阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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ちょっと多神連合をしばいていたら寝食を忘れて遅れました。……遅れました?(一週間投稿していた頃のペースが思い出せなくなっている)


反乱の始まり

 再び案内された部屋は、信綱にとって非常に見慣れた空気を漂わせるものだった。

 人里の運営を決める際に集まる部屋。内装は微妙に違えども、用途が同じである以上纏う空気も同じになる。

 

 御阿礼の子に集中したい阿礼狂いとしては誠に遺憾ながら、信綱はこういった空気に慣れてしまっていた。

 視界の先、上座にはしわがれた老齢の烏天狗がいた。片膝を立てたあぐらをかいて、こちらを見下ろす眼光には覇気とも言うべき強い威圧があった。

 

 奇しくも、先ほど信綱が天魔と相対した時に受けた感覚と同じであることから、それが変化の術を使用した天魔であると信綱は理解する。

 

 しかし阿弥はそのようなことは知らない。老齢の天狗の眼光を受けて、阿弥は怯んだように体を強張らせる。

 

「天魔様、人里からの客人を連れてまいりました」

 

 文もこの時は飄々とした顔を見せることなく、気を張った声を出す。

 それもまた、阿弥を緊張させる要因になってしまうことに信綱は気づく。

 

「……阿弥様」

 

 彼女の緊張を和らげるように、そっと阿弥の背中に手を触れる。

 阿弥は一瞬だけこちらを振り返り、微かに安堵したような笑みを浮かべて歩き出す。

 

「よくぞ参られた。御阿礼の子よ。儂が天魔だ」

「ご招待にあずかり光栄です。八代目阿礼乙女、稗田阿弥と申します」

「うむ、此度の縁起には期待しておるぞ」

「はい。実りあるお話になればと思います」

 

 そう言って阿弥は天魔に笑顔すら浮かべてみせる。

 それが彼女なりに精一杯の姿であると、レミリアの時に理解した信綱は内心気が気でない。もっと和やかに話を進められないものだろうか。

 

「我ら天狗のことを知ってもらおうと思って招待した次第だ。こちらも話せることは包み隠さず話すゆえ、そちらも我々に対して誠意を見せてくれることを期待する」

「もちろんでございます。ではまず天狗の生態の確認から……」

 

 夢中になって話を進めていく阿弥。御阿礼の子としての使命かはわからないが、こうして天狗と話ができる機会など久しぶりであり、天狗のことを知る絶好の機会なのだ。この機を逃す手はない。

 その後ろ姿を眺めていると、文がそっとこちらに近づいてくるのがわかる。

 

「こちらを」

 

 後ろ手にかさりと紙が触れる。装束の袖にしまい込み、咎めるように目を細める。

 天魔たちにとってはこの後の信綱との会談こそ本命なのかもしれないが、阿礼狂いである信綱にとっては御阿礼の子以上に優先するものなどない。

 話は聞いてやるから、今は阿弥様の話を聞かないと殺すぞ、という意味である。

 共存を願う心は確かに存在するが、そんな個人的な私心より御阿礼の子が大事な信綱だった。

 

 信綱の視線の意味を正しく読み取ったのか、わずかに頬を引きつらせた文が天魔の後ろに戻っていく。

 そうしている間にも話は進んでいく。

 阿弥は信綱も見たことがないほど熱中した様子で質問を繰り返し、その都度手元の紙に書き込まれる。

 信綱の手も天魔の一言一句を逃さぬよう速記していくが、これが必要ないと確信できるほど、阿弥の集中ぶりは凄まじいものだった。

 

「――童でも御阿礼の子か。いやはや、質問攻めよ」

「あ、いえ、その、天狗のお話が聞けるなんてこれまでの代ではほとんどなかったことですから、つい夢中になってしまい……申し訳ありません」

「責めてはおらぬ。招待したのはこちら。客人ももてなせぬほど、天狗は排他的ではない」

 

