「さて、今日のところはこのぐらいにしておこう。お前の話は面白いが、中身が濃すぎる」
「我ながら波乱万丈の人生だな、とは思ってます」
信綱は慧音の寺子屋にある応接間に招かれて、彼女の歴史書に残すための取材を受けていた。
最初は一度の取材で済ませる予定だったのだが、信綱の口から語られる話に慧音がついていけず、回数を分けることになっていた。
人間一人の歴史である以上、可能であれば一年ごとに事細かく記して行きたいのが慧音の要望なのだが、信綱の送ってきた人生の密度は一晩で語り切れるものではなかった。
そして今日も慧音は信綱の口から語られる彼の半生に頭痛すら覚え、呆れたように信綱を見るのであった。
「ううむ……何度聞いても信じがたいな、お前の人生は。幼少の頃に烏天狗に襲われて、それが縁で稽古をつけてもらうようになり、それがお前の強さの源泉とは」
「源泉であるかどうかはわかりません。結局、彼女も私が殺しました」
原点を語るなら、信綱は幼少の頃に無意識に行っていた戦法を意識して行うようになっただけだ。
すなわち――相手に一切の攻撃を許さず、かつ自分の攻撃を全て相手に叩き込む方法である。
椿との修練は基礎能力や技術を磨くものであり、逆にあの戦法は忘れかけていた。彼女が思い出させてくれなかったら、信綱はどこかで死んでいただろう。
「一応は師弟関係だったのか?」
「隙あらば私をさらおうとする烏天狗と、それを止めようとする白狼天狗に救われながら、ですけど」
「認めているんだな、その烏天狗を」
「……力を求めていた私に力を与えてくれた。その点については感謝しています」
それはそれとして自分の敵になったことは許していないが。御阿礼の子を害そうとするなど万死に値する。
慧音は歴史書の編纂にあたって用いる眼鏡をかけて、ふむふむと紙に信綱の言葉を書き記す。
「火継の人間が虚偽を語るとは思っていないし、彼らの歴史を記したこともあるが、やはりお前はその中でも群を抜いているな」
まるでおとぎ話の序章を執筆している気分だ、と慧音は困ったように笑う。
信綱は自分の意志でそうなったわけではないと、憮然とした顔になる。
「私は巻き込まれていただけです。力を求めたことは事実ですが、彼女らの起こす異変を歓迎したことは一度もありません」
「わかっているさ、そう怒るな。そうして研いできた刃が陽の目を見るのは吸血鬼異変で相違ないか?」
「はい。それまで私は妖怪と切った張ったをした経験はほとんどありません」
雑魚妖怪を一撃で倒したことはあれど、力量の拮抗した相手との鎬を削る戦いは経験がなかった。
「そこでお前は父親を犠牲にしながらも巫女と共に吸血鬼を退治し、異変を解決。……本当だろうな? お前の口ぶりだと、ほとんど巫女の助けを借りたようには聞こえないが」
じろり、と眼鏡越しの視線が信綱に刺さるが、信綱は平然とした様子で理由を話す。
「彼女とスキマ妖怪の助けはありましたよ。でないと殺されていました」
レミリアが信綱に。
その言葉に慧音は疑わしげな表情を隠さないものの、信綱がこれ以外の答えを言うつもりがないことを察するとため息で押し流す。
「……全く、平気な顔で嘘をつくような大人になって。先生は悲しいぞ」
「嘘はついていませんよ。それに答えられることには誠実に答えています」
「そういう小難しい言い回しはやめてくれ。私は政治は苦手なんだ」
「知ってますよ。少し意地が悪かったですね、申し訳ありません」
苦手、というより根本的に向いていないのが上白沢慧音という半獣である。
政治というのは大を生かし小を殺す作業でもある。自らの所属する勢力の趨勢が自分の手で決まってしまう以上、時に取捨選択が迫られる時もある。
信綱はそれを合理的に選ぶことができた。慧音はどうしても切り捨てられる誰かを選ぶことができなかった。
どちらが優れているという話ではない。慧音の感情は正しいものであり、誰かを慈しむということは尊いことだ。
それに彼女にも自覚はある。だからこそ彼女は長命種であるということを理由に、政治には参加しないのだ。
