「どうぞ、狭い家ですが」
「阿弥様、狭い家ですがどうぞお入りください」
「君がそれを言う資格はありません!!」
椛に助けてもらったことを照れているのか、ただ単に減らず口を叩いているだけなのかは不明だが、信綱と阿弥は椛の家に逃げ込むことに成功した。
外では相変わらず天狗が戦っているが、家の中にまで踏み込んでくることはないだろう。信綱たちを狙っていた天狗も首を落として視界を奪ってから逃げた以上、見失っているはずだ。
一息つけると判断した信綱は阿弥の身体を降ろし、室内に視線を走らせる。
にとりの家と似た木造の家で、こちらは清潔そうに整えられている。部屋の隅には将棋盤と思しきものが見えているがご愛嬌だ。
総じて――
「物の少ない家だな。趣味は将棋以外にないのか?」
「武器の手入れとかは別の部屋でやるんですよ! あとはまあ、色々と見回すのが仕事で趣味ですからお金もかかりませんし」
「父さんが物が少ないって言うんだ……」
阿弥の言葉は聞かなかったことにする。信綱の部屋も物が多いかと言われれば否である。
ともあれ落ち着ける場所に来たため、信綱たちはお茶を片手に机で向かい合う。
「はぁ……そういえば喋りっぱなしだったから、お茶が美味しい……」
「それは良かった。お茶菓子もどうぞ?」
「えっと……」
阿弥が遠慮したように信綱に視線を向ける。なぜ自分に、と思わなくもないが、別に椛の菓子なんだから遠慮も不要だろうと首肯し、自分も茶菓子を取る。
「……ふむ、そういえばもう昼時か」
「そうですね。騒ぎがあったのですっかり忘れてましたけど、お昼でも食べます?」
「そうだな。阿弥様、少し昼食を作りますので、あまり菓子を食べ過ぎないよう」
「はーい。父さんったらこんな時もお菓子にうるさいんだから」
「申し訳ありません。その代わり人里に戻ったら菓子を腕によりをかけて作りますよ」
台所に向かおうとしていた椛がぎょっとした顔で信綱の方を見る。そういえば彼女には自分が料理をできるとは言っていなかった気がする。
しかし別段説明する意味もなかったので、特に気にせず椛と一緒に台所の方へ向かう。
幸い、台所に入れば阿弥からの視線は途切れる。会話も気をつければ行えるだろう。
「……それで、わざわざあの子から距離を取った理由はなんですか?」
長い付き合いだけあって、椛は信綱の行動の意図を理解していた。
阿弥に隠すように動いたことには理由がある。少しばかり状況をまとめておきたかったのだ。
彼女が気に病むような情報もまとめる必要があるため、阿弥は遠ざけておくことにした。知らなくて良いことを考えるのは自分の役目である。
「少し考え事だ。襲われた時はとにかく阿弥様の安全を優先したが、今なら良いだろう」
「……まあ、私はお昼を作りますから何かあったら呼んでください」
「わかった。一品ぐらいは作るから材料を置いといてくれ」
「あ、料理ができるって空耳じゃなかったんですか……」
「耳が飾りの白狼天狗とか色々洒落にならんぞ」
「私は目が主体だから問題ないんです!」
狼から化生した白狼天狗がそれで良いのだろうか、と常々思っている疑問を胸にしまい込む信綱だった。
椛が料理用の割烹着に身を包むのを視界の端で見ながら、信綱は壁に背を預けて思索に入る。
まず考えるべきは信綱たちを狙ってきた天狗のことだ。天狗同士が争っていることも気にはなるが、まずは差し迫った脅威について考えなければ。
そもそもどうして自分たちが狙われたのか。天魔を殺そうとした天狗は自分たちには見向きもしなかったというのに、彼らだけは逆に天魔の方を見向きもせずにこちらを狙ってきた。
つまり天魔以上に自分たちに重きを置いている何かがいる。それはどういった意図でこちらを狙ったのか。
人間との共存を願う天魔と敵対している派閥であることは間違いないだろう。であれば信綱たちを狙ってきたものたちは支配派の連中になる。
人間を支配することが目的ならば、確かに信綱と阿弥を狙うのは理に適っている。
信綱が死んだら人里の気勢が弱まるだろうし、阿弥が死んだら縁起の編纂に来た御阿礼の子を殺したとして融和どころの話じゃなくなる。それこそ人妖の合戦になりかねない。というか怒り狂った火継の連中が天狗に殴り込みをかけるだろう。自分だったらそうする。
だが、それでは腑に落ちない点がある。――それならなぜ最初に自分たちを狙わなかった?
