幻想の担い手の萌芽
阿求が生まれ、信綱はそちらの世話に入るようになった。
元気の良い女の子で、赤ん坊の頃からやんちゃに暴れ回るくらいだ。
阿七、阿弥、阿求と女が続くが、もともと生まれる性別は男と女の二択しかないのだ。二分の一が三回続いたところで八分の一。そう驚くような確率ではない。
「すごい元気だけど大丈夫なの?」
「元気があるのは良いことだ。身体が弱いよりはな」
その様子を見ていた先代はちょっと顔が引きつっていたが、信綱はむしろ感激した様子だった。
基本的に御阿礼の子の行動なら全て肯定する上、彼が見てきた御阿礼の子は阿七も阿弥も成人女性と比べると身体が弱い部類であった。
阿七と阿弥。二人の願いを受け取っていると錯覚してしまうほど、阿求は元気に成長している。それが信綱には嬉しかった。
「それでお前の方はどうなんだ。ぼちぼち博麗の巫女としての修行を開始する頃だろう」
「あー……うん、そのことで相談があるんだけどさ」
先代は気まずそうに後頭部をかいておずおずと話しかけてくる。
「何かあったのか?」
「……あの子、天才だわ」
「ふむ?」
先代の口から出てきた言葉に、どういった意味があるのかと聞き返してみる。
「本当なら霊力とかって感じるだけでも難しいのよ。専門の修行を何ヶ月もやってようやくってものなの。でもあの子はすぐにそれをやってみせた」
「俺もできたぞ」
「あんたは人間じゃないから」
ひどい言い草である。信綱は人外を見るような目で見てくる彼女に何とも言えない目をしながら、続きを促す。
「それで私も色々教えようと思ったんだけど、そこで困ったことになったのよ」
「困ったこと?」
「どうもあの子、自分が才能あることに気づいちゃって修行を怠け始めて……」
「……それはもう当人の気質ではないか?」
信綱は自分の才能があると自覚した後も修行は怠らなかった。
とはいえそれはあくまで自分が強くあることの目的が、御阿礼の子のために生きるという一つに絞られていたという点もある。
目的もなく強くなれと言われて常人が努力できるかと言われると難しい。
しかし話の流れは読めてきたため、今度は信綱の側から確認をする。
「お前の時はどうしていたんだ? 人間というのは基本的に差し迫ったものがないと動かないものだぞ」
「私がどうして博麗の巫女になったか忘れたの? 先代――今はもう先々代か。その人が妖怪に食われて死んだって聞いたからよ」
「……そうか、なるほど」
次は自分が死ぬ番だ、と言われて何もしないのはよほどの馬鹿か、あるいは全てを諦めた者だけだろう。
そうやって死に物狂いで生き続けて、結果として夫まで得るのだから人生わからないものである。
「でも今はそんな必要性も薄くなりつつある、でしょう?」
「と言っても、力があるに越したことはないぞ。話の通じる妖怪ばかりというわけじゃない」
致命傷を負って末期の時に後悔しても遅いのだ。そうならないように師匠役は心を鬼にして鍛える必要性があるのだが――。
「…………」
「…………すいません、憎まれ役をやっていただけないでしょうか?」
要するに、そういうことである。信綱は彼女が両手を合わせて拝んで来るのを見て、ため息をつく。
いかに先代の語る霊夢が天才であると言っても、先代を相手に勝てるわけではない。信綱には勝てずとも彼女とて博麗の秘伝を修め、幾多の修羅場をくぐり抜けてきた博麗の巫女なのだ。
その彼女が霊夢に手が出せないのは――端的に言ってしまえば親バカという結論だ。
「全く……嫌われることが怖いなら親などやるものではないぞ」
「う……本当に悪いと思ってるって。情操教育は私がしっかりやるから!」
彼女にとっては娘というより孫に近いのかもしれない。可愛がりたい気持ちには理解を示すが、やるべきことはやっておいて欲しいと思う信綱だった。
「それにいつかはあんたも関わるのよ?」
「なぜ」
「紫に頼まれてるじゃない。あんたの強さを教えてやれって」
