「…………」
「あ、あの、だな……」
「…………」
「あー、えっと、そのー」
「…………」
沈黙が痛い、と思ったのは生まれて初めてだった。
机を挟んだ先には腕を組み、しかめっ面一歩手前の仏頂面でこちらを睨みつける男の姿。
かつて自身をズタズタに斬り裂いた男が割りと本気で殺気をぶつけてきている状況に、少女――伊吹萃香は内心で冷や汗をかく。
どうしてこうなった。いや、元を辿れば百鬼夜行の折に自分のやったことが原因であることはわかっているのだが、それでもそう思いたくなってしまう。
と、居た堪れない沈黙に耐えかねたのか、男――信綱の隣に座っている青みがかった銀髪を持つ美しい少女が取り繕うように声を上げる。
「こ、こうして面と向かって鬼と話す機会が来るとは思わなかったな! いや、それもこれも偏にお前のおかげだ!」
「…………」
「あ、甘いものでも頼むか? そちらの鬼も駄目というわけではないだろう?」
「あ? お、おう! 雑食の萃香と言やぁ、私のことさ!」
「ほ、褒められているのかそれは……?」
ちょっと萃香の交友関係が気になってしまう銀髪の少女――慧音は頑張って明るい声を出してなんとかこの空気を変えようとする。
しかし男――信綱は厳しい顔のまま微動だにしない。殺意一歩手前の威圧を萃香のみに放っている。隣に座る慧音も気づかず周りも普段通りに店を経営している辺り、さらに腕を上げているようだ。
「の、信綱、お前は確か甘いモノが比較的好きだったな。なんでも頼んでいいぞ、私の奢りだ!」
「……それには及びません。先生には区画の見回りを頼んでいる手前です。ここは私が」
ようやく口を開いた彼の声は想像よりも優しいもの。これならイケるんじゃないかと思って萃香が口を開こうとして――
「お、じゃあ私も――」
「お前は自費だ」
ダメだこりゃ、と察してしまえる程度には声に温度がなかった。嫌われているなんて生易しいものではなく、問答無用で殺されないだけ自制しているのがわかるくらいに憎まれている。
後で聞いてわかったが、信綱にとって稗田阿弥という人物は萃香の予想を遥かに超えて大切な人らしい。そんな彼女を鬼の集まっている空間に連れてきた以上、信綱が萃香を嫌うのもある意味当然の流れである。
そこに文句は言わない。それに名も知らぬ白狼天狗と正面から戦って、萃香なりにケジメはつけたつもりだ。もう人間を襲うことはないし、信綱の大切なものに手を出すつもりもない。
「ふぅ……」
萃香は手に持つ伊吹瓢から口を離すと、信綱の目をまっすぐ見据える。
感情の削ぎ落とされた人間味の感じないその瞳を見ていると、あの斬り刻まれた感触すらも思い出してしまう。
尋常な勝負で受けた傷なら誉れであり、悦楽すら覚えるものだが、勝負にすらならなかった萃香には遠い感情だ。
「――人間、あの時は言えなかったけど、私の負けだ。金輪際お前たち人間に手は出さねえ」
「…………」
「私が敗者で、あんたが勝者だ。ここに来るのをやめろっていうのなら、私は二度と地上には出ない」
「……その言をお前はいつまで守る?」
「私は勇儀のようにはなれんけどね。自分から交わした約束すら守らないほどの軟弱者になった覚えもないよ」
「…………」
信綱の目が微かに細くなり、相手を見定めるように瞳の奥が鈍い輝きを宿す。
その目を萃香は初めて見た。彼と戦う前に目を合わせた時は、およそ人間性を失った狂人の目をしていた。
だが、今の目は違う。人間よりも圧倒的に強い存在に対して物怖じすることなく、相手を踏破する意志のこもったその瞳はなるほど確かに。英雄の称号にふさわしいだけのものがあった。
萃香の印象で見れば信綱は狂人だ。それは間違いではないだろうし、信綱自身も己をそう位置づけている。
が、同時に幾多の苦難を乗り越えた彼は確かに英雄でもあるのだ。かつて自分たちを打ち倒した人間と同じ場所に彼は到達している。
「…………」
「……あの時はちゃんと見れなかったけど、綺麗な目をしてるね。自分のやっていることに迷いがない良い目だ」
