霊夢の朝は早い。
日の出とともにむくりと布団から身体を起こし、眠気の残る頭をかきながら身だしなみを整えていく。
「ふぁ……」
あくびは出るものの、二度寝をする気配はない。なにせやることの少ない博麗神社。基本的に寝るのも早ければ起きるのも早い。
もそもそと巫女服に着替えていき、最後にリボンで髪を結んで完成。いつも通りの格好の出来上がりである。
「ん、よし。今日も元気っと」
今日は寒く、未だ雪は積もり続けている。なので霊夢は父親代わりの人から買ってもらった、上質なマフラーを首元に巻いて外に出る。
「おーおー、積もってる積もってる。また今日も雪かきかあ……」
毎日毎日、よくもまあ飽きもせず降り続けるものだ。もう春になっていても良いというのに、自然というのは気まぐれなものである。
霊夢はぶつぶつ愚痴をこぼしながらも、雪下ろしの道具を片手に空に上っていく。
こんな時に父親代わりの人が来たのなら喜んで雪かきをお願いしているのだが、彼はここ最近顔を見せていない。
雪が長いし人里も人里で忙しいのだろう、と霊夢は自己完結する。全く顔を合わせないわけではなく、人里では普通に会話もするのだ。
霊夢は手慣れた様子で神社の雪下ろしを行っていく。彼女はまだ子供だが、幼年の頃から神社で暮らしているのだ。この場所で暮らすための勝手はもう身体が覚えている。
ものの一時間もかからず雪下ろしを終えると、霊夢は道具を片付けて境内に出る。
そろそろ腹の虫が空腹を訴えてくる時間だが、あと少し我慢である。これから父から教わった体操をするのだ。
ひどく疲れる上、本当に必要なのか疑問ではあるが、あの人が言ったことであれば間違いはないはず。
事実、あの体操を始めてから病気や怪我は圧倒的に減ったのだ。効果はあるに違いない。
「さて……始めますか!」
霊力を高め、構えを取る。
霊夢の霊力に呼応した陰陽玉が二つ、彼女を守るように付き従う。
針や札は使わない。毎日行う鍛錬――もとい体操で消耗品を使うのは補充が面倒になるだけである。
体術の型、霊力の向上、そして仮想敵である父とのイメージトレーニング。
多くのものが組み合わされ、より高い効果が見込めるように――その分の体力消費は度外視されている――作られた体操を霊夢は行っていくのであった。
自身の発する熱で周りの雪が溶けている中で、霊夢は最後の型を終える。
「ふぅ……よしっ!」
始めた当初は午前中ずっと動けなくなるくらいの疲労を覚えたが、今となっては慣れたものである。
霊夢はいい汗かいた、と額の汗を拭いながら神社より見える朝日を見る。
空は雲一つなく、冬の透き通った空気が澄み渡る青空をくっきり描き出していた。
今日は一日、雪も降らず良い天気になるだろう。霊夢は良い一日になりそうな予感に頬を緩ませる。
「――うん、いい朝。今日も一日頑張ろう!」
「いやいやいやいや待て待て待て!?」
清々しい顔で一日を始めようとした霊夢だが、いきなり横から入ってきたツッコミで遮られてしまう。
一体誰だ、と声の方向に首を向けると、そこでは霊夢の友人である霧雨魔理沙が信じられないものを見るような目で霊夢を見ていた。
「魔理沙じゃない。どうかしたの?」
「お、おう……いや、お前って努力とかそういうのって嫌いじゃなかったっけ?」
「嫌いよ。痛いし苦しいし泣きたくなるし。……まぁ、褒めてもらえるのは嬉しいけど」
「じゃあ今のあれはなんだよ」
魔理沙が硬い表情で聞いてくることに霊夢は首を傾げる。
「体操でしょ? 毎日人里でもやってるって聞いたわよ」
「んなわけあるか!? あんな体操毎日できる人間なんていねえよ!?」
「……ウソ?」
霊夢はこれまで父の言葉に疑いを持ってこなかった。
さすがにおかしいなぁ、程度の違和感は覚えていたが、それでも父の言っていることであれば損はないだろうと思って続けていたのだ。
「こんなのが里の誰にでもできたら妖怪退治とか余裕だろ? 自警団だって無理だと思うぞ」
「で、でも爺さんはこれを体操だって」
「お前の爺さんも大概だな……」
というか誰だよ、と魔理沙は霊夢が祖父と慕っている人物についてつぶやく。