「……あれはそういう意味か」
紫の考えまで透けて見えてしまい、信綱は吐くため息の数が増えていく。
しかし現実を嘆いても未来は変わらない。そして今後の新しい幻想郷を担っていくであろう博麗の巫女が弱いのは、信綱としても安心できない。
それに今はまだ阿求の世話もそこまで忙しいものではない。これが本格的に寺子屋に通い始め、幻想郷縁起の編纂が始まると構っていられなくなる。
「……わかったよ」
「本当!?」
「但し、俺の流儀でやらせてもらう。死なせるようなヘマはしないが、かなりキツくする」
「全然構わないって! いやあ、断られたらどうしようかと思ってたのよ。愛してるわ!」
「はいはい。話も終わったところで朝餉にするぞ」
今日の朝食は信綱が作っている。阿弥が亡くなってからは火継の主人として女中の仕事を奪うような真似はしていなかったが、阿求の食事は自分が作るのだ。サビ落としも兼ねて作らせてもらった。
その際、料理を作る女中の顔色が良くなかったので休むように言っておいたが、彼女の体調は大丈夫だろうか。
「なんであんたの作る料理は私より美味しいのよ……」
「料亭の料理は男が作るだろう。似たようなものだ」
「いや、言ってる意味がわからん」
味噌汁を一口飲んだ先代が女中と同じように顔色が悪くなったが、まあこちらは些細なことだろう。
そうして朝食を終えた信綱は博麗神社の方に足を向ける。
先代や有志の手によって整備された道を歩く。彼らもいつまでもこの場所の整備ができるわけでもない。いずれは今の博麗の巫女に託す時が来るのだろう。
境内に続く階段を登った先に、先代の語る少女――博麗霊夢は存在した。
昔の先代を連想させる脇の開いた巫女服を身に付け、大人が使う箒を小さな身体で一生懸命操って掃除をしている。
年の頃は十にも満たない。この小さな少女が基本は神社で一人暮らしというのもすさまじいものがある。先代が可愛がる理由にもうなずけるというものだ。
そんな彼女だが、信綱がやってきたことに気づく様子もなく箒を相手に悪戦苦闘しており――飽きたのか放り投げてしまう。
「もう知らない!」
「…………」
怒りたくなる理由には理解を示せたので、暇があったら子供用の掃除道具でも作るかと考える信綱。
渋々引き受けたはずなのに、言葉すら交わしていない相手のことを考えてしまう辺り、彼もなんだかんだ面倒見が良い。
「……巫女がその様子は感心しないな」
とはいえあの姿はどうかと思うので、一応注意の声をかける。
霊夢はやって来ていた信綱の存在に気づかなかったようで、ビクッと肩を大きく震わせてから信綱の方を見る。
「……誰?」
「お前の母親から聞いていないか?」
「……今日は私に稽古を付けてくれる人が来るって」
霊夢の視線にはありありと警戒の色が浮かんでいた。
こんな小さな少女に自分のような体格の良い男が話しかければ当然か、と思いながらも信綱は自らの役目に徹することにする。
「俺がそれだ。火継信綱という。よろしく」
「……あんた、母さんの知り合いなの?」
「言葉遣い」
「え?」
「言葉遣いに気をつけろ。話し方一つでも人に与える印象は大きく変わる」
「別にいいもん。あんたに好かれたくないもん」
相手を見定め、どんな存在なのか聞こうとする目端を持ちながら同時に子供らしい部分もある。
あまり子供の相手が得意とは言えない信綱には難しい相手だった。
「お前の言葉遣いで母親の教育も見えてくる。……初対面の相手ぐらいには丁寧な言葉を使え」
「……あなたは母さんの何ですか?」
母親を引き合いに出すと聞いてくれる辺り、悪い子ではないのだろう。
子供らしい万能感と少女然とした天衣無縫な在り方。二つが混ざるとこんな風になるのか、と信綱は内心で感心しながら彼女の質問に答える。
「旦那」
「……え?」
「俺はあいつの夫だ。やつを母と呼ぶなら、俺は父ということになるか」
「……じゃあ父さんって呼べばいいの?」
