阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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吸血鬼の悩みと阿礼狂い

「やっほー、おじさま、元気してる?」

「たった今元気がなくなった」

 

 百鬼夜行の異変が終結し、幻想郷は揺籃の時間を送っていた。

 人里ももちろん例外ではなく、信綱もまたその恩恵を享受してしていた時だ。

 いつもの様にフラリとレミリアがやってきたのだ。美鈴はいつも通りに日傘持ちでこちらに恐縮しきりの視線を向けてくる。

 

「……俺はもうお前になにかやるつもりはないんだぞ」

「ひっ!? あ、いや、すみません。つい昔のことが思い出されてしまって……」

「見事にトラウマになってるのよねえ。ったく、仮にも紅魔館の門番なんだから次はけちょんけちょんのボッコボコにしてやる! ぐらい言いなさいよ」

「良い度胸だ」

「言ってませんよ!? というかあなたも乗らないでください!」

 

 最近、ようやくこの二人の空気に乗れるようになってきた。彼女らの空気に慣れてしまったとも言えるので、あまり喜ぶべきことではないのかもしれない。

 

「で、今日はなんの用だ。ちなみに今は交流区画の霧雨支店で安売り中らしい」

「それは後で見に行くとして、今日はおじさまに会いに来たのよ」

「お帰りはあちらだぞ」

「相変わらず冷たいわね! もう十五年は通ってるわよ!?」

 

 人妖の共存が実現しつつあるため、信綱が妖怪と一緒に歩いている姿を見かけることが多い。

 その中で化け猫や白狼天狗と一緒にいる時は心なしか雰囲気が穏やかになっているのだ。遠目で見ていたから間違いはない。

 それに百鬼夜行の時にレミリアも活躍したのだ。そろそろ優しさの一つも見せて良いだろう。

 そう思っていると、信綱は心外と言わんばかりの顔になった。

 

「む、少し優しくしただろう」

「どの辺が?」

「霧雨商店の安売りを教えた」

「あれ優しさなの!?」

 

 なんて小さな優しさだ、とレミリアが打ちひしがれていると頭に誰かの手が乗る。

 見上げるとそこにあったのは美鈴の手ではなく、無骨に鍛え上げられた男の手――信綱の手があった。

 撫でることはせず、帽子越しの頭に手を乗せるだけ。しかし、いつものように握り潰そうとするわけでもゲンコツを落とすわけでもなく、ただただそのまま人間の温度を伝えていく。

 

「ふぇ?」

「お前は約束を守った。そのことには感謝している」

「……フフ、約束を守るのは誇り高き吸血鬼として当然の義務よ」

「そうか。じゃあ終わりでいいな」

「あ、でももうちょっとだけ……」

 

 ぐりぐりと手に頭を擦り付けるようにくっついてくるレミリアに、なぜか犬を連想してしまう。尻尾があったらぶんぶん振られているに違いない。

 呆れた顔になりながらも邪険にはしない。言葉にした通り、彼女が天狗と鬼を相手に戦って人里を、ひいては信綱との約束を守ろうとしたのは事実なのだ。

 いかに阿弥を害した憎き敵であろうと、成したことに違いはない。天狗の時と言い彼女はひけらかすことを好まないが、人妖の共存に一役買っていることは確かである。

 

「……いい加減離れろ」

「もうちょっとー」

 

 とはいえ、ここまで懐かれるのも空恐ろしいものを感じてしまう。自分がメッタ斬りにした相手からの好意など、悪寒以外の何を感じろというのか。

 吸血鬼にここまで好かれるといつか寝込みを襲われそうで怖い。返り討ちにするつもりだが。

 

「おい、お前からも何か言え」

「いやあ、お嬢様が肩の力を抜くのは久しぶりなので、もう少し我慢してくれません?」

「なかなか笑える冗談だな」

「ひどいわおじさま。私にも悩みぐらいあるのに」

「…………そうか、悪かった」

 

 レミリアの声音は普段と同じそれではなく、しみじみと噛み締めるようにつぶやく。

 その態度に意図せず彼女の悩みに触れてしまったのかと思い、信綱も素直に謝罪する。

 彼とて虎の尾を無闇に踏む趣味はないのだ。これでも踏み込んで良い場所と悪い場所はわきまえているつもりだった。

 そんな信綱にクスリとおかしそうに笑ってから、レミリアは美鈴に目配せをする。

 美鈴は何も言わずに日傘をレミリアに差し出して雑踏に紛れてしまう。この区画は人妖入り乱れる個性あふれる場所。紅髪を持つ少女一人を隠すのは造作もない。

 

