阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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阿礼狂いの真実

「それでは阿弥様、行ってまいります」

 

 稗田邸の玄関にて。信綱は懐へ大切そうに一冊の書物を抱えて、見送りに来てくれる阿弥に微笑みかける。

 

「うん。気をつけてね、父さん」

「ご安心ください。すぐに戻ってきますので」

「あはは、もう心配はしてないよ。阿七の時はすっごい心配したけど」

 

 幻想郷縁起を八雲紫に届ける。今日はそれが予定されている日だった。

 これが終わり、転生の準備が終了すれば彼女は本当の意味で自由になれる。求聞持の力は消えないが、それでも稗田阿弥個人としての時間が生まれるのだ。

 例え数年の命であっても、その価値に陰りはない。信綱も阿弥が幸福に過ごせるよう、全力を尽くすつもりである。

 

「あの時はご心配をお掛けしました。全ては私の未熟です」

「あ、ううん。父さんが悪いわけじゃないよ。阿七が過保護だっただけ」

 

 阿七の幻想郷縁起を届けた頃は信綱が十代前半だった時だ。異変や妖怪と戦う機会もなく、どこか張り詰めた平穏な時間が流れていた時代。

 力を示す必要もなく、それにまだ烏天狗一体すら満足に倒せなかった未熟な自分だ。体格も完成しておらず、阿七が心配するのも当然であると言えた。

 

 反して今はあの異変を乗り越えた信綱を心配する必要などない。幻想郷の人間では間違いなく最強で、妖怪を含めてすら最強の一角に至った彼にできないことなら、人里の誰もできないことになる。

 とはいえ阿弥に全く心配されないのもそれはそれで寂しいものがあるが、表には出さない。そんな私欲で阿弥を煩わせては阿礼狂いの名折れである。

 

「中は見ていけないのですね?」

「うん。紫様宛に手紙があるから、そっちは絶対に見ちゃ駄目」

「かしこまりました。それでは行ってまいります」

 

 阿弥が紫に何か聞くようなことでもあったかと首を傾げるが、すぐに考えるのをやめる。

 主への詮索など側仕えの分を超えている。自分はただ阿弥の忠実な下僕であれば良い。

 

「行ってらっしゃい、父さん」

「……一応念を押しておきますが、玄関で待っている必要はありませんからね?」

「し、しないよっ! 父さんの方こそ過保護なんだから!」

 

 阿弥と阿七が別人なのはわかっているが、阿七に前科があるのだ。信綱もそれを警戒せざるを得ない。

 時期も秋に近づく今日このごろ、玄関前は少々待ち続けるには寒い場所だ。

 阿七より身体が丈夫といえど、身体に悪い行いをして良いわけではない。それで倒れられたら死んでも死にきれない。

 

 とはいえそれを指摘された阿弥は心外だったのか、顔を真赤にして否定してくる。

 こう言われては信綱も信じるしかなかった。心配そうな顔で、しかし何かを言うことなく信綱は外に出る。

 

 少々話は変わるが、稗田邸から妖怪の山に向かうには交流区画を抜ける必要がある。

 天狗との交流が主体なのだから、彼女らがやってくる妖怪の山側に場所を設けるのは当然といえば当然の話であり、今や妖怪の姿を人里で見かけないことの方が少ないくらいだ。

 

 無論、何かと揉め事も起きる。人と人が集まっても騒ぎが起きるのだ。人と妖怪なら言うまでもない。

 そしてそれらをどうにかするには信綱のように妖怪を相手にできる人間を用意する――ことなどできるはずもなく、人出を増やして数で対応していた状態だったのだが――今は違う。

 

 橙に何か土産でも持って行こうかと思って甘い菓子を見繕っていたところ、視界の端に見慣れた白狼天狗の姿を確認する。

 彼女の話はすでに人里へ通してある。人間の数で対処する方法も限界が目に見えていた上、何より人里の治安を管理するのは信綱の仕事だ。信頼できて、なおかつ常人より強い存在とか大歓迎である。

 そんなわけで彼女は今現在、自警団の面々を何人か連れての見回りに精を出していた。畏れを得るという目的も忘れていないのか、その表情は普段の人懐っこいものとは違い凛々しいそれだった。

 

 一声かけようかと僅かに逡巡するが、仕事の邪魔をすることもないと思い直す。

 それに彼女なら千里眼で自分のことには気づいているだろう。

 彼女の目がこちらに向いていないことを承知で、軽く手を振る。それで十分である。

 そして信綱は橙が確か好物だと言っていた菓子を懐にしまい、待ち合わせ場所である妖怪の山へ向かうのであった。

 

