阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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休みを……休みをください……(休出して0時ごろに帰ってきた人)


今よりもっと遠くを担う者

 物言わぬ石の塊の前に立ち、信綱は何を言うでもなくその場に佇み続ける。

 風が涼しい――と言うにはやや肌寒い秋から冬に変わる境目。その中で信綱は寒さに震えることもなく、ただ何かを見出すようにじっとそれを見つめる。

 石には文字が刻まれ、そこには霧雨家之墓と書かれていた。

 

「…………」

 

 言うまでもなく勘助と伽耶、二人の墓である。

 結ばれてから死ぬまで、時に喧嘩をしながらも仲睦まじく生きてきた二人には死後も一緒でいて欲しいと息子が願い、この形になった。

 名実ともに新たな霧雨商店の大黒柱となった弥助は、頼もしさを感じさせる顔つきで信綱に頭を下げてきた。

 

「信綱様と一緒にいられたから、二人は楽しそうでした。自分も、小さな頃に母と歩いていたことを覚えています」

「……だとしたら喜ばしいことだ。お前もこれからは一人で霧雨商店を盛り上げていくことになる。何かあったらいつでも来い」

「はは、家内と一緒にやっていきますよ」

 

 そう言って、泣きじゃくる魔理沙を連れて店に戻っていったのが少し前の話。

 信綱は飽きもせずその場に佇み、何かを思うように瞑目していた。

 

「……お前はここにいると思ったよ、信綱」

「……慧音先生ですか」

 

 目を開き、振り返る。そこには普段見慣れた教師としての服装ではなく、黒一色の喪服に身を包んだ慧音が静かに、哀しげに微笑んでいた。

 慧音と同じく喪服に身を包む信綱の隣に立ち、そっと両手を合わせる慧音。そんな彼女の様子を信綱は無言で見守る。

 

「……とうとう、お前と同じ時期に寺子屋に通っていたのはお前だけになってしまったなあ」

「もうそんなになりますか」

「お前もだが、勘助と伽耶の夫婦も十分長生きな方だよ。……残念ながら、成人してすぐに亡くなった者もいる」

 

 そう語る慧音の顔には、儚い人間への嘆きが含まれていた。

 なぜこんなにも簡単に死んでしまうのか。もっと幸せになってほしいと願う者たちはなぜ幸せになれず死んでいくのか。

 世の不条理や理不尽を飲み干したような、深い色を持った瞳に信綱は何も言えず押し黙る。

 

「……すまない、どうにも人の死に慣れないのは私の悪い癖だな。辛気臭くていけない」

「先生のそれは美徳だと思います。あなたほど長く人里で生きて、それでも人の死を悲しむことができる人を私は知りません」

 

 慧音は力なく笑うが、信綱はそれを掛け値なしに尊いものだと思っていた。

 ――少なくとも、今の自分よりはよっぽど上等だ。

 言葉には出さずとも、それ以外の何かで意思が透けていたのだろう。慧音は信綱の言葉に照れることなく、むしろ何かを心配するように信綱の顔をのぞき込む。

 

「お前はどのくらいここに?」

「葬儀が終わってからずっとここにいます。そろそろ戻ろうと思ってました」

「そうした方が良い。野風に吹きさらしのままではお前まで体調を崩してしまう」

「そうします。……先生は、二人が亡くなったことが悲しいですか?」

「まあ、な。子を成し、孫を成し、霧雨商店を広げ――およそ非の打ち所がない幸福な人生だっただろうし、私から見ても立派に生きたと思う。だが、どうしても寂しい、悲しいという気持ちは消えんよ」

「……その方が嬉しいと思います」

 

 寂しい、悲しいということは、惜しむということだ。慧音は確かに勘助と伽耶の死を惜しみ、彼らが遠くへ逝ってしまったことを嘆いているのだ。

 三途の川の向こうで、二人も苦笑していることだろう。慧音に悲しまれるのは辛いが、悲しんでくれるのは自分たちのことを思ってくれる証拠である。

 