 本当だろうか、と信綱は首を傾げる。

 領域に許可なく入って来たものを問答無用でさらおうとするのは、排他的とは言わないのだろうか。

 おかげで椿に追い回されてエライ目に遭った。多分現在進行形で続いている。

 あれが運の尽きというべきか、あの邂逅があったから今の自分があるというべきか。

 

 自身の巡り合わせに内心でため息をつく――前に私心を切り捨てて天魔の言葉を正確に書き留めていく。

 阿弥が使命を果たしている隣にいられるのだ。これ以上の幸福がどこにある。

 山あり谷ありの人生を送っている自覚はあるが、少なくとも二代続けて御阿礼の子に仕えられるという幸福は、それら全てを補って余りあるものだ。

 

「ふむふむ、天狗はそうやって生活をしているのですね……。ここまで深く聞けたのは歴代でも初めてです。今回の幻想郷縁起の中心はあなた方と吸血鬼になりそうです」

「儂らを多く書いてもらいたいものだな。新参者に大きな顔はさせられん」

 

 くぐもった笑いが天魔の口から漏れ出る。それに阿弥も小さく笑い、取材そのものは非常に和やかに進んでいた。

 元々呼ぶ気があったのか、はたまた阿礼狂いである自分のご機嫌取りのためか。本心はわからないが、阿弥が楽に取材できることは素晴らしいことである。

 

「儂ら天狗と人間は違う。文が案内したのなら多少は生活も見ただろうが、人間があの中で生活はできまい」

「その通りですね。人間は空を飛べるようにできていない」

「じゃが、天狗の中には人間に関わりたいと言う者も出てきている。縁起にはそのことも載せておいて欲しい」

「そこまで書いてよろしいのですか? 妖怪としての危険度が下がりかねませんが……」

「顔を合わせぬ現状の方が不味い。忘れ去られぬよう、対策を講じる必要があるのだ」

 

 妖怪の山の頂上にいるだけでは、人間との接点など皆無と言える。事実、信綱だって麓で出会った椿と椛以外の天狗を見たのは、霧の異変があった時からだ。

 それにあの頃は妖怪を見たことがない世代が主流になりつつあった。

 もし霧の異変が起こらず、あのまま時間が流れていたら――幻想郷で妖怪の存在が夢物語になるなどという状況があったかもしれない。

 

 そういった意味ではレミリアの来訪は奇貨と言えるのだろう。あれが切っ掛けとなって信綱は妖怪に名が知られ、それぞれの勢力も今後を見据えて動き始めた。

 目の前の天魔もそうして、人間との付き合い方や天狗の未来などを見ているのだろう。どこに着地点を見ているかまではわからないが、無闇に敵対はしたくないものだ。

 

「これもその一環よ。無論、畏れがなくなるのも困るため、適度に怖がらせてもらう必要はあるが」

「理解しております。私が幻想郷縁起の編纂を行うのは、恐れるべき妖怪の対策ですから」

 

 対策をするということは、脅威と認識することだ。

 本当に怖くないと思っているのなら、対策すら取る必要がなくなる。人間が人間に対策を取らないように。

 

 ともあれ概ね和やかに進んでいるようで何よりである。天魔も阿弥を怖がらせたところで得られるのが阿礼狂いの殺意だけなのだ。どこにも得がない。

 

 阿弥も子供らしい姿ではなく、妖怪の知識を蓄え続け、幻想郷の歴史を見届けてきた御阿礼の子らしく新たな妖怪の知識の獲得に貪欲な姿勢を見せている。

 この知的好奇心と求聞持の力が彼女の強みなのだろう。知識はあって困るものではない。

 

 阿弥が質問を行い、信綱がそれに対する答えを機械的に書き留めていく。

 身も心も阿弥のために使える時間。なんと素晴らしいのだろう。できれば永遠に続いて欲しいくらいだ。

 しかし世界というのはとことん信綱の期待を裏切るようにできているようで――

 

 

 

「――阿弥様、伏せてください!」

「――天誅!!」

 

 

 

 一瞬早く気づいた信綱が阿弥を背中から押し倒すように飛びつくのと、窓から飛び込んできた複数の天狗が武器を片手に殺到して来るのは同時だった。

 鼻から下は布で隠されており、手に持つ武器は天狗の炎で彩られている。入念に準備をしてきたことが一目でわかる様相だ。

 

