それは魔法の森の入り口にほど近い場所に建っている家だった。
家の前には雑多なものが所狭しと置かれており、何も知らないものが見ればゴミ屋敷か何かという印象を覚えるだろう。
申し訳程度に香霖堂という名前の彫られた看板がなければ、そこに人が住んでいることすら気づかず、ただの廃屋として通り過ぎる。そんな見た目の家。
その中に信綱は迷うことなく足を踏み入れ、声を出して店主を呼ぶ。
「店主、いるか」
「あいにくと開店休業中だよ。あなたが来た理由はわかっているけどね」
香霖堂の店主――森近霖之助は勘定を受け取る定位置に座り、困ったように笑って店の奥に視線をやる。
「魔理沙が来た時は二重に驚いたよ。いきなり泣きながら来たのもそうだけど、何よりあの髪だ。吃驚仰天とはあのことを言うんだと実感した」
「今はどうしてる?」
「なだめて話を聞いたら怒りが湧いてきたみたいでね。迎えが来るまで帰らないそうだ。あなたは迎えに?」
「そんなところだ。事情はどの程度?」
「子供が泣きながら話す事情程度には」
要するに何も知らないも同然ということだ。それでも魔理沙を受け入れて彼女の好きにさせてやる辺り、霖之助も意外と情が深い。
信綱はこの件に関してどちらの側に立つつもりもなかった。
こうなったらありがたいな、という展望ぐらいは持っているが、そのために魔理沙や弥助の意思を捻じ曲げるつもりはない。
善意の第三者という立ち位置を崩していない信綱は俯瞰的に二人の事情を話す。霖之助は興味深そうに聞いていたが、自分の持ってきたマジックアイテムが原因であると知るとしくじったと苦い顔になる。
「しまった……あれは紅魔館に渡してもらおうと思っていたんだ。あそこの魔女なら扱えるだろうからね。かと言って僕が直接赴くほど信頼関係もないから、親父さんに渡してもらおうと思っていたのに」
「魔理沙が魔法の才があることは?」
「知っていたら持っていかない。僕だって驚いているんだ」
「だろうな。それに霧雨商店ぐらいだからな、紅魔館との接触があるのは」
交流の始まった直後、勘助がレミリアと対話を交わした。その事実をレミリアは尊重し、雑貨は霧雨商店で買うようになっており、また彼女が戯れに用意した外来の道具を霧雨商店が買い取ることになっていた。
いずれは香霖堂でマジックアイテムのやり取りが行われるのかもしれないが、それは今ではない。信綱は納得したようにうなずき、店の奥を見る。
「少しあの子と話してくる。……お前はどうなって欲しいんだ?」
「危ないことはして欲しくないのが本音だけど、それで魔理沙たちの意思が曲げられるのは不本意だ。だから、まあ……親父さんも魔理沙も納得した道を歩んで欲しい、かな」
「……そうか」
霧雨家は人の縁に恵まれる何かを持っているのかもしれない。
自分などと友人でいようとした勘助たち以外は、と心の中で注釈を付けて信綱は店の奥に入っていった。
「魔理沙、いるか?」
「……爺ちゃん? なんでここに?」
見慣れない金色の髪を持つ少女――魔理沙は目元を赤く腫らし、涙の跡が見える顔で驚いたように振り返る。
霖之助や弥助が迎えに来るならわかるが、ほとんど関係のない信綱が来たことに驚いたのだろう。目をまんまるに見開いていた。
「たまたまお前が店から飛び出すのを見かけたんだ。大体の事情は聞いている」
「……爺ちゃんは戻れっていうの?」
不貞腐れたように睨んでくる魔理沙。すっかり大人に不信感を持ってしまっているようだ。
最初に弥助の方に行ったと聞いたので彼の味方だと思われているのだろう。
信綱は親友の孫を相手にどう対応したものかと頭の片隅で悩みながら、言葉を選んで口を開く。
「お前はどうしたい?」
「え?」
「弥助からどうしたいかは聞いた。お前からも聞くのが筋だろう」
「……笑わない?」
「本気で言っているのなら」