「お前はどうなんだ、信綱。私にばかり言わせるのは不公平じゃないか?」

「……もどかしい、というのが正直なところです」

「もどかしい?」

 

 慧音の言葉にうなずき、信綱は二人の眠る墓石と向かい合う。

 寺子屋の頃から一緒だった友人と死別したのだ。何も思うところがないわけではない。

 彼らと言葉を交わせないことを惜しいとも思うし、残念にも思う。

 

 

 

 ――だが、それだけだ。

 

 

 

 悲しみはない。寂しさもない。ただ、気に入っていた飯屋がなくなっていたような、そんな小さな喪失感。

 だからこうして立っていたのだ。今はまだ彼らの死を実感できないだけで、悲しみは後から来るのではないかという淡い期待を抱いて。

 尤も、その期待は慧音との会話で潰えたことが確信できてしまったのだが。

 

「悲しむべきなのに、涙を流すべきなのに、心が揺れない。自分でも驚くくらい、何の感慨も浮かばないんです」

「信綱……」

 

 どうやら、ここ最近の平穏な時間で自分は勘違いをしていたようだ。

 椛ら妖怪と言葉を交わし、霊夢を鍛え、阿求の側に仕え、先代と共に眠る。そんな穏やかで殺伐としたものが何もない時間。

 

「少し、自分がまともな人間になったと錯覚してしまいました。――自分は死ぬまで御阿礼の子に狂っていると知っていたのに」

 

 彼らの死を悼んでやれないことに後ろめたい気持ちはある。だが、それでも信綱は自分の道を変えようとは思わなかった。

 ある意味において彼らの死こそが、信綱を阿礼狂いとしての実感を強く持たせることになってしまっていた。

 生まれてから死ぬまで。自分は御阿礼の子に狂い、それ以外の全ては些事。些事に心煩わせる理由などなく――まして悲しむ必要などどこにもない。

 

 瞳に強い意志が浮かぶ信綱を慧音はなんとも言えない顔で見つめ、何かを言うことなく話題を変える。

 

「……この墓にはこれからも来るのか?」

「命日には来ます。それ以外はわかりません」

「そうか。……二人のことを忘れてやるなよ」

「言われずとも大丈夫ですよ」

 

 そう言って立ち去る信綱の後ろ姿を眺め、慧音はポツリとつぶやいた。

 

「忘れてやらない辺り、お前は優しいやつだよ。信綱」

 

 もう終わってしまった二人のことなど、彼にとっては忘れても良い存在だろうに。それでも忘れないと言い切ったことに慧音は顔を綻ばせる。

 人間も妖怪も、誰の記憶からも忘れ去られてしまう時が本当の死だ。その意味で言えば人里の人間は誰一人死んでいないのだろう。なにせ慧音が皆覚えている。

 

 勘助と伽耶の二人も生き続けるのだろう。彼らとの思い出を御阿礼の子とは比べられないほど矮小なものであると位置付けながら、それでも決して忘却しようとは思わない男の心の中で。

 

 自分も戻ろう。戻って歴史書の編纂に戻らなくては。

 歴史とは大きなうねりのようなものだ。しかし、その中にある流れは小さな波が寄せ集められて生まれる。

 勘助も伽耶も、人里に生きる全ての人間がその小さな波の一つ一つだ。書き損じがあってはいけない。

 

 そうしてできたものが誰に読まれることのない難解なものになったとしても、その時代に生きた者たちを記した本の意味が消えることはない。

 慧音は自らの生を駆け抜けた者たちを思い、そしてこれから先の道を歩いて行くであろう子供たちを思い、再び前を向いて歩き出すのであった。

 

 

 

 

 

「むー……」

 

