阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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阿弥の相談と阿礼狂いの関係

 よく晴れた清々しい日、阿弥は一人で里の中を歩いていた。

 一人で、である。外に出る時は必ずお伴する信綱の姿はない。

 

「ふぅ……少し言い過ぎちゃったかな?」

 

 後ろを振り返り、誰も居ないことを確かめてから小さく息を吐く。

 信綱に対して抱く感情を未だ決められない阿弥。彼女は椛の言葉に従って、色々な人に相談しようとしていた。

 

 そこで問題になるのが信綱である。側仕えとして控える彼は基本的に阿弥の行く場所にはどこでもついていこうとする。

 さすがに厠まで追いかけるほど常識がないというわけではないが、それでも出かける時は大体ついてくる。

 これに一番困るのは阿弥だ。なにせ相談の内容が信綱と関わることである。

 下手に言ってしまうと信綱は自分のことで阿弥が気に病んでいると思い、なんとかしようとし始めるだろう。悩みの原因が自分にあるのなら自分が消えれば良いとか言い出しそうだ。

 

 なので今日は一日暇を与えるという旨の話をしたのだが――

 

「わかりました。では阿弥様のお手伝いをしたく」

「えっと……お休みだよ? 自由にしていいんだよ?」

「ええ。ですから阿弥様のお力になるのが私の好きなことです」

 

 全く他意のない無邪気な微笑みを向けられてしまい、顔に熱が集まるのを自覚すると同時に内心で困り果ててしまった。

 そう言ってもらえるのは嬉しいが、内容が内容だけに信綱には聞かせられない。

 

「と、父さんには秘密なの! だから絶対に来ないで!!」

「…………わかり、ました。それが阿弥様の望みならば……」

 

 その時の信綱の顔は、ちょっと筆舌に尽くしがたいものになっていた。

 普段見慣れている、世界で一番頼りがいのある信綱の背中がどこか煤けて見えたのは、阿弥の気のせいだと思いたい。

 

「ううん……後で肩でも揉んであげれば良いかな……?」

 

 ふと目に入ってきた家では、父の肩をまだ小さな娘が叩いている光景が飛び込んできた。

 もう頬が緩みまくって幸せの絶頂にありそうな父親と、楽しそうな娘。あれを信綱と自分に置き換えれば――

 

「父さん、あんな顔しないよね」

 

 天狗の里での騒動などで少しだけわかったが、火継信綱という男はあまり満面の笑みを浮かべる性格ではない。

 阿弥の前では頻繁に笑顔を見せるものの、それにしたって目尻を下げ、口角を釣り上げる微笑みと言った感じだ。

 女の妖怪が大勢いても全く鼻の下を伸ばさないし、阿弥以外の人と話す時はかなりぶっきらぼうな物言いをしている。文への口ぶりを見た時の驚きは大きかった。

 

「ああやって私に話してもらえるのも、たまには良いかも」

 

 絶対に実現はしないだろうが、想像するだけならタダである。

 椛に対して行っていた気の置けない言葉遣いを自分にしてもらえると当てはめると、これがなかなか面白い。なんだか対等な関係になったような気がするのだ。

 実際は阿弥が主で信綱が従者として侍る立ち位置だ。しかし、阿弥には信綱の方が上の立場だと思えてしまう。

 

(私の父さんが英雄様かあ……。なんだか不思議な気分)

 

 過去の御阿礼の子の記憶を遡っても、ここまで名を馳せた男はいない。武力はもとより、政治面でも活躍を続けて妖怪との対話を望む火継なんて、これまではいなかった。

 彼らが御阿礼の子のために生きていることは知っている。それが――余人から見て狂気の類であることもわかっている。

 それでも。――それでも、人と同じ時間を過ごせず、転生という罪を重ね続けてまで生きる御阿礼の子にとって、彼らの変わらぬ想いは心地良かったのだ。

 

