「クックック……自分の文才が恐ろしいわ……。まさかこんな素晴らしい文章が書けるなんて……」
紅魔館の一室にて、レミリアは羽ペンを横において自画自賛をしていた。
彼女の目線の先には悪趣味な真紅の便箋に白いインクで文字が書かれており、そのものずばり手紙であることがわかった。
「詩的にして情熱的。それでいて私の想いを余すところなく記したこれはまさに! スカーレット・レターと呼ぶにふさわしい!」
ここに誰か人がいたら、何言ってんだこいつという目で見られていただろう。
くるくると回りながら自分の手紙に名前をつける様は、控えめに言って関わり合いになりたくない存在だ。
「さて、いつまでも浸っていても仕方ない。手紙というのはやはり他人に見られてこそ。……ああ、でもちょっと恥ずかしい気が……いいえ! 女は度胸! 尻込みしていたら何も始まらない! パチェー……はダメか」
勝手に悩んで勝手に自己完結したレミリアは親友でもある魔女を呼ぼうとして、口をつぐむ。
「確か巫女にお腹殴られて休養してたっけ。じゃあ仕方ない。めーりーん」
「はいはい、なんですか?」
呼んだらあっという間に来てくれる門番。
異変が終わってから屋敷の修復やらで忙しいのはわかるのだが、これは門番として正しい姿なのだろうか疑問に思うレミリアだった。
「ちょっと手紙届けて欲しいんだけど」
「はぁ、それは良いですけど、どちらに?」
「人里」
「あ、私ちょっと急用を思い出し――」
逃げようとする前に美鈴の足を掴んで逃げられないようにする。
「行け」
「ムリムリムリですって!? 異変が終わってからまだ三ヶ月ぐらいしか経ってないじゃないですか!?」
「もう三ヶ月も経ったのよ! うちのもやし魔女は腹パン食らっただけで三ヶ月も寝込むし、動かせるのあんたしかいないのよ!」
「いやいや! そもそも人里って妖怪の出入りがご法度だって言ってたじゃないですか!」
「先駆者はいつの時代も異端視されるものよ! 生け贄になって……んんっ! あなたが時代を切り拓くのよ、美鈴!」
「生け贄って言った!? 嫌ですよぉ……人里にはきっとあの人みたいな目をした人が大勢いるんですよお……。私なんかが行ったら五秒でミンチですよぉ……」
本気で嫌がっているのか、美鈴はさめざめと泣き始めてしまう。
余程信綱の目が怖かったのだろう。完全にトラウマになってしまっている。
しかし彼と同程度の力量の人間がワラワラいる人里とか、普通に妖怪を駆逐できるのではないだろうか。
いつの間にかレミリアの腹に顔を埋めて泣き始めた美鈴をあやしながら、レミリアはどうしようかと考える。
「あーもう、泣くな泣くな。こうなったら私も一緒に行くから!」
「本当ですか……?」
普段は自分を子供のように扱う美鈴が、逆に自分に甘えるように涙目で見上げてくる光景にレミリアは軽いめまいを覚える。
やっべーこの子可愛すぎるわーこの子を迎え入れる判断をした過去の私素晴らしい! などと美鈴を褒めるようでいて、その実自画自賛でしかない思考を僅かな時間で行う。
「大丈夫よ。このレミリア様に任せなさい! 私がちょっとお願いすれば人里に入るくらい朝飯前よ!」
「うう、ぐすっ……あれ? そうなると私必要ないんじゃ……」
「さあ行くわよ! 日傘を持ちなさい!」
「あ、待ってくださいよー!」
先に行ってしまったレミリアを追いかける美鈴。
大体これが紅魔館の日常だった。
「ひっ!? か、帰れよ妖怪! こ、ここは人里だぞ!?」
「あー……」
顔面を蒼白にしながら、震える手で槍の穂先をレミリアに向ける年若い少年二人の姿に、レミリアは空を仰ぐ。日傘で見えなかった。
「いやあ、あの男から聞いてない? 私、あなたたちに手は出さないわよ?」
「妖怪の言うことを信じられるか!」
「そりゃそうだ」
思わず納得してしまう。見ず知らずの妖怪に声をかけられたら、信用せずついていかないのが鉄則だ。
迂闊についていって命を落としたなんて逸話は枚挙に暇がない。
さて困った。愛すべき勝者との約定により、人里に手は出せない。
とはいえここで屋敷に戻るのも出かけてきた意味がない。なのでレミリアは彼らに呼んできてもらうことにした。
「じゃあ呼んできてよ。でなきゃここで出待ちするわよ?」