 橙は膨れていた。私怒ってますよと言わんばかりに頬を膨らませ、非難するような目で相手を睨みつける。

 しかし相手――信綱は柳に風とばかりに涼しい顔。自分が悪いことをしているなどとは微塵も思っていない顔だ。

 

「そんな顔をしてどうした」

「どうしたもこうしたもないわよ!! 人が遊びに来たらいきなりこれってなに!?」

 

 人里に遊びに来たら問答無用で首根っこを掴まれて、人里の外周を歩かされているのだ。腹の一つも立てなければ嘘というものである。

 橙の怒鳴り声を聞いて信綱はぽんと自分の手に拳を置く。すっかり説明を忘れていた。

 

「おお、そういえば事情を話していなかったな。お前はもう俺の中で協力することになっていた」

「勝手に決めないでくれる!? 私だってあんたにお菓子を集りに行く崇高な予定があったのよ!」

「それのどこに崇高な要素があるのか俺には全くわからん」

 

 しかも金を払うのは自分ときた。どうせ自分に会いに来たのだからやることに大して変わりはないではないか。

 それでも怒っている橙に信綱はため息をついて、仕方がないと肩をすくめる。

 

「……わかったよ、俺の頼みを聞いてくれたら菓子ぐらいなら買ってやる」

「ほんと!?」

「菓子だけだぞ」

「十分十分! ほら、さっさと終わらせるわよ!」

 

 菓子と時間だけで済むのだから安い。本来なら普通の給金を払わなければならない作業なので、橙が余計な知恵をつけないことを願っておく。

 

 事の発端は先日にあった、魔理沙が無断で里の外に出てしまったことだ。

 人里の外が危険であると口を酸っぱくして教わっているというのに、それでも子供というのは決まり事を破りたくなるもの。

 彼女のような子がもう一度出ないためにも、信綱の方で何か対策を練る必要があった。

 次は死んでしまうかもしれないのだ。それらを子供の自己責任で済ませるのは、彼女らの先達として醜悪に過ぎる。

 

 自警団にはすでに伝達済みだが、それだけでは弱い。人の意識をいくら変えたところで限度がある。再発を防ぐには根本的な原因に目を向ける必要があった。

 子供たちが外に出てしまう理由、ではない。子供たちが外に出られる方法である。

 大人が見張っている正門からバカ正直に出るはずがない。となれば子供にしか通れない道がある、と考えるのが自然だ。

 

 魔理沙がどうやって外に出たのかも含めて、信綱は子供が外に出やすい道や場所を探すことにしていた。

 そして蛇の道は蛇という言葉もあるように、子供の道を探るには子供に聞くのが早い。

 

 霊夢に頼んでも良かったのだが、彼女は空が飛べるのでその辺の子供しか通れないような道に興味は示さない。

 レミリアも思い浮かんだが、彼女はそんなまどろっこしい道を探すぐらいなら正面からぶち破れば良いじゃない、と言う姿がありありと浮かんだため却下した。

 そこで信綱は橙に白羽の矢を立てたという経緯である。

 そんな事情を説明すると、橙はふんふんと興味深そうに何度もうなずいて、胸を張った。

 

「要するに私にしかできない頼みごとってわけね! 大船に乗った気持ちで任せなさい!」

「…………」

 

 とても不安だった。本当に大丈夫だろうかこいつ、と思いながらも顔に出すことなく信綱は橙を伴って里の外縁部を回っていく。

 

「あ、そこそこ! そこの茂み! ちょっと見て!」

「……小さなくぼみが見えるな。通れるか?」

「猫なら通れるし、子供でも通れるんじゃない?」

「なるほど、外縁部の修繕案件としてまとめるか……」

 

 しかし予想に反して橙はよく見ていた。もう自分では見つけられない抜け穴をすさまじい勢いで見つけていく。

 

「意外だな、ここまでやる気を見せるとは思っていなかった」

「なに言ってんのよ。子分に頼られて張り切らない親分はいないわ!」

「俺はまだお前の子分なのか……」

 

