幻想郷縁起――端的に言ってしまうなら、幻想郷における妖怪図鑑のようなものである。
但し幻想郷では妖怪に出くわすことはそう珍しいことではない。なので名前だけ知っていては何も出来ないのだ。
そこで各妖怪への対処法などを調べ、載せる。その上で被害が出た際に頼るべき人間――英雄も載せる。そうして作られる書物なのである。
尤も、大半の英雄は博麗の巫女に固定されており、英雄の欄はほとんど当代の博麗の巫女に関することだけなのだが。閑話休題。
さておき、この幻想郷縁起の編纂こそが御阿礼の子に課せられた使命であり、その半生を賭して作られるものとなる。
そうして完成した幻想郷縁起はスキマ妖怪の手によって検閲させられ、あまりに人妖の均衡を崩しかねないものなどを改めて編集される。
言うなれば御阿礼の子が執筆。スキマ妖怪が編集といった形で作られる本なのだ。
必然、御阿礼の子が書き上げた幻想郷縁起はスキマ妖怪が確認する必要があるわけで――
「ノブ君、本当に大丈夫? 私もついていった方がいいんじゃあ……」
持っていくのは側仕えである信綱の役目なのだが、阿七は心配ばかりしているのが現状だった。
幻想郷縁起を懐にしまい、出立の準備を整えていると阿七が不安そうな顔で玄関まで来て見送りに来ていた。
その気持ちは嬉しかったのだが、体調の悪化しつつある現状、床からなるべく出ないで欲しいというのも本音であり、信綱としては複雑な心境だった。
仕え始めて七年。寺子屋も卒業し、阿七と背丈も並び始め、小太刀から脇差に持ち替えて見栄えも相応にするようになったというのに、子供扱いは今でも変わらない。
「いや、阿七様を山に連れて行くわけにはいきませんよ。危険過ぎます」
「ノブ君はいいの?」
「私はそれが役目です。大丈夫ですよ。傷一つ負わないで帰ってきますから」
むん、と力こぶを作る仕草をする。まだまだ子供らしい細い腕だが、そこに詰まっている力は大の大人を軽々と凌ぐ。
ついぞその力を阿七の前で披露することはなかったが、それで良いのだろう。主の危険を振り払うのが役目だが、危険などないに越したことはないのだ。
が、それゆえに阿七の信綱への印象は出会った頃と変わらず、弟みたいな存在のままなのだろう。そこはもう仕方がない。
「じゃあ……気をつけてね? 危ないと思ったら帰ってきて良いから、無理だけはしないでね。私は幻想郷縁起よりも君の方が大切だから」
「過分なお言葉、ありがとうございます。ですが、あなた方御阿礼の子が代々受け継がれてきた縁起の編纂も大切にしてください」
「……良いのよ。幻想郷縁起が必要とされる時代はもうすぐ終わるわ。だってほら、最近は妖怪の被害なんかもほとんど聞かないでしょう?」
側仕えを始めた頃から、少々青白さを増した阿七の頬がゆるやかに笑みの形を作る。
自分の役目が必要とされなくなりつつある悲哀と、人里が平和になっていく喜び。双方が等分に混ざった笑みだった。
「……それでも、私にとって幻想郷縁起は世界で一番大切な人が、一番時間をかけて書き上げた大切な本です。粗雑に扱うような真似はいたしません」
「ありがとう。そう言ってくれる人が一人でもいると、私も嬉しいわ」
ふわりと信綱の身体が阿七の華奢な腕に絡め取られる。
背が並び、阿七の頬が自分の頬に当たる温もりを心地良く覚え、信綱もされるがままになる。
「……阿七様、そろそろ行ってまいります。部屋にお戻りください」
「……ん、ありがとうノブ君。そろそろノブ君も恥ずかしいお年ごろかな?」
困ったように笑ってごまかす。そして羞恥を振り払うように信綱は阿七から離れ、出発するのであった。
スキマ妖怪の住処は知られていない。そのため、向かうには案内が必要となる。
なので信綱は阿七に教えられた、人里から少し離れた場所に行ったのだが……。
「…………」