天魔を殺す手間よりも信綱たちを狙った方が遥かに楽だ。力量がいくらあっても所詮は人間。四肢の再生などないし、首が落ちたら死ぬ。
なのに集会場では天魔を。外に出たら自分たちを狙ってきた。このちぐはぐな対応の疑問はどう解消したものか。
(……何も派閥が二つしかないとは限らない、か?)
大きく分けて天魔主導の共存派と、規模は不明だが共存派と戦える勢力を持つ支配派。この二つになる。
しかし支配派の中でも複数の派閥が存在すると考えればどうだろう。向こうの首魁は大天狗だと聞くし、天魔が率いる共存派より統率が取れていなくても不思議ではない。
そしてその中で意思の疎通が上手くいってないと仮定すれば、狙いがそれぞれバラバラなのも合点がいく。
ただ、この仮定だともう一つわからないことが生まれてしまう。
天魔という天狗の首魁がいる派閥を敵に回すのに、身内で意思疎通が取れないような愚かな真似をするだろうか?
相対して実感した。あれは正真正銘、天狗の中でも最高峰の傑物だ。
文と出会った時以上に驚いた。今の自分が全力でかかっても相討ちが限界だろう。悔しいが、それだけの実力差がある。
他にも大天狗以上と目される文がいる。彼女らを相手に挑むのなら、最低限足並みぐらいは揃えないと話にならない。
それすら理解できない凡愚揃いが大天狗だとは到底思えなかった。天魔に及ばなくとも妖怪の山を仕切ってきた存在。過小評価はこちらの首を絞めてしまう。
となると考えられる可能性も減っていく。足並みを揃えなければいけないのに、意図的に揃えない存在がいる。
自分たちを狙ってきた天狗は空を覆う天狗に比べれば少なかった。となれば、自分たちを狙ってきた側が少数派。
そして足並みを乱してまで自分たちを狙う理由は――
「……個人的な感情、か」
「え、なにか言いました?」
信綱が辿り着いた答えを思わず口にすると、耳聡く椛が聞き返してくる。
「積年の恨みというのは恐ろしい。そう言ったんだ」
「はぁ……そんな考え事していたんですか?」
「一つ確認するが。支配派の天狗はかつて御阿礼の子と側仕えの火継が訪れた時、片翼を切り落とされたんだったな」
「ええ、まあ……」
「そいつの恨みと俺たちの来訪による支配派の動揺。ありえない線ではないか」
信綱と天魔の話が円満にまとまったら支配派の出る幕がなくなる。そうなる前に手を打つのは当然だし、騒ぎが大きくなれば脆い人間の一人や二人、事故で死んでもおかしくない。
「えっと、何を言っているのか私にはさっぱりなんですけど……。熱でも出ました?」
集会場では襲われず、外に出たら襲われた信綱の事情までは椛も知らないため、口に出して自らの思考をまとめていく信綱の話についていけない。
椛が眉を八の字にした困り顔で信綱を見ている間に思索は終わったらしく、信綱は普段通りのしかめっ面で説明を始める。
「天魔との会合場所にいたのは俺と阿弥様、天魔とお付の射命丸という烏天狗だ。そして襲撃の際に狙われたのは天魔一人だった」
「え? どうしてそこで君たちを……」
「狙わなかったのか。そこがわからなかった。俺の武勇伝が天魔を凌ぐ領域で広まっていて、俺と戦うのを恐れた、なんて阿呆らしい話でもないだろう」
言いながら椛の隣に立って、用意してあった油揚げを手早く刻んでいく。
椛としては青天の霹靂とも言える信綱の手際の良さと、同時にその口から語られる物騒な話で、どちらに集中すれば良いのかわからなくなってしまうが、そんな彼女を無視して話を続ける。
「阿弥様は狙われる理由そのものがない。天狗を害するようなこともしていないし、立場も人里内からは浮いている。幻想郷縁起の編纂が止まったとしても目に見える不利益は出ないだろう。
――それはそうと出汁に使えそうなものはないか」
「あ、そこに川魚の煮干しが……って、話すか料理するかどっちかにしてください!?」
「別に良いだろう、片手間にできることだ。で、残った理由は一つしかない。――向こうには俺を殺したいと思う輩が存在する」
椛は身体を強張らせる。信綱を殺そうとすることはすなわち、御阿礼の子を害することと同義であり――
信綱の顔は見えない。味噌汁の鍋の方に身体が向いているため、こちらに顔を向けずに淡々と語っているのだ。