 いつの間に認定されたのか本当にわからない。実害はないので気にしていないが、この妖猫の子分認定の境界は気になるところだった。

 人里外縁の地図を片手に橙と歩いていく。隣を歩く橙は腕を頭の後ろで組んで機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。その調子に合わせて首元に光る鈴が伴奏のように音を鳴らしていた。

 

「楽しそうだな」

「そりゃそうよ。ようやく子分が頼ってくれたんだもの。それってつまり、私が親分だって認めるってことでしょ?」

「全く違うわ戯け。適材適所というだけだ。とはいえ、今回は確かに頼っているが」

「じゃあなんでも良いわ。子分の面倒を見るのも親分の仕事だし」

「…………」

 

 無性に耳を引っ張りたい衝動に駆られるが、頼っていることもあるので堪えることにする。

 彼女には一回限りだけでなく、定期的に見て回ることを頼みたいのだ。そうなるとなるべく彼女の機嫌は良い方に傾けておく必要がある。

 ――と、そんな打算じみたことを考えて、信綱は自分で自分の発想を否定する。

 

 この猫にそのような小難しい計算は意味がない。最も効果的な頼み方など、彼女が何度も言っていることではないか。

 

「……なあ」

「なあに?」

「時々でいいから、こうして里の外を見てくれないか。子供の抜け道というのは大人にはわからない」

「大人だって子供だった時期があるのに、不思議よね」

「同感だ。だが本当にわからなくなる。自分でも驚いた」

 

 自分だったら真っ先に排除するような非合理的な道を、子供は何の迷いも持たずに選べる。そしてその選択が時に大人の思惑を越えた結果を手繰り寄せてしまう。

 そういった子供たちに対抗するには、こちらも子供の目線を持つ味方が必要になる。橙はその意味で言えばうってつけと言えた。

 なにせ自分が会った時から変わらない妖怪だ。いつか成長するにしても、その時まで見てもらえるなら百年以上は確実だろう。

 

「ん、子分の頼みだもの。もちろん良いわよ」

「助かる。で、仕事の報酬だが――」

「良いって。老い先短い子分の頼みぐらいタダで聞くわ」

「そういうわけにもいかん。対価の絡まない約束ほど不安なものはない」

 

 とはいえこれは突発的な頼みごとではなく、れっきとした仕事の依頼になる。

 橙の人間性を疑うわけではないが、大半の人間は無償で何かをし続けられる精神は持っていない。

 信綱は御阿礼の子に関わることであれば無償で、生涯同じことを続けることも可能だが、この猫にそんな精神は期待するだけ無意味である。

 

「具体的な話はスキマかその式に回すと思うが、人里で使える金銭でいいか?」

「え? あんたにたかるから大丈夫じゃないの?」

「俺が死んでからも続けてもらうんだぞ」

「う……」

 

 橙の耳が困ったように垂れ、彼女の手が自分の首で揺れる鈴に触れる。

 

「……難しいことはよくわかんない。藍さまに相談してみる」

「そうしてくれ。……言い方が悪かったな。作業に戻るぞ」

 

 自分の死を嫌でも意識させる物言いになってしまった。信綱は失言してしまったと顔をしかめ、歩き出す。

 こういう時は別のことをさせてしまうに限る。言葉を尽くしてどうにかなる問題ではないのだ。

 

「……あ、あそこのくぼみも通れそう。あと、あの辺りは木が腐りかけ」

 

 橙も頼まれごとはしっかりこなしており、やや言葉が少なくなったものの信綱にありがたい情報をもたらしてくれる。

 

「どのみち修繕は必要だったか……」

「これ、どのくらい直してないの?」

「正確なところは知らんが、年数回は見て回って修繕しているはずだ。……とはいえ、外から見るのがおざなりになるのも仕方がない」

 

