さすがに23時帰宅の日々では小説が書けん(´・ω・`)
「せいっ!!」
霊夢の小さな拳と足が縦横無尽に動き、相手の身体に一撃入れようと忙しなく動く。
空を飛ぶ程度の能力を所持するため、彼女は誰よりも空を浮くことが得意だ。
それを活かして放たれる攻撃は軌道が読みづらく、時に意図しない方向から来ることもある。
とはいえ空中に浮かんで行う攻撃は踏み込みができない。体重を乗せることも空中に浮いていればできない。
必然、霊夢の動きは勢いと遠心力で攻撃の重みを増す方法になり――信綱から見れば、地上で戦うよりも隙が増えているように見えてしまう。
「攻撃は最大の防御というがな。下手な攻撃は相手にとってはカモでしかないぞ」
「え、きゃっ!?」
片手の掌で全てを捌いていた信綱が、受け止めた足を握って反撃に出る。
一瞬だけ足を強く握り、解放。お前の足を折ることなどいつでもできた、と行動に含ませて霊夢の腹に強めの掌底を放つ。
と、そこで霊夢がニヤリと笑うのを信綱は確かに見る。
彼女は自分から後ろに飛ぶことで攻撃の勢いを弱め、どうにか戦闘不能になることだけは避けて跳躍し――姿が消える。
「――これで!!」
「甘い」
後に亜空穴と名付けられる瞬間移動に近い術。それによって信綱の後方上空に一瞬で現れた霊夢に対し、信綱は振り返らずその手を伸ばす。
その手は全てが予定調和であるかのように、攻撃に転じようとしていた霊夢の足を掴み取る。
「嘘っ!?」
「あんな目で、しかも意味の感じられない跳躍などしてもなにか来ると警戒を強めるだけだ。やるなら予備動作なく、そして引っ掛けも織り交ぜろ」
相手がいきなり目の前で消えたら後ろを警戒するのが鉄則である。尋常の一騎打ちの経験以上に、一対多の戦いに慣れてしまっていた信綱にとって、背後の警戒は当然のものだった。
そして掴んだ足を今度は手放さず、地面に向かって振り下ろす。
「きゃ――」
霊夢の身体が地面に叩きつけられる前に手を放し、彼女の身体を片手で支えてやる。
そして地面に立たせて、信綱は悔しそうな涙目でこちらを見る霊夢に改善点を伝えていく。
「終わりだ。引き出しが増えるのは結構なことだが、どう使えば相手の隙を作れるのか考えろ」
「考えたわよ! 爺さんがあっさり対応するのがおかしいだけだって!」
「ある程度以上強い妖怪は大体こんなものだ。天狗は風の流れでお前がどこにいるかなど簡単に理解するだろうし、鬼になると避けたと思っても風圧で身体が持っていかれる。吸血鬼は恐らく肉を切らせて骨を断ってくる。人間は一撃受けたら終わりで、向こうはそうではない」
「なにそれ理不尽」
「それが妖怪だ」
本当にうんざりするくらいしぶといのだ。霊力が使える分、多少は楽かもしれないがそれでも多少止まり。戦いを劇的に変えてくれるほどの効果は見込めない。
「だから強くなれ。お前は将来、妖怪と一人で戦うことになる。そうなっても負けない力がないと……」
「ないと?」
「お前の母親の上。先々代のように誰に知られることもなく妖怪の腹の中、だ」
「…………」
ぶるっと身震いさせる霊夢。少々脅かしすぎたかもしれないと思いながらも、何かを言うことはなかった。
侮るくらいなら恐れる方が良い。恐れで力が発揮できなくなっても困るが、恐れているなら逃げを考えることができる。侮っていたらそれすら浮かばない。
「さて、ここで身体を動かすのはこのぐらいにしておこう」
「え? まだ組手五本ぐらいしかやってないわよ? ……まさか、休み!?」
ちなみに全力で身体を動かして行う何でもありの組手のため、五本もやっていれば十分多い部類に入る。
普段は二十、三十と人間の限界に挑戦しているような回数を行っており、霊夢もそれが普通だと感じてしまうようになっていた。