「どうした?」

「ちょっとした気まぐれよ。それよりおじさま、どこかでお茶でも飲まない?」

「……まあ、良いだろう」

 

 誘ってきたレミリアの声が平時とほとんど変わらないはずなのに、信綱はその声にどこか真剣な色を感じ取る。

 面倒になりそうだと思いながらも、それを表に出すことはしない。いくら信綱とて本当に困っている相手を茶化すような真似はしない。

 

 そうして適当な店に入り、熱い緑茶を片手に向かい合う。

 レミリアも幻想郷に住み始めて十年以上が経過しているため、特に気にせずそれを飲み始める。

 明らかに外来の妖怪とわかる服装と雰囲気の少女が湯呑みを持っているのも、なかなか面白い光景である。

 そんな信綱の視線に気づいたのか、レミリアは肩をすくめた。

 

「郷に入りては郷に従え、よ。私の家ならともかくとして、こんな場所で紅茶を飲むのもちぐはぐでしょう」

「それには同意しよう。で、話とはなんだ」

 

 頼んでおいたみつ豆がレミリアのところに置かれる。信綱が自分のところに引き戻そうとする前に、レミリアが美味しそうに食べ始めてしまう。

 甘い糖蜜がたっぷりと果物、求肥などにかけられ、見ているだけでその甘さと冷たさが伝わってくるようにキラキラと輝いていた。

 

「…………」

「うん、美味しい。おじさま、ありがとうね」

「誰がお前に奢ると言った。全く……」

「ブツブツ言いながらも取り返そうとしない辺り、私は結構好きよ?」

 

 彼女に食べられるのは少々癪であるだけで、別に怒っているわけではない。

 しかしレミリアが美味しそうにみつ豆を頬張っている姿は、本当にそこいらの童女と変わらない。寺子屋にこっそり混ぜてもバレないと思ってしまうくらいだ。

 茶を片手にレミリアが食べ終わるのを待って、信綱は改めて口を開く。

 

「で、何か話したいことでもあるんだろう」

「わかっちゃう?」

「美鈴を離して、わざわざこんな場所に来て、しかもお前が不自然に明るい。何もないと思う方が愚かだ」

 

 最初の二つはともかく自分が明るく振舞っていたことには気づいてなかったようで、レミリアの目が丸くなる。

 

「驚いた。意外と見ているのね、おじさま」

「ふん、それで話はなんだ」

「…………」

 

 強引に話を進めようとすると、レミリアが押し黙ってしまう。

 言いづらいことなのか、はたまた彼女自身の沽券に関わる何かなのか。

 こんな少女のような見た目であっても、吸血鬼の逸話に恥じない群れの主としての貫禄を彼女は備えている。

 その彼女がここまで言い淀むのは珍しい。優柔不断は群れの長として良い点など一つもないというのに。

 

「……家族の、ことなのよ」

「お門違いだろう。美鈴やあの魔女にでも言え」

「皆知ってるわ。その上でどうにもならないって結論が出た」

「ふぅん……?」

 

 レミリアに始まり、あの館にいるのは全員が妖怪だ。彼女たちでどうにもならないことを信綱がどうにかできるとは思えない。

 

「巫女かスキマでは駄目なのか」

「駄目ね。彼女たちは真っ当に過ぎるもの」

「……少し読めてきたな。なるほど、俺に近づいたのもそれが理由か」

「察しが良くて助かるわ。私が知りたいのは――狂人の接し方」

 

 食べ終えたみつ豆の器を置き、レミリアは凪のように静かな顔で話す。

 

「私ね、妹が一人いるの」

「初耳だ。館の中に?」

「地下室に幽閉しているわ」

「ほう」

「……ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。妹はそれを持って生まれた」

 

 妖怪、しかも吸血鬼にそんなもの必要なのだろうかと内心で首を傾げてしまう。妖怪の攻撃など全てがあらゆるものを破壊するためにあるようなものだろうに。

 

「だから、と言うべきなのかしら。妹は価値観が妖怪のそれとも人間のそれとも違っていた。正直、私もあの子が何を考えているのかわかったことは一度もないわ」

「文字通り見えているものが違うのだろう。仕方のないことだ」

 