「……なにさ」
いたのは信綱よりも更に子供っぽい、猫の耳を持つ子供だったのだ。どう見ても妖怪である。
いや、妖怪が案内であることに驚いているわけではない。むしろスキマ妖怪へ案内する存在が人間だった方が驚くだろう。
しかし、一見すると子供にすら見えるこの少女に頼んで大丈夫なのだろうか、という懸念が信綱の胸中に渦巻く。
……が、それを言ったら自分だって人のことは言えない。気を取り直して声をかけることにした信綱であった。
「幻想郷縁起を持ってきたんだが……スキマ妖怪のところまで案内してくれるのはお前か?」
「そうよ。八雲藍さまの式であるこの橙さまが、お前の案内をしてあげるわ!」
ふんぞり返るように胸を張る少女。どこからどう見ても歳相応の子供にしか見えなかった。
「そうか。その八雲藍とやらがスキマ妖怪なんだな?」
「ん、違うわよ? 藍さまは紫さまにお仕えしてる式神だもの」
「……じゃあお前はなんなんだ」
「藍さまの式だって言ってるじゃない。頭悪いの?」
「…………」
メッチャ腹立つ。
子供のような言動のこの妖怪にバカにされるのは、とてつもなく苛立つことを信綱は心の底から理解した。
だがおおよそ、この少女の置かれている立場は把握できた。要するに――
「スキマ妖怪の孫みたいなものか」
「……それ、紫さまの前では言わない方がいいわよ」
恐ろしい物を見たように青ざめる橙。過去の思い出を振り返っているのだろう。
「わかった。本人には言わないことにする。……で、案内はしてくれるのか?」
「ふっふっふ、それをして欲しければお願いします橙さまと崇め奉るように言うが良い――ああ、待って待って帰らないで! 案内しないと私が藍さまに怒られちゃう!」
「始めからそう言え。行くぞ。こっちは阿七様のためにも早く帰りたいんだ」
「あ、待ってよーっ!」
このお調子者の妖怪がスキマ妖怪の住居に到着するまでの相棒になるらしい。
控えめに言って前途多難である。しかもこれから向かうのは妖怪の山であると言うのだ。不安は加速する。
いざとなったらこいつ見捨てて自力でたどり着こう、と心に決めて信綱は橙と共に山に入っていくのであった。
慣れた足取りで山中の獣道を歩く橙に、信綱は苦もなく着いて行く。
「よく知っている場所なんだな、向かう場所ってのは」
「まあね。マヨヒガって言えばわかる?」
「ん……確か訪れた者が中にある物品を持ち帰ると、富が得られるという場所だったか」
過去の幻想郷縁起を思い返し、記憶を掘り起こす。とはいえ、それ自体が人に害をなす類ではなかったので、危険度は高くなかったはずである。
「あそこに私は住んでるの。いわば幸運の招き猫ね」
「はいはい幸運幸運。……スキマ妖怪は住んでるのか?」
「ううん? 紫さまは別の場所に住んでるよ」
「おい」
それではこれから向かう場所にいない可能性が高いではないか。
「縁起を見る時、っていうか人間の相手をする時はマヨヒガに来るの。紫さまのお住いはどこにあるかわからない方が良いんだって」
「ふむ。さすがは幻想郷の創始者、か……」
底の知れない話である。信綱は軽く肩をすくめて八雲紫への話題を切り上げる。
どうせこれから会うのだ。礼を失するつもりはないが、相手は妖怪。何をしてくるかなどわかったものではない。
「ところで、あんた結構やるわね。人間は山道には慣れてないと思ってたわ」
「他の人にはしないようにしろ。俺はそこそこ山道に慣れてるだけだ」
俺、という舌の響きにまだ慣れない信綱。だが、これも侮られないための一策である。
阿七の前で使おうとすると泣きそうな顔をされるため、私という一人称でお茶を濁しているが。
「ふぅん。最近は人間が山に入っても襲われないもんね。あんたみたいなの、結構多いの?」
「そうでもない。俺はたまたま事情があっただけだ」