「……ふん。わかった、信じよう。人間に危害を加えないのなら俺から言うことは何もない」
信綱はため息と共に萃香の来訪を認めることにした。
これがまだ妖怪との交流すら始まっていない頃なら、レミリアのようにとりあえず追い出していたところだが、今それをやると色々と反発がありそうで怖い。
「へへっ、話がわかるじゃん。じゃあお近づきの印に一杯……」
「個人的にお前が嫌いだから断る」
「ひっでえ!?」
幻想郷全体のためを思うなら萃香だけを人里に入れないわけにもいかないが、それはそれとして御阿礼の子に危害を加えかけた彼女を許すつもりもない信綱だった。
話すことも終わったしさっさと席を立とう、とする信綱。しかしそんな彼の袖を隣に座る慧音が引く。
「先生?」
「まだ頼んだものが来ていないだろう。それを食べてからでも遅くはない」
「いえ、私は見回りを……」
「お前は色々と頑張りすぎだ。少しぐらい休んで行け」
有無を言わせぬ口調だった。信綱も子供の頃から面倒を見られている慧音には強く出られないようで、困った顔をしている。
この人すげえ、と萃香が密かに慧音への尊敬を覚えながらその光景を眺めていたところ、折れた信綱が渋々席に座り直す。
「よしよし、良い子だ」
「そんな歳ではありませんよ、もう」
辟易したようにため息をつく信綱と満足そうに笑う慧音の二人は親子にしか見えないほど、歳が離れているように見えた。
「ところで二人はなんで一緒にいるのさ? 夫婦ってわけでもないんだろう?」
「見回りをしている時に偶然会った。そこからこの人に連れ回されている」
「む、嫌だったか?」
「…………」
答えにくい質問を投げかけないで欲しいと思う信綱だった。
その様子を見て、萃香は笑いをこらえるように肩を震わせる。
「く、くくく……人間にも頭の上がらない人ってのはいたんだ。こりゃ収穫だ、勇儀にも話してやろうっと」
「お前はお前で俺をなんだと思っているんだ」
「ははは、良いじゃないか。お前も英雄視されるのには困っていたんだろう?」
「醜態を知ってほしいってわけでもないですよ……」
信綱にしては珍しく本心から困っていた。慧音はからかい混じりの言葉があっても、自分を心配する心に嘘はないので断りづらい。
相手が椛や巫女のように遠慮せずに振る舞える相手なら、こちらも遠慮はしない。レミリアや勇儀のように異変を起こした相手も容赦はしない。
しかし慧音が相手となるとそうも行かない。妖怪でもなく人でもなく、さりとて信綱が生まれる遥か前より人里に奉仕してきた偉大な人だ。
こうして顔を合わせると子供っぽいというか、規律を守ろうとする大人としての姿に僅かに混ざる稚気とも呼ぶべき何かがあるが、それが彼女の人間的魅力でもあるのだろう。
ともあれ、信綱は慧音と会ってしまったことが運の尽きだと考えて、ここは彼女に付き合うことにする。
運ばれてきた甘味は一つが萃香。二つが慧音の前に運ばれ、信綱にはお茶のお代わりが来た。
「……あの、先生」
「うむ、どちらも美味いぞ」
「……はぁ」
茶屋で頼む甘味が自分のところに来ないのは、もはや嫌がらせか何かなのだろうか。
すでに口を付けたものを取り返すほど甘味が欲しいわけでもないが、嫌いなものでもない。阿弥が甘いお菓子を好むため、味の研究に余念はない方だと自負している。
そういえば一人で茶屋に入って甘味を頼んでも信じられないものを見るような目で見られてしまう。何かおかしいことでもあるのだろうか。
などと微妙な悩みに思いを馳せていると、ふと萃香が口を開く。
「そっちの先生はここで結構長いの? いや、私も昔は地上にいたけど、見た覚えないし」
「ん? 人間よりは長く生きているが、鬼ほどではないよ。あなたが暴れていた頃に私は生まれていない」
「ふぅん。それにしては見事なもんじゃないか、寺子屋の教師までやってさ。私にゃとてもできんわ」
木の匙を片手に萃香は気分良さそうに笑う。その褒め言葉に慧音もはにかんで微笑み、信綱はそれを意外なものを見る目で見ていた。ひょっとしたらこの二人、波長が合うのかもしれない。