 だが天誅と言っていた以上、狙いは天魔。信綱はそれらの情報を見抜きながらも、まずは阿弥の安全を優先した。

 

 信綱より僅かに遅れて気づいた文がすぐさま一人を無力化する。狭い室内だから風を下手に操ると自滅の危険があるが、文にそれは適用されない。

 風を操る程度の能力を使えば手足のように、いや手足以上の精度で風を使えるのだ。室内であるという縛りなど何の意味もない。

 

 しかしそれで防いで一人。驚愕から立ち直り即座に無力化する手際は驚嘆すべきものだが、数が多い。

 残りの天狗は少女を庇うように倒れる信綱には見向きもせず、微動だにしない天魔に室内用の槍を突き出し――

 

「――喝!!」

 

 天魔の総身から迸る妖力であっさりと防がれる。

 吹き出す妖力が室内に風を起こし、襲撃してきた天狗を吹き飛ばして壁に叩きつける。

 即座に戦闘不能とまでは行かなくても、壁に勢い良く叩きつけられれば誰だって動きが止まる。それは物質である以上避けられない状態であり、狙うべき隙でもあった。

 

「え、な、なに!?」

「阿弥様、少々目をつむっていてください」

 

 無力化の好機と捉えた信綱が動き、素手で瞬く間に大半の天狗を無力化する。

 後頭部を強く打てば天狗だって気絶ぐらいするのだ。回復力が人間とはケタ違いのため、人間が昏睡する強さで打ってもせいぜい二、三分程度ではあるが。

 問答無用で殺さなかったのは阿弥を狙っていないからである。これで攻撃が少しでも阿弥に向かっていれば、全員の首を落とすつもりだった。

 

「阿弥様、もう大丈夫です。下郎は無力化しました。ですが私の側から離れぬよう」

 

 信綱の言う通り頭を抱えてうずくまっていた阿弥を、優しく片腕で抱き寄せる。

 無言のまま強く抱きついてくる阿弥の背中をさすりながら、信綱は天魔らに険しい視線を送る。

 

「説明してもらおうか。どうやらこちらを狙ったものではないようだが」

「文、外を見てこい。やっこさん、これだけでオレを殺せるとは思ってないだろ」

「見る必要ないですよ。窓から見るだけで十分です」

 

 文が引きつった表情で外を眺めており、それに釣られて信綱と天魔も視線を窓に向ける。

 

 

 

 ――そこでは、烏天狗同士が空を縦横無尽に入り乱れて戦う光景が繰り広げられていた。

 

 

 

「…………」

 

 信綱はその光景に目を丸く見開く。襲撃ぐらいは予測していなかったわけじゃないが、よもや天狗同士が戦う光景を見ることになるとは思っていなかった。

 隣の天魔は盛大に舌打ちし、変化の術を解く。もはや取り繕う余裕もないということか。

 

「説明を」

「天狗が真っ二つに分かれてるのは知ってるな? あれが爆発したってところか」

「…………」

 

 起爆剤は自分たちか。その意味を込めて天魔を見る。阿弥がいる手前、口に出して言ってしまうと阿弥が責任を感じてしまいかねない。

 それを正しく読み取ったようで、天魔は軽くうなずいて口を開く。

 

「――済まない。ここまで不満が溜まっているとは見抜けなかったオレの不徳だ。大方、オレを排して支配派の大天狗を天魔に据えてしまおうって魂胆だろう」

 

 やるにしてもここまで大事にする必要があるのだろうか。

 打ち負けて堕ちていく天狗も窓から見えるが、肉体が消えていない辺り致命傷ではないのだろう。

 そう考えると、人間の価値観で見ればこれは戦争にも等しい戦いだが、彼ら天狗から見れば己の意見を通すためのちょっとした強硬手段の一つに過ぎないのかもしれない。

 あまりこんなところで価値観の違いを感じたくはない信綱だった。

 