「ううっ、おい、どうしよう……」
「おれが知るかよ!? うう、なんでこんなことに……」
「哀れな……」
年若く経験も少なそうな少年たちがどんどん青ざめていく様を、横で日傘を持っている美鈴が同情の視線で見つめていた。
彼らの内緒話は件の青年を呼びに行く方向でまとまったらしく、一人が見張りを継続し、一人が呼びに行く様子だった。
なおその際にじゃんけんで決め、負けた方は人生が終わったかのような顔をしていた。
「んじゃよろしく。ねえねえそこの少年、なんか人里の美味しいものとかない? 次から持ってきてもらうわ」
「教えたらお前たちが独占するつもりだろ!?」
「そんなことしないって格好悪い。でも話し相手にはなってもらうわよ」
「どうしてこんな……」
「取って食べやしないから大丈夫よ。ほーらスマイルスマイルー」
「ひぃぃぃぃっ!?」
レミリア的には精一杯の友好的な笑顔だったのだが、少年には獲物を前にした舌なめずりにしか映らなかった。
槍も放り投げて尻もちをついて後ずさる少年。完全に逃げ出さないのは自警団としての使命か、はたまた腰が抜けただけか。
「……お嬢様、ちょっと楽しんでません?」
「わかる? ああも驚いてくれると妖怪としては嬉しいわね」
「……強く生きるんですよ、人間」
異変を経験したとはいえ、霧に覆われた人里を守っていたのは火継の人間だ。
実際に妖怪と相対した経験のある人材は、依然として少ないままだった。
ともあれ、レミリアは友好的な態度を取りながら、ちょっと驚かして楽しんでいると、人里に繋がる門から一人の男性が出てくる。
苦虫を噛み潰したような渋面を貼り付けて天狗の長刀と脇差を携えた、自警団の少年らより歳を取っている青年の姿を見た瞬間、レミリアは駆け出して――
「会いたかったわよおじさまっていたたたた!? 美鈴、日傘日傘!?」
日光の元に飛び出して、肌の焼ける苦痛に悶え苦しんだ。
「いきなり走らないでくださいよ!?」
「……何しに来たんだお前ら」
青年――レミリアを打ち倒したただ一人の男、火継信綱はそんな二人の騒々しい姿に頭痛を覚えるのだった。
しかしその様子を自警団の少年に見せることなく、信綱は少年の肩に手を置いて労いの声をかける。
「よく頑張った。後のことは俺に任せろ」
「は、はいっ! 英雄様、お願いします!」
先ほどまでの震えはどこへ行ったのか。少年たちはあっという間に逃げ去ってしまう。
その後ろ姿に信綱は何か言いたげな顔をしていたが、すぐにレミリアの方へ向き直る。
「で、なんの用だ」
「英雄様ですって美鈴。やっぱり私を打ち倒した男は評価されるものよね!」
「そりゃお嬢様みたいな吸血鬼に勝ったといえば、人間で見れば間違いなく英雄ですよ」
「人の話を聞けお前ら」
青筋を浮かべる信綱。ただでさえ今は異変の後処理が続いて信綱も忙殺されているのだ。
本心を言えば阿弥を女中に任せることなく、自分で世話をしたいのだ。なのに里の状況と信綱の立場がそれを許してくれない。
そこにやってきたのは異変の黒幕であるレミリア。しかも明らかに遊びに来た様子。
怒りたくなるのも無理はなかった。
「そうそう、ハイこれ」
「なんだこれは」
「ラブレターよ」
「……?」
レミリアの言葉の意味がわからなかった。幻想郷で通じる日本語とは全く違う。
違和感を覚えながらも信綱は手渡された赤い手紙に目を落とし――
「全く読めん」
「しまった言語の壁を忘れてた!?」
英語の文章など見たこともない信綱には理解できないものだった。
「……ああ、いや待て。手紙の類と考えるなら最後の方に宛名が付く。良かったな、名前ぐらいならギリギリわかるぞ」
もう少し時間をかければ全体の文法や最初に来る単語などから意味を類推することはできるが、レミリアのためにそこまでする義理はなかった。
「それじゃダメじゃない! ああ……私の最高傑作が……」
「残念だったな。お帰りはあちらだ」
「少しは慰めようとかないの!?」
「全く思わん。というかよく人里に顔を出せるな。あんだけの異変を起こしておいて」
「あら、その代償にこの場所を守れと言ったのはおじさまじゃない。私は約束は違えないわ。これもその場所と規模の確認よ」
「…………」
「おじさまだって、どの程度の大きさで、どの程度の人数もいるのかわからない場所を守れと言われても困るでしょう?」
