阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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阿礼狂いは百鬼夜行に挑む

 椛と文が人里に急行している頃、信綱は阿弥と二人で交流区画の方を歩いていた。

 すでに時間も経ち、初日のような喧騒も少しは落ち着いている。

 今なら阿弥を連れても大丈夫だと判断して、彼女にこの光景を見せていた。

 

 彼女の希望で後ろではなく隣に、自分の胸ほどの高さまで背が伸びた阿弥と手を繋いで人妖入り交じるそこを歩いて行く。

 阿弥は人と妖怪が争うことなく、それぞれの商売や対話に夢中になっている光景にすっかり魅了されており、あちらこちらに視線が動いている。

 

「すごい、すごい! こんな景色、私以外の誰も見たことがない!!」

「喜んでくれて何よりです、阿弥様」

 

 興奮し、ともすれば信綱の手を離してどこかに行ってしまいそうになるのを、信綱は優しく手を握って押し留める。

 本当に健康に育ってくれて感無量である。これが阿七だったらどこかに行こうとする前に倒れている。

 

「これ、信綱さんが作ったのよね! 私が幻想郷縁起にしっかり書いておいてあげるからね!」

「私一人の力ではありません。しかし、幻想郷縁起ですか……」

 

 もう妖怪の記述は大半が終わっている。脅威と対策、そして付き合い方を書いたそれらだが――信綱の今後の働き次第では、無用の長物になる可能性が出てきた。

 なにせ妖怪が脅威でなく、隣人になってくれるかもしれないのだ。

 隣人の対策本となったら、単なる対策だけに留まらず仲良くなる方法なども書かなければならず、これまでとは幻想郷縁起に求められるものが変わってくる。

 

 いずれにしても人妖の共存を場所を区切ってとはいえ、成し遂げてみせた火継信綱の名は、幻想郷の歴史に刻まれることだろう。

 そのことに信綱はむず痒そうな顔になる。

 

「少々面映ゆいですね。私はできることをしていっただけで、それに共感してくれた妖怪たちがいなければ成立しませんでした」

「それでもすごいことだよ。皆が頑張って、あなたも頑張った。その中で信綱さんが一番頑張った」

「そんなつもりはないのですが……」

 

 空いた手で困ったように頬をかく。いつになっても持ち上げられることには慣れない。

 自分のような狂人がその場に入って良いのだろうか。もっとふさわしい人間がいるのではないか。そう思ってしまうのだ。

 

「うふふ、でも嬉しいよ。私の一番大切な人が、一番有名になって。私の隣りにいる人はこんなにすごいんだぞ、って思える」

「……そう言っていただけるなら望外の喜びです」

 

 今でも歴史に名を残すことに意義は見出だせていないが、阿弥が喜ぶのならそれも良い。

 阿弥が終わり、阿求、さらに次の御阿礼の子に行って、いつか信綱がこの世を去る時が来ても。歴史に名を残した事実があれば彼女らの慰めになるのかもしれない。

 

 そう、未来の話だ。阿弥も十五歳を過ぎた今、それを考える必要がある。

 阿七の享年は二十六。身体が病弱だったことを差し引いても、歴代の御阿礼の子では短命な方になる。

 対する阿弥は健康体そのもの。外で働くといったことはさすがに難しいが、日常生活を送る分には何の支障もない。

 ――それでも、彼女は三十を迎える前に死ぬ可能性が高い。

 

「……阿弥様」

「ん? なぁに、信綱さん」

 

 優しく笑って手を握り返してくれるこの愛しい主の胸中はどうなっているのか。

 阿七の時でも死の恐怖はなかった。当たり前のように短命の身体を受け入れ、当たり前のように死んでいった。

 今の彼女はどうなのか。理解した上で今の態度なのか、それとも目を背けているだけなのか。

 わからなかった。迂闊に聞いて、彼女を悲しませてしまうことが阿礼狂いとして最も辛い。聞くべきか聞かざるべきか判断がつかなかった。

 

「……いえ、喜んでもらえて私も嬉しく思います」

「? ふふっ、変な信綱さんね」

 