 彼らに甘えていた、と言うこともできる。彼らは御阿礼の子に付き従うことこそ至上の幸福であり、それ以上のものを何も望まない。

 そんな鉄の心だからこそ変わらないと信じることができて、安心して背中を預けることができた。

 歴代の御阿礼の子も、皆火継の人間には絶大な信頼を寄せていたのだ。

 

「……あ、もう着いちゃった」

 

 考え事をしている間に目的地に到着したようだ。寺子屋の大きな建物が目の前にある。

 他の人からはぼんやりしながら歩いていたように見えたため、信綱がこの場にいたら気が気でなかったことだろう。ちゃんと阿弥の言いつけは守っているため、この場に信綱はいない。

 

 ……信綱がいないだけで、密かに使える駒にそっと見守るよう命じているが。

 それでも阿弥の配慮も兼ねて寺子屋などの安心できる目的地だったら、そこで帰るようにと言った命令であるあたり、中途半端な対応になっている信綱の動揺が伺える。

 

「失礼します。慧音先生、おられますか?」

「いま行くから待っててくれ! ……む、阿弥一人か?」

 

 やってきた慧音は信綱を伴っていない阿弥の姿に、怪訝そうな顔をする。

 火継と御阿礼の子。この二人は常に共にある姿を見てきた慧音にとって、彼女が一人で動いていることは新鮮に映った。

 

「はい。いきなり押しかけてしまいすみません」

「それは構わないさ。ところで信綱は……」

「ちょっと私的な相談事がありまして……暇を出してます」

「……あいつ、落ち込んでなかったか?」

「ものすごく落ち込んでるように見えました」

 

 阿弥の前では頑張って取り繕っていたように見えたが、それでも普段と様子が全く違うことはすぐにわかった。

 あんなに沈み込むとは思っていなかったため、ちょっと罪悪感を覚えている阿弥だった。

 戻ったら優しくしてあげよう。具体的な方法はまだ思いつかないが。

 

「……別に信綱が嫌いになったわけじゃないよな?」

「そんなことあるわけないじゃないですか!! あ、いえ……すみません……」

「ははは、いいさいいさ。お前の信綱への思い入れがわかって嬉しいくらいだ」

 

 慧音は笑って許してくれるが、阿弥はいきなり大声を出してしまったことが恥ずかしくて縮こまってしまう。

 そんな彼女に慧音は穏やかな表情で阿弥を奥に招く。

 

「最近は信綱やお前に縁があるな。上がってくれ、良いお茶があるんだ」

「え? 父さんが来たんですか?」

「その辺はおいおい聞いてくれ。一つ言えることは、あいつを誇りに思うのはお前だけじゃないってことだ」

 

 胸を張って自らの教え子を誇る慧音の姿に、阿弥は自分の家族が褒められていることへの喜びの他に、言い表せぬ感情が胸に生まれるのを感じる。

 締め付けられるような胸の痛みは阿七の時に再三経験したが、それとは全くの別物。苦しいはずなのに心地良いという、阿弥にとっては全くの未知。

 この感情は一体何なのか。一人で考えても答えは出ず、椛に相談しようにも彼女と自分では生活圏が違う。

 それに相談は同性にした方が良いと思い、慧音を訪ねたのだ。まさか信綱も先日訪ねているとは思っていなかった。

 

 私室に通された阿弥は優しい香りの緑茶と美味しいと評判の最中を提供され、慧音と阿弥は机に向かい合う。

 

「さて、どんな用向きで来たんだ?」

「えっと……すごく曖昧な話になってしまいます。それでもよろしいですか?」

「もちろん。お前は悩み、苦しみ、一人で答えが出せない問題に直面しているのだろう? 協力するのが教師の役目だ」

「……相変わらず眩しいですね、先生は」

 

 本当にこの人は変わらない。阿弥がもっと昔の御阿礼の子の頃から、ずっと人里に貢献し続けてきた彼女は今も変わらず人間を愛していた。

 