彼女にとって人里の子らは皆教え子。教え子同士で優劣をつけて切り捨てる、というのは彼女にとって何よりも耐え難いことなのだろう。
「……話を戻すぞ。吸血鬼異変を解決後、お前は里での知名度を上げていったな」
「ええ。英雄と呼ばれるのは今でも慣れませんが」
「うむ、先生は鼻高々だったぞ。……そしてしばらくの間は阿弥の子育てみたいなことをしていたか」
「そうですね。振り返ってみれば、阿弥様の生きた頃は最も幻想郷が騒がしい時代でもありました」
「そうだな。……さて、確認もこの程度にしておくか。お前の人生はここからも波乱があるのだろう? 百鬼夜行だけでなく」
確信を持って語っている慧音に、信綱は困ったように曖昧な表情になるしかなかった。
「やれやれ、予想以上に大変な人生だな。だがそれぐらいでなければ幻想郷の変革は成し得ない、か。ありがとう、信綱。今日聞いたことは私がしっかり歴史に遺そう」
「感謝します。では私は阿求様と共に出る用事があるのでこれで」
「うん? 今日は何か用事があったか?」
「ええ、幻想郷縁起の編纂を開始しようと阿求様が仰っております」
信綱の言葉に対し、一息入れてお茶を飲んでいた慧音が朗らかに笑う。
「ほう、阿求は元気の良い子だからな。早速外が見たくなったか。どこに行くつもりなんだ?」
「太陽の畑に行こうと決めてあります」
「ぶふっ!?」
慧音がお茶を吹き出して咳き込んでいる。信綱は彼女の背中をさすりながら首を傾げた。
「何か驚くようなことでも?」
「あ、当たり前だ! あの場所は危険だと教えているだろう!?」
「しかし、新しいルールを教えるためにも誰かが行かねば」
「ぐ、そ、それは……もっとお日柄の良い日にだな!」
どんな日だ、と呆れる信綱。ちなみに今日は爽快な夏晴れである。
「まあ行くことは決まっておりましたので。大丈夫ですよ、阿求様には指一本触れさせません」
正面戦闘になったらわからないが、口での勝負で負ける気はしなかった。
慧音は普段と同じ様子で阿求の元へ戻る信綱を見送り、頭痛を堪えるように額を押さえてつぶやいた。
「まったく、私から見ればお前も十分問題児だよ」
「よっし、じゃあ太陽の畑へ行こう!」
えいえいおー、と気合を入れている阿求の後ろを、信綱は穏やかな表情で見る。
「道中はそんなに難しい場所はありません。阿求様の足でも十分行ける場所です」
「結構近くにあるのよね。誰も近づかないけど」
阿求は細い顎に小さな指を当てて考え込む姿勢を見せる。
御阿礼の子としての好奇心ではなく、稗田阿求自身の探究心だった。
信綱にとっては悲願とも言える健康な肉体を持って生まれた彼女は、その身体を存分に使って自らの好奇心を追求していた。
「先生の教えの賜物でしょう。それと阿求様、よそ見をされると転びますよ」
「大丈夫だいじょうぶ……きゃっ!?」
言った側から石につまづきそうになる阿求の身体を抱き抱え、たしなめるように額を小突く。
「いたっ」
「ここはもう人里の外です。道も整備はされていませんから、こういったことも起こり得ます。私がおりますから怪我をさせるつもりはありませんが、ご自身でもご注意ください」
「はぁい。ごめんなさい、お祖父ちゃん」
「わかっていただけるなら幸いです。さあ、行きましょう」
阿求を立たせ、その手を繋いで再び歩き始める。
阿求も里の外は危険であると御阿礼の子の知識で知っているため、大人しく信綱に手を引かれて歩く。
「……お祖父ちゃんに手を引かれるのって、こういう気分なんだ」
「む、気分を害されたのでしたら離しますが」
「ううん。お祖父ちゃんの手、大きくて好き」
こうして手をつないでいると、阿求の心が喜んでいるのがわかるのだ。
転生を繰り返しても全ての記憶が引き継がれるわけではない。阿弥の記憶はまだしも、阿七の記憶は大分摩耗してしまっている。
しかし、それでも家族となった人間は忘れない。阿七の頃より立派になって、阿弥の頃より年老いて――それでも御阿礼の子の側に居続ける信綱は、彼女らにとっても掛け替えのない人なのだ。
「えへへ、こうして手を引かれると思い出すなあ。阿七の時とかはお祖父ちゃんが手を引かれていたっけ」