先代の夫であることを伝えても、霊夢の顔に驚きはない。
代わりに浮かぶのは探るような瞳。彼女も子供ながらに直感で気づいたのだろう。
この男に真っ当な父親役をやるつもりは毛頭ない、と。
「やめてくれ。父さん以外なら好きに呼んでくれて構わない」
「……じゃあ爺さんで」
「それなら良い」
父さん、という呼び方は阿弥にのみ許したものである。霊夢に罪はないが、そこを譲る気はなかった。
「さて、俺が来たのは他でもない。お前に稽古を付けるようにと頼まれたからだ」
「いらないわよ、そんなの」
「ほう、なぜだ?」
「母さんが教えたこともそうでないこともすぐにわかるの。なんて言えば良いのかな。コツ? そういうのが簡単に掴めちゃう」
そういう霊夢の顔には年頃の少女らしからぬ憂いのようなものが浮かぶ。
「母さんはすごい褒めてくれたけど、そんなにすごいことをした自覚がないの。これは当たり前のことなんじゃないの?」
「比べられるやつがいないのは問題だな……」
自分が優れているか劣っているか。そんなものは同年代か同じ立場の存在がいなければわからない。
この少女にとって世界の全ては先代の巫女しか存在しないのだろう。
「お前の母親に勝てるとは思わないのか?」
「今は無理。でも、多分何年かすれば無理じゃなくなる」
「それで修行はいらないと」
「必要になったらやる。でも今は必要じゃない。それだけ」
「そうかそうか、よくわかった」
信綱は霊夢の言い分に深くうなずき、同意を示す。
昔の自分を見ている気分だった。阿七の側仕えを始めたばかりで、彼女の力になれない焦燥感ばかりが募って何もできなかった自分。
いくら武術の才覚があっても、彼女の身体を癒やすことはできない。力だけで守れるものなどたかが知れていると知らなかった自分。
そしてその武芸でさえ、妖怪と比べたらちっぽけなものでしかないと思い知らされた時の悔しさ。
力を求めるのに必要なのは目的だ。大きな目的のために力が必要とあれば、人は嫌でも努力をする。
しかしそれだけでもいけない。それではやがて努力が惰性と化し、目的に向かう歩みも弱まってしまう。
幸か不幸か、比べるなら間違いなく不幸の部類だが、信綱は椿という烏天狗にそれを教えられた。
――自分は何もできない。臓腑を押し潰すような屈辱が己を強さに駆り立てた。
彼女に与えるべきは強さを求める燃料だ。信綱はかつての自身の経験から、そう結論を出した。
「……では、こうしよう」
信綱は霊夢からゆっくりと距離を取ると、その場に刀を置いて両腕を前に構える。
「お前はなんでも使っていい。俺は素手で、この場所から一歩も動かない。この状態で俺に一撃、ないし一歩でも動かせたら――」
「動かせたら?」
「お前は一切の修行をしなくていい。お前の母親にも俺から伝えてやる」
「……本当? 私、多分爺さんよりは強いわよ」
「その認識が正しいなら、お前は丸儲けだと思うが?」
挑発するようにニヤリと笑い、手招きするように腕を動かす。
いくら頭の回転が早かろうと所詮は子供。霊夢は明らかな挑発であると理解しながら、ムッとした顔になる。
「良いのね? 怪我しても知らないからね!」
「構わん構わん。殺す気で来い」
霊夢の手に札と針が握られる。先代のように体術はまだ使わないようだ。
そしてふわりと小さな足が地面から離れたことには、少々の驚きを見せる。
「飛べるのか」
「母さん曰く、空を飛ぶ程度の能力、だって。降参するなら今のうちよ?」
「…………」
無言で来るように手を動かすだけ。
霊夢は一瞬だけ心配するような表情を浮かべるが、挑発された怒りの方が上回ったようで浮かび上がったまま針と札を飛ばす。
そうして、二つの影は激突し――
「まあ、こんなものか」
「あんたそんな強いなんて聞いてないわよ!?」
当然のように信綱が勝利した。
霊夢の小さな身体は地面に倒れ伏し、その上に信綱が腰掛けている。
さすがに体重を乗せたら不味いため、最低限動きを封じる程度の重さしかかけていない。