椿と椛、二人の天狗との鍛錬もあるので、信綱は頻繁に山に出入りしている部類だった。それ以外にも山魚を釣りに行ったり、薬草を採取したりと、妖怪の山にほど近い場所に関してはかなり詳しい。
「そう。あ、じゃあさじゃあさ……」
ペラペラと橙の口は止まることを知らないように動く。
信綱はうんざりしながらも話を合わせていた。人と妖怪が共存している、と言えば聞こえは良いが、ここ最近で人間と妖怪が交流を持ったという話は聞かない。
この橙という妖怪も人間との対話に飢えていたのかもしれない、と思えばまだ受け入れられる話だった。
と、そんな時だった。
「――」
「――気づいたか」
橙が足を止め、信綱も同時に足を止める。
「うん、多分妖怪。獣の足音だけど、僅かに妖力を感じる」
「今初めてお前が妖怪だと実感したぞ」
「ひどい! って、あんたもわかるの?」
「この程度の気配もわからずに阿七様を護れるか」
二人が気づいているのが向こうにもわかったのだろう。ゆっくりと威圧感を放つようにその巨体――灰色の毛並みを持つ狼が姿を現す。
唸り声をあげ、薄暗い森の中で爛々と輝く紅い双眸が信綱と橙を射抜く。
橙は腰を低くし、いつでも飛びかかれる体勢を作って口を開いた。
「……あんた、この道を真っ直ぐ行きなさい。そうすればマヨヒガに着くはずだから、そこで藍さまを呼んできて」
「そんなに強いのか?」
「強くない。藍さまと比べれば月とスッポンだけど……わたしだと万一がある、かも」
橙の手から妖術の炎が生み出され、威嚇の意味も込めて強く燃え盛る。
しかし、通常ならば火を恐れる獣である狼に恐れはなかった。瞳に浮かんでいる感情は侮蔑であり、確かな知性と妖怪の力を兼ね備えていることを確信させるもの。
(確か、白狼天狗は長い間生きた狼が化生したものだったか。……となると、こいつは椛の一歩手前ぐらいか?)
あるいは、獣性を捨て去っていないが故の凶暴さもあるかもしれない。理性があって対話を望む存在よりも、その理性を本能を満たす手助けに使う相手の方が怖いように。
「早く行きなさいよ! 人間なんてどうなってもいいけど、あんたは幻想郷縁起を届けるんでしょ!」
信綱が動かないことを、目の前の妖怪に恐怖していると思ったのだろう。橙が子供らしい甲高い声で檄を飛ばす。
「……信じられんな」
ため息を一つこぼし、信綱はふらりと前に一歩を踏み出し獣の前に近寄っていく。
「お前の討ち漏らしを警戒して走るくらいなら、ここで倒した方が後顧の憂いもなくなるというものだ」
「バカ言ってんじゃないわよ、妖怪なのよ! 甘く見なくても人間なんて簡単に死ぬのよ!! 早く逃げ――」
橙の言葉は最後まで続かない。妖狼が信綱の柔らかな喉笛を噛みちぎらんと、跳びかかっていたのだ。
妖怪である橙にもかろうじて目で追える程度。当然、人間の信綱が追える道理などない。
とっさに手を伸ばしても間に合うはずがなかった。
一瞬の後に訪れるであろう、愚かな人間の喉笛に獣の牙が突き立つ瞬間を見たくないと、橙は目を瞑る。
どうでもよいと言っている人間相手に妖怪が見せる反応ではないが、同時にそれが橙という化け猫の優しさの証明でもあった。
しかし、彼女の危惧した瞬間が訪れることはなく――
「そら、終わったからさっさと行くぞ」
「はぇ……?」
目を開けた橙の視界に飛び込んできたのは、首が落ちた妖狼の死体と、その横に佇む信綱の姿だった。
さらに信綱は橙の見ている前で刀を振りかぶり、振り下ろす。それで狼の胴体が縦一文字に断ち割られる。
「なんだ、再生はしないのか。もう少し切り刻む必要があると思っていたんだが」
斬られた身体が燃えていき、灰が空気に溶けていく様を一瞥し、信綱はつぶやいた。
「んん?」
「どうした」
「んー……いや、それよりあんた本当に人間!? なんで妖怪倒してるの!?」