 なんと言って良いのかわからずお茶を濁す信綱と、それを笑って受け止める阿弥。なんだか阿七の時に戻ってしまったような錯覚すら覚えてしまう。

 これではどちらが年長者かわかったものではない。いや、転生を含めるなら阿弥の方が圧倒的に人生経験は多いのだが。

 などと悩んでいると、視界の端に見慣れた猫の耳を発見する。

 

「おーい!」

「また来たのかお前」

「信綱さんの知り合い? 妖怪の知り合い、多いのね……」

 

 感嘆の感情以外にも、そこはかとなく怒っているような気がするのは気のせいだろうか。気のせいであって欲しいと思う信綱だった。

 

「さあ、今日も橙さまに色々とお菓子を奢りなさい!」

「断る。そう毎日毎日やれるか」

 

 優しさを見せたのは初日だけで十分である。

 橙もさすがに無理だとわかっていたのか、特に気にした様子もなく阿弥の方に視線を向ける。

 

「この子、誰?」

「俺の主だ。阿弥様、このちっこくて何の脅威も感じない化け猫は橙と言います。邪険に扱っても大丈夫ですよ」

「あんたバカにしてる!? ううーっ、手を離せー!!」

 

 橙の頭を阿弥と繋いでいない方の手でグリグリと押さえ込みながら紹介すると、阿弥はほんの少しだけ握る手に力を込める。

 

「……信綱さんのそんな顔、初めて見る」

「む……何か不味かったですか?」

 

 最近、阿弥のこんな顔をよく見る。切ないような、新たな一面を知れて嬉しいような、信綱には内心を推し量れない表情。

 とはいえ橙に見せている表情と言っても、椛に見せているのと大差はない。橙は調子に乗りやすいので、信綱もそれに応じた対処をしているため、少し違うように見えるだけである。

 

「……ううん、なんでもないわ。ところで橙ちゃんはどうして信綱さんのところに?」

「ふぇ? 友達がいたら声掛けない?」

「……いい子ね、あなたは」

「…………」

 

 なんだかとても居た堪れない。非常に居づらい空間から逃れようと視線をそらした時だった。

 信綱は自分を見つめ、近づいてくる気配に気づく。

 

「――」

「信綱さん?」

「阿弥様、少し頭をお下げください」

 

 そっと彼女を庇えるよう立ち位置を変更する。そうして飛んできた二人を見上げる。

 

「見つけた! 椛の千里眼、本当みたいね……!」

「椛がいるのは良いが、お前まで来るか。息せき切らして、何があった?」

「とぼけてる場合じゃないですよ! 君の言っていた鬼が来たんです!!」

 

 椛の言葉に信綱は何も言わずうなずく。来るとわかっていた嵐がついにやって来たのだ。

 なぜこの時なのか。いや、燐を見つけた時からずいぶんと経過している。待ってもらった方なのだろう。

 阿弥は鬼と聞いて顔を青ざめ、手が震えだす。この中で鬼の脅威を正しく認識しているのは、椛と文を除けば阿弥だけである。

 かつて地上にはびこった悪意の塊。巌のごとき肉体と首を潰されても復活する再生力。そして日本の三大大妖と謳われるほどの妖力。

 これらを前にした人間など塵芥のようなもの。文字通りの一騎当千を体現してしまう理不尽の権化。

 そんな存在が地上にやって来た。ならば人間にできることなど誰かが解決してくれることを願ってただ震えるだけ――

 

「ご安心を、阿弥様」

 

 悪寒に震える阿弥の手が優しく暖かな両手に包まれる。視線を合わせるように屈んだ信綱がその手を包み込み、安心させるような笑顔を浮かべていた。

 

「信綱、さん……」

「私がいる限り、阿弥様の御身には指一本触れさせません。……今はどうか、人里のために動く許可を頂きたい」

 

 この男の顔を見ていると、不思議となんとかなるんじゃないかという気になってくる。

 大天狗を無傷で殺し、人妖の共存すら成し遂げようとしている彼ならば、と思ってしまうのだ。

 