 

 

 阿七の頃に一度行っているため、マヨヒガへの道自体は覚えている。覚えているが、マヨヒガにはどういった理屈か迷い人であるか、誰かに招かれなければ到着することができないらしい。

 そんなわけで待ち合わせの場所を訪れると、見慣れた小柄な少女がなぜか仁王立ちで信綱を待っていた。

 

「遅かったわね!」

「時間通りのはずだが」

「私が遅いって言ったら遅いのよ!」

「…………」

 

 何も言わず信綱は妖怪の山への道を歩き始める。彼女の相手をしているのは面倒で仕方がない。

 そんな信綱の背中を追いかけて猫耳の少女は山に入り――

 

 その首元に刀を突き付けられる。

 

「ふぇ?」

「あの化猫は俺に対して子分と親分という立ち位置を明確にしたがる。あと、俺より自分の欲望を優先する」

 

 干物を持っていった時も信綱より干物を優先したのだ。甘味を持っている現在、彼女が本来優先すべきは信綱の糾弾ではなく懐の菓子を要求することである。

 そしてそれをしなかった時点で、彼女は橙以外の誰かであると信綱が判断するには十分だった。

 

「あまり趣味が良いとは言えないな。八雲の式」

「……参ったな。今回は私であることを読み取らせないように本気で化けたんだが」

 

 橙の姿だった体は虚空に溶け消え、信綱の前に現れるのは道士服に九尾の八雲紫の式、八雲藍。

 何やら最近は人里で油揚げを買い求めて店の前にいる姿を見かけるらしく、割りと人里に馴染んでいる部類だと聞いている。

 声こそかけなかったが、信綱も大根と長ネギがはみ出た袋を持って歩いている藍を見た覚えがあった。

 

「なぜお前は会う度に俺を試そうとする」

「本気で化けたと言っただろう。今回は真剣勝負のつもりで臨んださ」

「…………」

「ああ、うん。悪かった。勝手に悪戯してごめんなさい。だからこの喉元に突き付けてある刃を離してくれるとありがたい」

「…………」

「本当に悪かったと思ってるから!? 様々な大妖怪を打ち倒した君の実力を見てみたかっただけなんだ!」

 

 顔を確認できない背後で無言を貫くのはやめてほしいと思う藍だった。

 信綱は藍の謝罪が本当であると判断したのか、刀を収めてしかめっ面をする。

 

「お前は節度のある方だと思ったんだがな。どうにも違うらしい」

「強い人間を見ると試したくなるのは妖怪の習性みたいなものなんだ。済まないね」

「八雲の式がこれでは主の程度が……いや、なんでもない」

 

 嫌味を言おうと思ったのだが、八雲紫が意外と物事を適当に考えているのを知っているため、無駄になると思って引っ込める。

 藍はその様子に首をかしげるも、気を取り直して信綱の案内を始める。

 

「ちょっとケチがついてしまったが、マヨヒガへ行こうか。今代の幻想郷縁起は紫様もしっかり見る必要がありそうだ」

「お前たち妖怪が騒ぎを起こしたおかげでな。俺は大忙しだった」

 

 そして外来の妖怪であるレミリアのことや、再び地上に現れた鬼の知識など、阿弥の書く内容が多くなってしまった。

 尤も、御阿礼の子にとって自身の幻想郷縁起が充実するのは嬉しいようでニコニコしながら作業していたため、信綱に文句は言えない。

 

「ははは、物事というものは過ぎてしまえば良い思い出になるものさ。ところで、最近の人里では天狗が見回りをしているのか?」

「なんだ、スキマから聞いていないのか? 畏れを確保するために治安の維持に天狗をいくらか借りているんだ」

 

 信綱から見れば雑兵でも、常人から見れば恐るべき妖怪だ。良き隣人になりつつある今であっても、彼らとの力関係は何の変化もない。

 治安の維持という方向で、彼女らの力を人間に知らしめる場を作る。そうして畏れの獲得を目指す魂胆なのだろう。

 そのことを話すと、藍は興味深そうに何度もうなずく。

 

「ほう……、さすがは幻想郷での一大勢力といったところか。数が多ければ社会が形成されるという点で、人間と天狗は極めてよく似ている」

「言われてみれば、まともな社会を構築している妖怪は天狗ぐらいだな」

 