「ふふ、あまり褒めないでくれ。私なんてまだまださ。授業を何度やっても眠る者は後を絶たないし、頭突きばかりしていて頭が固くなってしまう」
「ははははは! 子供なんてそんなものだよ! 無邪気で恐れってもんがない! 鬼の私らだって恐れないだろうさ!」
いや、この人の教え下手は結構深刻である、とは口を挟めなかった。
上機嫌に手を叩いて面白がる萃香と、そんな彼女と親しげに話す慧音。信綱は少女二人に囲まれて肩身が狭い。
思えば自分の友人はあまり男がいない。というより、知り合う妖怪に女が圧倒的に多い。
里の運営などで話す相手は男が多いが、彼らは人里という社会の中でより大きな利益を得ようと貪欲だ。あまり個人的な付き合いは持ちたくない相手である。
「……こうして話してみても、人間ってのは変わらんねえ。生きるのに必死で、それでいくつのものを捨てていくんだか」
「さあな。お前たち妖怪が奪わなければ多少は少なく済んだかもしれん」
「手厳しいね、本当に」
「自分たちを害する敵を擁護するはずなかろう。先生は俺とこいつを仲良くさせたいようですが、俺にこいつと馴れ合う気は一切ありません」
「……わかるか?」
あれだけ露骨に引き止められてわからない方が問題である。信綱も慧音の頼みであろうと萃香と友誼を結ぶつもりは毛頭ないため、そこはハッキリさせておく。
「先生が友誼を深める分には構いません。人里に来ることも認めましょう。――ですが、俺がこいつを許すことは当分あり得ませんよ」
「……はぁ、参ったね本当に。鬼の私が、自分でやった策で首絞められるなんて。人間を賢しいなんて言えたもんじゃない」
やだやだ、と萃香は自嘲して酒を呷る。
なんとか場を取り持とうとした慧音も困ったように両方に視線を行ったり来たりしており、信綱は顔をしかめた。もう少し言葉は選んでも良かったかもしれない。
レミリアの時と同じだな、と信綱は自分の対応が昔とあまり変わっていないことにうんざりしながら、口を開く。
「……別に一生許さないと言ったわけではない。過去に起こったことは変えられないが、お前の行動次第で俺の対応は変えられる」
「……人間さあ。お前さん、器が狭いんだか広いんだかよくわからんよ」
「許すかもしれんと言っているのだから菩薩の広さに決まっているわ戯け」
「済まない、信綱の言うことを否定はできん」
「あんたもあんたで手厳しいな!?」
「あなたと個人的に仲良くはできそうだが、それはそれとして人里に迷惑をかけたのも事実。私も信綱も人里の守護者として甘い顔はできない」
けど、と慧音は微笑んで萃香に手を差し伸べる。
続く言葉を予想した信綱は軽く肩をすくめ、その様子を見守ることにした。多分、自分だったらそこまでやらないだろうなとも思いながら。
「が――それでも頑張るなら私たちはお前を見捨てない。決してな」
「……あんたもかい、人間?」
「………………私的な好悪で、その人物の評価を歪める真似はしないつもりだ」
言って、舌打ちする。個人的に見て嫌いなのは間違いないが、彼女から目を離して面倒を起こされる可能性は否定できない。
それに幻想郷で頂点を争えるほど強いのも事実。敵に回すよりは味方にした方が遥かに利益がある。
嫌いな相手は排除できるに越したことはないが、それが無理ならせめて友人とまではいかなくても嫌悪感が湧かない程度には相手を知る努力をすべきだろう。
阿礼狂いとしての自覚があり、それ以外で悪印象や敵を増やすのは良くないという考えがあるため、こういった場面では信綱も不本意な選択をせざるを得なかった。
「ただし。お前がもう一度御阿礼の子に手を出したら、その時はどんな状況だろうとお前を討つ。それは忘れるな」
「骨身に染みたよ。お前さんの武芸と勇気……武芸に免じて人間に手は出さない」
「なぜ言い直した」
「いやあ」
困ったように頭をかく萃香を半目で睨む。慧音の方を見ても苦笑いするばかり。酷い連中しかいない。