「ではどうして俺を殺したいのか。人里への影響力も大きいし、殺そうとすること自体は理に適っている。――だがそう考えると集会場で俺を狙わない理由がわからない」
「……えと、君は……」
言葉に詰まる。声の調子は変わらないが、あの時もそうだった。
透徹な狂気を宿した瞳に反して、声音は平常そのもの。それが何よりも恐怖を煽るのに信綱は気づいているのか。
何を言って良いのかわからない椛を他所に、信綱は自身の考えをいつも通りの平坦な口調で話していく。
「つまり結論はこうだ。――今の状況に乗じて、俺を殺したいと考える極めて個人的な事情を持つ存在がいる」
信綱は自分に向かってきた襲撃者をそう結論付けた。
派閥間で信綱の脅威を排除したいという認識が一致しているなら、集会場で狙わない理由がない。そうなったら残される理由は個人的な感情ぐらいである。
そして椛から聞いていた情報などを総合すると――出てくる結論は一つしかない。
「天魔を排除しようとした支配派の長。そいつが俺を殺そうとしているんだろうさ」
「……じゃあ、この状況って」
たった一人の人間を殺すためだけに、これほどの大事になったというのか。
そんな考えを持った椛の声が震えるが、それは違うと信綱は否定する。
「俺だけが狙いなら事故を装うなり暗殺なりするだろうよ。本命は天魔の失墜。俺はいわばついでのようなものだ。
……うんざりする。俺が引き起こしたことではなく、俺の先祖が起こしたことの尻拭いをさせられるとは」
しかもそれの影響で阿弥に怖い思いをさせてしまった。ご先祖様の火継もやるのならキッチリ殺して欲しかった。
中途半端に手傷を与えて相手の恨みを買っただけではないか。数百年が経過する今でもその恨みを忘れていないのは妖怪ゆえだろう。
先祖もあの世で血涙を流し、己の未熟を嘆いているはずだ。阿夢の名誉を守るために戦うのは火継として当然だが、戦うなら禍根は残さないようにしなければ。
とまあ、完全にとばっちりを受けている自分の間の悪さにはため息が出るが――そんなことより重要なことがある。
「では、このまま逃げて騒動が収まるのを待てば大丈夫なんじゃ……」
「さっきまではそれでも良かったんだがな。事情が変わった」
いつの間にか出来上がっていた味噌汁の鍋を火からどかし、信綱は椛を見て決定的なそれを言い放つ。
――阿弥様を害した敵は悉く斬り捨てる。
「……っ!」
阿礼狂いとしての信綱の顔を再び見ることになった椛の身体が強張る。だが、最初に見た時のような恐怖までは覚えなかった。
信綱はこういう存在なのだ。普段は優しい姿も見せるが、その実情はご覧のように抜身の刀でしかない。
御阿礼の子を守る利剣であり、御阿礼の子を害する者を滅する魔剣こそが火継の人間である。
なんて言えば良いのか椛にはわからない。大天狗を殺しに行くなんて無謀だ、などという当たり前の言葉では動揺すらしないだろう。というより、信綱なら成し遂げてしまいそうで怖い。
彼の行動は定まった。阿弥を害した存在を決して許さないという自らの行動理念に従って、立ちふさがるもの全てを斬り刻む修羅となっている。
「……あの」
「――まあ、全ては阿弥様が決めることだ。とりあえず食事にしよう」
「ふぁ?」
何かを言わねばと思って口を開こうとした椛に、一瞬で阿礼狂いから普段通りに戻った信綱が先んじて声をかける。
さっきまでの純化した狂気は見えない。戸惑っている椛に対して呆れた顔を向けるその姿は、おぞましさすら感じるほどいつも通りだ。
「いやいや、あそこまで言っておいてあっさり翻すんですか!?」
「俺たちは御阿礼の子の願いを叶えるためにいる。何も言わなければ障害は排除するが、阿弥様が厭うなら何もせず帰るし、共に死んで欲しいと言われたら共に死ぬ。それだけだ」
彼女たちが本心から願うなら、信綱はあらゆる願いを叶えようとするだろう。その果てにどれだけの屍山血河を築くことになろうとも。
レミリアの時は彼女が自分で判断できるような歳ではなかったし、霧が身体を蝕む明確な害が出ていたから自分で動いたが、今は阿弥がいる。彼女の決断こそがこの世で最も正しく尊重されるべきものだ。