 天狗の仲間意識の強さもある意味異端なのかもしれない。信綱の知っている妖怪たちは大体が一匹狼気質というか、極めて少数の身内さえ良ければ他はどうでも良いと言うような連中が多い。

 ……類は友を呼ぶという言葉が頭をよぎったが、気にしないことにする。

 

「地底を含めればわからんが、地上ではそうなるな。実際、妖怪と人間の交流は幻想郷でも前例がない。私も紫様も、興味深く見守っているよ」

「そうかい」

 

 話を切って、信綱はさっさと歩き出す。後ろから藍が付いてくるが、何かを言う気配はなかった。

 紫にはいい加減、表舞台に出てこいと言っているのだが、今でも音沙汰は聞かない。

 いや、天魔はスキマの主導で集まる用事があるとか言っていた。その準備に追われているのかもしれない。

 

「……マヨヒガにはお前の案内がなければ入れないのではないのか?」

「私がついていれば問題ないよ。そう山奥に作っているわけでもないからもうすぐ到着する」

「そうか……む」

 

 薄暗い獣道を歩いていると、不意に視界が開けて広い場所に出る。

 人里の一角か何かだと勘違いしてしまうほど、この場所は妖怪の山に相応しくない穏やかな空気をまとっていた。

 柔らかく降り注ぐ日差しが目に眩しい。目を細めて歩くと、視界の端に見慣れた緑の帽子が見えた。

 

「あ、甘いもの!」

「やはりお前はそう来るか」

「痛い痛い! 会うなり耳引っ張るのはやめなさいよー!!」

 

 それなら会うなり人ではなく菓子に目が行くのをやめて欲しいものだ。

 橙の耳を引っ張るのがもはや一種の予定調和のようになってしまった。いくら言っても聞かないのは困ったものである。

 後ろの藍の目が怖くなってきたところで耳を引っ張るのをやめ、涙目で下がる橙に懐の菓子を差し出す。

 

「ほら、大事に食べろよ」

「やった! あんた、私の大好物を押さえるなんてわかってるじゃない!」

「……偶然だろう」

 

 言葉少なにそれだけを言って、信綱は話題を変える。

 こちらに近づいてくる彼女は汗の滴が光っており、服もところどころがほつれていた。子分の猫と遊んでいたと考えるには少々過激に過ぎるだろう。

 

「その格好はどうした」

「あ、忘れてた! 藍さま、言われていた修行をやっておきました!」

「うむ、偉いぞ橙。あれをやり遂げるとは成長したね」

「えへへへへ……」

 

 藍に頭を撫でられてふにゃりと相好を崩す姿に、信綱はいささか以上に驚いた様子になる。

 

「お前……本当に修行していたんだな」

「ホント失礼ねあんた! 最初に会った時とは大違いだってこと見せてやるわ!!」

 

 飛びかかってきたので紙一重で身を捻って避けて、すれ違いざまに襟元を掴んで持ち上げる。

 

「ふぇっ!?」

「百年早いな。お前だけが努力しているわけじゃあない」

「この、離せぇ!」

 

 ジタバタと暴れるので、藍の方に放る。空中で軽やかに身を翻して着地する様は、さすがに化け猫と言うだけはあった。

 だが当人にはそんなことどうでも良いようで、悔しそうに地団駄を踏んで藍の方に向かう。

 

「藍さま、次の修行をお願いします!」

「え? いや、さっき言いつけたやつを終わらせたのならもう休んでも――」

「お願いします! あいつをギャフンと言わせられるやつで!」

「そ、それは私でも難しい気がするが……」

 

 チラ、と藍の視線が信綱に向く。申し訳なさそうに伏せられたその視線の意味は、橙の相手をしても良いだろうかという確認だ。

 小さく首肯して了承の意を示す。ここまで来れば後は八雲紫に幻想郷縁起を渡すだけなのだ。別に藍と橙の案内は必要ない。

 

「せいぜい気張れ。俺は俺でもっと強くなるが」

「今に見てなさいよ!!」

 

 ビシっと信綱を指差し息巻く橙を尻目に、信綱は館の中へと入っていくのであった。

 

 

 

「なるほど、ああやって橙を炊きつけていたのね」

 

 かつて案内された部屋に入ると、紫が微笑みながら座っていた。

 信綱も対面に座りながら、肩をすくめる。

 

「さて、なんのことかわからんな」

「やっぱり相手がいると張り合いも出るから私としてもありがたいわ。ありがとうね」

「……お前、本当にスキマか? 素直すぎて怪しい」

「あなたが表に出ろって言ったんじゃないの!? 素直になったらそれは酷いわよ!?」

 