「文、客人を人里まで丁重に送れ。傷一つでも付けられたら向こうの勢いが付いちまうし、何より彼が怖い」

「人間一人にそこまで、と言いたいところですけど今の手腕を見せられては仕方ないですね」

 

 文も文で信綱への評価を改めていた。

 烏天狗を討ち、吸血鬼に勝った。遠目で見るのと、間近で見るのでは違う。

 すでにあれから十年弱が経過しており、そろそろ四十代が見えてくる年齢だというのに技量はさらに上がっていた。限界とかないのかこの男は。

 

「阿弥様、非常事態です。人里へ戻りましょう」

「わ、わかった。ああ、嫌だ、嫌だよ……頭に阿夢の記憶が浮かんでくる……!」

「ご安心ください。逃げるだけですから簡単ですよ」

 

 信綱は阿弥を片腕に抱き留めたまま、安心させるような声をかけていた。

 目に涙を浮かべてこちらを見上げる阿弥に微笑みかけ、背中をさする。

 確かに置かれた状況はよろしくないが、信綱は別に危機感は持っていなかった。正直、タダの烏天狗ぐらいなら片手が塞がっていても無力化できる。

 それに阿夢の代の火継のように大天狗に挑む事情もない。切っ掛けは自分たちかもしれないが、渦中にはいないのだ。危険からは速やかに遠ざかるのが吉である。

 

「お二人とも捕まってください、急ぎますよ!」

「空中では動けない俺たちが落ちたらカモだろう。途中までは走る。阿弥様、片腕で失礼します」

「きゃっ! と、父さん、大丈夫なの!? 文さんについていった方が……」

「高所から落下したら人間は死にますよ。下手に集まる方が危ない」

 

 それにさっきの襲撃者も天狗のみを狙っていた。人間二人を抱えたら文も普段通りの動きはできないだろうし、色々と人間離れしている信綱も高所からの落下には為す術がない。

 片腕で阿弥を抱き上げ、もう片方の腕で天狗の襲撃者が持っていた刀を拾い、信綱は文とともに集会場を飛び出す。

 

 すでに外ではそこかしこで戦闘が始まっており、三次元に動きまわる天狗がそれぞれの術や武技をぶつけ合っていた。

 外に飛び出した瞬間、文に天狗が押し寄せる。地を往く信綱たちは木々が隠れ蓑の役割でも果たしているのか、見向きもされない。

 本当に内輪揉めが肉体言語に発展しただけなのだろう。天魔を殺そうともしている辺り、反乱と言っても過言ではないが。

 

 天狗の内部事情など椛と文からの伝聞でしか知らないので、あまり深入りするつもりもない。深入りするにしても阿弥の安全確保は必須である。

 

「――阿弥様、思うところはお有りでしょうが、私を信じてください。あなたも私も、必ず無事に戻りましょう」

「……こんな時に私は信じることしかできないけど……だから最後まで信じる! 父さん――頑張って!!」

 

 そう言って阿弥は信綱の胸に顔を埋める。

 まだ少女の身体、思いっきり抱きつかれても動きにそう支障はない。

 いや、むしろ御阿礼の子と触れ合いながら動けるとか、信綱的には羽が生えたような気分だ。

 

 阿弥に振動が行かないよう細心の注意を払いながら森を走る。空を飛んで移動していた時に集会場から、河童の集落への方角は確かめてある。

 文に注意が行っている今のうちにさっさと脱出して人里に戻れば問題はない。

 殺しにかかってきた精鋭と思われる天狗も天魔と文に傷一つ付けられなかったのだ。遠からず天魔たちの勝利で終わるだろう。

 今は逃げて状況が落ち着くのを待てば――

 

「――お二人とも、逃げて!!」

「っ!?」

 

 信綱は異変に気づく。文には目もくれず、今まで狙ってこなかった自分たちに向かってくる天狗がいる。それも複数。

 そしてさらに間の悪いことに文の叫びで信綱たちの位置が割れてしまった。文と交戦していた天狗から何人かが信綱たちに向かってくる。

 