ともあれ瞳を輝かせる霊夢に対し、信綱はその期待を裏切るように首を横に振る。
「残念ながらハズレだ。今回は場所を変えて組手を行う」
「場所を変える? どうして?」
「いつも開けた場所で戦えるとは限らないということだ。森に逃げ込んだ妖怪を退治するには森に入る必要がある」
空を飛べる霊夢にとって、空間の限られる森での戦いは全く別物になるだろう。
ならば今のうちに体験させておくべきだと判断したのだ。
「やること自体は変わらん。だが、場所が違えば戦い方も変わってくるし、勝手も変わる。ぶっつけ本番よりは前もってやっておいた方が良いだろう」
「それはそうだけど……爺さんは大丈夫なの?」
「どういう意味だ?」
「爺さんは森の中とかで戦えるの? ほら、爺さんの戦い方って結構正統派な感じするし」
そう見られていたのか、と信綱は内心で感心する。
確かに自分の戦い方は系統立った武術に基づいている。平地での戦いは基本的に火継の戦闘術と、実戦で身に付けた動きでどうにかしていた。
その観点で言えば霊夢の言葉は正しい。一般的に邪道とは正攻法で勝てないからこそ行う奇策であり、通常の力で勝っていれば必要はないという考えだった。
「よく見ているな。今日の夕餉は好物にしてやろう」
そしてそれを見抜いた霊夢に対する褒美は忘れない。子供のやり方を引き出す方法もいくらか慣れてきていた。
……実際のところは爺さんと呼び慕う男が見せる優しさそのものに霊夢は喜んでいるのだが、その辺りには気づいていなかった。
「やったっ! って、実際のところはどうなのよ?」
「お前はどう思う? 素直に感じたところで構わないから言ってみろ」
「え、うーん……ここで戦うよりやりやすそう、かな? 私の動きが制限されるって言っても、爺さんだってそれは同じでしょ?」
「うむ、残念ながら不正解だ」
「え?」
「――俺は狭い場所で戦う方が得意だ」
その後、有言実行とばかりに森の中での組手を行ったが、霊夢は方向感覚と相手の気配が読みにくくなる森での戦闘に散々苦戦させられることになる。
「ほらほら俺はここだぞ」
「天狗か何かかジジイ――――!!」
「もうそこに俺はいないぞ」
「げっ!?」
「そら、終わりだ」
縦横無尽に木々の間を蹴って動きまわる信綱に、霊夢は何もできず撃ち落とされるのであった。
そしてどんな戦闘でも霊夢以上の強さをあっさり出してしまう信綱に、霊夢はほんの少しだけ人間不信に陥りかけたのだがそれはまた別の話である。
九代目となる御阿礼の子。稗田阿求は元気な少女だった。男勝りとすら表現しても良い。
信綱からしてみれば身体の弱い阿七、阿弥と続いていたので丈夫な子は嬉しいくらいなのだが、日々泥だらけになって帰って来るのは心臓に悪いのでやめて欲しかった。
子供は失敗するのが特権でもあり、無茶をする自由がある。しかし時に無茶で済まない場合もあるのだ。
信綱は四六時中目を光らせているが、それでも子供の命はほんの一瞬で潰えることもある。
だから許されることならいつだって見守っていたいのだ。
ちなみにこれを先代に話したところ、全く理解できないという反応をもらった。理解のない妻で残念である。
同い年に生まれた友人もいるため、今は彼女と毎日遊び回っている。
そんな二人が目に余る危険なことをしないよう、密かに目を光らせつつ、彼女の遊びという名の冒険の戦果を聞くのが信綱の日々になっていた。
「それで小鈴ったらお菓子を落として大泣き! 仕方ないから私のお菓子を半分あげたの」
「阿求様はお優しいですね。ご友人も笑ったことでしょう」
「食べる前は半泣きだったけど、食べたらすぐ笑い出したわ! きっとお祖父ちゃんのお菓子のおかげよ!」