「……子供の頃の話です。あの時は早く大人になりたいと思っていましたよ」
「今じゃお祖父ちゃんだね。大人になってどうだった?」
「……時間がもっとゆっくり流れて欲しい、と思いました」
そうすれば御阿礼の子と一緒にいられる時間が増える。歳など取らなくても良いから、少しでも御阿礼の子の側にいたかった。
しかし時間は無慈悲に、残酷に、平等に時を刻んで命数を削る。阿七も阿弥も信綱から離れてしまった。
その悲しみは今も胸に息づいているが――阿求に見せるべき姿が独りよがりな悲嘆であってはならない。
目を細めて幸福そうな笑みを浮かべ、信綱は自らの手に収まる阿求の小さな手を優しく握る。
「……阿求様。ご自身を阿弥様や阿七様と比べないでください。私にとってあなたは唯一無二のお方です」
「でも、私はあなたにとって最後の御阿礼の子になるんでしょ? だったら一番になりたいって思うの」
「阿求様はそのままでよろしいのです。元気に外を駆け回り、こうして縁起の取材に赴き、小鈴嬢らといった友人と遊び――あなたは転生する御阿礼の子でありますが、同時に稗田阿求という少女でもあるのです」
あるがままに生きて欲しい。信綱ごときの願いで彼女らの生き方を歪めてしまうなど、それこそ侮辱に他ならない。
それに阿求は知らないのだ。阿七や阿弥のように病弱な身体でなく、健康な身体に生まれついている時点で信綱にとって悲願とも言える存在であることを。
お淑やかになる必要などない。お転婆なぐらいで良いのだ。そうして元気でいる姿を見ているだけで信綱の心は満たされる。
「……ん、ありがとう。じゃあお祖父ちゃんの願い通り、私は私で元気に行くわ!」
「ええ、私もお供します」
元気を取り戻して信綱を引っ張る勢いで歩き始める阿求に、信綱もまた頬を緩めて歩いて行くのであった。
なるべく穏便にことを済ませたい。それは信綱と幽香、双方に共通している見解だ。
その心は事を荒立てても良いことが全くないというのが大きい。自分に得のない面倒事など誰だって御免である。
幽香から見れば信綱はなんか急に現れた人間で、しかもやたらと強い。腹立たしいことに正面から戦ったら負ける可能性の方が高い。
信綱から見れば幽香は面倒事の塊だ。彼女が御阿礼の子に手を出したなら是非もないが、そうでもなく人里を積極的に害するわけでもない妖怪。しかも戦ったら死ぬ可能性が排除しきれない。
十回戦えば八回は勝てるだろうが、二回は死ぬ。別に退けない戦いというわけでもないのだ。無用な戦闘はしないのが一番である。
二人の見解は一致し、前回の話し合いでも面倒事は少なく手っ取り早く終わらせよう、というのが共通していた。
しかし、そういうわけにもいかない状況というのが世の中には存在して――
「え、えっと……」
「…………」
「……そう睨むな。今回は事故だ。他言するつもりはない」
もはや涙目にすら見える目で幽香から睨まれ、信綱は珍しくどうすればいいのかわからないと困った顔になっていた。
隣には阿求がいるが、先ほどの衝撃から立ち直れていないのか困惑した様子で信綱の袖を握る。
「あんたの心には刻まれてるじゃない! 忘れなさい!」
「叫ぶな、阿求様が驚く」
机をバンバン叩かれても困る。信綱は幽香がいつ暴れ出しても良いように阿求を後ろにかばいながら、言葉を続けていく。
「お、お祖父ちゃん、大丈夫?」
「問題ありません。――そう怒るな。別に不思議だとは言ってない。あり得る可能性の一つとしては考えていた」
「……どういう意味よ」
ぶすっとした幽香だが、信綱が口を開くと話を聞く姿勢を見せる。
大妖怪としての矜持なのか、陰口は嫌いと公言しているからか、彼女は正面から話を聞いてくれるのが救いである。
「お前は誰かと触れ合った経験が少ないと言っただろう。そして花に囲まれている。感性が成熟しないのはある種当然の帰結だ。だから――別に歌いながら花の手入れをしていたとしても不思議だとは思わん」
おまけに興が乗ったのかラララと歌い始めた辺りで阿求たちが到着したので、話がこじれ始めたのだ。