それに若い頃から妖怪と一緒に生きてきた信綱にとって、魔法使いになりたいことぐらいで驚きはしない。
なれる力があって、なりたいならなれば良いのでは? 但し周りからの納得を得る努力はした方が良い、ぐらいのものである。
今回は相談を持ちかけられた相手が相手なので尽くせる範囲で力を尽くすが、縁もゆかりもない他人ならこのぐらいの対応である。
無論、魔理沙はそんな信綱の心境など露知らず、大好きな祖父の親友である彼の落ち着いた言い回しにすっかり信じる気持ちになっていた。
「……私、魔法使いになりたい」
「昔、ここの店主に読んでもらっていた本のように、か?」
「それもある。それもあるけど……もっと別の理由」
ポツポツと語り始める魔理沙の言葉を途中で遮ることなく、信綱は静かに聞いていく。
「絵本で読んだ魔法使いになれるならなりたい。父ちゃ――親父の言うがままに花嫁修業とかして、誰かと結婚するより、自分の力で道を作りたい」
「そうか。続けてくれ」
名家に生まれた者の宿命かもしれん、と信綱は弥助のことを思う。
彼も少年の頃は信綱の活躍に魅せられて、店など継がず英雄になると息巻いていたものだ。
火継の家は数に入れない。生まれた時から御阿礼の子に狂うことが宿命付けられている以上、選択の余地すら存在しない。
「でも、それ以上に憧れている子――やつがいるんだ」
「……無理に言葉遣いを変える必要はないぞ。君が礼儀正しい子だってことは知っている」
そして優しいことも信綱は知っていた。それは間違いなく美点であり、消す必要のないものだ。
そう教えるものの、魔理沙は意固地になったように頭を振る。
「自分を変えたいんだ! 今のままじゃ何にもできない! 親父の決められた道を歩くだけだ!」
「それの是非は置いておこう。……父親に逆らってでも叶えたい目的があるんだな?」
「……ああ。私はあいつに――霊夢みたいになりたいんだ」
「…………」
予想外の人物が出てきたため、信綱は僅かに目を見開く。
霊夢の話にも魔理沙は出てきたから友人であるとは思っていたが、よもや魔理沙の側は霊夢をそんな風に思っていたとは知らなかった。
「……霊夢みたいに、とは?」
「頭が良くって、運動もできて、面倒見が良くって……あいつ、博麗の巫女なんでしょ?」
「そうだな。今は先代が役目を果たしているが、いずれは彼女が巫女になる」
そうなるための教育を自分が施しているため、同年代との力量差は仕方がない。
……とはいえ、それを魔理沙に告げても納得はしないだろう。第一、魔理沙にとって自分は祖父の友人ぐらいの認識のはずだ。
魔理沙は信綱の内心の懊悩を無視し、強い意志を感じさせる瞳で信綱を見据えた。
「博麗の巫女の隣に立つんなら、霧雨商店の娘じゃダメだ。それこそ魔法使いとかとんでもないものじゃなきゃ、私はあいつに胸を張れない」
「それは違う。霊夢には霊夢にしかできないことがあって、君には君にしかできないことがある。君ができることを全力でやっているなら、どんな形であってもあいつに胸を張れるはずだ」
そもそもあれは才能こそあるものの、それ以外は結構適当な性格である。
今でも隙あらば信綱の稽古をサボろうとするなど、なかなかに根性のある怠け癖があった。
あいつに対してそんな真面目に悩むだけ損だとは言えず、信綱は昔に弥助に対して言ったことと同じ内容の言葉を告げる。
しかし魔理沙は信綱の言葉に対しても首を横に振り、自分の意思を示す。
「私は――あいつの隣に立ちたいんだ。友達でいたいんじゃない。あいつに認められるような、そんな関係になりたいんだ。そのために魔法使いになりたい」
「……決意は固いようだな」
「爺ちゃんにも邪魔はさせない。いいや、邪魔されたって絶対に諦めない」
この意思の強さはどこから遺伝したのか。信綱は魔理沙の目から遥か昔、自分が狂人であると知ってなお友人でいたいと言ってくれた親友の面影を見出し、ため息をつく。この家の面倒を見ることになるのは運命か何かなのだろうか。