 人里の中にいる妖怪は安全だが、人里の外で出くわしたらそうでない可能性もある。

 それに今までの人里では外に出たら命懸けという認識があった。こればかりはすぐに変わるものではない。

 そしてその危険な外で、外縁のどの部分が壊れているかを念入りに探せるほど余裕がある者は少なかった。

 

「内側だと家とかで見えない部分もあるだろうしな……。お前に頼んで正解だった」

「褒めるんなら態度で示してほしいわね! 具体的にはお菓子で!」

「はいはい、わかったよ。……うん?」

 

 魔理沙が出て向かった場所でもある、魔法の森がある方向を重点的に見つめていると、ふと見慣れた人影が信綱の視界に映る。

 銀の髪をした人里の人間は少なく、まして男とくれば一人しか浮かばない。

 橙は以前に薀蓄を語られたことが嫌だったのか露骨に顔を歪めるが、信綱は構わず声をかける。

 

「なぜ外に出るのか、聞いてもいいか」

「君たちこそこんな場所で何を?」

「魔理沙みたいな子供が出ないようにするための修繕部分の確認だ」

「ああ、あれには肝を冷やしたよ。っとと、失礼、あなたの質問に答えていなかったね。

 ――実は、そろそろ独立しようと思っているんだ」

 

 今回は独立する店の下見さ、と言って半妖と呼ばれた存在――霖之助は微笑む。

 信綱は橙が背中に隠れるのを感じながら話を続ける。

 

「……俺とお前が会った場所か?」

「あそこも結構気に入ってるんだけど、もう少し人里に近い場所にしようと思ってるんだ。ほら、そうすれば次に魔理沙が魔法の森に来た時、僕のところに来るかもしれないだろう?」

「魔法の森の門番に近い役目でもするつもりか?」

「まさか。ただ僕は人里にほど近く、しかし一人になりやすい場所に店を構えたいだけだよ。……尤も、僕も鬼じゃないから、迷い込んでしまった子供を人里に案内するぐらいはするだろうけどね」

 

 要するに遠回しな彼なりの優しさである。彼にできることで、彼の目的と阻害しない。その範囲で魔理沙のような子供が出ないよう行動する。

 毒にも薬にもならない薀蓄が得意な、霖之助らしい気遣いと言えた。殆ど役に立たない、でも全く無駄というわけでもないという実に微妙な一線である。

 

「……まあ良いだろう。お前なら危険を避けることもできるだろうし、弥助から許可ももらっているはずだ」

「もちろん。親方への不義理は絶対にしないつもりさ。こんな時期にやめるのも酷かとは思ったけど、ここであまり僕が力になってしまうと後々不味いことになりかねない」

 

 勘助と伽耶が亡くなったことによる、店の影響は皆無に等しい。すでに隠居の二人組。店の経営への関与も一切していなかった。

 だがそれと周りに一切の影響が出ないことは同義ではなく――一人息子の弥助にしてみれば両親を同時に喪ったことになる。

 少なからず仕事にも影響が出るだろう。そんな時に霖之助が力を発揮しすぎてしまうと――彼に頼る構図ができてしまいかねない。

 

 そうなってしまうと霖之助の店を持つ目的は遠のき、霧雨商店も霖之助に頼ること前提のものになってしまう可能性が生まれる。

 それはどちらにとっても幸福な未来ではない。なので霖之助は今の時期にこそ独立を願い出たのであった。

 

「幸運、というより親方の慧眼だね。親方はそうなる可能性を見抜いていた。僕の独立も快く認めてくれたよ」

「そうか。……お前は店を持っても弥助たちとは交流を持つのか?」

「もちろん。僕の店では扱えない素材を卸す店にもなるし、両親を亡くしたばかりの親友もいる。何か力になれるなら喜んで力になるつもりさ」

「そうしてやってくれ。あれも今は辛い時期だろう」

「ああ。近いうちに店を開いたら、あなたにも是非来て欲しい。そこの妖猫もね」

「絶対イヤ!」

 