いつ来るか具体的な時間を伝えていなかった点は信綱側の落ち度とも言えるが、それにしたって幽香に一方的な被害者顔をされる謂れはない。
信綱も困っているのだ。阿求を連れて来る時は大妖怪としての風格を見せて欲しいと言った矢先にこれである。どうやって方向修正したものか。
「一々言わなくてもいいわよ!! さっさと帰るか死ぬか選びなさい!!」
信綱にやっていたことを完璧に指摘された幽香は、真っ赤になって憤怒の形相で詰め寄る。
彼女の噂を知っている者なら腰を抜かして逃げ出すところであるものの、信綱は動じない。この妖怪がどういった妖怪なのかはすでに理解していた。
「他言はしないと言っているだろう。そもそもこの場所にお前以外の人間を近づけさせないための取材だ。俺たちを追い返したらどうなるかわかったものではないぞ」
暗に言いふらすぞ、と告げると幽香は悔しそうに歯噛みする。
「……っ! 卑怯な……!」
「ああ、もちろん殺そうとしても逃げるぞ俺たちは。それとこれは全く関係のない話だが、最近人里では新聞という瓦版が流行っていてな。噂話が広まる速度が馬鹿にならない。いや今の状況とは全く無関係だが」
「お祖父ちゃん、結構意地悪……」
阿求がぼそっとつぶやくが、幽香を相手に手を緩めるわけにもいかないのだ。
理屈で折れてくれる境界を見極めて突かないと、後先考えずに暴れかねない。そうなると逃げるのも面倒になる。
適当に暴れさせてガス抜き、とするには幽香は少々強すぎる。これでも細心の注意を払って言葉を選んでいるのだ。
ぐぐぐ、と幽香は真っ赤な顔のまま唸っていたが、やがてヤケクソになったように背中を向ける。
「……お茶を用意するから長居しなさい。そして私の恐怖を骨の髄まで染み込ませなさい」
過ぎたことは変えられないので、とりあえず一緒にいる時間を増やして印象を変える機会を増やそうという魂胆のようだ。
「紅茶で頼む。阿求様がお好きなものだ」
「絶っ対に屈服させてやる……!」
全く動じない信綱に幽香は正面から屈服させる――すなわち、言葉で勝ってやると戦意をたぎらせるのであった。
茶を用意しに行く幽香を見送り、阿求はそっと信綱の着物の袖を引く。
「なんでしょう、阿求様」
「風見幽香……さんって、お祖父ちゃんの知り合い?」
「知り合ったのは本当に最近ですけど、そうなります」
「……幽香さんってどんな人?」
おずおずと聞いてくる阿求だが、答えはすでに彼女の中に出ているようだった。
なので信綱は微笑んでその答えを告げる。
「ご覧の通り、素直で世慣れていない純粋な妖怪ですよ」
妖怪とは人間を襲うものである。それは信綱が生まれる前より続いていた摂理であり、形を変えて今後も継続していくであろうもの。
しかし、意外と人間に混ざって生活をしていたという者は多い。天狗も鬼も吸血鬼も、皆何らかの形で人間と関わりを持ち続けていた時期が存在する。
対して幽香にはそれがない。八雲紫と同じような一人一種族として生まれ落ちたのだろう。額面通りに人間を襲い、飽いて花と共に生きることを選んだ少女。
恐ろしい存在であることに間違いはない。言葉でのやり取りや駆け引きが苦手であることなど、圧倒的な暴力に比べれば些細なものだ。
だが、恐ろしい存在であることと素直な存在であることは両立する。そして陰口を嫌う彼女の性質を利用すれば、彼女の苦手な舌戦に持ち込めるのである。
「ほら、お茶よ」
「……ふむ、阿求様もどうぞ。これは見事です」
出されたお茶を先に一口飲む。酔ってしまうと錯覚してしまうほどの芳香が漂い、琥珀色の液体が喉を嚥下すると陶酔感にも似た感覚が生まれる。
以前に出されたハーブティーとは雲泥の差だ。信綱も素直に賞賛するしかないものである。
「これも花の持つ力よ。こと花について、私より詳しい者は幻想郷にいないわ」
「すごい! お祖父ちゃんの淹れた紅茶より美味しい!」
「…………」
「ふふん、落ち込むことはないわ。なにせ私を相手に花で勝負を挑んだことが間違いだったのよ」
「阿求様の一番になれなかった、未熟な私には腹を斬って詫びることぐらいしかできません」