「……信綱さんはそれが一番だと思ったのよね」

「ええ。味方が多い今のうちに叩いておくべきかと」

「だったら信綱さんの言葉を信じます。絶対に人里を……ううん、幻想郷を護りなさい。これは私からあなたへの――命令です」

 

 御阿礼の子としての言葉。阿七にされたことはなく、お願いでもない阿弥からの命令。

 本来はこうして命令を受けて動くのが火継の在り方だ。信綱が阿七や阿弥と家族としての絆を結んだからこそ起こった、些細な違い。

 だが――その言葉を聞いた瞬間、信綱の総身は言い表せぬ感動に包まれた。歓喜の涙すら零れそうになる。

 彼女の道具になれる。それのなんと心地良いことか。小難しいことを一切考えることなく、ただただ彼女の命令を最大効率で遂行すれば良い。

 

「御意のままに。――おい、烏」

「は、はいっ!?」

 

 そして最大効率とは、使える手札を全て使って勝ちに行くことである。

 信綱は阿礼狂いと御阿礼の子の生み出す光景に釘付けになっていた文をにらみ、ある方向を指差す。

 

「お前は紅魔館に行って、今すぐ力を借りてこい。俺の名を出せば二つ返事で引き受けるはずだ」

「それが終わったら?」

「適当になんかしてろ。天魔への報告でも良い」

「すごい適当!?」

 

 無視して椛の方へ向き直る。文は言いたそうなことがある顔だったが、やがて諦めたように紅魔館の方へと飛んでいく。

 

「椛、鬼の様子は?」

「えっと……大きな一本角の鬼の女性を筆頭にこちらに向かってきて――あれ? じゃああの小さい鬼は――」

「ここにいる――」

「――」

 

 声は最後まで続くことなく、一瞬すら越えた速度の抜刀で身体が断ち切られる。

 目を見開く橙や椛には反応すらできなかった。全てが終わり、首も胴体も斬り落とされてようやく理解が及ぶほどの斬撃。

 しかし、声は消えることなく聞こえてくる。見慣れぬ気配は信綱たちの周囲に薄く広がっていた。

 

「……最高だよ、人間。今のだけでイッちまいそうになった。この私が! 伊吹萃香さまが! たかだか数十年しか生きてねえ人間の一太刀で絶頂しそうになっちまった!」

「チッ、面倒な。おい椛、詳細は」

「疎と密を操る程度の能力。この妖怪はどこにでも現れて、どこにでも消えます」

 

 椛の言葉に同意するように萃香の気配が一部に収束していく。

 

「そういうことさ。例えば……人間ご執心のこの子の後ろに――」

「――」

 

 阿弥の後ろに回ろうとした気配を信綱が吹き散らす。阿弥には毛一筋の傷すら付けず、しかし無尽に振るわれる斬撃が薄くなった萃香をさらに斬り刻む。

 

「ハハハッ! そんなことやっても無駄だよ! 私が余計に薄くなっていくだけさ!」

「――」

 

 萃香の嘲笑に耳を貸さず、信綱は片腕で阿弥を抱き抱えて刃を振るう。

 椛や橙には、斬り刻まれている本人である萃香にもその意図はわからない。

 だが、彼は無意味と判断した行動は決して取らないことを椛は知っていた。

 一見無意味に見えても、そこには必ず何らかの意味がある。たとえ今はわからずとも、後々になって意味を持つ行動であるはずだ。

 

「君、援護は!?」

「要らん。もうわかった」

 

 椛の申し出を一蹴し、信綱は一閃する。

 薄まった気配はフワフワと移動し、阿弥から距離を取っていく。

 

「――薄くなればなるほど、お前の影響力は薄れる。こんな風に剣圧だけで動いてしまうほどに」

「クハッ、そりゃちょいと頭使えば誰だってわかることだ。まさかそんなちっぽけな情報のために無駄な力を使ったってのかい?」

「それと――」

 

 再び一太刀。先ほどの抜刀に比べれば速度は落ちたもの。

 重い真剣。まして長刀と刀を振るうのだ。体力の消耗は通常の比ではない。

 まさか今ので疲れてしまったのか。そんな当たり前の不安を、信綱は当然のように踏み越えていく。

 