「恐縮です。しかし、小鈴嬢にとって一番嬉しかったのは阿求様の優しさですよ。菓子をあげるとは良いことをしましたね」
膝の上で一生懸命語る阿求の頭を優しく撫でる。
彼女が自分に望むのは祖父という役割。であれば信綱は信綱なりにそれを演じるだけである。
……もう御阿礼の子の家族であることにも慣れてしまったのか、今の姿が演技なのかどうかは自分にもわからないのだが。
「えへへへへ……」
はにかんだように微笑む阿求。ゴツゴツと固く、しかし優しい祖父の手を堪能してから、阿求は立ち上がって机の前に座り直す。
「さて、父さ――んんっ! お祖父ちゃんが頑張ったから今の人里は妖怪が当たり前のようにいるわ」
「ええ、阿求様がお産まれになるまでの間に、交流区画を徐々に人里全域へ広げる試みを行っておりました」
それは恐らく数年の後に完成すると見込んでいた。そして完成すると同時に人間と妖怪の蜜月は終わりを告げるだろう。
これまではどちらもおっかなびっくりに交流していた――要するに非日常の部分だった。それが日常に変わる時が来ているのだ。
日常になれば様々な軋轢も生まれるだろう。家族でも喧嘩をすることがあるのだ。全く違う価値観の持ち主同士で摩擦が起こらないはずもない。
そういった意味で言えば、信綱が死んだ後こそ本当に人妖共存の試練はやってくるのだ。
「うん、お祖父ちゃんの言いたいことはなんとなくわかる。私も日々遊んでいるように見せかけて、人里の様子を見ていたの!」
「左様でございますか。阿求様は慧眼であらせられる」
「……ごめんなさい、遊びたかったから遊んでました」
「ええ、知っております。子供は遊ぶのが仕事ですよ。ですが、同時に見ていたのも事実でしょう。そういった意味で阿求様は聡明です」
「うぅ、お祖父ちゃんの意地悪……」
手放しで褒め称える信綱に、阿求は顔を真っ赤にして縮こまる。おふざけが通じない固いところは彼の欠点とも言えるところだったというのに、今の彼はそれすらも逆手に取っていた。
阿求が照れてしまっているので、信綱は話題を変えることにする。今の彼女を眺めていられるのは至高の幸福だが、そんな自分の幸福より御阿礼の子を考えて行動するのが阿礼狂いである。
「それで市井を眺めて阿求様が感じたこととは一体何でしょう?」
「あ、えっと……幻想郷縁起の中身を変えたいと思ったの」
「縁起の中身を?」
はて、と信綱は首を傾げる。あれは妖怪の対策本であり、共存が成し遂げられた今でもあの本の重要性は揺らいでいない。
なにせこちらは儚い人間の集まり。百年もすれば今いる人間は皆死に絶え、全く新しい人間が生まれてくる。
そんな中で正しい歴史を伝えるなど土台無理な話であり、妖怪との仲が悪化する時も確実に来るはずだ。
そうなった時、人間が一方的に蹂躙されないためにも情報は必須である、と信綱は考えていた。
自身の考えを伝えたところ、阿求にも同意するようにうなずかれる。
「私もそう思う。今は良くても未来はわからない。お祖父ちゃんが言いたいのはそういうことよね?」
「はい。無論、今より良くなるのが理想ですが、そうはならない可能性も考慮すべきでしょう。そういった意味で対策を怠るべきではないかと」
「お祖父ちゃんは私の提案に反対?」
「まさか。今のは私の意見であって、阿求様が一顧だにする必要などございません。阿求様が望まれるのであれば、私はそれを叶えるために微力を尽くします」
ことの正否などどうでも良い。阿求が望むならそれが正義であり、阿求が否定するならそれが間違いだ。
「ありがと、お祖父ちゃん。……私は未来をより良いものにしたいから、私にできることをしたいの。だから幻想郷縁起を単なる対策本から変えてみたい」
「どのように変えたいのか、心算はあるのでしょうか?」