特徴を聞けばすぐに魔理沙も知っている共通の人物であるとわかるのだが、魔理沙の関心は霊夢にそんなことを教えた祖父よりも霊夢が日々行っている努力の方に行っていた。
なにせ霊夢に追いつくために日々努力しているというのに、彼女にまで努力されたら追いつけるはずがない。
才能が違うことなど、当事者である魔理沙は痛いくらいに実感しているのだ。
せめて努力している理由だけでも聞こうとしてみたら、今の霊夢の反応である。そもそも努力を努力と思っていなかったようだ。
「普通気づくと思うけど、霊夢のやってたことって努力とかじゃなくて修行のレベルだぜ? よく毎日やってたな」
「……本当に人里ではやらないの?」
「おう」
「……努力って朝から日が暮れるまで延々と組手を続けることじゃないの?」
「相手によっては死ぬなそれ」
誰だよこいつの努力のハードル上げまくったやつ、と魔理沙は霊夢が爺さんと呼ぶ人物に恨み節を吐く。
努力が嫌いと公言していたから普段は怠けているのかと思いきや、実は霊夢にとっての努力が他人から見れば修行とか拷問の領域であったなど誰が想像するか。
魔理沙は目標が遠のく足音を確かに聞きながら、霊夢の顔を見る。
「あ、あのジジイ……!!」
自分が騙されていたことにようやく理解が及んだのか、わなわなと拳を震わせて怒りを堪えている様子だった。
これは放っておいたらジジイとやらを追いかけて行ってしまうかもしれない。
そうなると面倒なので魔理沙は話題を切り替えることにした。彼女が言いたいのは霊夢の父の人間離れっぷりではないのだ。
「まあ怒る前に私の話も聞いてくれよ」
「なに」
剣呑な空気を隠そうともしない霊夢だが、魔理沙は物怖じせずに話し始める。
基本的に素直にならず、照れ屋な霊夢を相手にするには多少の図々しさが必須となる。
「ここ最近、ずっと寒いどころか雪だってまだ降り続けている。――こりゃ異変だろ。霊夢だって春が来ないのはうんざりしてたんじゃないか?」
「……確かに、変だなとは思ってたけど」
「だろう? 冬が長引いて喜ぶとくれば雪女とかの妖怪が定番だ。私らでちょちょいと話を聞いて異変だったらそのまま解決しちまおうぜ」
この状況が異変なのかそうでないのか。それがわかるだけでも情報としての価値はある。
だからここは行くべきだろう。無駄足に終わろうと無意味になることはない。
――と、霊夢は魔理沙の提案に乗るべきだと囁く自分の勘への理論武装を行って、うなずいた。
「ま、そういうのを調べるのも博麗の巫女のお役目ね。これから朝ごはんを食べてから行くけど、あんたも食べてく?」
「その言葉を待ってました。いやぁ、わざわざ朝早くに来た甲斐があるってもんだぜ」
「その辺でつららでもかじってなさい」
「減るものじゃないし良いだろ」
「神社の食糧が二人分減るわよ、全く……」
寺子屋時代の魔理沙はもう少しおとなしかった気がするが、あれから数年も経てば人間は変化するのだろう。
霊夢は大きなため息――不思議と父親代わりの人に似ている――をついて、仕方がないと割烹着を来て朝食を作り始めるのであった。
「珍しいこともあるものですね」
「いや、ははは。面目ない」
その日、信綱は慧音の元を訪ねていた。
これといった用事が信綱の側にあるわけではなく、むしろ信綱が慧音に呼び出された形になる。
その用事とは信綱が目を見開くほどに驚くべきことであり――慧音が風邪を引いたのだ。そもそも半獣って風邪を引くのか、という点でまず驚いた。
慧音の家を訪ねると普段の服ではなく襦袢だけを身に着け、熱で赤くなった顔でバツの悪そうな顔をした慧音が待っていた。
そんな彼女の要請に応えて、今は彼女のための薬を調合している最中だった。
「しかしなぜ普通の医者ではなく私を呼んだのですか?」
「昔から人間用の薬は効果が薄いんだ。彼らの技量云々ではなく、私の身体が問題なのだろう」
「だから私ですか……」
人里で最も妖怪の知り合いが多い人間は信綱以外にいない。
しかも人妖の共存が成されるずっと前から妖怪に鍛えてもらったという話もある。彼の人生は妖怪とともにあったといっても過言ではなかった。