 日頃の積み重ねが原因だと思ったが、涙目になっている紫を見るとそれを指摘する気にはならなかった。

 

「まあそれはさておき。天魔がお前のことを話していたぞ」

「無視!?」

 

 聞こえないフリをして話を切り替える。紫は無視されたことに大仰なため息をつきながらも、信綱の話に合わせてきた。

 

「ええ、まあ。私なりに吸血鬼異変から連なる異変について考察してみましたの」

「ふむ」

「あなたたちが頑張った結果については言うまでもないけれど……、問題視しているのは原因。原因の究明ができなければ、またいつか同じような異変が起きるかもしれない」

「道理だな。いつまでも俺のような人間はいないだろう」

 

 そうポンポン生まれては妖怪側が困ってしまう、と紫は思っていたが口には出さない。

 正面からの実力勝負で鬼の首魁を薙ぎ倒すような人間、万年に一人生まれれば良い方である。

 

「いくつか考えてみて、そこで私は失策に気づいたのよ」

「失策?」

「ええ。――私一人で考えても、ロクな結果にならないってこと。だから天魔もレミリアも、今後の幻想郷に関わる皆で話し合おうと思ったのよ」

 

 かつて彼女の選んだ不干渉という在り方の間違いを認め、紫は苦笑いを浮かべていた。

 しかしそう言った彼女の表情にはどこか清々しいものもあって、信綱はそれを見て静かに口を開く。

 

「――最初からそうしていれば色々と楽に進んだのだ、馬鹿め」

「少しは優しくしてくれてもいいでしょう!?」

 

 結構良いことを言ったと思った紫だったが、肩を落として大きなため息をつく。

 この男に優しさとかそういったものを期待するだけ間違っていた。紫は大きな咳払いを一つして、強引に話題を戻す。

 

「と、とにかく! 今後の幻想郷に必要な掟を改めて決める必要があるのよ。時期が来たら私が直接赴くから、そのつもりでいて頂戴」

「それはわかった。……では、今日の本題に入ろうか」

 

 信綱は懐に収めてある幻想郷縁起を紫に渡す。

 

「聞いているとは思うが、阿弥様が作成した幻想郷縁起だ。校閲を頼む」

「ええ。……この時代は色々とあったから、さすがに厚みが違うわね」

「阿弥様は充実したお顔だった。俺から言うことは何もない」

 

 とはいえ、対処に当たった信綱は散々な目に遭ったので、二度と起きてほしくないという思いもある。

 御阿礼の子が望んだら? 彼女らの願いを叶えることが阿礼狂いの喜びだ。言うまでもない。

 

 紫が阿七の時代よりも遥かに分厚い縁起をパラパラと斜め読みするようにめくっていく。

 と、そこで間に挟まっていた紙がハラリと机の上に落ちる。

 

「あら、これは?」

「阿弥様からお前への手紙だ。俺も中身は知らん」

「見てもよろしいかしら」

「好きにしろ」

「では遠慮なく」

 

 封を切ってその中身を見て――紫の表情が消える。

 信綱と話し、幻想郷縁起を見ている時は親しい友人と一緒にいる時のように、どこか朗らかな雰囲気をまとっていたが、その面影がどこにも見られない。

 それだけの内容が書いてある手紙だったのか、と信綱は首を傾げる。

 

「何が書いてあった?」

「……言えないわ。阿弥はきっと、あなたに知られることを望まない」

「……そうか」

 

 そう言われては引き下がるしかない。自分と関係している何かを阿弥が求めているのは明白だが、それを教えるつもりはないようだ。

 

「だったら今のうちに行け。俺が戻った後は阿弥様の安全のためにも、側にいる必要がある」

「……良いのかしら?」

「俺が知るのは望ましくないんだろう。……ただ、阿弥様に一つだけ言伝を頼む」

「承りましょう。必ず伝えるわ」

「――俺はいついかなる時でもあなたの幸せを願っている、と」

 

 紫は無言でうなずき、スキマの中に消えていく。

 一人残された信綱はそっと息を吐くと、自らの胸に片手を当てた。

 

「……阿弥様、私ではあなたのお力になれないのですか」

 

 

 

 

 

 阿弥は一人、墨の香りがする自室で正座をして待っていた。

 信綱はおらず、女中たちの足音もどこか遠く。障子も閉め切って淡い日光が入り込むだけの、時間がゆっくりと流れるような空間。

 そんな中で阿弥は微動だにせず正座をしていたと思うと、おもむろに口を開く。

 