「褒めてもお茶のお代わりぐらいしか出ないぞ。しかし、ふむ……言いにくいなら当ててやろうか。信綱のことが絡んでいると見た」

「ふぇっ!? な、なんで……」

「お前が信綱に聞かせたくない相談事など、あいつに関わることぐらいしか思いつかないからな」

 

 片目を閉じて、茶目っ気たっぷりに微笑まれた。言われてみれば当然の指摘に、阿弥は再び羞恥で顔を赤らめる。

 そもそも普段の相談事は大体信綱に話していた。その自分が信綱以外の他人に相談する事態など、信綱が関係していて話せない内容ぐらいである。

 

「ははは、ずいぶんと混乱していたみたいだな。普段のお前ならそのぐらいすぐ気づくだろう?」

「うう、はい。気をつけます……」

「別に注意しているわけじゃないさ。お前にとってそれだけ大事な人というわけだ」

「そう、それです!!」

 

 大事な人、という慧音の言葉に阿弥は思わず身を乗り出してしまう。慧音が身体をのけぞらせるほどに。

 

「私、父さんがとっても大切なんです!」

「あ、ああ。それは見ていればわかるぞ。お前は信綱にとても大切にされ、そしてお前も彼を大事にしている」

 

 単なる主従関係に留まらず、家族として。それは父と慕う阿弥の姿を見ていればわかるし、それに応えようとしている信綱の姿を見ていればわかる。

 しかしはて、信綱が大事な存在だとわかっているのなら一体何を相談したいのだろうか。

 

「……反抗期か?」

「ち、違……います。多分……」

 

 多分、と言い直したところに慧音は首を傾げる。

 少々落ち着いた阿弥も座り直し、慧音にポツポツと自身のことを語り始めた。

 

「私には親がいません。だから反抗期とか、そういうのがよくわからなくて……」

「む、そうだったな。済まない、少々軽率だった」

「いえ。ただ……私があの人に抱いている感情は父親とか、家族に対するものなのか、自信が持てないんです」

「ふむ……相談もそれか?」

 

 阿弥は小さくうなずく。それを見て慧音も腕を組んで彼女に与えるべき言葉を考えていく。

 

「……少し遡って聞いてみるか。お前がそうやって自分の気持ちに自信が持てなくなったのはいつ頃だ?」

「え? えっと……」

 

 慧音に言われて阿弥も考え始める。

 小さな時にも彼を父と呼ばず、名前で呼んだことがあるのは確かだ。

 だがその時は阿七の記憶にある彼と、今の彼を照らし合わせて彼の成長を喜んでいただけであり、どちらかと言えばあれは阿七の感情だ。

 あの頃はまだ若干阿七の記憶と混同していた部分があって、信綱のことが弟のようであり、父親のようでもある存在に感じられていた。

 

 だがそれも寺子屋を卒業するまでには折り合いをつけた。それから彼を名前で呼んだ時は――そう、編纂のために紅魔館に行った時だ。

 公的な場で父親と呼ぶことはできないからそう呼んだだけだが、これが不思議としっくり来た。

 それ以降は場所に応じて、彼を名前で呼ぶようになって――公的でない場でも呼び始めたのは、天狗の里からか。

 

「……天狗の里に招待された時、です。あの時、色々と騒動に巻き込まれてしまって……私たちも危ない目に遭ったんです」

「あいつめ、その辺りはボカしたな? まあ良い。信綱はお前を守るために戦ったんだろう?」

「はい。子供だった私が滅茶苦茶なお願いをしたのに、それさえもなんてことのない顔で叶えてしまって。……私はあの人をどう見たら良いんでしょう。父さんと呼んでいたはずなのに、いつの間にか父と呼びたくない自分がいるんです」

 