信綱は諦めたように茶を飲み干すと、席を立つ。もう慧音の願いにも応えただろう。
「先に失礼します。私と先生、両方が休んでいると騒ぎがあった時に動けませんから」
「相変わらず真面目だな、お前は」
「性分ですので」
「あ、私の分は――」
萃香の言葉は最後まで聞かず、店を出る。
この時に自腹を切れと言った萃香の分も支払いを済ませていたことを慧音は目ざとく気づき、小さく笑う。
「ふふ、いつになっても好意の表し方が下手だな」
「……あいつ、結構人誑しじゃない?」
「わかるか? 周りの評価も自己評価も阿礼狂いで間違ってないのに、奴は不思議と好かれるんだ」
打算はあるだろうが、天然でやっている部分もある。優先順位は変わらなくても、他を蔑ろにすることはない。
阿礼狂いを刺激しない程度の距離を保っていれば、彼は合理も情も弁える好人物なのだろう。
「まあ私は当分嫌われるだろうけど、頑張ってみますか!」
「そこはもう頑張れとしか言えん。ちなみに以前彼の逆鱗に触れた吸血鬼は二十年かけて、ようやくまともに対話をしてもらえるようになったところだ」
「……あいつが死ぬまでに認めてもらえるかなあ」
その吸血鬼もなかなかに一途なものである、と萃香は遠い目になるのであった。
「私が来たわ、構いなさい!」
「帰り道はあっちだ」
「少しは優しくして!? いい加減心が折れるわよ!? 恥も外聞もなく泣き喚くわよ!?」
「手段を選ばなくなってきたな……」
なお、件の吸血鬼は今でも暖簾に腕押しを続けていた。いつかは優しくなると信じて。
「うーん、父さんの部屋って来るのは何時ぶりだっけ?」
「阿七様の時以来になるかと。あの日に怒られたことは今でも覚えております」
御阿礼の子に関わることを信綱が忘れることなどあり得ない。三十年以上の時が経ってもなお、鮮明に思い出せる。
姉のようでもあり、どこか童女のようでもあった。あの人が自分を導かなければ今の幻想郷はなかったと信綱は確信していた。
怒られたことをどこか誇らしげに語る信綱に阿弥は笑いながら、火継の家へ入っていく。
「……ん、少し静かだね」
「家のものは所用で外しておりますから」
信綱が命じて外させたことは言うまでもない。余計な邪魔が入るのは望ましくなかった。
女中に茶を用意するよう命じ、信綱は当主としての自分が使う部屋に阿弥を案内する。
余談だが、彼は火継の当主としての職務を果たす部屋と、阿弥の側仕えをするための部屋を二つ持っている。
基本的に寝泊まりは阿弥のいる稗田邸で行っているため、火継の部屋は本当に仕事部屋といった程度のものだ。閑話休題。
その部屋もまた書類や書物が数多く積まれており、阿弥の部屋と同様に墨の香りが漂っていた。
阿弥にとっては親しみのある匂いに、僅かに顔が緩む。
「父さんも本に囲まれているんだね」
「当主として目を通さなければならない書類などもありますから。最近は部下に任せていますけど」
自分が死んだ後も御阿礼の子は代を重ねていくのだ。後を任せられる人材育成は急務である。
とはいえ、信綱一人が長く側仕えをした弊害は意外なほどに少ない。
百年単位で転生する御阿礼の子を待ち続けて研鑽を続けられる一族だ。今さら一人が独占したところで何の痛痒にもならない。
例え己の研鑽の全てが時間という大きな壁の前に潰えるとしても、何一つ迷わず全てを捧げられる人間の集まり。それが阿礼狂い――火継の一族だ。
「少々お待ちください。確かこの辺りに来客用の座布団が……」
「あら、これは?」
信綱が阿弥をもてなそうとしていたところ、阿弥は目ざとく部屋の隅に置かれている信綱の私物に目が行く。
変哲もない色石に始まり、凝った装飾の施されたかんざしや薔薇の花。そして大切に扱われていることが一目でわかる硝子細工の花飾り。
一つは阿弥も見たことがあるものだ。より厳密に言うなら、阿七が見たことがある。
「これは……」
「……妖怪からもらったものがほとんどになります。そこの薔薇などは吸血鬼からもらいました。魔力で保護されているようで、今に至るまで枯れてはいません」