橙が僅かに不思議そうな顔をしたが、それより目の前の驚きを優先したのだろう。信綱に食って掛かってくる。
「別に不思議ではないだろう。幻想郷縁起の編纂には妖怪の知識が必要不可欠なのだから、御阿礼の子は妖怪の領域に足を踏み入れることだってある。だったら側仕えの俺が妖怪に伍する力を持ってなくてなんとする」
とはいえ殺す気の妖怪を相手にした経験はなかったので、事実上の初陣だったのだが、そこは黙っておく。
他者の害意や殺意程度で揺らぐような精神は持ち合わせていない。生まれた頃より御阿礼の子が至上という価値観が完成しているのだ。
「うーん……納得行かないけど、あんたは特別強くなろうとしてるってことね。気に入ったわ! うちの猫を持ってってもいいわよ!」
「猫の毛は阿七様の肺に良くないからいらん」
「阿七様阿七様! あんたそれ以外ないの!」
「あるわけないに決まってるだろう。誰にもの言ってるんだ」
にわかに騒がしくなりながら、二人は歩みを再開するのであった。
鬱蒼と茂る森の中を歩き続けていると、ふと視界が開けて目に入る光量が増し、ポツンと立っている一軒の家屋が見えてきた。
玄関前には道士の着るような服に身を包み、九本の尾をふさふさと動かす少女の姿があった。
「あ、藍さまーっ! ちゃんと案内してきましたっ!」
その少女の姿を捉えるや否や、隣を歩いていた橙が駆け出して少女の前に弾む足取りで立つ。
一方の信綱は微かに眼光を鋭くし、なるべく侮られないような振る舞いを意識しつつ橙の横に並ぶ。
「八雲紫の式、八雲藍とお見受けする。自分は火継信綱。当代御阿礼の子である稗田阿七様の側仕えを任せられている者だ。本日は阿七様の作成した幻想郷縁起を見てもらいたく参上した次第だ」
「ふむ。ああ、縁起は出さないでいい。紫様にお見せしてやってくれ。ともあれ、よく来てくれた。紫様の元へ案内しよう。橙、ここからは私の仕事だ。お前は外で遊んでおいで」
「はい、藍さま! あんたも後でね!」
「そっちも。……一応、案内は感謝しておく」
目を丸くする橙を尻目に、信綱と藍はマヨヒガの中に入っていった。
木張りの廊下を歩いていると、藍が前を向いたまま口を開く。
「橙に気に入られたようだな。出来るならこれからも仲良くしてやってくれ」
「生活圏が違うからなんとも言えない。人里に妖怪が入っていけないのは知っているだろう」
「……そうだな。由々しき問題だ」
ふぅ、と頭痛を堪えるようにため息を零し、藍は歩みを再開する。
その背中に今度は信綱の方から疑問を投げかけることにした。
「妖怪と人間が領域を分けて暮らすことに、何か問題があるのか」
「……君は妖怪が何を糧に生きているか知っているか?」
「人間の畏れ。そう聞いている。……ああ、なるほど」
ここ数年どころか、信綱が生まれた頃から人里での妖怪の被害は激減していた。あっても山から降りてきた獣が畑を少々荒らした程度のもの。
信綱は妖怪に命を狙われたり、貞操を狙われたりと色々危ない目に遭ったことがある……というより、現在進行形でそれは続いているため、妖怪を脅威に思う気持ちがある。
だが、一般の人々はどうだろう。信綱の友人である勘助や伽耶と言った同年代の子供たちは、妖怪の姿を見たことすらないのでは、と思ってしまう。
「察しが良くて何よりだ。畏れがなくなりつつあり、妖怪が力を失い始めている。動く気力がなくなれば皆、自分たちの縄張りから動かなくなり、余計に人間は妖怪を畏れなくなる。悪循環だ」
「ふむ……」
阿七の言葉を思い出す。妖怪の対処法が書かれた幻想郷縁起は、もう必要とされなくなりつつあるという話だ。
人里の人間からすれば、妖怪の脅威がなくなることは歓迎すべきものである。しかし――
(……御阿礼の子が不要になる時が来るのか?)