 そしてこうも思ってしまう。自分と彼は釣り合っているのか、と。

 人里の守護を担い、妖怪の一大勢力である天狗と対等に交渉し、吸血鬼を打倒し、大天狗を討ち倒す力も備えている。

 自惚れのような考えだが、これら全ては自分のためだ。彼は徹頭徹尾、阿弥のためになることでしか動きはしない。例え個人としての私情が混ざっていても、阿弥の不利益になることは絶対にしないと断言できる。

 

 自分と信綱が遭った騒動を思い返し、その度に静かに、しかしゆっくりと膨れ上がっていくこの気持ちに阿弥は戸惑っていた。

 

「信綱さんの友人である天狗様にも相談してみたのですが、その人も周りに相談して、私が答えを出さなければならないものだと仰ってました。慧音先生なら何かわかりますか……?」

 

 訥々と、たどたどしいながらも自分の心を語っていく阿弥に、慧音は静かにうなずきながら話を聞いていた。

 そして阿弥が全ての気持ちを吐露し、答えを求めてすがる視線を向けてきたところで口を開く。

 

「その天狗の言っていることは正しいよ。阿弥、お前の心はお前にしかわからない。その感情に答えを出す権利を持っているのはお前だけだ。

 だが、そうだな。これだけでは教師としてお前の助けに応えられていないな。では一つだけ質問をしよう」

 

 そう言って、慧音は湯呑みのお茶を飲み干して阿弥を真っ直ぐに見つめる。

 

 

 

「――その感情を知って、お前は信綱とどうなりたいんだ?」

 

 

 

「え……?」

「父と呼びたくない。その理由は反抗期であるかもしれないし、別の何かかもしれない。問題は次だ。

 いつかお前の中で答えの出る時が来る。その時にお前はどうしたい? どうなりたい?」

「そんなの……」

 

 この感情がわかっていないのだから、わからないではないか。そう言おうと思った阿弥だが、口が上手く動かない。心がその言葉を拒絶している。

 

「私、は……」

 

 否定することはさておき、慧音の言葉について考えてみる。

 自分の心を知ることも大切だが、信綱との未来を考えることも重要だ。

 なにせ自分と彼の付き合いはきっと、どちらかが死ぬまで続いていく。火継の人間が信綱に勝てれば変わるかもしれないが、三十五年以上一度も譲っていないそれを、今さら誰かに譲りはしないだろう。

 そして自分が大人の女性になった時――その時にはもう寿命が近いだろうが――にまで彼を父と呼ぶのは少々気恥ずかしい。

 答えあぐねる阿弥を見て、慧音は少しだけ助力をしてあげることにした。このぐらいなら手助けとしても許されるだろう。

 

「少し簡単な例を出そうか。人との付き合いというのは大雑把に分けて三種類だ。その人の背中を見ているか、その人の隣に立っているか、あるいはその人の手を引いているか、だ。……お前はどうなりたい?」

 

 慧音の話を聞いて、阿弥は阿七と信綱の関係を思い出す。

 死ぬ直前こそ対等に近くなっていたが、基本は阿七が信綱の手を引いていた。

 阿七を守ることしか知らなかった彼に様々なことを教え、導いた。彼女がいなければ、今の信綱はいなかったはずだ。

 では自分はどうしたいのか。自分はあの人と――

 

「私は――」

 

 

 

 

 

「死にたい……」

 

 一方その頃、信綱はいきなり出された暇に全力で落ち込みまくっていた。

 人里の者が見たら別人を疑うほどに雰囲気が暗く、目を離したらそのまま自殺でもするんじゃないかという雰囲気にあふれている。

 

「阿弥様に俺は必要ないのか……絶対に来ないでと言われるとは……」

 

 そんな感じに絶賛絶望中の彼だが、さすがに人前でこの姿を見せるのは不味いという最低限の理性は働いたらしく、足は妖怪の山に向かっていた。

 ……見る人が見れば首吊り自殺でもしようとする人間にしか見えていなかったが、彼は気づかない。

 