そして彼には医術の心得がある。元は阿七や阿弥といった御阿礼の子のために磨いたものであるが、人間や妖怪に適用されない道理もない。
「私も先生の薬を作った経験なんてありませんし、風邪に特効薬なんてのもありません。せいぜい滋養強壮ぐらいですよ」
「わかっている。それに……あれだ。お前とは公私に渡って長い付き合いになったからな。私も変な遠慮をしないで済む」
「……先生ほどの方であればみんな、喜んで助けになると思いますよ」
言いながら、粉末を作るために動かしていた薬研の手を止め、できた粉末を懐紙の上に乗せる。
「できました。こちらを飲んだら後は栄養のあるものを食べて暖かくしてゆっくり休んでください。病気を治すには自分の体の抵抗を高めるのが一番です」
「ああ、そうさせてもらおう」
慧音が苦そうな顔で薬を飲み干すのを見届けると、信綱は彼女の横であぐらをかいて腕を組む。
「本当に珍しいこともありますね。先生が風邪を引いた姿など、この歳まで生きて初めて見ました」
「私も本当に久しぶりだ。半分妖怪である以上、私の身体は普通の人間よりよほど丈夫なのだがな。今回の寒さは堪えたらしい」
困ったように笑う慧音だったが、顔色自体は悪いものではない。熱が上がって赤くなっているのも、肉体が病を追い払おうとしている証拠だ。
本当に体調が悪いとその熱すら出なくなる。
阿七はしょっちゅう体調を崩しながらも、熱だけはなかなか上がらなかった。
そんな彼女の姿を見てきたのだから間違いない。彼女のために磨いた医術がこんなところで役立つとは思わなかった信綱だった。
「お前はどうなんだ? 呼びつけておいてあれだが、
「生まれてこの方体調を崩したことがないです」
そうであるよう徹底的に体調管理を行った賜物でもある。御阿礼の子の側仕えは何より身体が資本なのだ。不摂生などできるはずもない。
それを差し引いても一度も体調を崩さないのは、我ながら恵まれた肉体を持ったものだと顔も知らない母親に感謝したものだ。
その話をすると慧音はどう反応したものか困ったような笑顔を浮かべた。
「お前の母親となると、もう生きてはいないだろうな。というより、お前が人間の中では最高齢だ」
「でしょうね。顔も名前も知りませんが、どこかの墓に葬られているのでしょう」
火継の家で一生を終えたのなら火継の墓に入るが、それなら子供の頃に一度くらい顔を合わせてもおかしくないはず。
おそらく自分を産んだ後は火継の家を出て普通に暮らしたのだろう。
火継の家に入る以前の名字など信綱には知る由もない。自分を産んだ母親は自分と関わらず生きて死んだ。それだけである。
他人の事情であれば痛ましい感情の一つも覚えるが、自分のこととなると一切の感慨が湧かなかった。
なにせ自分は阿礼狂い。父親さえも己のために使い潰したヒトデナシ。そんな人間の親であるなど、誰が認めたいか。
「まあ、私は構いません。大して気にもしていないことです」
「だろうな。全く、情に厚いのかそうでないのか……」
「それは周りが決めることです」
そう言って信綱は立ち上がる。いつまでも病人と話していても、相手が休めないし自分に感染する可能性が増えるだけである。
「私は戻ります。先生は少し働きすぎですので、これを機に養生してください」
「お前ほどじゃないさ。とはいえ、人と比較することも虚しいか。言われた通りゆっくり休むとしよう」
「はい。――きっともうすぐ、暖かくなりますよ」
信綱が外に出ると、相も変わらぬ頬を刺す寒さが襲ってくる。
いい加減霊夢が動いても良い頃合いだろう。気づかずとも、魔理沙辺りは動いているかもしれない。
もう博麗の巫女が異変を解決しなければならない時代は終わったのだ。弾幕ごっこのルールに則り、正しく動くのなら誰であっても異変を解決する権利がある。
いずれにしても自分は待っていれば良い。誰かに後事を託すというのは実に身軽な気分だ。
「旦那様」
と、そんな信綱の後ろに声がかかる。
振り返ると、そこには紅魔館のメイドを務めている咲夜が普段通りの女中服を身にまとい、佇んでいた。
「お前か。レミリアはいないようだが、どうかしたか?」