縁起の編纂が必要なくなったら。彼女らはどうなるのだろうか。
短命の呪縛から解き放たれるのか。それとももう――転生しなくなるのか。
「……っ」
背筋から悪寒が広がり、思わず身震いする。考えたこともなかった。御阿礼の子がいなくなる時など。
歴代の火継が御阿礼の子の短命に挑み、諦めていった理由にも理解が及んだ。
恐れたのだ、彼らは。今ある状況を下手に弄って、転生の仕組みに悪影響が出てしまうことを恐怖したのだ。
「ん、どうした? 身体でも冷えたか?」
「……少し、人妖の関係について考えを巡らせていただけだ」
阿七のために何かをしたい。それは本心だ。だがもし、彼女が転生を望まない時があったら、信綱はどうするつもりだったのか。
わからなかった。その願いを叶えるべく奔走していたのか。それとも思い直すよう説得していたのか。
御阿礼の子が全てであるが故の阿礼狂い。ならば――御阿礼の子がいなくなったらどうなる?
「ほう、人間のお前も考えてくれるか。いや、嬉しいことだ。とはいえ、従来通りの関係では何も変化がなく、いずれ人間が滅ぶか妖怪が滅ぶかの二択になってしまう。どうしたものか……っと、ここが紫様の部屋だ。くれぐれも粗相のないように」
藍という九尾の少女は信綱の答えに機嫌を良くしたように語り始めるが、信綱の頭の中は御阿礼の子で埋め尽くされていた。人妖の関係というのも御阿礼の子が関係しているから考えているだけだ。
しかしそんな信綱の思考など藍には知る由もない。上機嫌に尻尾を揺らしながら、襖の向こうにいるであろう主に声をかける。
「紫様。幻想郷縁起を持つ者が到着いたしました」
「通して頂戴。それと藍は下がって」
「かしこまりました。ではここからは君の仕事だ。頑張ってくれ」
「案内に感謝する」
親切にしてくれた藍に軽く頭を下げてから、深呼吸を一つ。
考えるのは後にすべきだ。今はとにかく与えられた役目をこなすことに集中しようと意識を切り替え、襖を開く。
開いた先には信綱の語彙では形容しがたい帽子をかぶり、藍とよく似た道士服に身を包んだ少女が佇んでいた。
一見すると信綱より少し年上ぐらいにしか見えない容姿だが、すでに阿礼狂いとして壊れている生存本能が、壊れているなりに警告を鳴らしていた。
この女の前で隙を見せてはいけない、と。
「失礼。当代御阿礼の子、稗田阿七様の名代として参った、火継信綱と申す。此度は阿七様の書かれた幻想郷縁起の検閲を頼みたく参上した次第である」
「よく持ってきてくれました。私があなた方人間の言うスキマ妖怪、八雲紫です。もっと砕けた言葉遣いでも構わないわよ? むしろ可愛くゆかりんって呼んでくれても」
「こちらが幻想郷縁起になります」
「ああん、手厳しい。でも、そうね……」
信綱が懐に大事に持っていた幻想郷縁起を紫に手渡す。
それを紫は受け取るが、視線は信綱に注がれ続けていた。
「……何か」
「いいえ、今代の名代は随分と若いと思いまして。阿七の要望かしら?」
「……御阿礼の子の警護を務める人間は、火継の家で最も強い者がなるしきたりです」
「あらそう。じゃあ強ければ火継の家以外でもなれるのかしら」
「さて、私以上に強い人間に会ったことはありません」
掴みどころのない妖怪。それが信綱の第一印象であった。
質問の矛先がコロコロ変わる上、おどけているのかからかっているのか、はたまたこれで真面目に応対しているつもりなのか、まるで読み取れない。
何もかもがあやふやで、彼女を自分の中でどんな立ち位置に置くべきなのかすら悩んでしまう――否。
(惑わされるな。今重要なのは彼女が幻想郷縁起を見ることであって、彼女がどういう妖怪なのかは関係がない)
極論、彼女が役目を果たしてくれる限り信綱から言うことはない。幻想郷縁起の確認をしないと言ったら阿七のためにも徹底抗戦するだけだ。
「人間は面白いわよね。時々、あなたみたいに場違いとすら言える能力の持ち主が現れるんですから」
「…………」
「あら、つまらない。やっぱりあなたたち一族は少々苦手ですわ」
「早く読んでいただけないでしょうか。一刻も早く戻って阿七様を安心させたいので」