 ふらふらと足の赴くままに動いていると、見慣れた釣り場が目に飛び込んでくる。

 最近はとんとご無沙汰になってしまったが、阿七のいない頃はここで魚を釣って日々の糧を得ていたものだ。

 とはいえ今は釣り竿もないし、そもそも釣りをする気になれない。適当な岩に座り込み、静かに頭を抱える。

 

「どうしたものか……」

 

 なんかもう消えてしまいたい。阿弥に必要とされない自分に価値なんて皆無。

 天狗との交流? 幻想郷の行く末? 阿弥に拒絶されることより重いのかそれは。

 と、信綱は阿弥とは対照的に相談する相手がいなかった――否、求めなかったために一人で際限なく気落ちする悪循環にハマっていた。

 そんな時――

 

「……あんた、何やってんの? 超能力の開発?」

 

 頭上から聞き慣れた少女の声が降ってきた。

 呆れきった顔をしていることがありありと想像できる口調をする少女は、信綱の知り合いには一人しかいない。

 

「……なんだ、化け猫。俺は今忙しい」

 

 八雲紫の式の式、橙以外にあり得ない。この状態の信綱を見て、心からバカを見るような顔ができるのはこの少女だけだ。

 

「いや、どう見ても忙しそうに見えないけど……」

「どうすれば阿弥様に許してもらえるか考えているんだ。これ以上忙しいことはない。やはり死ぬのが一番の侘びだと思うんだが」

「私がその子の立場だったらものすごく迷惑だと思うわよ?」

「なぜ」

「あんたはその子の謝罪で死なれて嬉しいの?」

「そもそも謝罪などさせんわ」

 

 御阿礼の子の言うことは全てが正しく、全てが尊ばれるもの。あの方が謝るような事態などがあったら、この世界が間違っているのだ。

 などという思考をしている間に橙は信綱の隣に座り、その顔を覗き込んでくる。

 

「うわ、ひっどい顔」

「…………」

 

 人の顔を見るなり引かれたため、無言でその耳に手を伸ばす。いい加減学習したのかシュパッと逃げられた。

 距離が開いたまましばらくこう着状態になっていると、動かない信綱に気を良くしたのか橙が調子に乗った笑いを見せ始める。

 

「ふーん、そんなに落ち込みたきゃ好きなだけ落ち込んでなさいよ。ま、挫折なんてこの橙さまには無縁のものだし? あんたはそこでうずくまっているが良いわアハハ――イタタタタ!!」

「調子乗んな」

 

 高笑いする手前で立ち上がった信綱が橙に距離を詰め、その耳を引っ張り出したのだ。毛並みの手入れがされていて良い手触りなのが腹立つ。

 痛い痛いとわめく橙でしばらく遊んでから、その耳を離してやって信綱は事情を話し始める。

 信綱が話し始めると橙も涙目で耳を押さえながらも、大人しく話を聞く。この二人は割りとこんな感じで付き合っていた。

 

 お互い相手をバカだと思っているが、悪いやつとは思っていない。悪いやつじゃないから、来たらそれなりに歓迎してそれなりに喧嘩をする。

 橙の気質がそうさせるのかは知らないが、容赦のいらない関係として成立しているこの時間を、信綱は自分でも意外なほどに楽しいと感じていた。

 事実、阿弥に言われて落ち込んでいた気持ちも橙の耳を引っ張っていたら薄れていた。彼女の耳には鎮静効果でもあるのだろうか。次からはもっと強く引っ張ってやろう。

 

「――というわけで、暇が出た。だから阿弥様の手伝いを申し出たら断られてしまった。なぜだ」

「そりゃそうでしょうよ……。あんた、その子に知られたくないこととかないの?」

「全くない」

 

 阿弥が知ろうとするなら全て包み隠さず教える所存だ。

 信綱がそう言い切ると、橙の目がこいつダメだな的なものに変わる。

 