気負うことなくそう言い切る信綱に、椛は改めて自分と彼の間に存在する深い溝を思い知る。
人間と妖怪の違いなんて些細なものだと考えてしまうくらい、自分と信綱の間には隔たりがある。
阿礼狂いである時と普通の人間である時。硬貨の裏表のように一瞬で切り替えられる信綱の精神は、人間とも妖怪とも違う場所に存在している。
霧の異変の時に信綱との違いは思い知らされた。その上で友人であろうとしているのは自分だが――何度も見たい姿ではないと椛は感じる。
「……とりあえずご飯にしましょう。阿弥ちゃんもお腹を空かせているでしょうし」
「…………」
「な、何か不満でも?」
阿礼狂いだった姿を見せられた後の無言は怖い。今の信綱の内心では椛を殺す算段が立てられているのではないかと気が気でなかった。
「……いや、阿弥様と呼ばないのが不満だっただけだ」
「あ、ちょっと安心しました」
「……? 変なやつだな」
いや、一番変なのは君です、とツッコむ気力はなかった。
信綱が本気で阿礼狂いの状態になっていたら、多分無言で殺しに来る。それが実感できてしまう程度には、先の信綱が見せた目は殺意に満ちていたのだ。
椛は昼食を作るだけの時間にドッと疲れを覚えながらも、阿弥の待つ食卓に食事を持っていくのであった。
「美味しいです! この天ぷらとか最高!」
川魚と山菜がきつね色の衣に包まれ、油の香りがなんとも食欲を誘う。
阿弥が美味しそうに食べる姿に頬を緩ませながら、信綱も川魚のそれを一つ口に運ぶ。
衣に歯を立てるサクッとした軽い音とともに、魚のほくほくした身が舌の上でほぐれる。
熱いと思うが、火傷するほどではない。油に通すことによって活性化される魚の旨味を楽しみながら、白米をかき込む。
「ふむ、確かに美味いな。火の通り具合もいい塩梅だ。あ、阿弥様、そちらの味噌汁は私が作りました」
「え? ……あ、ホントだ。お出汁とか違うけど、なんか慣れた味付けがする」
油揚げの味噌汁に炊きたての白米。川魚含む山の幸の天ぷらと、こんな状況下で食べられるものとしては十分以上に上等な昼食に舌鼓を打つ。
「意外と薄味なんですね。子供はもう少し濃い目の味が好きかと思ってました」
「阿弥様はご健啖でよくお食べになる時期だ。味を濃くして塩を摂り過ぎるのは良くない」
「と、父さん!」
恥ずかしそうに隣の信綱を見る阿弥だが、信綱は気にしない。
何か恥ずかしいことを言っただろうか? と本気で疑問に思っている顔だった。
「父親というより母親……」
「そこ、何か言ったか」
「いえなんでもないです!」
誰かはわからないが、彼の伴侶になる人は大変だと思う椛。結婚の素振りすら全く見えないので、無駄な心配だとは思うが。
そんな風に賑やかな昼食を終えると、信綱は食後のお茶を片手に口を開く。
「――阿弥様、これからどうされます」
「……今がとっても危ない状況だってこと、すっかり忘れてた。父さ――えと」
今更かもしれないが、御阿礼の子として取り繕った方が良いのではないかと思ってしまう阿弥。
戸惑った目で椛を見ていると、椛はふっと相好を崩す。
「好きに呼んで構いませんよ。私は下っ端の白狼天狗ですから、あなたとの繋がりなんてないも同然です」
「じゃあ、えと、父さん。これからどうしたら良いと思う? 私より父さんの方が色々と考えていると思うから」
「……でしたらこれは想像が多分に入りますが」
信綱は襲われた際の違和感や、そこから推測できる敵の背景、事情などを説明した上で一度話を止める。
この中に阿夢に関係する話は入れず、敵は何かしらの事情でこちらを狙っている派閥がいるという説明に留めた。
信綱の先祖が関係していると言えば、連鎖的に御阿礼の子である阿弥も気にしてしまうだろうという判断からだ。
「――阿弥様の安全は最優先されるべきです。ですが今回の件はただ逃げても解決にはならない可能性が高い」
人間を支配して畏れをもらうことが向こうの最終目的。となればこの騒動に乗じて人里を天狗が襲っている懸念もある。
もうそこは心配しようとしまいとどうしようもないので、事前に頼んでおいたレミリアが仕事をしてくれることを願うばかりである。