「……だったら、その内容を余すところなく父親に伝えろ。理由もなしに魔法使いになりたい、では誰も納得せんぞ」
「誰の理解もなくたって良い。私一人でも……!」
「――甘えるな」
「え?」
冷たい、ともすれば冷酷にすら聞こえる声音で魔理沙の言葉を信綱は否定した。
これまでは親友の孫であることもあって優しく対応していたつもりだが、ここからは違う。
魔法使いになるということは霧雨商店の娘であるという立場を捨てることであり、それは人里の庇護からの脱却も意味する。
お前が選んだ道はそういうものなのだと教えるためにも、ここで優しくするわけにはいかなかった。
「自分の親すら納得させられないまま、お前は魔法使いになろうとしているのか? そんな考えを持っているようではお前が霊夢に並び立つなど夢のまた夢だ」
「なんで――」
「お前の親だ。お前の話を一番聞いてくれる存在だ。説得させるなんてある意味一番簡単な相手だ。……それすらしようとしないなら、お前の夢は必ず潰える。断言しても良い」
魔理沙は苦難の道を歩もうとしている。その第一歩すら満足にこなせないのなら、踏破などできるはずもない。
これでもうなずかないようなら、信綱は無理やり彼女を弥助のもとに連れ帰るつもりだった。
挑戦することが若者の特権であるなら、絶対に失敗するとわかっている道に進ませないようにするのが大人の特権だ。
「……わかった。戻って親父と話してみる。……親父にも理解されないんじゃ、確かに魔法使いなんて無理だよな。魔法使いって、もっと綺麗なものだし」
「その意気だ」
「……でもさ爺ちゃん。爺ちゃんは私の願いって子供っぽいとか思わなかったのか? 親父は全然話も聞いてくれなかったけど」
「うん? 思ったとも」
「爺ちゃん!?」
思いはしたが、それと話を聞かないことは別問題である。
何であれ、真剣にその道を志していることを笑うつもりはなかった。
それは尊いものである。娘のために真剣になれる弥助も、自分が目指すものに真摯である魔理沙も、どちらも等しく尊ばれるべきなのだ。
「思ったが――お前の決断を笑うつもりはない。夢を叶えるために躍起になれるのは子供の特権だ」
夢が潰えるか花開くか。結末は誰にもわからないが、何かを追いかけ続けたことはきっと自分の中で意味を持つ。
そして何かあった時の尻拭いは自分がやればいい。子供は向こう見ずに前を走るのだから、その後ろを支えるのは大人の役目であり、勘助たちから任されたことでもある。
「戻るぞ。そして弥助とちゃんと話し合え。夢を追うのか諦めるのか、どちらにしても自分で選ぶんだ」
「わかった! 爺ちゃん、ありがとう! 私、先戻ってる!!」
夢を笑わず肯定したのが嬉しかったのだろう。魔理沙は弾んだ声で信綱に礼を言うと、あっという間に香霖堂を飛び出してしまう。
この辺りは危険でもないので良いが、あの向こう見ずっぷりはどこから来たのだろうと首をかしげる信綱だった。
「……魔理沙は恵まれている。あなたのような良い大人がいて、親の愛情もたっぷり受けているからね」
「俺ほど向いていない存在もいないだろうがな」
「いいや、物事を俯瞰的に見られるのは一種の才能だ。あなたは大人の意見にも子供の意見にも寄らず、どちらも平等に見ることができる」
「どちらも大差ない。それが良いものであることぐらいしかわからん」
全ては塵芥。御阿礼の子と比べれば――否、比べることすらおこがましい。
だからこそ信綱は御阿礼の子以外の全てに対して平等だが、自身のそれを美点であると感じたことはなかった。
「だったら、どちらも適当に聞き流してしまえばいい。それをしないで、ちゃんと旦那とも魔理沙とも向き合って話すのはあなたの美点だ」
「本来ならお前にやってほしかったんだがな」