「あんたは良くてもその女の子には言いたくない秘密があるんでしょ。なに、それともその子にまで何もかも話せって言うつもり? うわ、ひっど」

「む……」

 

 そこまで言われると唸ってしまう。この猫に正論を言われるとものすごく腹が立つ。

 私良いこと言った? と言わんばかりの顔をされるのもそうだが、何が頭に来るって反論できないことだ。

 出会った頃から童女の姿と全く変わらないこいつと同じだと思われるのは嫌だ。とても嫌だ。

 

「その子が戻ってきたら聞いてみれば良いじゃない。何したかくらいは教えてもらえるかもしれないわよ? ま、私ならともかくあんたじゃそんなこと上手く聞き出せるわけ――痛い!?」

「調子乗んなと言ってるだろ」

 

 橙の言っていることはうなずけなくもないのだが、事あるごとに調子に乗り始めるのが面倒だ。その度に耳を引っ張って地に足を戻してやらねばならない。

 調子に乗られると果てしなく面倒になる。この化け猫の前向きな性格は一体どこから来るのか。

 

「まあ良い。癪だが、とても癪だが、お前の言い分にも一理ある。阿弥様が戻られたら聞いてみよう」

 

 信綱に言いたくないことであっても、せめて道義的に悪いことかどうかぐらいは聞かなければ。なんか変な人に騙されている可能性だってあるのだ。

 ……その場合は密かに命じておいた部下に誅殺させる予定だが。

 

「ふふん、この橙さまに感謝することね」

「寝言は寝て言え」

 

 感謝していなくもないが、口に出すとまた調子に乗られてしまう。つまり言わないでおくのが一番楽だ。

 これ以上この話を続けていても信綱にとって面倒くさく、橙の耳が物理的に痛くなるだけなので、信綱は強引に話題を変えることにした。

 

「ところで。お前、しばらく暇か? 暇だな」

「勝手に決めつけんな! 大忙しよ大忙し! 私ってば藍さまの式なんだから!」

「じゃあ暇だな。今度、人間と天狗が交流する催しがあるのは知っているか?」

 

 橙の言葉を無視して話を進めると、橙はきょとんとした顔をして首を横に振る。どうやら知らなかったらしい。

 

「なにそれ? 天狗が人間と? なに、あんた今朝見た夢でも話してるの?」

「お前の主にでも聞けば答えてくれるだろうさ。藍や紫が知らんなんてことはないだろう」

 

 真っ先に人の夢を疑う橙に青筋を浮かべながらも、手を出すことなく淡々と語っていく。そうすることが橙に情報を信じさせるコツだ。

 

「うーん……それがどうかしたの?」

「互いの迷惑になるようなことをしなければ、お前も来ていいと言っているんだ。というか来い」

 

 八雲紫とその式神である藍までは来ることを予測しているが、橙が来るかどうかは未知数だった。

 それにこれは直感になってしまうものの、彼女はなんとなくそういった場所に来た方が良い気がするのだ。この飾り気のなさはある意味貴重である。

 人間に対して物怖じせず、かといってへりくだることもなく接することができる妖怪というのを、信綱は橙ぐらいしか知らない。

 橙には人間との付き合いが少ないというのを藍から聞いていた信綱は、彼女なら上手く人間と妖怪の間を取り持てるのではないか。そう考えたのだ。

 

「なんであんたがそんなこと言ってくるのさ?」

「……別に理由はない。ただの気まぐれだ」

 

 とはいえそれを正直に言う理由もないので、ごまかしておく。自分でも上手く説明できる自信はない。

 だが橙は目敏く信綱が本心から来て欲しいと言っていることを理解したようで、口元を得意気に釣り上げる。

 

「ふふん、あんたがどうしてもって言うなら来てあげなくもないわよ?」

「じゃあ言おう。是が非でもお前に来て欲しい」

「ふぇっ!?」

 