精も根も尽き果てた様子の霊夢であるが、悔しい気持ちはあるようでジタバタと手足を暴れさせていた。
「さて――お前は弱い」
「……っ!」
顔だけが動いて信綱を睨みつけてくる。視線に力があったら射殺せそうなものだ。
取り合うことなく信綱は言葉を続けていく。自分に才能があると思っている輩は、一度鼻っ柱をへし折るのが手っ取り早い。
才能があろうとなかろうと関係ない。この少女がこれから立ち向かうであろう妖怪は理不尽の塊なのだ。どんなに稀有な才能があったところで、磨かなければ潰えておしまいである。
「動きが甘い。術の使い方がなってない。空を飛べる優位を理解していない。身体に関しては仕方ない部分もあるが、何もかも甘い」
「…………」
淡々と彼女の欠点を指摘していくと、霊夢の頭が震えているのがわかる。
彼女の身体から降りて、その顔をのぞき込む。
「悔しいか?」
「……っ!!」
ぐん、と音が聞こえそうな勢いで彼女の顔が信綱から背けられる。
が、その目に涙が浮かんでいるのを信綱は確かに見た。
霊夢の頭を押さえつけ、自分と目を合わせさせる。
涙で一杯になっている瞳で、それでも信綱から目を離すまいと睨みつけるその胆力に信綱は内心で笑う。
「悔しいなら――強くなれ。誰よりも、何よりも、俺よりも。そうすれば、もう今みたいな思いはしなくて済む」
「……私って弱いの?」
「今は弱い。だが、俺と先代の稽古を受ければ必ず強くなる。強くする」
「……ほんとう?」
うなずき、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫で回し、目に溜まった涙を拭いてやる。
彼女の矮躯を立たせ、服についた砂も払うと信綱は立ち去ろうとする。
「敗北を悔しいと思うなら必ず強くなれる。……今日はここまでにしておこう。稽古は次から始める」
「……爺さん!」
立ち去ろうとした後ろ姿に霊夢が声を投げる。
振り返った彼に、霊夢は気になっていたことを聞くことにした。
「……あんたはどのくらい強いの?」
「昔に色々やっていた程度のものだ。俺より強いやつは結構多いぞ、この幻想郷は」
ちなみに強い奴が多くいても、信綱に勝てるのは少なかったりする。単純な膂力や技量でどうこうなる領域からはすでに外れていた。
「ああ、俺からも言うのを忘れていた」
「なに?」
「――お前は強くなれる資質がある。腐らせないよう精進しろ」
「……わかった! 絶対あんたより強くなってやる!!」
負けん気が強いのは良いことだ。昔の自分も椿からはあのように見えたのだろうか。
(……あちらの方が可愛げがあるな)
泣いた覚えすらない。今と大して変わっていなかったから、さぞ可愛げのない小僧だったことだろう。
だがそれが良い、と真顔で言い切る変態――もとい阿呆が彼の師匠役を務めたことが幸運だったのか不幸だったのか。多分不幸だったのだろう。椛がいなかったら喰われていたかもしれない。
ともあれ、信綱が見ても霊夢は才気あふれる少女に見えた。
昔、後継者を探していた自分なら目を輝かせていたであろう、自らに匹敵するかもしれない才の持ち主だ。
変に怠け癖が付く前に悔しさという楔を打ち込むこともできた。
未来の幻想郷を担う少女だ。先代からも引き受けた手前、全力を尽くそう。
「――という流れで稽古をつけることになった」
「十歳にもなってない子供に何やってんのよゴラァ!!」
そして事の顛末を先代に報告したところ、殴りかかられたのはここだけの話である。
「こーりん、本読んでー!」
本を両手で抱える小さな少女が青年に声をかけると、青年は困ったように眉をひそめる。
「やれやれ、魔理沙。言っているだろう。僕は親父さんに任された店が忙しいと――」
「読んで!」
「……少しだけだよ」
「やったー!」
こーりんと呼ばれた青年――森近霖之助は仕方がないとばかりにため息をつきながらも、どこか楽しそうな笑みを浮かべて魔理沙と呼ぶ少女が自分の膝の上に乗るのを待つ。