眉のシワが深くなる。業腹だが、レミリアの言っていることの否定は難しかった。
とはいえ彼女を里に入れることを容認はできない。今でこそ美鈴の日傘の下で大人しいが、気が向けば人里の壊滅ぐらい容易い妖怪なのだ。
しかし――
「……吸血鬼の弱点は日光なのか?」
「あら、知らなかったの? 日光で焼かれる、銀やニンニク、他にも心臓を白木の杭で打ち込めば死ぬって話よ。実際に試したことはないけど、日光が辛いのは確かね」
「ふむ……」
銀やニンニクなどは確かめられないが、少なくともさっきの光景で日光に弱いことはわかった。
日傘を持っている美鈴を斬ればレミリアは日光に晒される。そこから逃げることを封じるために足を斬り続ければ、恐らく相当の痛手は与えられるだろう。
「……わかったよ。俺の目から離れない。その条件が飲めるなら外から案内ぐらいはしてやる」
「中は見せてくれないのー?」
頬を膨らませて不満気だが、外周の案内をするだけでも相当な譲歩だと気づいて欲しい。
「もっと付き合いが長くなったら考えてやる。今のお前には悪名しかない。さすがにそんな奴を里には入れられん」
「うー!」
「まあまあお嬢様、見方を変えてはいかがでしょう? ほら、人目を憚らず逢引ができると思えば」
「美鈴天才じゃない!?」
「でしょう? では日傘をお渡ししますから私はこれで――」
「そっちが本音か! 逃さないわよ!」
「やだー! その人と一緒やだー!」
「お前ら帰れよ」
なんて騒々しい連中だ。信綱は眉間をもみほぐすように手を当てて、胸中の苛立ちをごまかす。
「……さっさと行くぞ。来ないなら帰れ」
「あ、待ってってば!」
「うう、逃げられない……」
さっさと歩き始める。この二人のやり取りを見ていたらいつまで経っても話が進まない。
かつて自警団に属していた時のように外周を歩き始めると、レミリアと美鈴の二人もその横を大人しく歩いてきた。
「ふぅん、結構しっかり外周が作られてるのね」
「昔は人妖が殺し合っていたと聞く。その時の名残だろう」
「おっかない。人間もよく生きられたものね」
「半ば見逃されていたんだろうさ。天狗の群れやら鬼の群れにまで襲われて、あの規模の人里が生き残れるものか」
あるいは、自分のように妖怪と打ち合える人間が今より多かったのか。
それとも博麗の巫女が全力で働いていたのか。
当時の歴史書もあるにはあるが、その頃は慧音もまだ幻想郷にいなかった時期で、どうにも編纂内容に偏りが見受けられた。鵜呑みにするのは危険だろう。
「お前が来る前までは妖怪の被害もほとんど聞かなくてな。生まれてから一度も妖怪を見たことのない人も多い」
「へえ、驚いた。私が幻想郷に来たのも妖怪と人間が共存しているから、って売り込みなんだけど」
「お互いに顔を合わせない不可侵状態を共存というなら、な」
尤も、個人単位なら里の外に出る者が妖怪と遭遇することもある。
信綱自身はその典型で、妖怪の山にほど近くを鍛錬場にしていることや、幻想郷縁起を編纂する御阿礼の子に仕えている影響から、多くの妖怪と知り合っている。
……典型と言うには少々多すぎるが、彼のように頻繁に外に出れば妖怪と知り合う機会も増えると考えて間違いはない。
「じゃああのちびっ子たちは? 見るからに若そうだけど、若い連中にやらせてるの?」
「自警団は成人したての男たちが引き受ける暗黙の了解がある。主な仕事は里の見回りぐらいで、妖怪退治はまた別口の仕事だ」
「おじさまはその妖怪退治なのかしら?」
「有事の際には俺たちが動く決まりだ。だが異変の時でもない限り、俺たちが動くことはあまりない」
普段は御阿礼の子の側仕えになるべく自己鍛錬ばかりしている。
霞を食うわけにもいかないし、里との関係を良好に保ち続けるためにも仕事はしているが、阿礼狂いの一族は皆本心では信綱を排して阿弥の側仕えをしたいと思っているに違いない。
その辺りの説明は面倒だったので省略する。レミリアが知ったところで何の意味もない。
「ふぅん、じゃああやさまあやさま言ってた、それが関係しているって――」
「それ、などと呼ばないでもらおうか」
「う、わっ!?」
レミリアの首に脇差を突きつける。