「うん。まだ大雑把だけど人間との価値観の違いや面白いところ、良いところも書いていきたいの。もちろん、危険度とかは載せるよ?」
「ふむ……それでは見目なども見てもらえるように、絵も入れましょうか。阿求様が求めるのは単純な読み物ではなく、娯楽としての一面も持つ縁起ですよね?」
「そう、それ! お祖父ちゃんさすが!!」
「褒めてもおやつが豪華になるくらいですよ」
要するに効果はあるということである。さすがに体調を崩すほどの量は与えないが、基本的に甘えられたら際限なく甘やかす方だ。
「見てためになって、読んで面白い! そういう幻想郷縁起を作りたいの!」
「それが阿求様の願いであるなら、私も喜んでお供いたしましょう」
「うん。それで……その、お祖父ちゃんは大丈夫?」
「ご心配には及びません。今でも元気は有り余っているくらいです」
比喩抜きで。人間、四十や五十になれば若い頃とは違うことを思い知ることが多いと聞くが、今もって信綱の身体にそういったものを感じたことはなかった。
身体の動かし方に熟練しているというのもあるだろう。若い頃と同じ動きを、あの時より少ない動作で再現することができる。
「それにもうすぐ新しいルールも制定されます。それらの先駆けとして阿求様の幻想郷縁起は大きな価値を残すでしょう」
微笑む信綱に阿求も笑い――ふと、大人びたそれになる。
「……ねえ、父さん」
「何でしょう、阿求様」
その呼び方に阿弥を思い出すも、信綱は阿求の名を呼ぶ。今、目の前にいるのは阿七と阿弥の記憶を持った阿求なのだ。彼女の奥にある懐かしい影よりも、阿求の方を見なければ彼女に失礼である。
「父さんはずっと頑張ってきたよ。こうして今だって私に仕えてくれる。……それに甘えてまた私はワガママを言ってしまう」
「仰って良いのですよ、阿求様。私の幸せはあなたの側にいることです」
「……私はお祖父ちゃんとどのくらい一緒にいられると思う?」
「私はあなたが願うなら――」
離れたくないと言うのなら人間をやめよう。そう言葉を続けようとして、頭を振って阿求に遮られる。
「ダメ。お祖父ちゃんは頑張ってきたから、休まなきゃ」
「……それで阿求様は大丈夫なのですか?」
信綱の心中にあるのは不安。自分の死後のことではない。そちらは安心できるように動いてきたし、後のことを任せそうな存在にも心当たりがある。
しかし、自分の死が彼女に悲しみをもたらしてしまう。それは本意ではなかった。
そう信綱が問いかけると、阿求はどういったものか悩んだ様子になる。
「……確かに、お祖父ちゃんと別れるのは辛いと思う」
「でしたら――」
「でも、それが私の役目だとも思ってる。ノブ君、父さん、お祖父ちゃん。人間はいつか死んで、後の人に託していくものなの。私はずっと見送られる側だったけれど、お祖父ちゃんは私が見送りたい」
年齢に見合わない成熟した瞳で、阿求は信綱を見る。
その目には阿七、阿弥、阿求と三代に渡って彼女の側に居続けた存在に対するあらゆる想いが凝縮されており、信綱は咄嗟に言葉が出なかった。
代わりに浮かぶのは微笑み。自分が御阿礼の子を思うのは当然のことだが、彼女にここまで思ってもらえるとはまさに阿礼狂い冥利につきるといったものだ。
「……では、一つ約束をしましょうか」
信綱は穏やかに笑ったまま、膝の上にいる阿求の前にそっと小指を差し出す。
「約束?」
「ええ。――私は遠からずあなたの前で暇乞いを致します。その時に笑って暇を出してください」
死は、いつ来るかなど生者にはわからない。しかし阿七、阿弥と看取ってきた信綱には自分の死が来る瞬間を、予見することができる自信があった。