「ガッ……!?」

 

 信綱の手が振り抜かれた瞬間、これまで信綱を嘲笑っていた萃香の声に苦しげなものが混ざったのだ。

 

「――薄くなっていようとお前が居ることに変わりはない。コツさえ掴めば刃ぐらいは通せる」

 

 さすがに効果は薄くなるようだが。本当は今の斬撃で薄まっている萃香の首を落としてしまうつもりだった。

 

「手応えから察するに胸。それも心臓に達しない程度の浅さ。意趣返しとしては不満だが、こんなところだろう。――失せろ妖怪。今ならお前が実体を取り戻す前に数百は斬れるぞ」

「……ハハハ。最高だ、なんて言葉じゃ足りないねえ……」

 

 気配が遠のく。恐らく逃げるつもりなのだろう。

 信綱にも追いかける意思はないのか、それを鋭い目で睨みつけたまま動かない。

 

「挨拶程度の顔見せだったんだ。初志は貫徹させてもらおうか。でも――人間、名前は?」

「失せろと言ったのが聞こえなかったか」

「ククッ、その態度も気に入った! 雑魚がやっているんなら見るに耐えないけど、お前さんは本物だ! 本物の妖怪を殺すバケモノだ! 決めたよ――あんたは私が攫う!」

 

 攫う。その言葉を聞いて信綱は密かに渋面を作る。椿と言いこいつと言い、自分は妖怪を惹きつける気質でも持っているのか。

 

「後でまた会おう! その時は誰にも手出しをさせない、一対一を楽しもうじゃないか!!」

 

 その言葉を最後に気配が完全に消える。今度こそ脅威が去ったことに安堵の息を吐く。

 そんな中で信綱は気を緩めた様子もなく、椛たちに向き直る。

 

「この様子じゃ下手に策を弄する余裕はない。正攻法で行くぞ。椛は阿弥様を連れて家に戻ってくれ。終わったら俺と合流。常に鬼の動向は確認しろ。化け猫も阿弥様に付いていけ。俺と来るよりは安全だろうよ」

 

 それに鬼との戦いに耐えられるとも思えない。

 橙も椛に比べると不安だが、それでも阿弥を任せても……まあ、良いと思える程度には信用していた。

 

「それはわかりましたけど、君は?」

「避難誘導は俺の部下に任せる。その後慧音先生に人里を隠してもらうよう頼んで、炒り豆の用意。それが終わったら外に出て鬼を迎え撃つ」

 

 なにせ鬼の目当てが自分で、しかもここは信綱が生まれ育った人里だ。

 やるべきことは彼が一番多い。こればかりは椛や橙に任せられないことである。

 

「わかったら急げ。――阿弥様を頼むぞ」

「……はいっ! 阿弥ちゃん、ちょっと飛ばしますよ!」

「あ、信綱さん!」

 

 椛に抱き上げられ、今にも飛んでいきそうなところで阿弥は信綱へ言葉を投げかける。

 

「絶対、無事に帰ってきてね! 死んじゃ駄目だよ!!」

「――ええ、もちろんです」

 

 阿弥を怖がらせないよう、なんてことのないように微笑んで彼女たちを見送っていく。

 椛に任せればとりあえずの安全は確保できる。後はもう部下に任せるか、祈るしかない。

 どこにでも現れ、どこからでも消えるなど、ある意味八雲紫のスキマに匹敵する能力だ。それを一騎当千の鬼が持っているなど悪夢でしかない。

 信綱が四六時中側にいられればなんとかできる。もう霧の気配は覚えたし、感覚も掴んだ。次はどんなに薄まった気配であろうと斬り裂く自信がある。

 が、信綱はこれから最も危険な場所に飛び込まなければならない。何が起こるかわからない戦場に主人を連れ出すなど言語道断である。

 

「橙、お前もさっさと行け」

「……人間、死ぬんじゃないわよ! あんたが死んだら親分の私の沽券に関わるんだから!」

「誰が子分だ。お前こそ阿弥様を守れよ」

「言われなくてもやるって! こんな楽しい場所を壊すような奴の思い通りにはさせないわよ!」

 