「よしてくれ。僕みたいな趣味人の言葉は真剣に生きる人には届かないよ」
「言葉に背景も何もあるものか。言うべきことを、伝えるべき相手に伝えるだけだ」
「背景も何も関係ないのなら、あなたが言っても同じということだ」
「……その口の上手さで魔理沙の相手もしてやってくれ」
信綱はこれ見よがしにため息をついて香霖堂の出口に向かう。
その後ろ姿に霖之助からの声が投げかけられる。
「僕は裏方に回らせてもらうよ。あの子がどうなるにしても、慕われていた兄貴分としての役目ぐらいは果たすさ」
「なら良い。俺も戻るぞ」
「まいどあり。次は何か商品も買ってくれると嬉しい」
「買うに値するものがあればな」
「手厳しい。趣味で店を始めたというのに営業努力までしなければならないとは。世の中ままならないものだ」
お前ほど自由なやつはそうはいない、と思ったが口には出さなかった。どうせ言うだけ無駄だという意味で。
その代わりの大きなため息を返事として、信綱は人里に戻っていくのであった。
その後――父と娘の間にどんな話があったのか、信綱は聞いていない。
だが、魔理沙は魔法使いを目指して人里を出て、弥助は彼女を勘当することでそれを後押しした。その事実のみが彼の知りうる事実だった。
そして後日、弥助が泣きながら酒を飲んでいたのを止めたことだけが信綱の知る事実だった。
故に彼らの間にはきっと色々な話があったのだろう。思いの丈をありったけぶちまけて話し合ったのだろう。
魔理沙は自分の道を歩き始め、弥助はそれを見送った。霧雨商店の娘が人里を捨てる以上、勘当の処分は避けられないものだったが――不思議と弥助の顔に凹んだそれは見受けられなかった。
「あいつは胸張って自分の道を歩いてます。おれが落ち込んでちゃあ、あいつも心配してしまうでしょう」
「……そうか。良い結果になったようで何よりだ」
「最高とは言えませんけどね。でも、おれも魔理沙も納得して選びました」
ならば良いのだろう。どんな形になっても彼らが親子であることは変わらず、弥助は魔理沙の活躍を待って、魔理沙は自分の願いに進み続けるのだ。
彼らの道が最悪の形で終わらないよう願って、信綱は今後も彼らを見守っていくのであった。
その日は朝から寒かった。
火継の庭では霜が降り、踏みしめる度にパキパキとひび割れるような音が響く。
信綱はそんな寒い早朝であっても、上半身をさらけ出した格好で朝の鍛錬を行う。
物心ついた頃から握り続けている刀を今日もまた振るい、ただ御阿礼の子だけを思って力を求め続ける。
それに疑問を持ったことなどないし、持った時が阿礼狂いとしての終わりなのだろう。御阿礼の子のために鍛えているこの瞬間、信綱は何も考えることなく無心に牙を研ぐ。
しばらくの間剣を振るい続け、汗を流してから信綱は自室に戻る。
そこで稽古用の服から外用の服に着替え直し、彼の一日が始まるのだ。
部屋ではまだ先代が眠っている。稽古に付き合う時もたまにあるのだが、大体の時は惰眠を貪っていた。
すやすやと無防備な寝顔を晒す先代に信綱は小さくため息をついてから、彼女を起こすという日課をこなす。
「おい、もう朝だぞ。起きろ」
「ん、ふぁ……」
とはいえ寝起き自体は悪くないのが救いでもある。信綱が身体を揺すって声をかければすぐに起きるのがありがたいところだ。
……いや、元を正せば起こさずとも起きるのが一番楽なのだが。
そうして起きた先代は寒そうに寝間着の襦袢を重ね合わせながら上体を起こし、不思議そうに自分の手を見つめる。
「あれ?」
「どうかしたか?」
先代のあげた声に信綱が応えるものの、先代は無視して自身の手を穴が空くように見続ける。
「あー……そうか」
やがて納得したようにうなずき、先代は寝起きで乱れた髪をがしがしとかきながら信綱に声をかける。
「ね、夜に時間ってできる?」
「藪から棒にどうした」