 橙は信綱の後ろに隠れて、顔だけを出して舌を出して拒絶する。どうやら以前いきなり薀蓄を語られたことを根に持っているようだ。

 信綱も初対面の相手にそれをやられて距離を取らない、とは言えないので霖之助を擁護することはしなかった。

 

「ははは、残念ながら嫌われてしまったようだ。僕も誰彼構わず語るわけじゃないんだよ? ちゃんとその道具を大切にしてくれる人を選んでいるつもりだ」

「相手からすればいい迷惑だろうけどな……」

 

 これが為になるならまだしも、よく聞くと霖之助の想像の割合の方が多そうな内容なのだ。信綱も彼の薀蓄は右から左に聞き流していた。

 

「っと、あまり話し込んでいると日が暮れてしまう。魔法の森で夜を迎えたくはないから、僕はそろそろ失礼するよ。あなたも歳だ、仕事は程々にした方が良いよ」

「お前たちがもっと頼れるようになったら考えよう」

「はは、これは一本取られた」

 

 霖之助は笑いながら森の中に入っていく。信綱の力になるつもりはないようだ。

 彼の心配は特にしていなかった。元より魔法の森以上に危険な無縁塚で暮らしていたと話していたし、何らかの自衛手段は持っているのだろう。

 木々に隠れて霖之助の姿が見えなくなると、橙が信綱の後ろから出てくる。

 

「……あいつ、苦手」

「得意な奴はいないだろうな」

 

 そして親分を標榜しているくせに子分の背中に隠れて良いのだろうか、と思う信綱。

 しかし橙はそんな信綱の生暖かい視線に気づくことなく、信綱の着物を掴んだまま見上げてくる。

 

「あんたは結構話してたじゃない」

「友人の店で働いていたんだ。そりゃ顔も合わせる」

 

 何度も顔を合わせれば慣れるというものである。霖之助は少々語りたがりで、その内容が毒にも薬にもならないだけで決して悪い人柄ではない。

 魔理沙に好かれているように子供相手の面倒見も良く、修行にも真面目に取り組んでいた姿を知っている。

 それにレミリアや紫のように突拍子もないことを言い出したりはしない。妖怪の言葉に振り回されてきた信綱からすれば、まっとうなことを言うだけでもまともな人格だと思えてしまう。

 

 総じて森近霖之助という存在は、玉に瑕な部分はあれど好ましい存在という評価に落ち着いている。

 彼が開く予定の香霖堂という名の店にも、暇さえあれば寄るつもりだった。

 

「それより再開するぞ。今日中に修繕箇所は見積もっておきたい」

「あ、うん。でも修繕はどうするの? あんたの話だと外って人が行きたがらないんでしょ?」

「別の妖怪に頼む。鬼にでも頼もうかと思っていた」

 

 百鬼夜行の折、壊滅状態になった河童の里を直したのは伊吹萃香だ。

 後で聞いたところ、以前よりも綺麗になったという意見すらあった。

 彼女のみならず鬼は優れた大工の技術を持っていると聞く。真面目に仕事をしてくれるかは不安要素だが、そこは勇儀辺りを仲介すれば良かった。

 が、そんな思惑は橙にとってどうでも良いものだったようで、彼女は何か別の部分で感動に浸っていた。

 

「鬼を顎で使える……つまり、親分の私のほうが偉い――イタタタタ!?」

「子分の力を自分の力と錯覚するようでは良い群れの長にはなれんぞ。あと調子に乗るな」

 

 変な勘違いをして問題を起こされても困るので、耳を引っ張って釘を差しておく。

 

「冗談! 冗談だから離してー!!」

 

 涙目になってこちらから距離を取る橙の姿を見て、信綱はため息をつく。

 こんな調子で自分が死んだ後は大丈夫なのだろうか、という心配が多分に含まれているものだった。

 