 人間をあまり知らない妖怪がこれからの幻想郷に必要だ、と考えた自分は間違っていなかった。

 こうして人間を守ろうとしてくれる橙の存在に、信綱は微かに笑みを浮かべる。

 

「……なら良い。頼んだぞ」

「任せなさいっての!」

 

 調子に乗りやすい橙の言葉が今ばかりは気楽だった。

 信綱は彼女たちに背を向けて、人里では見せるのを避けていた身体能力を存分に発揮していくのであった。

 

 

 

 上白沢慧音が人里の守護者をやっていることにはいくつかの理由がある。

 無論、一番大きな理由は人間が好きだからだろう。使命感や義務感で続けていけるほど人間は綺麗なものではなく、人里を襲う嵐は小さくない。

 他にも一つ、彼女には重大な使命を担っている。幻想郷縁起を編纂する御阿礼の子と同等とすら思えるほどの重要なもの。

 

 歴史書の編纂である。彼女は後天的に得た白沢としての能力、歴史を創る程度の能力を所持しており、満月時にはそれを使って歴史書を編纂しているとか。

 少し伝聞が入る理由は信綱もこの話は幻想郷縁起で読んだだけであり、詳しいことは知らないからだ。

 だが、人間の時にはこの能力は少々変化するらしく、これが今日まで人里を存続させた一因を担っていると言っても過言ではないほどのもの。

 

「――ふう、無事に人里の歴史を隠した。これで里の外に出ない限り、鬼からはわからないはずだ」

 

 外で両手を天にかざす。それだけの行為でありながら、滝のような汗を流す慧音が一仕事を終えた顔で信綱に振り返る。

 それに頭を下げ、懐から取り出した手拭いを慧音に渡す。

 

「ありがとうございます」

「なに、これも私の仕事だ。……ただ、あくまで隠しただけになる。そこにあるという歴史そのものを知っている妖怪なら効果はない。とはいえ、数百年近く地上の歴史と断絶していた連中だ。鬼が相手でも隠すことは不可能じゃないはずだ」

「十分です。避難誘導はこちらの手勢に任せておりますので、慧音先生は人心の安定に努めてください」

「わかった、お前の指示に従おう。……勝算はあるのか?」

「なければ作るまでです」

 

 信綱は勝算があって動いたことなどほとんどない。

 そこにやるべきことがあるから、どんな無理難題だろうとやってのける。いつだってそうしてきた。

 可能性の有無など明らかに失敗する場合のみわかっていれば十分なのだ。そうじゃないならどうにかなる。

 一切の恐れも迷いもなく百鬼夜行に立ち向かうことを選ぶ信綱の顔を見て、慧音は眩しいものを見るように目を細めた。

 

「……そうだな。それが正しい人間の在り方だ。……頑張れよ」

「先生も頑張ってください。私の手勢も避難誘導と避難所の警護に回します。万一鬼が来たら彼らを囮にして逃げてください」

「む……いや、状況が状況か。……わかった。最善を尽くそう」

 

 人里の危機である以上、御阿礼の子の危機でもある。火継の人間も己の命を度外視した動きを見せてくれることだろう。

 それに御阿礼の子を守れずに生き延びる阿礼狂いなど何の価値もない。

 火継の人間はこの価値観を全員で共有しているがゆえの言葉だったが、慧音は苦い顔を作って確約はしなかった。

 

「……お願いします。それでは私はこれで」

「ああ。後ろを気にせず暴れてこい」

 

 阿弥にも守りは付けてある。もうここは信じるしかない。

 信綱は嫌な胸騒ぎを押し殺して、寺子屋を後にする。

 慧音の寺子屋はいざという時の避難所の役目も持っている。今はまだ里の中で妖怪の襲来の情報が回っていないため静かなものだが、すぐに人で溢れかえるだろう。

 

 火継の人間が避難誘導を始めており、人間でごった返す人里の道を信綱は逆走して里の外へ向かっていく。

 その中で信綱は見慣れた三人を発見する。霧雨夫妻とその息子だ。

 