具体的な時間まではわからないが、脈絡もなく理解する時が来るのだろう。――今が自分の死ぬ時である、と。
その時が御阿礼の子に暇を願う時であり、彼女との永遠の別れの時となる。
そしてその別れに涙はあってほしくない。阿求の泣き顔を見たくない、という自分のこと以上に御阿礼の子が大切な阿礼狂いらしいワガママ。
「……っ、わかった。お祖父ちゃんの前では絶対泣かない。だからお祖父ちゃんも……笑ってね?」
いつかはわからない――しかし必ず訪れる別れを想像してしまったのだろう。阿求の目には涙が溜まっていた。
それが溢れぬよう指で拭い、信綱は笑うことにした。彼女が泣くまいとしているのだ。心配をかけまいとしているのだ。ならばそれを無にするのは失礼だろう。
「ええ、もちろん」
小指と小指が絡まり、指切りが行われる。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
約束を破っても針千本は飲めなさそうだな、と信綱は心の中で苦笑しながら約束を交わす。
笑って彼女たちを見送った自分が見送られる存在になる。そのことに対して浮かぶのは悔いではなく、強い充足感。
阿七と阿弥が己の短い生を駆け抜けたように、自分もまた生に区切りを付ける時が近づいているのだ。
阿求に見送られて旅立つのだ。それはきっと良い物になるに違いない。
信綱はいつか来る別れの時を穏やかな気持ちで迎えられるだろうという確信を、この日に獲得したのであった。
その日、椛が家にやってきた。
もう人里の自警団に協力するという役目は終わっているので、純粋に私用ということになる。
今となっては大手を振って天狗も人里に来れるようになっているが、珍しいこともあるものだと信綱はそれを迎え入れた。
「あ、あのですね……」
「どうした」
ちゃんと玄関から、変化をすることもなく訪ねてきてくれたのだ。信綱も無下にはしない。
部屋に案内し、冷たい茶を用意したのだがどうにも彼女の様子がおかしい。
「えっと、その……ああ、恥ずかしい……」
「……?」
具合が悪いとかそういった意味ではなく、妙にそわそわしているのだ。
顔を赤くし、耳や尻尾が所在なさ気に揺れている。
一体何が恥ずかしいのか、皆目見当もつかない信綱には首を傾げるしかなかった。
「……ええい、女は度胸!!」
「普通に話せば聞こえるぞ」
何やら覚悟を決めた椛がいきなり大声を出しても信綱は特に声を荒げることもなく淡々と応じる。これがレミリアだったら嫌味の一つは飛んでいた。
決意を固めた椛は机を挟んで相対している信綱に上半身をグッと近づけ、眼前に迫る。
その気迫に何事かと信綱は静かに動ける姿勢へと変わっていくが、椛はそれにも気づかずそれを言い放つ。
「してください!」
「……何を?」
「一つしかないですよ、あれです!!」
「思い当たるフシが全くない」
信綱の冷静なツッコミも興奮している椛には届かない。
感極まったのか涙すら浮かべて、椛はすがるように言葉を続ける。
「橙ちゃんにはやったのに私にはできないんですか!?」
「だから何を」
魚をあげたことだろうか。いやしかしそれは椛にもたまにやっている、と自分で否定する。
橙にしてあげて、椛にはしていないことなど思いつかなかった。強いて言えば会うときに土産を持って行ったことがないくらいか。
「すまない、話の流れが本当にわからない。一から説明してくれ」
「ですから!! ――毛づくろいですよ!!」
ちなみにこれらのやり取りは実に中途半端に女中の耳に入り、それを経由して先代の耳に届いたことで信綱は全く謂れのない襲撃を受けるハメになるのだがそれは別の話である。
「最初からそう言え」
「いやぁ、橙ちゃんに自慢されまして」