「待って待って待って!? 今のは言葉の綾というか、お祖父ちゃんも頑張ればこれぐらい大丈夫だから!」
「これぐらいとは聞き捨てならないわね」
「すいませんでした!」
面倒な人しかいない!? というのは阿求の心の叫びだった。口に出したら信綱がまた際限なく落ち込んでしまうので黙っておく。
幽香は幽香で信綱に張り合っている様子があり、信綱は見た目こそ普段通りなのだが阿求のように付き合いが長い者が見ると落ち込んでいるのがわかる。
よし、話題を変えよう、という結論に阿求が至るまで時間はかからなかった。
「そ、それでですね! 幽香さんに会いに来た理由の方はご存知でしょうか!」
「……ふん、そのこと。新しいルールが来るから私の対応も知っておこうって魂胆でしょう」
「よくご存知ですね」
「そこのジジイに教えられたわ」
道理で最近知り合ったというわけだ、と阿求は納得する。信綱という人間――阿礼狂いが自分のためにどれだけ心を砕いているかは理解しているつもりだ。
幽香は退屈そうに頬杖をついて阿求に言葉を投げかける。
「――私の対応は変わらない。花を傷つける人間は大嫌いだし、誰であれ私の領域に入った者に容赦もしない。縁起には興味本位で来るような連中が減るように載せなさい」
「そちらはわかりました。新しいルールの方についてはどのように考えてます?」
「……あんたも変わらないわね。妖怪の話になると眼の色が違うわ」
「ええ、私も御阿礼の子ですから」
縁起の取材が始まったことで信綱も意識を切り替えたのか、阿求の後ろにそっと立つ。何が起こっても対応できるよう、身体に力がこもっているのが幽香からも見て取れる。
だいぶ昔にも同じようなことがあった、と幽香は柄にもなく昔を振り返る。
但しその時の側仕えは脅威に感じなかったし、向こうは幽香のことを恐れているように見えた。
(まあ、今の私を見て恐れる理由なんてないか)
内心で嘆息しつつ、幽香は阿求の質問に対する答えを探す。
幽香も自分が醜態を晒している自覚はあるのだ。普通ならまず殺して証拠隠滅を図るような代物だが、それをするのは幽香の矜持が許さない。許さなくなった。
なにせ大妖怪としてあるべき姿でないと言われてしまった。確かに都合の悪い事実を隠すように何かを殺めるのは無様だ。負けを認めるようなものだ。それは大妖怪云々以前に風見幽香が自分を許せない。
故に幽香は二人に手を出さない。すでに口で負けてしまっている――と本人が思っている以上、暴力で黙らせるのは自分が屈服したも同然。
屈服させるには正面から叩き潰さなければならない。この男に、敗北の二文字を、心の底に刻み込む。
言葉で負けたのなら、言葉で勝たなければ風見幽香は風見幽香足り得ない。
……そんな風に思ってしまい、信綱にとって都合の良い土俵に上がってしまう時点ですでに信綱の手中にあるようなものなのだが。
そもそも敵であるはずの信綱の言葉を
幽香は頬杖をついたまま口を開き、阿求の質問に答える。
「面倒だとは思うわ。でも悪いとは思ってない。詳しいところは知らないけれど、そのルールに則る限りはある程度暴れても大目に見てもらえるというわけでしょう? 手慰みの一つにはなる」
「では幽香さんも肯定的と?」
「乗ってやっても良い、ぐらいかしら。それはそれとして花を荒らしたら殺すけど」
「はい、ではそのように。なるべく普通の人が近づかないようにします」
「……それと、容姿を載せるのはやめて頂戴。私の方から人里に行くことがあるかもしれないから」
「理由を伺っても?」
「ん」
幽香が顎で指し示したのは、阿求の横にいる信綱。
信綱もこれには身に覚えがないようで眉を潜めていた。同時に阿求の呆れた目が何よりも痛い。
「お祖父ちゃん、また……?」
「阿求様、またと言われるのは心外です。私はこいつを人里に誘った覚えが微塵もありません」
「そいつに負けたのよ。私は勝つのは好きだけど負けるのは大嫌いなの。それにそいつもうすぐ寿命でしょう? 勝ち逃げされるなんて私の矜持が許さない」
「もう負けたことで良いから面倒事を起こさないでくれないか」
「負けを認めるなら勝者の希望を阻めるはずないわよね?」