勝手に話し始めたので遮る。この女に付き合って時間を潰されては、阿七が信綱を心配する時間が伸びてしまう。それで余計な心労を持たせては本末転倒だ。
「ああ、もう読みましたわ。私から特に言うことはありません。こちらの問題になりますけど、妖怪の勢力が少々衰えつつありますから、必然的に幻想郷縁起に載せる内容は少なくなります」
「ありがとうございます」
紫から幻想郷縁起を受け取り、懐にしまう。
本来であればそこで用事も済んだので帰るだけなのだが、信綱はすぐに立ち上がらず視線を彷徨わせる。
「……何か?」
「…………」
言うべきか言わざるべきか。
このまま幻想郷縁起が必要とされなくなった時、御阿礼の子はどうなるのか。
不要となって、人々の営みに埋もれて消えゆく存在になってしまうのか。
そうならないためにすべきことは――すでにわかっていた。
しかしそれは聞いたが最後、人里に住まう者として踏み越えてはいけない一線を越えてしまう。決定的な裏切りと言っても過言ではない。
「あの――」
だが、信綱が、阿礼狂いが真に恐れるのは御阿礼の子に関わることのみ。彼女のためならば――
「よく考えなさい」
「っ!?」
機先を制され、言葉に詰まる。視線の先には、とらえどころがないと評価した紫の瞳が、真っ直ぐに信綱を見据えていた。
「それは一度踏み込んだら戻ってこれないものよ。御阿礼の子のために御阿礼の子を裏切る。特に今代の子は優しいと聞くわ。――何も聞かなかったことにするから、戻りなさいな」
「…………」
熱いわけでもないのに、汗が止まらない。紫に指摘されることで初めて、自分がやろうとしていたことの重さを改めて実感したのだ。
何を考えていた自分は。御阿礼の子の使命のために人間を欺き、妖怪に与する? それで阿七が喜ぶと思ったのか。
違うだろう阿礼狂い。彼女は――人里でなんということのない市場を見ていた時が、一番楽しそうにしていたのを忘れたのか。
「……失礼します。本日はありがとうございました」
「そちらこそ遠路はるばるよく来てくれたわ。早く帰って、あの子に顔を見せてあげなさいな。きっと、さっき抱いた考えが違うってことがわかるでしょうから」
紫の言葉を受けて、席を立つ。そして襖を開いて出ようとして――
――稗田の家の前に立っていた。
「え?」
何が起こったのか、全くわからなかった。
……いや、よくよく振り返ってみると、襖の向こうから微かに風を感じた。平時の信綱であれば違和感に気づいていただろう。
「…………」
額に手を当てて己の未熟にうんざりする。要するに動揺して妖怪の術中にあっさり嵌ってしまったというわけだ。怒る気にもなれない。
しかし、そんな気持ちもすぐに消え去ることになる。カラリと戸を開くと、玄関口で阿七がいたのだ。
身体を冷やさぬようにと肩掛けを羽織っているが、そんなことをして玄関にいるぐらいなら布団に入っている方が百倍マシである。
「阿七様!? どうしてこちらにおられるのですか! 私はすぐに戻るとお伝えした――」
「ノブ君!? ああ、無事でよかった……!」
阿七が信綱に抱きついてくることで、言葉は途中で遮られた。
華奢な身体を受け止めると、阿七は信綱の存在を確かめるように背中に腕を回す。
頬と頬が合わせられ、何か温かいものが信綱の首筋に当たる。
それが涙であることを理解すると、信綱も阿七を安心させるべくゆっくりとその背に手を添えた。
「阿七様……」
「妖怪の山に入るから、本当に心配で心配で……。無事に帰ってきてくれて本当によかった……」
「……大丈夫ですよ。こうして帰ってきました。八雲紫にもちゃんと縁起を見せてきました。……私は大丈夫ですから、次は阿七様もご自愛ください」
落ち着かせるように背を軽く叩く。
しばらくの間ジッと動かなかった阿七だが、やがて身体を離すと恥ずかしそうに頬を染める。
「ごめんね、ノブ君。変なところ見せちゃったりして」
「……心配していただけるのは望外の喜びです。ですがどうか――本当にどうかご自愛なさってください。私に傷がつくことを阿七様が悲しむのであれば、私は阿七様が具合を悪くするのが悲しいのです」