「本日は情報収集に参りました」
「情報収集?」
「ええ。お嬢様はこの寒さが続く原因を春を奪う異変が起きていると考えたようです」
「……あいつが?」
彼女にそんな難しいことを考える頭があったのか、と本人が聞いたら泣き出しそうなことを考える信綱。
そんな彼の思考がわかったようで、咲夜は小さく微笑んで種明かしをする。
「実はパチュリー様が遠見の魔法で春を奪っている輩がいることを知ったんです。その時にはもう紅魔館の春は奪われていましたけど」
「面子の問題か」
「それもありますが、パチュリー様が四季の元素を集めにくくなるから早く解決しろ、とうるさくて」
お嬢様は雪遊びができると結構嬉しそうなのですが、と可愛らしく小首をかしげる咲夜だった。
レミリアがあまり他人に知られたくないであろう事実を知ってしまったことに、信綱は微妙な顔になるが口には出さなかった。
さすがに子供っぽい遊びで楽しんでいることを突っつく気にはなれない。信綱にも情けは存在する。
「それでお前は異変の解決か? スペルカードルールに従っている限り、咎められる謂れはないが」
「そのようなものです。冬が続くとお鍋が美味しいですけど、そろそろ春の山菜が恋しいですから」
幻想郷に馴染んでいるようで何よりである。
ともあれ、信綱としては知っている情報を教えるのもやぶさかではなかった。
避けたいのは信綱が霊夢に教えることで霊夢が初めて異変に気づくという――いわば霊夢が受動的になってしまうことを避けたかったのだ。
咲夜は自分から動き、数多く存在する選択肢の中で信綱を頼るという選択をした。能動的な行動であれば信綱も嫌がる理由はない。
「で、俺に何を聞きたいんだ? 知っていることなら答えるぞ」
「じゃあ異変の黒幕がいる場所とか」
「知ってたら教えている」
「ですよね。では最近変わったことは?」
「春を奪いに来る輩が来たから撃退した。名前は知らんが、人相は覚えている」
「こちらにも来たのですか。襲撃者も愚かなことを」
咲夜はそのようなことをつぶやいているが、実は今の言葉でも情報は与えているつもりだ。
信綱を知らない妖怪はそう多くない。その中で異変を起こせるような大妖怪になるとさらに限られる。
そしてもしも信綱の知る妖怪が黒幕であった場合、絶対に信綱と事を構えることは避けろと厳命するはずだ。誰だって遊びで部下の命を捨てるつもりはない。
つまり、この時点で幻想郷の既存の勢力は候補から外れるのだ。
中にはもう一度信綱と戦いたいという連中もいるかもしれないが、それなら直接信綱に勝負を挑むだろう。
「俺も詳しくは知らないが、妖怪の山は違うだろうな。あそこも春を奪われたと言っていた」
「そうでしたか。人相書きもいただけましたし、候補が一つ減っただけでも収穫です」
「なら良い。異変解決、頑張ってくれ」
「微力を尽くします。では失礼します」
優雅に一礼して飛んでいく咲夜を見送り、信綱は再び歩き出す。
霊夢に魔理沙。そして咲夜。三人も解決しようと動く人間がいるのだから、幻想郷は安泰だ。
異変を起こして騒ぎたい輩は騒ぎ、解決したい輩はそれらを退治する。
人間と妖怪の関係としてはおよそ理想的だろう。これからもこの調子で続いていって欲しいものである。
信綱はそう願って、気持ちよく歩き始めるのであった。
「さ、今日も勝負するわよ!」
「…………」
信綱の願いは道中で風見幽香と出くわすことによって、五分で終わりを告げることになった。
鼻息荒く、目を輝かせて――言葉を飾らず言えば子供のような無邪気な顔で将棋盤を持ってきた幽香に、信綱はズキズキと痛むこめかみを押さえる。
人が気持ちよく歩いていたらこれである。自分のめぐり合わせの悪さというか、間の悪さは死ぬまで治らないらしい。
外で遭遇し、家まで案内するのも面倒だったので適当な店で将棋盤に駒を並べていく。
店員が露骨に迷惑そうな顔で見てくるが、ちゃんと食事を頼んだので相殺していると信じたい。
「……将棋盤なんて持っていたんだな」
「たまたまよ。大妖怪が人間を打ち倒すために努力なんてすると思う?」