「そうなんだ……。ふふ、父さんはレミリアさんに好かれているのね」
「不思議なものです」
割と本気でそう思う。なぜあそこまで懐かれるのか全くわからない。
とはいえ二十年以上纏わりつかれれば嫌でも慣れる。ああいうものなんだろうと割り切ることにしていた。
「この石は……ふふ、橙ちゃんからもらったものね。まだ取ってあるんだ」
「なぜそれを?」
「百鬼夜行の時に橙ちゃんが話してくれたのよ。子分の証だって」
「…………あの猫」
捨ててやろうかと本気で思うが、気を取り直して阿弥に座布団を勧める。
すっと上品な所作で立ち上がった阿弥は静々と歩み、信綱の膝の上に腰を下ろす。
「……阿弥様、座布団がそちらにありますが」
「うん。でも私はここがいいの。ダメ?」
「あなたの願いを断るはずありません。ですが、人前ではやらないよう気をつけてください」
「大丈夫よ。父さんは心配症ね」
「む……」
阿弥にクスクスと笑われてしまい、信綱は言葉に詰まる。
これでは阿七を過保護だと言えないかもしれない。しかし自分は阿礼狂いなのだから、彼女の安全を最優先に考えるのは至極当然のことであって、何も不自然なことなどないはずだ。
「阿弥様が煩わしく思うのでしたら、何も言わないようにしますが……」
「ううん、どんどん言って。なんだかそうやって怒られるの、本当の家族みたいで好きなの」
「そう、ですか……」
家族。そう呼ばれることに信綱の胸が痛みを覚える。
自分は彼女の家族としてふさわしい人間であったのだろうか。阿礼狂いという狂人が、彼女の求めに応じて演技をしただけ。そんな可能性も否定できないのではないか。
こんな歪な関係を家族と呼んで良いのか。その迷いが表に出たのか、阿弥は柔らかな頬を膨らませて信綱の額を叩く。
「うぁっ」
「もう、変なことは考えちゃダメ。家族のことなんて私もよく知らないんだから、私が家族って言ったら家族なのよ。だから父さんが悩むのは禁止」
「……ええ、わかりました」
阿弥にそう言われては是非もない。自分の悩みなど阿弥の笑顔の前には砂塵に等しい。
彼女が笑っている。その事実以上に重い事実などあるはずがない。故にこれで良いのだ。例え余人の理解が得られずとも、自分たちは家族なのだ。
静かに微笑み、うなずいた信綱に阿弥も満足そうに笑い、改めて部屋を見回す。
阿七の時には書類が積まれている様子すらなく、当主としても駆け出しだった彼の部屋に私物はないに等しかった。
あの時は信綱の色が感じられないと、どこか物寂しさを覚えたものだ。
「これが父さんの部屋……。幻想郷を変えた人の部屋……」
「そんな大層なものではありません。私一人では何もできませんでしたし、何もしませんでしたよ」
阿七がいなければ合理以外の答えを探そうとは思わなかった。椿に鍛えてもらわなければ、途中で死んでいた。椛が信綱と椿の行き着いた果てに涙を流さなければ、人妖の共存なんて意識しなかった。
自分でもわかってしまうほどに、信綱は多くの人妖から影響を受けているのだ。阿礼狂いとしては失格かもしれないと思う程度には。
とはいえ、火継の家では強さこそ正義なので遠慮無く頂点に立っているが。
「もうすぐ転生の準備も終わるし、それが終わったらどうしようか。父さんは何かやりたいこととかある?」
「阿弥様のやりたいことが私のやりたいことです。もう一度空からの眺めを見るでも、幻想郷を端から端まで見てみるでも、なんでも仰ってください」
「……そういうのはもうお腹いっぱいかな。残った時間は、父さんと一緒に家族らしいことをしてみたい。父さんはそれで良い?」
「もちろんでございます。阿弥様が望むのであれば、私も微力を尽くして家族になりましょう」
「あはは、そんな肩肘張ってなるものじゃあないと思うわ、家族って」
阿弥に笑われてしまい、信綱の顔にも困ったような笑みが浮かぶ。
生まれた頃より親元から引き離される御阿礼の子と、そもそも親兄弟全てが阿礼狂いであり側仕えを巡る不倶戴天の敵である火継の人間。