「うん、本当にごめんね。ノブ君にそこまで言われちゃうんですもの。私も気をつけるわ」
「反省しているのなら、今から部屋に戻りましょう。八雲紫に見せたことの報告もしたいですし」
「そうしましょうか。……部屋に戻るまで、支えてもらってもいいかな」
あれほど無理をするなと言ったのに、これである。支えが必要なぐらいなら安静にしていて欲しいというのが信綱の本音だった。
しかし、色々と思うところは残っているが、阿七は自分のことで心を乱してくれたのだ。頭が一杯になってくれたのだ。
ならばそれは、阿礼狂いとして至上の喜びであろう。
「喜んで」
そして決意する。この方のために生き、この方のために死ぬ。それが信綱の成すべきことであり、成したいことだ。
きっとそれは、御阿礼の子のためという言い訳と共に妖怪に与することではない。
彼女が幻想郷縁起を不要と言うのならその通りにしよう。その果てに御阿礼の子がいなくなるのなら、その時はまた阿礼狂いも消える時なのだ。
嗚呼、先ほどの自分はなんと醜い考えを持っていたのだ。御阿礼の子のために生きる自分たちの保身を考えるなど、思考が
御阿礼の子のために生き、その果てに自分たちの破滅が待っていても迷いなど持たない。それこそが阿礼狂いの在り方だろう。
阿七の華奢な身体を支えながら、信綱は改めて自らの在り方を定義づけるのであった。
「あれ、紫様? あの少年はどうなさいましたか?」
「早く阿七に会いたいって顔をしていたから帰したわ」
様子を見にやってきた藍に答えながら、紫は手で口元を隠して穏やかに笑う。
「うふふ、腕は立つみたいだけど、まだまだ青い果実ね。あんまり可愛いものですから、ちょっとだけ背を押してみたくなっちゃったわ」
「橙には紫様から伝えて下さいね。あの子、少年のことを結構気に入っていたみたいでした」
「あらあら。スキマで送り返したのは早計だったかしら」
笑いを深める。
あの少年は間違いなく気が触れているというのに。存外に好かれる気質を持っているようだ。
「……それで、どうでしたか。今代の火継は」
探るような目線で藍が問いかけてくる。紫は微かに目を細め、ほんの僅か言葉に真剣味を混ぜる。
実のところ、幻想郷縁起をここまで持って来させることに意味はないのだ。
なぜなら彼女は神出鬼没のスキマ妖怪。わざわざ待たずとも、阿七の部屋に現れて彼女から直接手渡してもらえば良いだけだ。
故に今回の邂逅は幻想郷縁起の検閲が目的ではなく――それを持ってくる火継の人間を見ることが目的だったのだ。
道中に襲いかかった妖怪も式神の一種である。橙が気づきそうになったのは――嬉しい誤算だ。あそこは運が良かった。
その際の妖怪退治の手腕。そして対峙した時の対応も含めて、紫は彼を評価する。
「まだまだ青いわね。でもそれは子供故の未熟。成人もしていない子供が未熟なのは当然の話でもある」
「……見極めるには早いと?」
「彼の器を決めつけるには早いでしょうね。ただ、それでも一つだけ断言できることがある」
御阿礼の子に付き従う少年。妖怪の勢力が衰えつつある現状。そして紫の思考に渦巻く一つの腹案。
それらが導き出す答えはただ一つで――
「彼は途方もなく強くなるわ。そうでなければ生き残れないほどの嵐が彼を襲うでしょうから」
呪うように、
八雲家全員集合の巻。なんだかんだ妖怪と知り合うことが多い信綱少年。ここまで原作勢出しておいて、なんでオリ天狗出したんでしょうね私(オイ
まあ彼女にも彼女なりの目的があって動いてますので、どうか受け入れてくださると幸いです。
そして幻想郷縁起ですが、この時代では妖怪が力を失いつつあるのでだいぶ役割が薄れつつあります。
とはいえ、それが未来でも同じであるとは限らないわけで……?
――そして幻想郷縁起も完成した今、阿七の役目はとうとう終わりが近づいております。
信綱を家族として扱った御阿礼の子。その終わりはもう間もなくとなるでしょう。(次話と確約はしない。なお予定は未定)