「お前たち、無事か?」

「あ、お、おう! ノブか。お前ん所の人間に鬼が襲ってくるって言うから何事かと思っちまったぜ」

「ノブくんは……戦うんだね」

 

 勘助、伽耶ら二人の問いかけに信綱は気負った様子もなくうなずく。

 

「これが俺の役目だ。あと、ややこしいかもしれないが天狗は味方だ。そこは混合しないでほしい」

「わかってる。天狗も天狗で慌ててたし、向こうも大変なんだろ」

「ああ。そっちも無事で――」

「あの!」

 

 時間も惜しく、彼らはまだ避難中である。そのため別れようとしたところで弥助が声を上げてきた。

 何事かと思って視線を合わせる。成長期の途中にあるその瞳には、戦意が煌々と宿っている。

 

「お、おれにも何かできませんか!? 一応、自警団なんです!」

「……だったら避難の誘導を手伝ってくれ。老人は移動が遅くなる。手はいくらあっても足りない」

「よ、妖怪との戦いとかは……」

「来るな、足手まといだ」

 

 これに関しては嘘偽りなく答えるしかなかった。弥助の顔が悔しそうに歪むが、答えは変わらない。

 だが、ここで頭ごなしに否定するのもよろしくない。不満の発露というのは状況を選ばず行われることがある。できることなら双方満足して役目に当たれるのが一番なのだ。

 

「良いか、力を発揮すべき箇所というのは人それぞれ違う。お前の父親は商売。母親はそれを支えること。俺は有事の戦力という風に分かれている」

 

 弥助の頭に手を置き、見上げてくる目に信綱も目を合わせる。

 

「妖怪退治でお前が俺の力になるのは無理だ。だが、それ以外の場所でお前が役立てる場面がある。……わかるな」

「……はい!」

「いい返事だ。勘助もそれで良いな?」

「ああ。ウチの息子が役立てるんならいくらでも役立ててくれ! ……あと、悪いな。慣れないことやらせて」

 

 勘助の小さな声での謝罪に信綱は軽く笑ってしまう。

 自分のような狂人が偉そうに人様に説教など柄ではない。今さらになってそう思えてきたのだ。

 

「全くだ。終わったら良い酒でももらおうか」

「終わった後の宴会で大盤振る舞いしてやるよ。……だから、生きて戻ってこいよ」

 

 今回の異変は吸血鬼異変の時とは比べ物にならないほど規模が大きく、危険であることを勘助はわかっていた。

 それに対し、信綱は軽く腕を上げることで応える。

 

「そら、さっさと逃げろ。一箇所にまとまってもらわないと守るものも守れん」

「……おう! 弥助、気張って来い!」

「あまり無理はしないでね、二人とも。死んじゃったら悲しむ人が大勢いるんだから」

「わかっている。阿弥様を泣かせるつもりはない」

 

 夫婦は避難所の方へ。息子は別の方向へ走り出すのを見送って、信綱は再び走り出す。

 思えばずいぶんと人里に名が知れたものだ。信綱が子供の頃は阿礼狂いとして遠巻きに見られていたのが、今では里の英雄扱いである。

 妙なる巡り合わせの結果だ、と信綱は思う。自分が狂人であることは変わらないにしても、少しばかり対応を変えるだけでこんなにも変わるのだ。

 

「君!」

「椛か。阿弥様は無事に送り届けたんだろうな」

「橙ちゃんに任せてます。鬼の群れはもうだいぶ人里まで近づいてます。人里に向かうのが一番大きくて、そこから枝分かれするように妖怪の山、霧の湖の方へと細分化しています」

「なんでこっちが一番多いんだ。レミリアのところに行け」

 

 切っ掛け自体は吸血鬼の存在だろうに。舌打ちしながら苦々しく思っていると、椛がじっとりとした目で信綱の方を見ていた。

 

「……なんだよ」

「いえ、あの鬼にあんな絶技を見せて興味を持たれないと思ってたんですか?」

「…………俺たちは外で迎撃する。なるべく人里からは離れるぞ」

「無視!?」

 

 椛から目をそらして走り、人里の外に出る。

 振り返ると人里があるべき場所には何もなく、荒れ野が広がっているだけの光景になっていた。

 