抜刀の所作がレミリアの目にも追えなかった。人間以上の速度を出しているはずはないが、意識の間隙、瞬きにも見たない一瞬を狙えば不可能ではない。
悲鳴を上げたのは美鈴の方。レミリアは微かに目を見開いてその光景を受け入れ、やがて愉しげに唇を釣り上げた。
「いや、すまないね。謝罪しましょう。なるほど。あなたの一番大切なもの――人を傷つけたからあなたが来たわけ」
「そうなるな。……言っておくが、もう一度手を出したら」
「出さないわよ。負けた私が勝ったあなたのものに手を出す? 無様過ぎるでしょうそれは」
そういうレミリアの瞳には本気の怒りが浮かんでいる。
あまり見くびるな。そう言いたいのだと信綱は読み取り、しばしの間睨み合う。
「…………」
「信じられないというならお好きにどうぞ。尤も、私を打ち倒した男の度量はそんなに狭くないと思いたいけど」
「……ふん、信用できないで他者を切っていたら誰も味方にならんだろうが」
刀を収め、再び歩き出す。
勝者と敗者に分ける彼女の方針は理解し難いが、少なくとも信綱を害する真似はしないと考えて良いだろう。
それに吸血鬼を味方にできれば、利益は計り知れない。どこまで信用できるのかはわからないが……。
「あ、あの!」
と、思案に耽っていると後ろから若い女性の声が聞こえた。
信綱に対して怯えた視線を送って、レミリアとの話にはほとんど入ってこなかった美鈴が、信綱に声をかけてきたのだ。
「なんだ」
「そ、その……お嬢様は見た目通りのお子ちゃまで、すぐワガママ言い出しますし、飽きっぽいですし、時々奇行に走ったりしますけど!」
「主思いの部下だな」
「後でシバく」
レミリアと信綱の声も耳に届いていない様子で、美鈴は必死に言葉を紡ぐ。
「それでも! 自分から約束されたことを覆すようなお方ではありません! どうか信じていただけないでしょうか!」
「断る」
「良いこと言ったはずなのに!?」
そんな美鈴の必死の叫びを、信綱は一言でぶった斬った。
他人に言われた程度で信用するしないを覆すなど、そちらの方が軽佻浮薄である。
「お前が何を言ってもこいつが異変を起こして、多くの人妖を巻き込んで、何より阿弥様を害した過去は変わらない。だから相応の態度を取る。何か間違っているか?」
「そ、それは……正しいですけど」
「悪いことをした以上、それ相応の対応をされるのは当然の結果だ。だから、異変を起こした妖怪としてお前たちのことは扱う」
「……ま、道理だわね」
そこまで言って、言葉を切る。
事実を受け入れるように肩をすくめるレミリアとは対照的に美鈴はすっかり落ち込んでおり、自分なんかがこの人に声なんてかけるんじゃなかったと後悔している様子がありありと伺えた。
今言った内容はあくまで現時点での話であって、これから付き合いが長くなるのならその限りではないのだが、それに気づいた様子はない。どうやら口に出して説明しなければならないようだ。
「……とはいえ、俺はお前たちのことなどそれしか知らん。今後も人里に来続けるのなら――まあ、信じる時も来るだろうさ」
「ふぇ? それって……」
「大体、一朝一夕で信じろというのが無理な話なんだ。そういうのは時間をかけて醸成すべきものだ。……言いたいことはそれだけだ。行くぞ」
「ええ、わかったわおじさま。ほら行くわよ、美鈴」
「え、あの、ちょっと?」
レミリアは信綱の言葉を過不足なく理解したようで、上機嫌に隣を歩いていた。
鼻歌まで聞こえてきそうな様子で、美鈴に聞こえないよう空を飛んで信綱の耳に顔を近づける。
「おじさまも可愛いところがあるのね」
「今は信じていないのも事実だからな。里に入れるまで、時間がかかると思え」
「ええ、私は吸血鬼ですもの。気長にやっていくわ」
「どうだか……」
美鈴とレミリア、そして信綱の三人は里の外周を回りながら適当な話をする。
里の説明であったり、彼女らの自己紹介であったり、また互いの近況報告であったり。
外周を回り終え太陽が沈み始める頃には、美鈴からの怯えた視線は少しだけ弱まっていた。
「……さて、これで里の案内は終わりだ」
「外壁回っただけだけどね」
「まだ中には入れられん。……次からは門番に火継の名を出せ。そうすれば俺が来る」