「……お待ちしておりました。紫様」

「……ええ、来たわ。阿弥」

 

 阿弥の前にスキマが開かれ、そこから幻想郷の管理者である八雲紫が姿を現す。

 紫の表情には感情が排されており――それでも隠し切れない、罪を懺悔するような後悔の色があった。

 

「いつか来るとは思っていたわ。ずっとあなたの側にいてくれる人間の一族なんて、疑問に思わないはずないもの」

「今まではそれに甘えて来ました。転生する度に人間関係が消える中、変わらずいてくれるあの人たちの思いはあなたの想像以上に心地が良かった」

 

 妖怪と人間の付き合いのように、形を変えて関係が続くというわけではない。

 転生の周期は本来百年以上。それだけの時間が空けば、御阿礼の子らにとって人間関係とは全て白紙に戻るようなもの。

 その中で変わらない人間がいる。それがどれほどの慰みになったか、紫でも想像することしかできない。

 紫は瞑目し、話すべき内容をまとめ、ゆっくりと口を開いた。

 

「……後悔はしないのね?」

「ええ。このまま何も知らないことが、私にとっては一番辛い」

「わかりました。ならば私もあなたの決意に応えて――話しましょう」

 

 

 

 ――阿礼狂いの起源を。

 

 

 

 

 

 事の始まりはそう珍しいものでもない。

 稗田阿礼から始まった幻想郷縁起の編纂。当時は人と妖怪が殺し合うことが当たり前のようにあった幻想郷において、その本の意義と制作の危険は群を抜いていた。

 

 様々な面で未熟かつ危険な世界であった幻想郷。そして妖怪退治屋は数こそ多かったものの、危険極まりない妖怪の領域にまで踏み入れるほどの手練はいなかった。

 幻想郷縁起の編纂者である稗田阿礼の安全確保は急務だった。彼女の血が途絶えたら、妖怪の情報をまとめるものがいなくなって遠からず、人間の絶滅という形で幻想郷が終わる可能性が高い。

 紫や博麗の巫女が表立って守るなんてこともできない。妖怪の力が圧倒的だったあの時代、下手に刺激をすれば紫ですら危うかった。

 

 故に作ったのだ。あの当時、稗田阿礼の従者をしていたある男の魂に仕掛けを施し、転生を繰り返す御阿礼の子に付き従い、守り続ける人間を。

 

「……それで、あの人たちが?」

「いいえ。こんなのはまだ序章よ。……確かに術は私が施した。誓っても良いけど、双方合意の話よ」

 

 ここまでは良かった。いや、ここまでしか紫の思惑通りに進まなかった、と言うべきか。

 自嘲する笑みを微かに浮かべ、紫は話を続けていく。

 

「これは魂に働きかける術。個人だけに留まらず、その子々孫々に連なる後の世代にまで影響を及ぼすもの。……でも、私が施したものは今の彼らのようになるものではない。せいぜいがほんの少しあなたのことが気になる程度のもの」

 

 個人だけならば、今の阿礼狂いのように変貌させることも紫にとって難しいことではない。だが、子々孫々にまで影響を与えるとなると難易度は跳ね上がる。

 まして魂に働きかける術。八雲紫にとってもそれが限界だったのだ。

 

 人は存外無意識下のささやきを大切にする。なんだかよくわからないが、この子は守りたい。そんな気持ちにさせる程度でも、御阿礼の子を守るには十分であると判断していた。

 そもそも、彼らに求めているのはいざという時の盾といった使い捨てのもの。所詮は人間なのだ。完璧に御阿礼の子を守れと言う方がどうかしている。

 

「……思えばあの時からずっと、あの一族には振り回されっぱなしなのね」

「あの、それでは父さんたちが今の姿になったのは、紫様の仕業ではないと?」

「事の発端に私がいるのは事実よ。切っ掛けは私が最初」

 

 しかし、こうも思うのだ。結果論でしかないことは重々承知だが、彼らは紫が自身に術をかける瞬間を待っていたのではないか、と。

 あるいはそんなものがなくても、彼らは自分で狂っていくことができたのではないかと。

 

「……慮外のことが起こったのは、初代の火継に術をかけてからよ。彼らは独自に私のかけた術を解析すると、それの深度を自ら深めていった」

「御阿礼の子に感情を向ける術を、自分たちの意志で強めていった……?」

「どうやったのかは私にもわからない。でも、気がついた時には彼らは狂っていた」

 