「いいから。できるの? できないの?」
「……阿求様のお休みになられた後なら可能だ」
「それで良いわ。じゃあ絶対にその時間に来ること」
絶対、と念を押す先代に首を傾げるものの、信綱にはハッキリとした理由が思い当たらなかった。
それほどに先代の様子が普段と何も変わりなかったのだ。相手の死期すらぼんやりと見えている信綱の観察眼をも欺くほどに。
もしもこの時、彼女の様子に気づけていたのなら――それでも、彼は阿礼狂いとしての役目に殉じただろう。
結局、どちらでも答えは変わらない。変わらないが――もしもを考えてしまう程度には、彼の心に残る出来事となった。
その日の夜、信綱は阿求が休むのを見届けてから火継の家に戻っていた。
唐突に兎鍋が食べたいと所望し始めた阿求のために、信綱が山に入ってサクッと冬眠していた兎を狩ってくると信じられない顔をされたという事件があったが、まあ些細なことだろう。
大人を困らせたいと思うのは子供なら一度は思うことであり、阿求のも子供らしいワガママだったが――顔色一つ変えずに叶えてしまう祖父がいたことが幸運であり不幸である。
大好物である兎鍋が食べられて嬉しいのと、祖父の困った顔が見たかったけど見られなかった微妙な心境で、阿求は自分が困ったように笑うしかなかった。閑話休題。
今日の作業は基本的に資料の編纂に終始しており、風見幽香の新しい項目作成などで大忙しだったのだ。
幻想郷縁起の編纂については御阿礼の子に任せられた役目であり、信綱でも肩代わりすることのできないものだ。
それ以外の手伝いは全て行うが、それでも一番大変な部分は阿求がやるしかない。そのことに心苦しさを覚えつつも使命に邁進する阿求の姿に感動を覚える一日だった。
「……まだ起きていたか」
明日も続く阿求の仕事を少しでも楽にするべく、雑務をこなしていたら夜も更けてしまっていた。
先代との約束を忘れていたわけではないため、現れた信綱はバツの悪そうな顔をしていた。次があればこちらを優先するという意味ではなく、より効率的に作業をこなせなかったという意味で。
呼び出していた先代は遅くなった信綱にも怒った様子は見せず、むしろ笑って彼を招く。
阿礼狂いが御阿礼の子を優先することに腹を立てていたら、この男の妻など務まりはしない。
「そりゃ起きてるわよ。呼びつけておいて先に寝るほど薄情じゃないわ」
「いや、そこで待つのは寒いだろう」
「良いのよ。ほら、座んなさい」
彼女とよく晩酌を傾ける時に座る、縁側の一角に並んで座る。
冬の寒さも本格化してきており、外で酒を飲むには些か辛い環境だ。見れば先代の手は白を通り越して赤くなっており、ずいぶんと待たせてしまったことがわかった。
遅れてきた罪悪感も相まって、先代の手が見ていられなかった信綱はその手を取って自分の手で包む。
「……ほら、これで少しはマシなはずだ」
「あ……ありがと」
「待たせた俺が悪い。部屋に戻って火鉢でも焚いてやる」
「ん、その前に話とかしていい? すぐ終わるからさ」
「……ここでしなければならない話なのか?」
「ここでしたい話。ちゃんと部屋には戻るから、良いでしょう?」
「……お前の身体に良くないんだがな」
そこまで言われては信綱も強く拒絶できない。せめて先代のことを心配している風の言葉を口ずさんで、信綱は先代の話を聞く姿勢になる。
そんな信綱に先代は頬を緩めると、視線を空に上げて静かに語り始めた。
「私にも色々と夢があるってことは前にも話したわよね」
「ああ。だから俺の元から離れてその夢を追いかけてくれと言った」
「なんで離れなかったか、その理由はわかる?」
「……夫婦でありたいからだろう。お前がそう言っていた」
だったらなおのこと自分を選んだのか疑問だったが、そこはもう考えないことにしていた。
狂人に人の心はわからず、まして女心ときたら未知のものにも程がある。