 ありとあらゆるものが破壊できるのなら、壊せるものに価値を見出すなどおかしな話である。

 

「そうみたい。でも、あなたはどうなの? 阿礼狂いと呼ばれるあなたは周りのものを無価値とは思わないの?」

「御阿礼の子以外に何の価値がある、と言って欲しいのか? ――当たり前過ぎて口に出す必要すら感じてなかった」

 

 常日頃から言っているではないか。御阿礼の子以外は有象無象と何ら変わらないと。

 信綱にとって御阿礼の子以外は全て無色である。白と黒と灰、それだけで構成される世界に何の美醜を見出せと言うのか。

 そんな世界で唯一極彩色に彩られて見えるのが御阿礼の子。全く色のない自分たちにとって平伏してでも守りたいと思うのは当然の話。

 と、言うのが信綱の偽らざる本心だが、世界というのはそれだけで成立しうるものではない。

 

「ではどうしてあなたは人里のために戦うの?」

「色がなくても形の違いぐらいはわかる。好ましい形とそうでない形。見慣れない形に見慣れた形。どちらを優先するかなど、言うまでもなかろう。

 それに誰も彼も一人では生きられない。生きられない以上、どこかで折り合いをつけるなりごまかすなりしていくしかない」

 

 その妹とやらも、最初から庇護する存在がいないまま外に放り出されていれば、存外狂気と付き合いながら生きていくことができたのかもしれない。

 そういった意味では、レミリアのように庇護する存在がいたことが不幸とも言い換えられる。

 ……無論、狂気のままに振る舞って討伐される可能性もあるのだから、どっちもどっちだが。

 

「それであなたはずっと自分を隠し続けるのね。周囲に価値なんて見出してないのに、あるように振る舞い続ける」

「そうして得た英雄という呼び名で、あの方が喜んでくれる。歓喜以外に何の感想を持てというのだ」

 

 迷いのない瞳で言い切られ、レミリアは僅かに苦笑を浮かべる。

 やはり彼と妹は全く別種の存在だ。狂人という枠で見れば同じかもしれないが、彼は自身の狂気を完全に制御している。

 自己の逸脱性を理解し、それがどの程度常人からかけ離れているかを理解することによって結果的に常人以上に常人らしく振る舞うことができる。

 

「やっぱり。あなたを見ていても参考にはまるっきりならないわね」

「それはそうだろうよ。俺は生まれつき人里で生きている。普通の人間を見る機会が多かったんだ。猿真似の一つや二つ、難しくはない」

「みたいね。あーあ、やっぱりどうしようもないのかしら」

「さあな。意外と腹を割って話せばどうにかなるかもしれんぞ」

「無責任ね」

「お前の事情に興味はないのでな」

 

 それに実体験でもある。自分が狂っているとわかっていて、常人たちとは相容れるはずがないとわかっていても、面と向かって否定されるのは堪えるのだ。

 だからこそ、それと向き合って共にいることを選んでくれる相手を狂人なりに大切にしようとする。

 要するに大切なのは本質の理解と、その上での決断である。

 

「まあ良いわ。時間はたっぷりあるのだし、私の方でもなにか考えないとね」

「そうしておけ。とはいえ、時間で狂気が治ることはないだろうが」

「あなたを見ていて嫌というほど実感したわ」

 

 またも笑われる。信綱も生まれてこの方あまり変化したという感覚がないため、彼女の言い分は全くもって正しいのだが、それでも正面から言われるのは腹が立つ。

 話も終わっただろうと判断して席を立とうとすると、信綱の前に一輪の花が差し出される。

 真紅の花弁と棘のある緑の茎が美しい薔薇は、ずっとレミリアが懐に入れていただろうに全くしおれた様子がない。

 

「魔力で固定しておいたの。多分、あなたが死ぬより長く持つわ。――美しい花には棘がある。あなたにピッタリだと思わない?」

「いや全く」

 

 自分が美しいと思うなど、自意識過剰も甚だしいのではないだろうか。第一、見目など御阿礼の子の側にいて彼女を引き立てる程度で良い。

 

「そこは合わせなさいよ! とにかく、これが私からあなたへの贈り物よ」

「ふむ……」

 

 何気なく手を伸ばし、薔薇の茎をそっと持ち上げる。

 強く持てば血が出るが、撫でる程度の力なら痛みもない。

 そしてそんな風に外圧から必死に花を守ろうとする茎と、そんな茎の姿を知ることもなく咲き誇る花を見て、信綱はあるものを連想した。

 