何が恥ずかしかったのかわからないまま、信綱はとりあえず椛の頼みを引き受けることにした。毛づくろいを頼まれたくらいで怒るような人格ではないつもりだ。
うららかな日差しの暖かい縁側に場所を移し、椛が持ってきた櫛を片手にあぐらをかく。
「耳で良いか?」
「尻尾もお願いします」
「頼むとなると図々しいなお前……」
先ほどまでの恥ずかしがり様は何だったのか。訳がわからないと首を傾げつつ、きっと白狼天狗には白狼天狗の羞恥を感じる部分があるのだろうと割り切ることにした。
一周回って開き直ったのか、椛はあぐらをかく信綱の膝の上にいそいそと座り、耳が彼の目の前に来るようにする。
「さあ、お願いします。橙ちゃんが自慢したその腕前を見せてください!」
「そんな自慢されるようなものでもないと思うが……」
あの時は手櫛で適当にやっただけである。それを言っても椛の楽しみに水を指すだけだろうと思い、口には出さない。
ふぅ、と軽く息を吐いてから信綱は椛から受け取った櫛を彼女の耳に通していく。
「わふ……」
「こうしてみると本当に犬だな」
「狼ですよ」
「狼は人に毛づくろいなど頼まないだろう」
「じゃあ人懐っこい狼なんです」
「人それを犬という」
とりとめのない話が二人の口から流れていく。椛は耳を撫でる信綱の手と櫛に気持ち良さそうに耳を揺らし、その度に信綱はたしなめるように手で耳を元の位置に戻そうとする。
「あまり動くな、やりにくい」
「いやあ、つい」
「櫛を刺すぞ」
「うっ、君は怒ると本当に実行しそうで怖い……」
妖怪なんだから別に問題ないだろう、という思考が透けて見えたのか椛の動きが大人しくなる。
よしよしと信綱の手は毛並みをさらに細かく整えていく。二度目となればコツも掴み、おおよそ橙や椛が心地良いと感じる箇所もわかっていた。
「はふぅ……誰かにやってもらう毛づくろいって気持ちいいですねえ」
「同意を求められても困る」
「橙ちゃんが自慢する意味がわかりましたよ。君は言葉は刺々しいですけど、手はとても優しいですから」
首を傾け、こちらに顔だけを見せて微笑む椛。
なんだか見透かされている気がして不満な信綱はせめてもの減らず口を叩くことにした。
それが椛の笑みを一層深める結果になるとわかっていたとしても、である。
「……その口ぶりだと誰かにやってもらうのなんて初めてなのに、なぜそんなことを思うんだ」
「自分でやると意外と大変なんですよ? ですから手付きが乱暴か優しいかくらいはすぐにわかります」
「そんなものか。……耳はもう良いだろう、尻尾を出せ」
信綱にはわからない感覚だが、だからといって否定する気にもなれなかった。
椛を膝から下ろし、彼女が自分の膝の上で腹ばいになるのを見てポツリとつぶやく。
「なんか腹立つ」
人の身体の上でだらけられているような気持ちになる。さっきまで整えていた耳を引っ張りたい衝動が無性に湧いてくる。
「私もなんだかすごい失礼なことをしている気になります。人に尻尾の毛づくろいをしてもらう時ってどうすればいいんでしょう?」
「俺が知るか。……尻尾を切り離して俺に渡せば」
「それ本末転倒って言いません!?」
自分で言ってそう思ったので諦めることにする。
これ以上姿勢について議論をしても答えが出そうにないので、妥協をしてこの格好のまま始めることにする。
耳を梳いた時と基本は変わらず、滑らかに櫛が動く感触に椛は身体を震わせる。
「気持ちいいです……」
「尻尾があるってどんな感覚なんだ?」
「私にとってはこれが当たり前ですよ。逆に尻尾がないのはどんな感覚なんです?」
「……なるほど、わからんな」
人間に尻尾は生えない。生えたとしてもどうなるかなど想像もつかない。それは椛にとっても同じことなのだろう。
