
一度口から出てしまえば後は早い。レミリアは自分のお願いしていることがどれだけ危険で、そして彼にとっての利益の少なさをちゃんとわかっていた。
「もちろん、話に聞いているだけでも危険だって言いたくなるのはわかるわ。代わりと言ってはなんだけど、私にできることであればなんだって力になる――今、なんて言った?」
「構わないと言った」
目をまんまるにしてレミリアは信綱の顔を見る。
思いっきり無理難題を押し付けてやろう、とかどうせいつも言っているような適当なものだろう、という投げやりな態度でもない。
常と変わらぬ凪のような目でレミリアを見返し、ちゃんと話の内容を理解した上でうなずいていると確信できる様子だった。
「な、なんで?」
「普通なら真っ先にお前がやると言い出すことを任せるんだから、それなりの事情があると考えるのが当然だろう」
「ま、まあ合ってるけど」
理由は妹のワガママだと言ったらどんな顔をするのか、少しだけ気になるレミリアだった。
しかし、そんなしょうもないことを考えていられるのも次の瞬間まで。
「それに人の真摯な願いは笑わないと言ったはずだぞ」
「……おじさま」
「お前は真面目に頼む時とそうでない時がわかりやすい。
以前にも言っていたではないか。お前にとっての妹は俺にとっての御阿礼の子と同じ価値があるんだろう」
自分の全てを捧げても構わないと思える相手。それがレミリアにとってのフランのはず。
その彼女が信綱を信じて任せたいと言っているのだ。可能な限り力になるのが友人の役目である。
友人である、という部分だけを伏せて伝えたところ、レミリアは感動したように唇を震わせた。
「なんで本当に困ってる時はちゃんと助けてくれるのよおじさま素敵結婚して!」
「唐突に川遊びがしたくなってきた。河童への土産は流水にさらした吸血鬼で良いか」
「それは勘弁して頂戴!? 日光と流水は本当に痛いから!?」
きっと咲夜が助けてくれるだろう、と信綱はレミリアの真面目な話も終わったのだな、と半目で見て思う。
とはいえレミリアのそれは大体冷たい対応の信綱であっても、ちゃんとした真摯な願いに対しては応えてくれることへの感動を隠す意味合いも含んでいるのだが、そちらには思考が及ばなかった。
すっかりいつもの調子に戻ったレミリアを呆れた顔で見ていた信綱だが、不意に立ち上がると棚から何かを取り出す。
「対価というわけではないが、俺からも頼みがある」
「あら、何かしら? おじさまが私に頼み事なんて珍しいわね」
「お前だけというわけではない」
「ふぅん?」
「だが、これから頼むことは俺の全てを懸けたものになるとだけ言っておく」
「大体予想もできたけど、それでもこう言いましょう。――私はあなたを裏切らない。あなたに倒された日に交わした誓いは今でも忘れてないわ」
交わした誓いと言うが、そこまで上等なものだっただろうかと首をかしげる信綱。
一方的に切り刻んで勝敗を確定させ、その上で無理難題を突きつけた気持ちだった。
とはいえ快諾してくれるレミリアの言葉を疑う理由もないと、信綱は切り替えて棚から取り出したものを渡す。
「中身を見てくれ」
「これは……」
怪訝そうな顔でそれを見るレミリアだったが、内容を理解した途端に目を見開いて信綱を見る。
「お前に渡した理由。他の奴らに渡す理由、わかるな?」
「……ええ、把握したわ。私はこれを持っているだけで良いのね」
レミリアの瞳には多くの感情が揺らめいていた。
これを受け取るという時点で、信綱は自らの時間が少ないと告げているも同然なのだ。
薄々と感じていた別れは目の前まで迫っている。その事実にレミリアは哀しげに笑う。
「早速戻って見せてもらうわ。妹については日が決まったら連絡する」
「わかった。頼むぞ」
「……ええ、頼まれたわ」
日傘を差したレミリアはあっという間に空を飛び、稗田の家を遥か下に見下ろす。
そして信綱より渡されたものを手で弄びながら、そっとつぶやくのであった。
「――ここまで想ってもらえるなんて、あの子が羨ましいわね」
できる女アリスとおぜうのお話。
アリスの人形劇に対抗したにとりが機械で同じものを作ろうとして大騒ぎになるとか草案はあったのですが、書くと長くなりすぎるので泣く泣くボツに。
次回はフランちゃんウフフとノッブが遭遇してなんやかんやするお話になりそうです。このあたりからぼちぼち宴会の話題とかが出てきて、萃夢想の用意をしていくような流れ。
多分、この辺りが最後のほのぼのというか、萃夢想終わったらもう死ぬ準備整えるお話ぐらいになりそうなので、ご了承ください。