「……まあ、良いだろう。花瓶に差しておけば多少は見栄えもする」

「何を思って受け取ることを選んだのか、興味が有るわね」

「教える義理はないな」

「フフ、その答えで十分理解できたわ」

 

 レミリアが席を立ち、さっさと店の外に出て行ってしまう。

 日傘越しにこちらに視線を送り、別れの言葉を告げて去っていく。

 

「それじゃあねおじさま。――その花弁、阿弥に似ているでしょう?」

「お前、」

 

 何かを言う前にレミリアはどこかに行ってしまう。今から追いかけても見つからないだろう。

 彼女に内心を読まれたことに舌打ちをしたい気分だったが、料金を受け取りに来た看板娘の前でやるのは八つ当たりにしかならない。

 心中は苛立ちが大半を覆い、しかし同時にレミリアの言葉に賛同している部分もあった。

 

 この花は御阿礼の子と自分のようであると思ってしまったのだ。 

 

(何をバカバカしい)

 

 あくまで一瞬である。自分たちが支えているから花が咲き誇れるなど、驕りにも程がある。

 御阿礼の子らは自分たちなどいなくても咲き誇れる花だ。茎がなければ花も咲かせない薔薇とはまるで違う。

 自分への怒りのままに捨ててしまおうかとも思ったが、あくまで信綱が思ったことであり、薔薇に罪はない。

 レミリアの都合で自然の有り様を捻じ曲げられ、おまけに受け取った相手からは勝手な苛立ちで踏みにじられるなど、文字通り踏んだり蹴ったりだろう。

 それに連想した内容はさておき、この花が美しいと思っていたのも事実。捨てるのは忍びない。

 

(……部屋の端に置こう)

 

 それでもレミリアの得意げな顔が頭に浮かんで腹が立つため、扱いは微妙に悪くなってしまうのだが。

 

 

 

 

 

「ほ、本当に大丈夫なのですか?」

「もう、信綱さんは心配しすぎ! 私だってこのくらい……きゃっ」

「阿弥様!?」

「ちょ、ちょっと手が滑っただけ! 本当に大丈夫だから!」

「包丁は手が滑った時点で危ないんですよ!? おい、椛!」

「突発的な事故まで防げとか無理です!?」

 

 現在、信綱は稗田の屋敷にある台所にて阿弥と格闘していた。椛はそんな二人の様子を困ったものを見るような目で眺めている。この男、本当に阿弥の側仕えをしている時は別人のようである。

 阿弥との格闘は当然、文字通りの格闘ではない。百鬼夜行異変から目立った騒ぎもなく、今日も一日平和に過ぎることの幸福を噛み締めながら信綱が阿弥の話し相手を務めていた時、

 

「信綱さん。私、料理が作りたいわ」

 

 そんなことを言い出したのだ。ちなみにその時、彼女の手には料理の本が握られていた。

 てっきり自分に何か作って欲しいものでも見ていたのだろうと思っていた信綱は、きょとんとしながらも返事をする。

 

「……? 言ってくだされば私が作りますよ。何が食べたいのですか?」

「ううん、私が作りたいの」

「そうでしたか。では私と一緒に何か作りましょうか」

「信綱さんは手伝わないで。私が一人で作ってみたいの!」

 

 まさかの拒絶に信綱の気分がドン底に落ち込むが、表に出さないようにしながら理由を尋ねる。

 

「ど、どうしてなのか理由を伺っても良いでしょうか?」

 

 理由を聞いてみただけなのだが、阿弥は顔を俯かせて真っ赤になってしまう。そんなに言いづらいことを聞いただろうかと内心で不思議に思う。

 

「……だから」

 

 やがて阿弥の口から漏れた言葉は口の中で舌を微かに動かしたような音で、信綱でも文字にすることは不可能な声量だった。

 しかしここまで恥じらっている阿弥にもう一度言わせるのも忍びない。ここは阿弥とずっと一緒にいた信綱が彼女の内心を読み取ってやるべきだろう。

 

 だから、という言葉で終わる。さて、この少女がそんな単語で終わらせる言葉は誰に向けるものだろうか。

 決まっている。心優しい主である以上、他人のために料理を作りたいからに他ならない。

 ではその他人は一体誰なのか。これは難問だ。彼女の付き合いは信綱もほとんど把握しているが、その中で阿弥が料理を作ってあげたいと思うほど付き合いの深い存在はいただろうか。