「ううー……子分のくせに……」

「子分になった覚えなど一度もない。そら、行くぞ」

「あ、待ってってば!」

 

 きっとこの猫は自分がいなくなってからもこうやって生きるのだろう。

 調子に乗りやすく、色々と失敗もして、それでも周りから見放されることだけはなくて。

 

 成長した姿というのが全く思い浮かばないがそれはそれで彼女らしいのだと思えるぐらいには、信綱は橙のことを信じている。

 思い浮かばないというのは想像できないというわけではなく、自分の想像を越えるだろうという信頼からだった。

 

「……お前は」

「うん、どうしたの?」

「……いや、なんでもない」

 

 皆と仲良くしろと言うつもりだったのだが、そんな当たり前のことを言う必要はないだろう。

 なにせこの妖猫、不思議と誰かと仲良くなることは上手い。

 阿礼狂いである自分ですら友人だと言ってのけるのだ。大半の連中とは上手くやっていけるはずだ。

 

「? 変なの」

「変で悪かったな」

「悪いだなんて言ってないわよ。ま、あんたみたいな変な奴でも私は見捨てないから安心しなさいって痛い痛い!?」

「調子に乗るな」

 

 前言を撤回しよう。やはり彼女の成長には不安が残る。

 信綱は橙への不安と信頼、両方を混ぜたため息をついて彼女の耳を解放し再び歩き始める。

 

「いい加減仕事を終わらせるぞ。お前が頼りだ」

「……!! 橙様に任せなさい! あんたのお願い通り、これから先も何年だって続けてあげるわ!」

「期待はしないでおこう」

 

 猫は気まぐれとも言うし、すぐに飽きるだろう。

 そんな風に軽く考えていた信綱だったが、だからこそ次の橙の言葉には驚いてしまった。

 

「期待しなさいよ!? いいもん、あんたがいなくなってからもずーっとやってやるんだから!!」

「……それは頼もしいことだ」

 

 驚きを表に出さず、肩をすくめるだけに留める。

 それがまた橙の癇に障ったのか、信綱を指差して高らかに一つの宣言をする。

 

 

 

「絶対! ぜーったい! あんたが作ったものを私がもっと良いものにしてやる!」

 

 

 

 だからあの世で指をくわえて見てなさい! と言い切る彼女の姿に信綱は小さく息を吐く。

 

「……なら今は仕事を真面目にやることだ。終わったら菓子ぐらい買ってやる」

「まずは小さな一歩からってことね! 藍さまも言ってたわ!!」

 

 意気揚々と尻尾を揺らして歩く橙の後ろ姿に、信綱は彼女が見ていないことを確かめて微かに笑う。

 信綱が積み上げたものを守ろうとする者は何人かいたが、良くしてやると言ったのは彼女が初めてだった。

 

 天魔に、レミリアに、紫に言われても響かなかったであろうその言葉が、橙の言葉だと不思議と腑に落ちる。

 計画性も何もない、ただの童女にも等しい彼女の無鉄砲な言葉がなぜか心地良い。

 

「ほらー! 置いてくわよー!!」

「……やれやれ、お前だけが張り切っても何もならないというのに」

 

 こちらに手を振る橙に追いつき、二人は並んで仕事を再開していくのであった。




ここまでのお話(要するにノッブのお話)とこれからのお話(橙のお話)といった感じのお話でした。

何かと不安なところはあるけれど、きっと良い方向にしてくれるだろうと思わせる何かがある。ある意味ノッブ以上の可能性を秘めている妖猫です。
お前ホント出世したな(元々はノッブとのやり取りが楽しいからチョイ役から出世させたキャラ)

次回? とりあえず23時まで会社から解放されない生活が終わったらかな……(白目)
入社早々、先輩直々にかつてない修羅場だとか言う状況に放り込まれてますが私はなんとかやっています(震え声)

(追記)あ、サブタイトルちょっと変更しました。少し前のお話と被っていたので。

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