「今日のお話はなんだい?」
「これ!」
「わかったよ。じゃあ少しだけ――」
「あ、お爺ちゃんのお友達!!」
霖之助が読み始めようとしたところで、魔理沙の注意があっさりと別のところに向く。子供というのは気まぐれなものである。
とはいえ霧雨商店の大旦那の友人と来たら相手は限られる。知り合いは多くいても、大旦那が親友だと言っているのは一人だけなのだ。
「いらっしゃいませ。こんな格好で申し訳ない」
「久しぶり! お爺ちゃんなら上にいるよ!」
元気の良い魔理沙の言葉に信綱は膝を折って彼女と目線を合わせ、柔らかい眼差しで彼女を見る。
「今日は君のお爺さんに会いに来たわけじゃないんだ。お店に買い物に来たんだよ」
「そうなの? お爺ちゃん、喜ぶと思うけど……」
「また今度な。ほら、君の父親に渡してくれ」
売り物になる山菜と手土産の菓子を魔理沙に渡すと、彼女は店の奥にあっという間に駆け込んでいく。
あの子も大人になるにつれてお淑やかさを身に着けていくのだろう、と少々感慨深くなりながらも霖之助と顔を見合わせる。
「子供の扱いが上手いね」
「お前ほどじゃない。子供の相手は苦手だ」
なるべく機嫌の良くなりそうなものを用意して感情を操っているのだ。子供の気まぐれに勝てる気はしない。
「香霖とはな。お前が将来付ける店の名前が覚えられたか」
「発音の違いだろうね。霖之助と香霖だったら後者の方が赤ん坊の耳に覚えやすかったのだと思うよ」
そう言って苦笑いを浮かべるものの、霖之助の目に本気で困っている様子はなかった。
信綱も意外と付き合いが長くなったこの半妖の青年に小さな笑みを浮かべる。
「お前もずいぶんと出世したものだ。紹介した時は長続きするかどうかも疑わしかったのに」
最近はすっかり商売人も板について、弥助が忙しい時には店を任されるほどになっていた。
何かと薀蓄を語りたがる悪癖がある以外、この男は頭の回転も速いし肉体も頑丈だ。その上で経験を積んでいるのだから、霧雨商店にとって大いに貢献する逸材だろう。
「真面目に修行しているって言ってるだろう? あの子がもう少し大きくなったら満を持して自分の店を持つつもりだよ」
「弥助からは引き止められなかったのか?」
「男に二言はない、って快く送り出してくれるそうだ。本当にあの人には感謝している。もちろん、あなたにも」
「今生の別れというわけでもあるまい。弥助とはこれからも付き合うのだろう?」
「偉大な親方であり、掛け替えのない親友だ。半妖の僕に商人としての教えを授けてくれたことだけでなく、家族として迎えてくれたことには一生足を向けられない」
「俺にまで頭を下げようとするな。感謝はこの家の人だけで十分だ」
こちらにも心からの感謝を捧げようとする霖之助の言葉を受け取らない。
信綱がやったのはこの店を紹介するだけであり、そこから先の修行や勘助たちとの関係には一切触れていなかったのだ。
「それより買い物がしたい」
「やれやれ、感謝を受け取ってもらえないのは辛いのだけどね」
「だったら態度で示せ。少し量が多いが、こちらを頼む」
持って来ていた紙を手渡し、霖之助が中身を改める。
中に書かれているのは新しい墨や紙の他、稗田邸に運ぶ食材や日用品の類だった。
「少し日数がかかるものもあるけど、良いかな?」
「ああ。すぐに運べと言うつもりはない。稗田の家にやっと火が灯ってな。古くなってしまったものの入れ替えが大変なんだ」
無論、阿七や阿弥がいない時代にも手入れを怠ったことはない。ないが、食材は十年持つものなど稀だし、日用品だって十年以上の使用に耐えうるものは少ない。
なので御阿礼の子が生まれた時は色々と大変なことが多いのだ。新たな女中の雇用など、面倒なものもある。
「ははぁ、なるほど。ではすぐに用意させて運ばせてもらうよ」
「頼んだ」
目的はそれだけなので、話すことがなくなる。