 そこまで考え、信綱の思考に天啓とも呼ぶべき閃きが訪れる。自分の直感の鋭さに内心で拍手したいくらいだ。

 

「……まさか、阿弥様」

「な、なに?」

「……懸想する相手でもおられるのですか?」

「ぶっ!?」

 

 図星を突かれたのだろう。むせている阿弥の背中をさすりながら、信綱は赤ん坊の頃からその生き様を見届けてきた少女の成長に目頭が熱くなりそうだった。

 そしてその男を調べて阿弥を任せるに足る人間なのか調べなくてはなるまい。

 別に嫉妬はしていない。どんな形であれ阿弥が幸せになるのなら信綱から言うべきことは何もない。

 ただそのためには相手が阿弥を幸せにするという確信が欲しいだけである。密かに阿弥に近づく男に課そうとしていた試練が役立つとかは考えていない。

 

「ち、違うよ! 全然、全く、これっぽっちも違う!!」

「…………」

「そんな生暖かい目で見ても違うから! 本当だって!」

 

 ここまで必死に否定されてしまうとはどうやら本当に間違っていたらしい。

 自分の推測が外れることはあまりないのだが、と仄かに落ち込みながらも信綱は阿弥の安全のために口を開く。

 

「まあ理由はこの際気にしません。ですが阿弥様、何をお作りになるのかだけでもお教えください。握り飯ぐらいならまだしも、包丁を使った料理は危険です」

「……これ」

 

 差し出された本には絵が書かれており、立派な御膳があった。

 これのどれを作るのか、という意味を込めて視線を送っても阿弥は微妙に視線をそらすばかり。

 

「……よもや全部作ろうなどと考えてはおりませんね?」

「うっ」

「材料の調達などはどうにかなりますが、これは難しいものです。料理自体が初めてな阿弥様には荷が勝ちすぎるかと」

「は、初めてじゃないもん。料理ぐらいしたことあるもん」

「いつ?」

「あ、阿余の時に何度か……」

「…………」

 

 さすがの信綱も呆れた目をせざるを得ない。基本的に御阿礼の子の言うことなら全肯定の彼だが、それでも承服しかねるものはある。

 明らかに身の丈に合わないことをしようとしているのだ。どうしてもというなら土台を整える必要があるものの、やらないに越したことはない。

 

「……どうしても、おやりになりたいのですか?」

「うん」

「そして私は手伝わない方が良いものだと」

「……うん。あ、信綱さんが悪いってわけじゃないのよ?」

 

 阿弥はそう言ってくれるが、自分ではいけない理由が何かあるのだろうかと思ってしまう。

 足りないものは補い続けてきた。しかし今の自分でもまだ届かないものがあるのかと思うと、未だ己の未熟に恥じ入るばかりである。

 と、そんな自分の不明はさておき、阿弥は譲る気はないらしい。ならば次善の手を打つ必要があるということで――

 

「料理を始めるのは少し待っていてください。阿弥様もお一人で作ることに不安はあるでしょう?」

「……あはは、わかっちゃう?」

「初めてでこんな難しい料理に挑んで、不安を覚えない方が怖いですよ。ともあれしばしお待ちを。人を呼んでまいります」

 

 そう言って信綱は稗田邸を飛び出して行き、少しした後に首根っこを引っ掴んだ椛を連れて帰ってきた。

 

「ただ今戻りました。せめてこいつを助手に付けてください」

「椛姉さん!?」

「あ、あの……どうしてここにいるのか全くわからないんですけど、誰か説明を……」

「阿弥様と一緒に料理を作れ。阿弥様に少しでも傷がついたら……わかるな?」

「交流区画で遊んでいたらいつの間にか命の危機!?」

 

 たまたま今日は哨戒が休みで交流区画で遊んでいると椛本人から聞いていたのだ。後で顔を出しに行こうと思っていたこともあって、一石二鳥である。

 とにもかくにも椛を武力を背景にした穏便な説得をして、台所で阿弥と共に料理を作らせている次第である。

 信綱は来るなと阿弥に言われているのだが、どうにも心配なためそわそわと台所の前を行ったり来たりしていた。

 

「……あの、集中できないんでやめてくれません? 阿弥ちゃんなら私が見ておきますから」

「…………」

「君?」

「お前を殺して成り代わりとかできないだろうか」

「真顔で何言ってるんですか君は!? とにかく出て行ってください!」

 