河童の集落を通した逃走経路と言い、椛への頼みごとと言い、転ばぬ先の杖だったものが次々と役立つような事態になってしまい非常に悲しい。全て肩透かしで終わってくれればそれが一番だったのに。
「私たちを狙う存在がいる以上、人里に逃げてもそれを考え続けなければなりません」
「天魔様たちに任せるのは……」
「彼らが私たちを狙う存在を排除までできるか、と言われるとわかりません」
多分、天魔は殺すと決めたら同族だろうと殺すだろうが、全てが終わった後に天魔からそれを聞いて、安心できるかと言われると否である。
というか信綱だったら人間を狙う感情を利用して手札の一枚にする。勝手に動かないよう首輪さえ付ければ、自分と異なる意見の持ち主はそこそこ貴重なのだ。
「そこまで考えていくつか道はあります。一つ、この白狼天狗の力を借りてこのまま逃げて人里に戻る」
「でもそうなると父さんの言うように、私たちを狙い続ける人が残るのよね?」
「後のことは私にお任せください。どうにかしてみせます」
天魔相手の知恵比べになろうと、どちらにせよ阿弥の危険は排除するつもりだった。
ただ、現時点での脅威は排除できない。ここで失敗すればしばらくは大人しくするかもしれないが、次の世代以降に不安が残り続ける。
「二つ、この騒ぎで人目に付きにくいのはこちらも同じです。私が出て狙っている者たちを倒し、この騒動の解決に助力する」
「それじゃ父さんが危ないよ!」
「ですが、後々に売れる恩や後顧の憂いを断つという意味では悪くない手だと愚考します」
向こうにとってこちらを殺す千載一遇の好機であるのと同じく、こちらも向こうに刃を届かせるまたとない機会なのだ。
御阿礼の子を連れた状態で反撃してくるとは思っていないだろう。阿弥を預ける決断ができるほど信頼している天狗の友人がいるとは向こうも思うまい。
「その場合私はどうなるの?」
「この家で待っててもらうか、私抜きで人里へ戻ることになります。後者の場合はほぼ確実に戻れる手段です」
霧の異変の時に作った八雲紫への貸しを返してもらえば、阿弥の安全は確保できる。阿弥が望むなら今が使いどきと判断してためらわずに使うだろう。
「……最初からそれを使わないのは、理由があるのよね?」
「ええ。隠すことでもないのですが、八雲紫を頼ることになります。幻想郷縁起の編纂に必要な阿弥様は確実に戻れるかと」
逆に信綱まで安全かは保証できない。人里内で発言力があるだけならまだしも、信綱の影響力は妖怪にまで広がりつつある。
それを疎んじて行方不明扱いにされる可能性は否定できなかった。阿弥を任せるのは構わないが、自分が頼るのは是が非でも避けたい相手だ。
「ただ、こちらも霧の異変の際にこちらが押し付けた借りを返してもらう形になりますので、一度きりになります。もう一度似たようなことがあっても対応は難しいかと」
「うーん……」
どれも一長一短な選択肢の数々に、阿弥は可愛らしく腕を組んで黙ってしまう。
これが最善、と言える選択肢を提示できないことに信綱も忸怩たる思いである。全ては何かと複雑な幻想郷事情が悪いと決めつけておく。
とりあえずの安全確保のために人里へ戻るか、後顧の憂いを断つべく戦いに転じるか、八雲紫という一度限りの禁じ手を使うか。
人里に天狗が行っていれば安全は確保できない。後顧の憂いを断とうとして死んでは元も子もない。紫は普通に信用できない。
何もせずここに留まっていれば――安全は確保できるかもしれないし、天魔が信綱を狙う大天狗を殺してくれるかもしれない。
と言ってもあくまでかもしれない、だ。自分と阿弥の命運を信用もできない他人に任せたくはない。
「……父さんはどうしたい?」
「あなたの意向に従いたいのが本心ですが……私心を語るのであれば、阿弥様の不安を払いたいと思っております」
「私の不安?」
「より正確に言えば、阿夢様の悲嘆でしょうか。阿弥様が阿夢様の記憶にある火継と私を重ねて不安に思うのはわかります。それがあなたを苛むのなら、私が上書きしてしまいたい」
天狗に手傷を与えて死ぬのではなく、天狗に打ち勝って帰ってくることで、阿弥の不安は払拭されるはずだ。
そう伝えると阿弥は信綱の目を真摯な瞳で見つめる。正面から見つめ返す信綱の目には、阿弥が何かを決心したように映っていた。