そう言って微笑む幽香の姿はまさしく一輪の花とも言うべき可憐なものだが――信綱にしてみればこいつ面倒くさい以外の感想が抱けないものだった。
阿求の視線が呆れたものから同情の混ざったものに変わる。阿七の時は知らないだろうが、人里で妖怪が見られるようになった阿弥の頃から信綱が色々な妖怪に絡まれているのは知っていた。
力が強いというのも考えものである。力が弱ければ屍を晒していたので、強くならざるを得なかった事情もあるのだが。
「……阿求様、どうされます?」
「ではこうしましょう。一つ、人里で無闇な騒動を起こさないこと。二つ、ちょっかいを出すのはお祖父ちゃんだけ。三つ――この紅茶の淹れ方をお祖父ちゃんに教えてあげること」
「……呆れた。側仕えを差し出すの?」
「ええ――信綱さんがあなた程度にどうにかされるはずありませんから」
ニコリと、何の隔意もなく微笑む阿求。
その顔は自身の側仕えである信綱を微塵も疑っていないもので、例えこの場で何が起ころうとも自分たちは傷一つ負うことなく帰ってこれる、と確信しているものだった。
「……少し見ない間にずいぶんと言うようになったじゃない。妖怪の恐ろしさをもう忘れたわけ? たった数十年、人間と妖怪が交流をした程度で?」
「忘れるはずありませんよ。でなければ幻想郷縁起の編纂を続けようなんて思いません。ですがあなたこそ忘れないで頂きたい。――その恐ろしい妖怪を倒したのは他ならぬ人間です」
空気が歪む、そう感じてしまう濃密な殺気が溢れる――前に、信綱が阿求の隣に立つ。
その手は刀の柄に添えられており、これ以上の狼藉を主に働くのなら容赦はしないと感情の失せた瞳が物語る。
人間の瞳ぐらいで驚く理由は幽香にはない。しかし、それは目の前の男の力量を軽視することにはつながらない。御阿礼の子を守る阿礼狂いの恐ろしさは花も語るほどである。
一触即発の空気になりかけるが、幽香が不機嫌そうに顔をそらすことでその空気は霧散する。
「……本当に変わらなくてうんざりするわね。いいわよ、あなたの要望を飲みましょう。私も目的以外のことで煩わされるのは本意じゃないわ」
「ええ、交渉成立ですね。幽香さんとは今後の幻想郷でも仲良くしていきたいです」
「ふん、抜け抜けと。あと私のアレを載せたら殺すから」
アレとはなんだ、と突いて調子を崩す手が信綱の脳裏に浮かぶものの却下する。これ以上彼女の機嫌を損ねたら暴れ出しそうだ。
潮時だろう、と阿求と信綱の思考が一致したようで二人は瞬く間に帰り支度を整えていく。
「では幽香さん、お邪魔して申し訳ありませんでした」
「全くね、おまけにジジイまで連れて来て迷惑千万よ」
「ではな。阿求様が命じられた以上、約定を守った上で人里に来るなら相手にはなってやる」
「雪辱は忘れないから覚悟なさい」
「…………」
はぁ、と目一杯大きなため息をついて信綱は阿求と共に幽香の家から出て行く。
残された幽香は今までの会話で変なことを口走ったりしていないか、などと額に手を当てて自省し――次の瞬間には握り拳になっていた。
机にぶつける真似はしない。自分の苛立ちを愛する草木にぶつけるなど無様に過ぎる。草花を愛すると公言している彼女にとって何よりも許しがたい行為だ。
胸中に渦巻くのは相手への苛立ちもそうだが、自分への苛立ちが大半を占める。
妖怪すらも恐れる風見幽香はどこに消えたのか。まるで些細な言葉に翻弄される少女のようではないか。
暴力という名の理不尽を振るい、小賢しい彼らを灰燼に帰せば良いではないかと甘い誘惑があることも否定はしない。
だがそれはもはや敗北宣言と同義。口で勝てないので力に訴えますと喧伝するようなもの。たかが人間と見下す相手にする対応ではない。
それもこれもあのジジイのせいだ、と幽香は自分に向いていた怒りを半ば八つ当たりのように信綱に矛先を変える。
あの老爺も長くないはず。十年は確実に持たない。であれば勝ち逃げされる前に勝負を仕掛けるのは当然の話である。
幽香は今後しばらくの予定に花の世話以外に人里を訪ねる用事を組み込んでいく。