 阿弥に信綱は駄目だと言われたのが相当堪えていたようで、信綱は大真面目な顔で変なことを言い始める。

 今の彼は何の役にも立たないと早々に判断した椛は、強引に信綱の背中を押して台所から追い出してしまう。

 この時、阿弥にも呆れた目で見られたのが辛かったのか、今度は廊下から視線を感じない。部屋に戻っていってくれたのなら何よりだ。

 慣れない野菜の感触に四苦八苦している阿弥に椛は目を細め、そっと聞いてみる。

 

「……それで、どうしてあの人を遠ざけたんです?」

「……びっくりさせたくって」

「ついさっきいきなりやってきた彼に引きずられた時はものすごく驚きましたよ」

「椛姉さんじゃなくて!?」

「あはは、冗談です。彼のあんな慌てた顔を見たのは初めてでした」

 

 大体しかめっ面か、生真面目に口元を引き結んだ顔立ちだったと椛は覚えている。子供の頃からあまり喜怒哀楽を表に出す性格ではなかった。

 それが阿弥の前では良くも悪くも崩れる。阿弥の言葉に一喜一憂し、彼女からちょっと離れていることも苦痛と覚えるような有様である。

 もしかしたら阿七と一緒の時もそうだったのかもしれない。そう考えると、椛は信綱が阿七とともにいる姿を千里眼で見ていないことが惜しく思えてしまう。

 

 と、そんなことを考えた後、椛は阿弥の真意を聞いてみる。

 

「あの人はあなたがくれたものなら何でも喜ぶと思いますよ」

「でも、やっぱり買って渡すだけのものより、頑張って何かを作ってみたかったの」

「それで料理ですか」

「うん。……信綱さんより上手くはできないけど、それでも一生懸命作るよ」

「阿弥ちゃん、あの人と何かを比べようとするのはやめた方が良いです。バカバカしくなりますから」

 

 朗らかな笑みを消して真顔で言われてしまい、阿弥はコクコクとうなずくしかなかった。

 この白狼天狗は恐らく信綱の知り合いでは最も付き合いの長い妖怪になる。彼の人間離れした姿を一番多く見てきた妖怪とも言い換えられる。

 きっと彼女の常識は何度も彼によって壊されたのだろう。そんな悟りを開いた目になっていた。

 

「と、とにかく頑張って作ろう! 椛姉さんも協力してね!」

「もちろん。あの人の呆気にとられた顔が楽しみです」

 

 彼は御阿礼の子に尽くしていれば満足なフシがあるため、阿弥が自分に何かしてくれるなどとは夢にも思ってないだろう。

 自己評価が低いのか、はたまた側仕えである自分は道具で良いという考えなのか。恐らく両方だ。

 

 しかしだ。いかに彼が一皮むけば狂気しか存在しない狂人であったとしても、行いそのものに貴賤はない。

 どんな思惑があれど善行は善行。悪行は悪行となる。その点で言えば信綱はこの上なく阿弥を喜ばせている。

 阿弥が心優しい少女であるとは信綱の言だ。ならばその心優しい少女が彼に何もお返しをしないというのはおかしな話だろう。

 

 阿弥に笑って欲しくて信綱は努力し、阿弥はそんな信綱にお礼をする。当然の帰結である。

 きっと並べられた料理を前に、信綱は慌てて辞退しようとするのだろう。自分なんかがこのようなもてなしを受けるのは恐れ多いとでも言って。

 そんな彼を阿弥と一緒に説得するのだ。彼は自分の評価は頑なに低いままだが、ちゃんと理由を説明されれば納得もする。

 そうして食べ始める彼の姿を阿弥は微笑みながら見つめ、自分もその中で笑うのだ。

 人と妖怪、そして狂人の三人が同じ空間にいて、笑い合う。

 

 

 

 それはきっと――何よりも心安らぐ時間になることだろう。




フランちゃんの話がチラッとだけ出ましたが、ノッブに興味が無いので出てくることはもうしばらくないでしょう。

ノッブは良くも悪くも御阿礼の子が基準です。彼女のためなら全てを害しますし、彼女のお願いに一喜一憂もします。
ある意味人間らしい姿とも見ることができるかもしれません。こんな感じにしばらく時間がゆっくりと流れていく予定です。

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