 信綱は高所からの攻撃を嫌って森の中に入り、状況の悪化に内心で舌打ちする。一振りしか使えない状況では殺し切るのが難しい。せいぜい首を落として足を止める程度。

 文の支援はわからない。彼女は大天狗以上に強いのかもしれないが、群れた烏天狗を殺さず無力化となると手こずる可能性が高い。

 妖怪の厄介さはその再生力にあり、複数で固まられた場合の無力化が極めて難しくなる。殺してしまえばその問題は解消されるが、文とて同族を手にかけたくはないだろう。

 それに信綱が森に逃げ込んだ時点で文はこちらを半ば見失っている。ある意味信綱の自業自得だが、状況が状況故に仕方がない。文の支援のために他の天狗に狙われる危険は冒せない。

 

 阿弥を置いて戦うことは論外。どこから敵が来るかもわからない状況下で、自衛のできない阿弥を置くなど愚の骨頂。

 己の未熟であると歯噛みする。片手で烏天狗複数すら屠れない自分が悪いと結論付け、思考を切り替える。

 

 複数人を相手に五体をバラバラに刻んで殺す手間を取るか、はたまた首を落とすなり目と耳を切るなどの足止めに徹して逃げ続けるか。

 前者はもちろん危険が大きい上、人間に殺された天狗が多くいるとあっては人間への心象も悪くなるどころではないだろう。

 後者は時間稼ぎ以上の意味は持たない。一直線にこちらを目指してきている以上、何らかの目的を持って追いかけてきている相手を足止めだけに留めて良いのか、信綱の直感がささやく。

 

 阿弥を抱える腕に力が入ってしまったのか、阿弥が服を握る力が強くなる。

 小さな手が白くなるくらい握りしめられたそれを見て、信綱は改めて眼前の脅威を見据える。

 どちらを選んでも相応の危険が伴う二者択一。信綱は腕の中にいる阿弥を最も危険に晒さないで済む方法を選択し――

 

 

 

 

 

 視界の端に、見慣れた白狼天狗の大太刀と盾が映る。

 

 

 

 

 

「――阿弥様、少し揺れますから目をつむってください!」

「え、きゃあ!?」

 

 決断は早かった。信綱はその場に足を止めると、殺到してくる一体の天狗の武器を太刀の一振りで破壊し、怯んだ隙に首を刈り取る。

 

 血を噴き出し、ダラリと立ち尽くすそれを見ても天狗たちは怯まない。つまり、信綱がどういう存在なのかわかっていて攻撃してきたということだ。

 しかし相手がどんな力量を持っているかわかっていたとしても、見失うことを嫌って距離を詰めてきたのが彼らの失敗であり、信綱の幸運だった。

 

 少女を抱え、使う武器は何の変哲もない刀。だが、御阿礼の子を守ろうとしている阿礼狂いが力を発揮できないなど冗談でしかなく。

 ものの数秒で襲いかかってきた天狗の首を全て切り落とし、もう使う必要のない刀を捨てて信綱は方向を転換し、河童の集落とは別の方向へ向かう。

 先ほどまでは逃走経路である河童の集落に向かうという目的地があったが、今はそれもない。

 にも関わらず信綱は逡巡を見せることなく走り続ける。そして一際大きな木の辺りまで来て、横合いから伸ばされる手を払うことなく掴み取った。

 

「――助かった。ありがとう、椛」

「ここまで来るの大変だったんですからね! って、今、私の名前を呼んで――」

「とにかく逃げるぞ。どこに行く?」

「ああもう! 君は本当に反応できない時に言ってきますよね! ――こっちです! 私がいれば不意討ちの心配はありません!」

 

 信綱たちを先導しながら後ろを警戒するという器用なことを、椛は簡単にやり遂げる。こういう場面において彼女ほど頼れる存在は他にいないだろう。

 

「と、父さん、あの人は?」

「白狼天狗の犬走椛。私が幼少の頃より知り合った妖怪で、友人です」

「ゆ、友人?」

 