そうは言うが駒を並べる手つきの淀みなさを見るに、かなりの練習を重ねたのが丸わかりである。
「大妖怪とは努力せずとも強いのではなく、現状を認めて打開ができるものを指すと思うがな」
「……ふぅん。あんたの会ってきた妖怪ってそうなの?」
幽香は並べ終えた将棋盤から視線をそらさず、あくまでそれとなくと言った体を装って聞いてくる。
信綱にはそれが手に取るように理解できていたものの、指摘してやることはせずに素直に教えることにした。
「妖怪としての在り方以上に、己の魂に従う妖怪がいる。千年、自分の手足である妖怪の繁栄を願って動き続けた妖怪がいる。手酷い裏切りにあってなお、力強く笑う妖怪がいる。己の願いのために自分の誇りさえも捻じ曲げて目的を遂げようとする妖怪もいる。
……そして、自分の心を他人に見せたがらないくせに、誰よりも人間と仲良くしたい妖怪がいる」
レミリア、天魔、勇儀、萃香、紫。いずれも信綱が出会い、大妖怪であると認めるにふさわしいだけの実力、在り方を持っていた者たちだ。
彼女らに何が共通しているかと問われても、信綱には答えられない。
矜持を大事にする者もいれば、誇りなど犬に食わせてしまえと宣う輩もいる。
だが、信綱は彼女らが大妖怪であり、決して油断してはならない存在であるという認識を変えることはないだろう。
幽香はそれを聞いて興味深そうにうなずく――前に首を横に振って信綱を嘲るように笑う。
「ふ、ふん。ちょっとは妖怪に詳しいようね。伊達に幻想郷の英雄ではないか」
「お前がどんな在り方を目指しているのか。それは俺には与り知らぬことであり、興味があることでもない」
ウソである。幽香にはせめて真っ当な在り方になってもらわないと後々、自分が困るのが目に見えているため、幽香がどのような答えを出すのかは興味津々だ。
先行の幽香がパチリと駒を動かすのに合わせて、一瞬も迷うことなく駒を動かす信綱。
未だ本気を出すには至らない。その事実に幽香は憎々しげに信綱を睨むが、指す手に淀みはない。
「だが、大妖怪とは自分で名乗るものではなく、他者によって与えられる称号のようなもの。少なくとも自分からそれを名乗っている妖怪を見たことはない」
「…………」
幽香からの返答はないが、意識がこちらに向いていることは確信できたため、気にせず続けていく。
「お前の力は凄まじい。それは認めよう。俺が今まで会ってきた大妖怪に全く引けを取らない」
「……当然よ」
言葉少なに答え、幽香は再び盤面に集中する。
もう趨勢は決しかけており、信綱の動かす駒が自在に幽香の陣地を蹂躙しつつある状況だった。
まだ詰みには至っていないが、この調子では遠からず詰むだろう。
そのような状況にあって幽香は苦々しい顔をしているものの、その顔に諦めは見えなかった。
「……俺がこう言ってしまうのもあれだが、お前は誰にも知られず花畑にいた方が良かったのかもしれない」
「孤高の大妖怪、とでも言いたいわけ。――巫山戯ないで。井の中の蛙がそう名乗るなど滑稽以外の何ものでもないわ」
反逆の一矢が幽香の手より放たれる。
予想だにしない方向からの攻撃に信綱の目が僅かに見開かれた。
「私は負けない。今、あんたに勝てなくても挑んで挑んで挑み続けて、いつか必ず勝つ。力であっても、知恵であっても」
「……そこまで言えるのなら立派な在り方だ」
負けることが好きな存在はいないが、ここまで極まった者もそうはいない。
勝つことに貪欲なところは信綱の知るどの妖怪にも見られないものだ。
負けを認めるのも度量の一つであることは確かだが、勝利への渇望もまた度量である。
なまじ優等生のように、知った風で諦められるよりよほど好感の持てる姿勢だ。
「私はね、孤高でいたいんじゃない。誰とも関わらない孤高なんて、ただの逃避と何も変わらない。悔しいけど、あんたを見て教えられたわ」
実に久しぶりの来客であると同時、本当に久しぶりに己に敗北感を与えた男だった。
信綱にとっては大したことではなかったかもしれないが、自分が負けたと思ったのならそれは負けなのである。
そして負けは取り戻す主義である以上、信綱につきまとうのは当然の流れと言えた。彼にとってはいい迷惑だが。