 普段の信綱なら調子に乗るなと耳を引っ張ってくるはずの場面なのに、特に迷わず橙の要望に応えた彼に橙は目を真ん丸に見開く。

 そして心配そうに信綱の額に手を伸ばしてきた。猫だからか微妙に体温が高い。

 

「熱……はないわよね」

「お前は俺をなんだと思っているんだ」

 

 信綱が落ち込んでいると煽りに来るくせ、橙の意に従うような行動を取ると心配してくるのだ。

 だから不思議と嫌いになれず、今に至るまでお互い相手をバカだと思いながらも付き合いが続いているのだろう。

 

「ど、どうしてそんなに来てほしいの? まさか、私の身体が目当てってイタタタタ!?」

「冗談はその顔だけにしろ。理由は……まあ、あれだ。俺は八雲紫や八雲藍よりお前を信用している」

「は?」

「だから来るんだぞ、良いな?」

 

 聞き返す橙の両肩に手を置いて、強引に念を押す。

 信綱の口から聞けると思わなかった言葉が出たことで驚いていた橙は、コクコクと何かを考える間もなくうなずかされる。

 

「よろしい。では細かいことは後で伝えよう。あとお前のおかげで気が楽になった、感謝する。じゃあな」

「あ、ちょ……」

 

 うなずいたのを確認したら、信綱はもう一つの本心を告げてさっさとその場を後にする。橙が驚愕から抜けて、聞き返されるのは非常に恥ずかしいものがあった。

 

「こらー! 今のもう一回言ってから帰れー!!」

 

 後ろから聞こえてくる橙の怒鳴り声は、聞かなかったことにした。

 

 

 

 

 

 稗田の家に戻ると、阿弥はすでに帰っていることが下駄から読み取ることができた。

 意識せず心臓が高鳴るのを覚え、やはり心のどこかで不安に思っている自分がいることを信綱は認めざるを得なかった。

 橙と会って心が軽くなったのは確かだが、それで信綱が阿弥に言われたことがゼロになるわけではない。

 ……が、ここで悩んでいても答えは出ない。腹をくくって阿弥に聞かなければ。

 悪い点があるなら直す。どうしようもない段階まで嫌われていたら潔く諦めて後進に譲り渡すなり、阿弥の前に二度と姿を表さないようにする。

 よし、と気合を入れた信綱が阿弥の私室へと踏み込んでいく。

 

「失礼します。阿弥様――」

「信綱さん、お帰りなさい!」

 

 部屋に入った信綱の腹部に軽い衝撃が走る。

 視線を下げると、阿弥が抱きついているのがわかった。

 

「阿弥様? 私のことがお嫌いになったのではないのですか?」

「……私、ちょっと信綱さんには言えないことを慧音先生に相談しただけだよ?」

 

 絶対に来るなと言われただけで、嫌われたわけではない。そんな当たり前のことですら、今まで考えが回っていなかった。

 そのことに気づき、信綱は自分でもバカバカしくなってしまい軽く笑う。

 こちらに抱きついてくる阿弥の背中に自分も優しく手を回して、静かに口を開く。

 

「では、私はあなたのお側にいても良いんですね」

「もちろん。信綱さん以外に身を委ねたくないわ。だって私――」

 

 阿弥はそこで言葉を切り、信綱の方を見上げて満面の笑みを浮かべる。

 そして慧音との相談で見出した、自分の感情を口にするのであった。

 

 

 

 

 

「――ずっとあなたと一緒にいたいから!」




ずっと一緒にいたい(なぜ一緒にいたいのかはわかっていない)
はい、もうちょっと引っ張ります。ここで気づいてしまうのは少々私が面倒げっふんげっふん展開が早いので。

ノッブを殺したければ阿弥に大っ嫌いと言わせれば勝手に死にます。但し変化、洗脳の類は一発で見抜きます。

橙はノッブの悪友的ポジションに落ち着いています。お互い容赦なく付き合えるという点で意外と貴重な存在だったり。

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