信綱の内心を先代は露知らぬまま、彼の言葉にうなずいて話は続いていく。
「正解。今だから言っちゃうけどさ、私って旦那となる相手にはあんまり求めてなかったのよ。誠実であってほしいって願いだって、博麗神社に来るような連中なら大体そうでしょ」
「……まあ、そうだな」
無頼漢と呼ばれる存在も人里にはいるが、大体は守護者である信綱と慧音がとっちめておしまいである。
その彼らの中に命の危険すら存在する道を通って、わざわざ博麗神社に通おうなどという信心深い者はいないだろう。
信綱はそれを利用して、人里の煩わしさからの逃げ場所に使った形となる。
「正直、一緒にいてくれるなら誰でも良かった。そりゃもちろん、家庭内暴力とかはお断りだけどさ」
「お前相手に暴力を振るえる人などそうそうおらんわ」
仮にも博麗の巫女。その実力は大妖怪に匹敵し、戦闘力で見れば人里でも頂点にいておかしくない存在だ。
そんな彼女に手を上げる度胸のある人間などいても困る。問題が起こった時に頭を抱えるのは自分なのだ。
「んで、あんたと一緒にいた時間だけど、悪くなかった――ううん、楽しかった。人間も妖怪も、皆あんたと一緒だと楽しく笑ってた」
「……向こうが勝手に笑っているだけだ。俺が楽しいと思ったことはあまりない」
「少しはあるってことでしょ、十分よ。皆が楽しそうに笑って、私もその中に混ざって、たまにあんたと一緒に月を眺めて――幸せってああいうものなんだって実感した」
「…………」
すでに信綱は先代の様子に気がついていた。今、この話をする理由にも思い至っていた。
だが、その上で彼は何も言わなかった。彼女の言葉を最後まで聞き届けるのが自分の果たすべき役目だと思い、先代の意思を尊重することにしたのだ。
「……俺で良かったんだな」
「夫婦になった当初はあんた以外でも良かった。――でも今はあんたじゃなきゃ嫌」
「そうか。……そうか」
息の詰まる感覚を覚え、信綱は胸に溜め込んでいた空気を深く、ゆっくりと吐き出す。
その様子を見た先代はおもむろに立ち上がり、二人の部屋を指差した。
「ここで言いたいことは終わり。続きは部屋で話しましょ。実を言うと布団はもう敷いてあるのよ」
「……だったらそこですればよかっただろう。俺も寒い思いをしないですんだ」
「気にしない気にしない。今日ぐらい私の好きにさせなさい」
「……仕方ないな」
「そこで妥協してくれるところ、私は好きよ?」
あけすけに好意を伝えられても、どう相槌を打ったものか困ってしまい信綱は軽く肩をすくめるに留めた。
信綱はやや覚束ない足取りの先代を連れて部屋に戻り、一組だけ敷かれた布団に彼女を寝かせる。
部屋は火鉢が焚かれていたのか、外とは比べられないほど暖かい。
「ありがとうね。やっぱ布団の上って最高だわ」
「そんなものか」
「ま、死に際としては最高の類でしょ。……気づいていたでしょう?」
「……途中からな。朝の時点では気づかなかった。……気づいてやれなかった」
もしも、彼女のことをちゃんと想う良人だったのなら見抜けただろうか。そんな思いが首をもたげ、信綱の顔に影が差す。
阿礼狂いである以上、御阿礼の子以外がどうでも良いのは確かなはず。にも関わらず先代のことで思い悩む辺り、完璧主義と言うべきか生真面目と言うべきか。
もっと肩の力を抜いたら良い、と先代は思うものの口には出さない。
生真面目に、やるべきと思ったことに対して全力で向かっていく愚直な性根がなければ今の幻想郷はあり得ず、また先代がこの男を好きになることもなかった。
「良いのよ、あれは私が気づかせないように演技したんだし。……あ、一つだけ忘れてた」
先代は袖を探って赤い布を取り出し、信綱に渡す。
受け取ったそれを障子越しの月明かりに照らして見ると、可愛らしい飾りのたくさんついた装飾具――いわゆるリボンであることが伺えた。