話題も尽きたのか、サラサラと信綱が毛並みを整える音と、椛の心地良さそうな吐息だけが聞こえる静寂がやってくる。
引き受けたからには真面目にやろうと集中して自分の尻尾を睨む信綱に、椛はどこかおかしな気分になる。
思えば少年の頃から一緒にいた存在に、毛づくろいまでさせてしまうとは人生わからないものだ。
普段の自分ならこの手のことは頼まなかっただろう。さすがに羞恥心が勝るはずだ。
「……君も歳を取りましたね」
「なぜそう思う?」
「見た目のこともそうですけど、こうして匂いを嗅いでみるとわかります」
「加齢臭か」
「君は自分でできる範疇の身だしなみはしっかり整えてるじゃないですか、違いますよ。多分鼻が利く妖怪にしかわからない感覚です」
「ふむ」
椛がそう言うのならそうなのだろう、と信綱は軽くうなずいて毛づくろいに戻ろうとする。
「……あんまり何度もわかりたい感覚ではないですね。別れが迫っているって否応なしに理解させられます」
「今になって毛づくろいなんて頼むのはそのためか」
「あはは、わかっちゃいます?」
「本当にやって欲しいならもっと前から言ってくるだろう」
何十年一緒にいると思っているのか。椛はその手のことにはきっちり線引をする方であると思っていたし、その見解は間違っていないと確信を持っている。
そんな彼女が流儀を曲げてまで言ってきた。その意味ぐらいは理解しているつもりだった。
「なあ、椛。この櫛はもらってもいいか」
「え? 別に良いですけど……どうして?」
「交換だ。後で本をやる」
「本、ですか?」
「ああ。いつだったか話した――俺の戦い方を記した本になる」
彼女の身体が強張るのが膝から伝わる感触でわかる。
信綱は一段落ついた毛づくろいの手を止めて、彼女が身体を起こすのを待って話し始めた。
「この家に置いておく。慧音先生に預ける。色々と案は考えたが、お前に預けるのが一番信用できそうだ」
ちなみに真っ先に却下したのは家に置いておくこと。未来の側仕えがそれを見たとしても、自分の動きに過去の側仕えを見出されるとか不愉快以外の何ものでもないと考えたためである。
「……どうして私に預けようと?」
「どちらでも構わないと思ったからだ」
「どちらでも?」
言っている意味がわからなかった。首を傾げる椛に、信綱は自分の考えを話していく。
「人々に伝えていく必要があるかどうかはお前が決めれば良い。ないならお前がただ持っていれば良い。……それがあれば忘れないだろう」
自分は阿礼狂いであり、誰に忘れられても――それこそ御阿礼の子に忘れられても彼女の幸せの一助になれるなら構わない人種だ。
そのことに偽りはない。例え彼女が自分を忘れたとしてもそういうこともあるだろうと受け入れられる。
しかし、受け入れられるといってもそうなって欲しいかと言われれば否である。
本当に珍しいこともあると信綱自身も理解しながら、彼は椛に忘れて欲しくないと願ったのだ。
「俺と……椿のことを知るのはお前だけになる。忘れないで欲しい」
「……忘れませんよ。毛づくろいしてもらった時の優しい手付きも、稽古には鬼のように厳しくなることも。阿礼狂いですけど、意外なほど情に厚いことも。……阿礼狂いだからこそ、友人を手に掛ける残酷さも。何もかも忘れません」
そう言って微笑む椛の姿に、信綱は穏やかに目を細めてうなずくのであった。
――忘れないで欲しい。阿礼狂いにそう願われたただ一人の存在として、椛はこれからも生きていくのだろう。
ノッブから見て、椛はかなり特別な枠に入ってます。忘れないで欲しいという願いを持つ程度には。なおこれでも椛ルートは本編ではない模様。
ちなみに椛ルートは椛が攻める側です。というか基本ノッブが攻めるのはあんまありません。御阿礼の子以外は割りと受け身なので。