「すさまじいな、これが慧音先生の力か」

「ですがそこにあることが変わらない以上、小細工の一種ですよ」

「ないよりはマシだ。さて……」

 

 信綱の感覚が鬼のそれを捉える。

 隠すつもりもない、金棒を担いだ鬼の群れが地鳴りのごとき足音を響かせて向かってくるのがわかる。

 

「ずいぶん近づかれたな。仕方がない、こちらから仕掛けて引っ掻き回すぞ」

 

 幸い、この辺りはまだ信綱にとって慣れ親しんだ場所。茂みの場所や木の位置もほとんど把握できているので、移動には困らない。

 むしろ下手にここで迎撃して後ろに行かれて人里の存在がバレたら目も当てられない。

 

「うぇ!? 正気ですか!?」

「正気も何も、下手に囲まれるよりはマシだろう」

「そ、それはそうですけど……」

「向こうも萃香のことがあるとはいえ、ここまで反応が早いとは思っていないだろう」

 

 萃香が人里にやって来たのは顔見せ程度であり、彼女自身の独断であると信綱は判断していた。

 というより、彼女が首魁に近い立場のはずだ。彼女に命令を出せる存在がいるなど考えたくないので、その可能性は無視する。

 そしてその独断を他所に告げる可能性も低い。彼女は信綱に目をつけたのだから、彼女自身の手で信綱と戦いたいと思っているはずだ。

 とどのつまり、今なら地上を蹂躙するつもりになっている鬼たちの虚を突ける可能性が高いということ。

 少ない危険で大きな利益が見込める以上、信綱にやらない理由はなかった。

 

「――やるぞ」

「ああ、もう……君との修行以外での実戦相手が鬼とか予想もしませんでしたよ!」

 

 一度決めたことは実行する。信綱が意見を翻すつもりがないことを理解すると、椛はヤケになったように大太刀を構える。

 烏天狗を越える白狼天狗になれと言われて稽古を付けてもらっていたが、よもや初めての相手が天狗の上司とも言える鬼になるとは。

 

「同感だ。とはいえ、不謹慎だが少し高揚するものがある」

「うん?」

 

 珍しいこともあるものだと椛は信綱の横顔を仰ぎ見る。

 戦いを前にした信綱は感情を殺した表情になり、殺すと決めた相手には一切の情けをかけない凍てついた顔になるというのに、今の彼は微かに口角が上がっていた。

 笑っているのだ。何が楽しいのか、と椛が視線を送ると信綱はその表情のまま答える。

 

「――誰かに背中を預けて戦うというのは初めてだ」

 

 背中を気にせず戦ったことはあるが、実際に戦う場所で信頼できる仲間に背を預けた覚えはなかった。

 巫女と自分では空を飛べるか否かで戦う場所自体が違った。父親は元より使い潰すつもりで、こちらからの仲間意識がなかった。

 天狗の里での文は信用していなかった。敵ではないが味方でもない。その程度の認識でいた。

 だから、心から信頼できる仲間と一緒に戦うのは今日が初めてになる。そのことを信綱は少しだけ嬉しいと思っていた。

 

「俺の背中は任せたぞ。椛」

「……はいっ! 地底に篭っていた鬼たちに目にもの見せてやりましょう!」

 

 相手は幻想郷でも屈指とされる鬼の群れ――百鬼夜行。

 しかし天狗の騒乱にも巻き込まれた信綱にとっては今さらのものでしかなく、あの時に比べれば使えるものも数多くある。

 

 そして何より――阿弥が命じたことだ。

 

 隣に背を預けられる仲間がいて、胸には阿弥の言葉が灯っている。恐れるものなどこの世のどこにもない。 

 信綱の一歩は最高の加速を以って、百鬼夜行へと突撃していくのであった。




色々と書く場面が多すぎて泣けて来る今日このごろ。誰だこんなに多勢力出してんのは! 私だよ!

しばらくはごちゃごちゃするかもしれませんが、結局のところ焦点は鬼の首魁二人に魅入られているノッブですので、最後はそこになると思います。

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