 両手が空き、椛がいる限り不意を突かれる不安もないため、阿弥の抱き方を変えて膝裏と背中に手を入れる――いわゆるお姫様抱っこの形で阿弥を抱える。

 そんな阿弥は信綱が親しげに信頼を寄せて話す椛という妖怪の存在に、目を白黒させていた。

 さっきまでは険しい顔をしていた信綱もどこか表情を緩ませている。

 阿弥は信綱の私生活面での交友関係にはそこまで詳しくないが、先ほどまで文や天魔に見せていた顔とは比べ物にならない。

 

「……あれ?」

 

 そういえば阿弥は何も知らない。火継信綱という人間が自分に仕え、自分のことを一番大事にして、自分が一番頼っている優しい父親で――

 はて、と阿弥は信綱の腕の中で小さく首を傾げる。信綱は阿七の頃から自分の代まで、ずっと仕えて来てくれた大好きな男だが――よく考えたら彼のことを何も知らない。

 

 そして椛と呼ばれた少女は阿弥の知らない信綱を知っている。幼少の頃からと言っていたし、数多くのことを知っているだろう。

 そう考えると、胸が微かに締め付けられるような気分になる。不快なようで、そうでもないような曖昧な気持ち。

 

「それでどこに行く。いつまでも逃げられるのか」

「一旦私の家に行きましょう。君が騒ぎを起こすのは予想してましたけど、あんな大規模なものになるとは思ってませんでした」

「騒ぎを起こすのを予想していた点については後で話し合おう。阿弥様、これから汚い家に向かうそうですがご容赦を」

「君こそ話し合いが必要ですよね! いつも綺麗にしています! あなたもこの人の言葉は信じないで良いですからね! 照れ隠しに悪口を言っちゃう子供並みの神経ですから」

「え、あ、はい!?」

 

 が、そんな気持ちも信綱と椛の話を聞いている間にどこかへ行ってしまう。というかそんな名前すら付けられない気持ちであたふたしていられる状況じゃない。

 信綱と椛は落ち着いているが、状況自体はあまり好転していないのだ。未だ安全圏とは言いがたいし、そもそも天狗の里で何が起こっているのかもよくわかっていない。

 依然として阿夢の記憶にある火継の側仕えがボロボロに傷つき、命を流していく姿は脳裏に焼き付いたまま離れない。

 

 しかしこの人なら。この人ならばどうにかしてしまうのではないか、と。天魔よりも文よりも早く襲撃に気づいた信綱ならば。

 阿夢の記憶が不安と恐怖を叫び続けている。だが信綱ならば阿夢の受けた悲しみを阿弥に与えたりしないと、生まれた時から一緒にいる阿弥の家族を信じることができた。

 

「父さん」

「どうかしましたか?」

「信じてる。――父さんなら阿夢の嘆きを振り払えるって信じてるから」

 

 阿弥の言葉に信綱は一瞬だけ呆けたような顔になる。

 自分の行いは阿弥の安全のためだけではなく、目の前で火継を失った阿夢の無念も晴らせるのか、と気づかされたのだ。

 今この瞬間、信綱は二人の御阿礼の子の想いを背負っているのだ。

 御阿礼の子二人から見てもらえるなど、なんて幸福なことなのだろう。

 

「ええ、もちろんです。あなたのためなら私は――」

 

 笑って全てを犠牲にし、破壊する。

 その言葉を呑み込んで、信綱は阿弥に微笑むのであった。




ノッブが椛にデレまくってる? 天狗の里で焦点が当たらないわけないだろ(真顔)
ということでまさかの反乱。しかしマジモンの刃物使っても五体バラバラにしないと死なない天狗の場合、ちょっと過激な学生運動ぐらいのもんです。

反乱に関する考察は次回の安全な場所に到着してから。まだノッブは阿弥の安全確保が最優先事項なので、それが終わるまで他のことを考える余裕がない。
襲われるぐらいは予想していたけど、よもや天狗の里全体の騒動に巻き込まれるとは思っていなかったノッブは無事に帰れるのか。



あ、あと私事ですが凄く久しぶりにゲームに時間を忘れる感覚を思い出しております。投稿が遅れましたら「あ、こいつメガテンに夢中になってんな」と思ってください。

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