戻って手を付けている仕事の続きでもやろうかと思っていたところ、霖之助が付き合いの長さを懐かしむように口を開いた。
「しかしあなたも元気だ。僕が会った頃にはすでに五十を越えていたと思うけど」
「正しいぞ。勘助と同い年だ」
「となるともうすぐ七十か……。妖怪から見れば短くても、人間には十分な年齢だ。自愛した方が良いよ」
「体調管理を疎かにしたことはない。お前こそ半妖だからと適当な生活をするのはやめておけ」
「ははは、肝に銘じておくよ」
こいつは銘じるだけだな、と信綱は霖之助の適当な返事に確信を持つが、特に追い打ちをかけるようなことはしなかった。
「お前が体調を崩すとあの子が泣くぞ」
「はは、魔理沙にも困ったものだよ。もうそろそろ寺子屋に通う歳なのだから、僕ばかりと遊んでないで子供たちと遊べばいいのに」
「さて、なんとなくわかっているのではないか? お前がもうじき店を辞めることを」
「そうかもしれない。子供というのはたまに鋭くなる」
しかし、と信綱は目を細めて彼女たちのことを思い返す。
魔理沙は今でこそ元気いっぱいな少女だが、あれで霧雨商店の一人娘。いずれは礼儀作法なども覚え込まされて一人の男性と結ばれるのだろう。
そして霊夢もまた、成長したら先代以上に腕の立つ巫女として幻想郷を守るのだ。喜怒哀楽が激しく先代より遥かに自由に見える彼女だが、その実何よりも大きなものに縛られている。
新たなルールも間もなく施工される。見込んでいる効果が出るかは未知数だが、それでも昔の幻想郷に比べれば良いものになるのだろう。
そんな幻想郷を担うであろう少女たちのことを思い、信綱は瞑目する。
「どうかしたかい?」
「……昔みたいな騒動が起きないことを願っていただけだ」
「難しいんじゃないかな。妖怪というのは退屈には勝てない存在だ。僕が言うからには間違いない」
「だとしても。暴力だけが解決手段にはなってほしくない」
あれは人間が不利に過ぎる。御阿礼の子以外がどうでも良い信綱とて、同胞が被害に遭うのに良い顔はしない。願わくば新たなルールで暴力よりも楽しく平等になって欲しいものだ。
「僕と初めて出会った時は暴力に訴えて来た気がするけど……」
「こちとらか弱い人間だ。得体の知れない相手に用心するのは当然だろう」
「か弱いという言葉には首を傾げるけどね」
「腕が斬り飛ばされたら終わりなんだぞ俺は」
妖怪の誰もが口をそろえて化物と言ってくるが、自分は首が斬られたら死ぬし、四肢のどれかが落ちても戦闘不能になるほど脆い存在なのだ。心外にもほどがある。
妖怪相手に無傷で勝つのがすごい? 無傷で勝つか重傷で相討ちか死ぬかの三択なのだから、勝ち続けていれば無傷になるのはある意味当然の話である。
そのことを正直に伝えても霖之助は困ったように笑うばかり。完全に取り合ってもらえていない。
信綱は大きなため息をついて踵を返す。
「そろそろ戻る。あの子にはお前が持っている魔法使いの本でも読んではぐらかしてくれ」
「これは魔理沙に頼まれた本だよ。魔法使いってあの年頃の子が憧れるものなのかな」
「さあな。あの子の好みに口を出すつもりなどないさ」
「はは、僕にもないよ。あの子には健やかに育って欲しいものだ」
魔理沙のことを話しながら、今度こそ店を出る。
後ほど、お菓子のお礼を言おうと思ったのにすでに帰った信綱を探す魔理沙に、本をしばらく読み聞かせることになったという霖之助の愚痴を聞く羽目になったのは別の話である。
そして、彼らは知らなかった。
この魔理沙という少女。後の幻想郷において、スペルカードルールを用いて異変を解決する有名人となっていくことを。
彼らが望んだ淑女とは全く正反対の道を歩んでいくことに、未来の信綱は面倒を見るのも大変だとため息をつくのであった。
まず出すべきはこの二人だよね、ということで霊夢と魔理沙の登場です。
霊夢がこの後努力嫌いになる理由? ヒント、ノッブの修行法
次回のお話? いつになるだろうね(真顔)