「……信綱さんは無事に帰ってきますか?」
「必ず。そしてあなたを守り続けます」
「……絶対?」
「絶対に」
阿弥のためだけでなく、阿弥からの願いも背負って戦うのなら、それこそ火継の人間に負ける道理はない。
「……信じると言ったのは私だもんね。私たちを狙う悪いやつなんてぶっ飛ばしちゃって!」
それが精一杯の強がりであると、信綱には一目でわかった。きっと心の中は不安に溢れているのだろう。
だが、信綱が側にいられない時は今後も出てくるはず。守るために打って出なければならない時は必ず訪れる。
阿七の時に一度も彼女の前で戦う機会がなかった。それが不信と言うほどではないが、信綱の力を信じない要素になってしまっている。
戦う機会など少ないに越したことはない。だが、どうしても来てしまう時に信じてもらえないのも辛い。
少年の頃、幻想郷縁起を届けに行った時も阿七には心配ばかりされてしまった、と信綱は阿弥に心配させてしまっている現状に内心で嘆息する。
「――ええ。傷一つ負うことなく帰ってきます」
ならばと決意する。今この時、阿弥の願いを完璧に叶えてみせよう。
烏天狗が襲ってくる上、最終的には大天狗に刃を向ける。――だからどうした。それは御阿礼の子より重いのか。
否、断じて否。彼女の願い以上に重いものなどこの世に存在しない。
信綱は阿弥の頭を優しく撫でて、後ろでことの推移を見守っていた椛に振り向かないまま話しかける。
「争いの状況は?」
「少し落ち着き始めて小康状態と言ったところです。やはり天魔様が舵を切っている分、支配派は不利になってます」
「……お前が以前話していた天狗はどこにいる?」
「……頂上付近に大天狗様らの居住区があります。そこに」
「そうか。――そうか」
阿弥に背を向け、二刀を携えて椛の顔を見る。
信綱の顔を見て椛は自分の意識に反して身体が強張るのを感じる。まただ、また、この人間は狂気に身を浸している。
いいや、この表現は適切ではない。事この人間に関してはつけていた仮面を外して、本来の姿に戻っていると言うべきなのだ。
「阿弥様を頼む。お前ぐらいにしか頼めん」
「……わかりました。その代わり一つだけ良いですか」
「なんだ」
「できるだけで良いですから、あまり身内は落とさないでください」
この場合の落とすとは、殺すことを指しているのだと気づく。椛も阿弥に配慮しているのだろう。
そういった気遣いが信綱の阿弥を預ける判断に繋がっているのだが、本人に言うつもりはなかった。
「わかった、可能な限り配慮する。……周囲に天狗はいないな?」
「……はい」
「……貧乏くじか。済まないな、椛」
考えてみれば椛が信綱に協力することは、大天狗を討ちに行く片棒を担ぐことだ。
信綱たちの障害を排除するために不可避であっても、同族を殺すことに簡単に納得はできないだろう。
御阿礼の子を守るためである以上、後顧の憂いは断って進むつもりだ。
しかし――それで余計な時間を食わないためにも、殺さない方が良いところでは殺さずに進もう。
何かを堪える顔の椛の頭に軽く手を置いて、驚いたような顔をする彼女の反応を待つことなく外に出る。
いつも通りの山の空気。しかし今この場所は戦場に等しく、油断すれば命を落とす場所だ。
ふぅ、と息を吐く。阿弥の前であまり醜いものを見せたくなかったので、かなり言動に気を使っていたのだ。
だがそれもおしまい。ここからは――阿礼狂いとしての時間だ。
剣を抜いて移動を開始する。踏み出す足は地を蹴り、木を蹴り、人間とは思えない速度で三次元の動きを展開し――
「……っ! お前は!」
「――失せろ」
分散して信綱を探していたであろう、烏天狗の一人を瞬時に斬り刻むことによって、開戦の狼煙とした。
Q.なんでこんな面倒くさい状況なの?
A.ノッブが強すぎて人間に注目が集まっているから。
ということで阿礼狂いが動き出しました。阿弥の前では極力グロ画像を見せないようにかなり配慮していましたので、今が何の縛りもなく動ける状態です。
まあこの場面はぶっちゃけそんな重要じゃない。強いて言うなら阿七、阿弥、阿求の三代に仕えるはずの男が阿夢の想いまで背負い始めたくらいだ。
次のお話では色々と視点を動かしていく予定です。