 紫が術をかける前から、初代の火継は阿礼に狂っていたのかもしれない。

 そうなると紫の申し出は渡りに船だったのだろう。自分の狂気を自分一代だけで終わらせることなく、延々と継いでいけるのだから。

 

 そして紫にとっては都合の悪いことに初代には才能があった。現代の信綱のように人の身で並み居る大妖怪を打ち倒せる程ではないが、紫の術を解析して改造を施すことができた。

 あとはもう同じことの繰り返しである。世代をまたいで術の深度を徐々に深めていき、そしてそれは遠からず好意から狂気へ変貌する。

 そうしていつしか、御阿礼の子の側仕えを宿命付けられた彼らは阿礼狂いと呼ばれるようになったのだ。

 

「気づいた時には術は見る影もないほどに変わり果てていた。もしかしたら魂の在り方も変質して、何かしらの変化があったかもしれないけど、そんなものはあの狂気の前には些事でしかない」

「……では、もう紫様の手であの人を元に戻すことは……」

「不可能よ。あれはもう私の手から離れた術に成り果てている。下手に手を出したらどうなるかわからない」

 

 狂気が変質するか、あるいは魂が負担に耐え切れずに自壊するか。その中で常人に戻る可能性を考えるなら、それこそ奇跡の領域になるだろう。

 

「そうして狂気に落ちた人の一族が生まれ、御阿礼の子に付き添って守り続けるようになった。時に妖怪を、時に身内すらも手にかけて」

「それが、あの人たち……」

 

 紫は話を終えると、静かに阿弥へ頭を下げる。

 

「――本当にごめんなさい。あの時、私が術さえかけなければ彼らが狂人になることはなかったでしょう」

「あ、頭を上げてください!? 私、紫様に感謝こそすれ、怒るつもりなんて毛頭ありませんから!」

「……だけど、彼らの狂気に私が一役買ったのは事実よ」

 

 結果的に火継信綱という稀代の才人が生まれ、幻想郷は良い方向に変化した。

 だが、あくまで結果論でしかなく。また彼も火継以外の家に生まれていれば、というたらればは残る。

 

「……どうやら、あなたを悲しませる答えになってしまったようね」

「いいえ。――いいえ。おかげで私も決心がつきました」

 

 紫の謝罪に阿弥は微笑みで答える。

 これで知りたいことは全て知ることができた。ならばこれからどうすべきかも自ずとハッキリする。

 

「……このことは父さんには黙っていてください。私がそんなことを聞いたと知れたら、あの人は全部理解してしまうでしょうから」

「わかっていますわ。私も彼を相手に騙し合いはしたくないもの」

 

 そう言って紫は苦笑する。初めて会った時は取るに足らない少年だった者が、今となってはずいぶんと大きくなったものである。

 

「だけど、あなたはどうするつもりか聞いても良いかしら」

「……このまま父さんと一緒にいます。私はあの人に笑っていて欲しい」

「そのためにはあなたも幸せである必要があるのよ? 伝言になるけど、彼はいつだってあなたの幸せを願っているんだから」

 

 念を押す紫に阿弥は微笑み、高らかに自らの恋を唄う。

 

「もちろん。――私は父さんが大好きですから」

 

 その姿を見た紫は微かに目を見開き、阿弥が信綱へ抱いている感情を理解する。

 しかし、紫が阿弥に抱いた感想は違う、というものだった。

 ならばそれを指摘しよう。彼女の持つ感情は恋ではなく――

 

 

 

「あなたのそれは愛と言うのよ。阿弥」

 

 

 

 言葉の意味を理解して頬を赤くする阿弥の姿を見て、紫はそっと忍び笑いを漏らすのであった。




前の話の後書きで言おうと思っていたのですが、忘れていたことを一つ。

IFENDで阿弥ルートをどこかで書きます。あまり詳しくは言えませんけど、文字通りのEndingになるので、本編をそのルートにするわけには行きません。ご了承ください。

あとはノッブの家の真実。ぶっちゃけ知らなくても良い情報です。なぜ載せたか? 書きたかったからだよ!(身も蓋もない)
ゆかりんが崖下へ背中を押したけど、自分から飛び込んで崖下の地面を掘り進める勢いで突っ込んだのはノッブのご先祖様という真相。

そして阿弥の恋はいつの間にか愛に昇華されていた。指摘したゆかりんは恋をしたことがあるのか? と思ったあなたはスキマ送りです。

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