「これは?」
「霊夢にあげて頂戴。私からの形見ってわけじゃないけど、力を込めてあるから何かあった時守ってくれる……かも」
「イマイチ信頼しづらいな……」
「う、良いのよ。万一の保険なんだから。使わないに越したことはないわ」
「霊夢に別れは言わないのか。悲しむぞ」
「そこはお願い。私も女だってことね」
言っている意味がわからない、と眉をひそめて先代を見下ろす信綱に対し、布団に横になっていた彼女は笑って信綱の頬に手を添える。
「最期はあんたに看取って欲しかった。……あんたにとってはいい迷惑かしら?」
「……阿求様が休まれている時間で良かったな。日中だったら、俺はそちらを優先していた」
「……あんたらしいわ」
力なく笑い、先代は先ほど信綱がやったように大きく、深く息を吐く。
それが最期であると、信綱はこれまで多くの人間を見てきた経験から読み取れてしまい、表情が凍りつく。彼女の死に悲しみが見出だせない自分がいることを、悟られたくなかったのだ。
そんな信綱の顔を、先代は何もかもわかっているように愛おしげに撫でる。
「まあ――総じて、悪くない人生だったわ。巫女の役目をやり切って、可愛い娘がいて、あんたと一緒に過ごした時間は幸せだった」
「……それなら良かった」
「ええ、良かった。とことん愛せる人もできたし、それに――」
――泣いてくれる男も捕まえたし。
「…………」
信綱は不動の表情のまま、彼女の命が消え行く瞬間を見届けている。
もう目を閉じた先代にそれを見ることは叶わずとも、十年連れ添った良人の行動が頭に浮かぶのだろう。微かに微笑んで全身から力を抜く。
「私はもう十分。先に逝って待っててあげる」
「……ああ、おやすみ――」
頬に添えてある手を握って、信綱は先代の耳元で彼女の名を囁く。
それを聞いた先代は安心したように小さく、無邪気に笑った。
「ええ――おやすみなさい。あなた」
その言葉とともに信綱の頬に添えられていた手が落ちる――前に信綱がそれを取る。
部屋に満ちていた暖かさが全て消え失せたような心地だった。彼女の存在がそれだけ大きな意味を持っていた事実を、信綱は嘆息とともに受け入れる。
なぜ彼女の手を掴んだのか、自分にもよくわからない。
あるいは彼女の暖かさを惜しいと思ったのか。御阿礼の子に狂った自分が。
……いいや、考えてみればまだ少年だった頃からの付き合いで、夫婦にもなった相手の死。何も思うなという方が不自然だろう。
信綱は自分に言い聞かせ、そっと握っていた彼女の手を胸元で組んで置いてやる。
一息つこうと信綱は部屋を出て、その際に彼女の触れていた頬に指が向かう。
頬は、濡れていなかった。
信綱は月を見上げるように空を仰ぐ。何かを堪えるように拳を握り、そして吐き捨てるようにつぶやいた。
「……泣いてなどいないではないか。馬鹿が――馬鹿が」
強く握られた信綱の拳からは、まるで涙のように赤い雫が垂れていた。
先代も亡くなり、とうとう人間で信綱と同世代に生きていた者は一人もいなくなってしまいました。
でも彼の歩みはもう少しだけ続きます。
さて、先代さんの願いですが――誰かを愛したかった。愛されたかったわけじゃないのがポイントです。
博麗の巫女として全てに平等に生きてきた分、それが終わった後は自分の好きなものを好きなだけ愛したかった。その枠に入ったのが霊夢と信綱になります。
ともすれば重いと表現しても良い愛情ですが、信綱はそれを受け入れて彼も彼なりに先代を大事にした。
この結末に先代は一片の悔いも持っていないことでしょう。
そして魔理沙と弥助の話については閑話で書くかもしれないし、二人の口から語られる形式になるかもしれません。何はともあれ次回は霊夢と魔理沙のお話を書いて、次々回辺りから紅霧異変開始……だと思う!(多分)
もうすぐ一年……ここまで長くなるとは誰が思ったか。