どちらも家族なんて知らないはず。にも関わらず、信綱と阿弥はそれぞれが思い描く家族という形に思い当たるものがあった。
「阿七の時は姉弟。私は父娘。阿求はおじいちゃんと孫かしら?」
「それはまだ先の話です。未来では阿求様に仕えるのかもしれませんが、今この瞬間に仕えているのは阿弥様ただ一人です」
「……ん、ありがとう。父さん」
阿弥の身体を暖めるように回された信綱の腕に、阿弥も自らのそれを重ねて静かに微笑む。
そしてそのままするりと身体を滑らせて、信綱の足に自らの頭を乗せる。
「小さな頃によくしてもらったっけ、膝枕。父さんの膝、固いけど暖かい」
「鍛えていますから」
「うん。……あ、でもここから見る景色は阿七が見たものと同じ」
阿弥は笑顔のまま手を伸ばし、信綱の頬を撫でる。信綱もその手に自らの手を添えるように持とうとして、何かに躊躇った様子を見せた。
理由は単純――怖かったのだ。かつて阿七も今の阿弥と同じようなことを言って、そして旅立っていった。この姿勢はそれを否応なく思い起こさせる。
幸い、阿弥は信綱の顔を見るのに夢中で気づかなかったようで、笑いながら信綱の顔に浮かぶシワを探していた。
「……父さん、老けたねえ。阿七の時に見上げた景色と一緒だけど、大違い」
「あれから四十年近く経っています。これでも若く見られる方ですよ」
日々鍛え続けた影響か、五十を超えた今でも信綱の肉体には力が宿っている。
衰えを感じたことは今もってなく。剣術も体術も、今この瞬間こそが全盛期であると確信していた。
とはいえ肉体の変化は避けられないものである。信綱の顔には歩んできた苦難を象徴するようなシワが刻まれていた。
「……頑張って来たんだよね、父さん。私がいない時も、いる時もずっと」
御阿礼の子がいない時間も当主としての役目を果たし、阿弥が生まれてからは激動の時代でもあった時間を駆け抜けた。
絶え間ない嵐の中で彼は幻想郷の誰もが認めるだけの輝きで、幻想郷の変革を成功させた。
もう十分だろう、という声が阿弥の脳裏に囁きかける。
彼は本当によく頑張った。理由がどんなものであろうと、彼の本質が何であろうと、成したことに貴賤はない。
いい加減休ませてやるべきだ。まだ彼を酷使するのか。阿弥の後ろめたい感情が首をもたげていた。
「……阿弥様?」
気遣わしげな顔の信綱が見下ろしてくる。ハッと阿弥は自分が信綱の頬に手を伸ばしたまま止めていたことに気づく。
笑ってごまかし、阿弥は手を下ろして頭で父と慕う者の体温を感じることに集中する。
「あはは、なんでもない。……ねえ、父さん。少し眠っても良いかな?」
「ここでは寝苦しいでしょう。言ってくだされば布団を用意しますよ」
「ううん、ここが良いの。私だけの特等席」
「……かしこまりました。私はずっとここにおりますから、心安らかにお休みください」
阿七に言った言葉と殆ど同じである。阿弥は面白そうに笑い、そして同時に否応なしに迫ってくる終わりについて思いを馳せていく。
(ごめんなさい、ありがとう――)
そして阿七が信綱に後を託した時と同じ感想を、阿弥もまた抱くのであった。
彼の歩みは、未だ止まることを許されてはいなかった。
出そう出そうと思って忘れていた萃香登場。ノッブと二人きりだと話が続かないので先生をぶち込む暴挙。
もういい加減、阿弥の時代は終わりを迎えます。恐らく残り一、二話で彼女は旅立ち、信綱は再び一人になるでしょう。本当に長かったなこの時代。
あとやるべきことはスペカルールの作成と、ノッブの政治活動の引退ぐらいです。
阿礼狂いは百年単位で生まれて来る御阿礼の子のために研鑽を積める一族なので無問題ですが、妖怪相手の駆け引きをノッブ一人が担う状況はあまりよろしくない。
そして私事になりますが、少々忙しくなってきたため更新ペースが落ちるかもしれません。ご了承をば。本当に遅くなる場合は活動報告の方に載せようと思いますので、よろしくお願い致します。