その姿は誰が見ても人里に遊びに行く少女というよりは、カチコミをかける妖怪の姿にしか見えなかったが――不思議と、楽しそうな雰囲気を纏っていた。
「……お祖父ちゃん」
「なんでしょう、阿求様」
「幽香さんって、意外と怖くない?」
帰り道、阿求と信綱が手を繋いで歩いていたところ、阿求がポツリとこぼした言葉である。
その言葉に対し、信綱はハッキリと首を横に振って否定する。
「いいえ、あれは恐ろしい妖怪ですよ。世慣れていないから言葉回しが苦手なだけで、彼女がその気になって耳を塞げば彼女一人で人里の壊滅は可能です」
「お祖父ちゃんでも止められない?」
「万に一つはしくじる可能性があります。まして私が死んだ後に来られたらどうしようもない」
「……誤解はしちゃいけないってこと?」
「どちらも彼女の性質である、ということは理解して頂きたく」
言葉で負けて悔しがる彼女の姿も本質の一つだろう。だが同時に、過去にあれだけ恐ろしく語られただけの所業も行っている妖怪なのだ。
理解するのは構わない。しかし侮るのだけはいけない。それはお互いのためにならない。
阿求もまた妖怪の恐ろしさを御阿礼の子としての記憶で知っている少女。信綱の経験から来た言葉に神妙な顔でうなずく。
「うん、初めてだからちょっと油断してたかも。幽香さんは可愛く見えたけど、妖怪なんだよね」
「ええ。それも恐ろしく強く、人間が好きでもない」
「わかった。やっぱり人間が近づいちゃダメな場所ね、太陽の畑は」
「そうなります。慧音先生にもお伝えして厳重な注意をしてもらいましょう」
そう言って、信綱が苦みばしった顔になったことに阿求は首を傾げる。
「お祖父ちゃん?」
「……その面倒な妖怪が私のもとに来るのですね」
「あはは、そこはお祖父ちゃんを信頼しているわ。お祖父ちゃんならできるでしょう?」
阿求の言葉に込められているのは純然たる信頼であり、御阿礼の子三代に渡って支えてきた男に不可能などないと心の底から信じきっているものだった。
無論、そのような言葉を向けられて阿礼狂いが言うべきことなど一つしかない。
「阿求様のご命令とあらば、是非もありません」
「ん、よろしい」
阿求は信綱の言葉に満足そうにうなずき、凝り固まった身体をほぐすように空に向かって大きく伸びをする。
「んー! 阿弥の時は怖かったって話だったけど、そんなこともないし今日は良い日だわ! 帰ったらお祖父ちゃんのお菓子を食べて編纂を頑張らないと!」
「いえ、戻ったら湯浴みをして休まれた方がよろしいかと。妖怪と相対するのは想像以上に疲れることです」
「大丈夫大丈夫! 私、全然怖くなかったし辛くもなかったもの! きっとお祖父ちゃんのおかげよ!」
「確かに殺意などは私が防ぎましたが、阿求様ご自身が行われていたお話には関与できないので――」
言葉を最後まで続ける前に阿求は駆け出してしまう。元気が良いのは素晴らしいことだが、自分の調子がわからなくなる時もあるらしい。
「……あの、お祖父ちゃん?」
「どうかしましたか、阿求様?」
「……なんか、今になって怖くなってきちゃった」
「でしたら暖かい湯でも飲まれると良いですよ。すぐご用意いたします」
「……今日は一緒に寝ても良い?」
「……ええ。悪夢など見ないよう、ずっと側におりますから安心してお休みください」
案の定、妖怪の恐怖に襲われた阿求が夜中に信綱を訪ねてくる一幕があったが――この場では些事だろう。
ゆうかりんは大妖怪としての力も矜持もあるけど、なんか変な方向で発揮されているお人です。時に脳筋プレイは何よりも恐ろしいのですが、ノッブの口車に乗っているため(限度を超えないかぎり)行いません。
あっきゅんは元気のいい少女であり、同時に三代に渡って仕えてきたノッブを知っているため、阿七よりも阿弥よりも無邪気な信頼をノッブに寄せています。
そしてこれより幻想郷縁起の編纂が始まった以上、残っている出来事はスペカルールの施行、魔理沙の家出、他いくつか程度です。
それらが終わったら紅魔郷から原作が開始していきます。ノッブは表立って動きませんので、異変の解決そのものはダイジェストになると思いますが。