信綱は幽香の一手で揺らぎかけた地盤を整えながら、気持ちの確認をするように口を開く。
「知らない方が良かったのではないか?」
「冗談。あんたが死ぬ前に私のところに来てくれて感謝しているくらいよ。これで私はもっと上を目指せる」
「その向上心は見習いたいものだ」
彼女の一矢は見事だったが、それで勝敗が覆るものではなかった。
再び流れは信綱に傾き、今度こそ信綱の勝利は揺るがないものになっている。
「む、むむむ……」
「ところで。今の異変は察知しているのか?」
「春を奪いにきたってやつ? 適当に弾幕で追っ払ったわ。スペルカードルールとやらで戦うのは初めてだったけど、あれはあれで悪くないわね」
「なら良い」
というか命を奪いに行った自分より上出来である。
しかしそれをおくびにも出さず、信綱はしれっと話を流してしまう。突かれて都合の悪い部分は早めに飛ばしてしまうに限る。
「異変の解決なんて面倒だし、博麗の巫女に任せるわ。それより今はあんたとの勝負よ」
「そうか。王手」
「ぐっ」
悔しそうに息を呑む幽香だが、ここ最近の勝負で将棋の流れは理解できている。
盤面を読む限り、もうどうしようもない。詰みの状態になっていた。
「……ま、参りました」
喉元で唸り声を上げていた幽香だが、やがて敗北を認めてがっくりと首を落とす。
それを受けて信綱も鷹揚にうなずき、勝負は終了した。
「うむ、対戦ありがとうございました。まだ全戦全勝だな」
「花の世話をしている時もずっと考えていたのに……!」
「考え方の慣れだ。いずれ追いつく」
幽香は妖怪だけあって思考の速度自体は信綱より早いのだ。
それでも勝てないのは、偏に信綱が想像の埒外から手を打っていることに帰結する。
要するに、彼女は相も変わらず目の前のことで頭が一杯になってしまうので、彼女の注意が及んでいない場所で利益を取っているだけに過ぎない。
ちゃんと周りを見ることを覚えて、それぞれの対処を覚えた時が幽香の勝つ時である。
勝利にこだわり、さりとて外道に落ちることもない彼女の在り方そのものは好ましいと思っているのだ。
後は少し周りを見ることと、相応の振る舞いを覚えれば彼女は気高く美しい、誰もが憧れる高嶺の花として咲き誇ることだろう。
「もう一回! もう一回勝負よ! さっきので何か掴みかけたから!」
「……それはわかったから、いい加減お前も何か食べろ。店主が凄まじい目で見ている」
「人里のお金なんて持ってないわ!」
「威張って言うな。……全く」
面倒なやつに絡まれるのは信綱の宿命のようだ。
諦めたようにため息を吐いて、信綱は再び将棋を打つのに没頭していく。
パチ、パチ、と駒を指す音が静かな店に響き、信綱と幽香は無言で盤上の勝負を続ける。
そんな中、今度は幽香からおもむろに口を開いた。
「……ねえ」
「どうした」
「……あんたに勝てたらそれは誇って良いことなのかしら」
「それを決めるのはお前自身だ。自分に胸を張れることなら誇れば良い」
「……じゃあ、そうさせてもらうわ」
「そうすると良い。すぐに勝たせるつもりはないが。――王手」
「ウソ!?」
ぐぬぬと必死に打開策を探す幽香を見て、信綱はほんの少しだけまんざらでもないため息をつくのであった。
なんだかんだ、愚直な存在の面倒を見るのはそう嫌いではない信綱だった。
――それは幻想郷に春が訪れる、ほんの少し前の出来事である。
霊夢、とうとう真実に気づく。ノッブはウソつかないと思った? 残念!
魔理沙も咲夜も異変解決に動きます。次回ぐらいでもう妖々夢は終わってます。
妖々夢が終わったらおぜうや橙を書いて――すぐに萃夢想が始まります。妖々夢の解決祝とかで宴会を作ればすぐに起こせる異変ですから。
その異変が終わったら、とうとうこの物語も幕を下ろす時が来ます。100話……は少し越えるかもしれませんが、110には行かないでしょう。
そしてゆうかりんはこれまでとは違ったタイプの大妖怪として書いてます。人と関わりが少なかったから何ものにも染まっていないけど、それでも器は十二分。方向性さえ与えればすぐにでも花開く存在です。