「そうさせてもらうわ。でもそれってファミリーネーム――苗字の類でしょう? そろそろおじさまの名前を教えてくれても良いんじゃないかしら?」
「もう少し信用できるようになったら考えてやる」
レミリアは薄く微笑み、信綱から離れる。
今は信用されていない。しかしこうして共に時間を重ねていけば信用するとも言っている。
絶対に信じない、なんて言われるよりは破格の対応と言えた。
「今はそれで満足としましょう。ではまたねおじさま。次はあなたのお家が見てみたいわ」
「却下だ」
「つれない人。まあ良いわ。錠前は堅牢であればあるほど、解いた時の快感も大きいのだし」
「えっと……お邪魔しました! また来ますが、その時はお嬢様をよろしくお願いします!」
「ああ、また」
手をひらひらと振って彼女らが遠ざかるのを見送る。
空を飛んで夕闇に消えていくそれを見て、信綱は軽くため息をつく。
今後も異変が起こらない保証なんてない。だから彼女を味方に引き入れるようにしたが、かえって考えることが増えたかもしれない。
とりあえず今はこれから先も信綱を尋ねてくるであろう、レミリアの対応をどうしたものか頭を悩ませる信綱であった。
信綱はその日、妖怪の山に足を踏み入れていた。
用件はただ一つ。椿と自分、両者にとって共通の友人である椛に事の次第を報告するため。
「…………」
「……私が来ないこと、考えなかったんですか?」
いつも三人が稽古に使っていた場所で待っていると、上空から緊張を孕んだ声がする。
視線を上に向けると、椛は地上に降りて信綱の近くに寄ってきた。
「考えた。だが、どんな結果になろうとお前に報告するのが筋だと思っていた。今日がダメなら別の日にする」
「あなたがここに来た時点でわかっていることですが……聞かせて下さい。あなたと椿さんが行き着いた果てを」
いつもの人懐っこい面影はなく、真剣な顔で問いただしてくる椛に、信綱も包み隠さずあの日のことを話す。
「霧の中で襲ってきた奴と戦った。俺との一騎打ちだ」
「人間と烏天狗が本気の一騎打ちとか……いえ、今さらですよね。続けてください」
「強かった。最後に会った日よりも腕を上げていた。正直、食らいつくのがやっとだったよ」
椿の言葉がなかったら。無言で彼女が自分を殺しに来ていたら――父を使って一矢報いることはできただろうが、勝てたかどうかはわからない。
「でも、あなたが勝った。その刀、天狗のものですよね」
「ああ。椿がくれると言うから受け取った。悪くない使い心地だ」
頑丈で軽く、切れ味も鋭い。元々数打ちの刀でも斬鉄ぐらい訳はないが、この刀なら岩でも斬れそうだった。
「……すみません、私もまだ心の準備ができていませんでした。あなたがここにいるのだから答えなんて一つしかありませんよね。――椿さんは、どんな形で死にましたか?」
「…………」
言葉に迷う。排除すべき敵として、彼女の心を何一つ酌むことなく、戦いの中で心を交わしたいという彼女の願いを踏みにじって殺した。
それに後悔も迷いもなくても、他者に話すことがはばかられる内容であることは信綱にもわかっていた。
「――絶望して死んだ。あの戦いで心が交わった時など一時もなく、奴は最後まで自分を見てと絶望して死んだ」
「っ! わかっていて、どうして……!」
「敵だからだ。阿弥様の敵になった以上、俺が奴の願いを叶える道理など何一つとして存在しない」
そもそも前提が違う。信綱は戦いに私情は持ち込まず、御阿礼の子の敵となった者を淡々と処理していくだけだ。
その彼に戦いを通じて古来の人間と妖怪の在り方を思い出すなど、土台無理な話なのだ。
信綱の言葉を聞いた椛は何か言いたそうな顔をして、しかし何も言うことなくうなだれる。
「……霧が出てから会った時に気づいてました。椿さんは致命的な間違いを犯して、何一つ報われることなく死ぬんだって。ああ、だけど……!」
顔を上げる。椛の瞳には涙が浮かんでおり、今にも零れそうだった。
「どうして何も言わなかったんですか! 私だけがのけ者にされて! 三人で一緒にいれば良かったじゃない! 何が人妖の在り方よ! それで誰かを泣かせてれば世話ないわよ!!」
信綱への糾弾ではない。椛は信綱を通して、椿に対する思いを吐露していた。
胸ぐらを掴み、腹に顔を埋めて、どうして世界は悲しいのだと叫ぶ彼女に、信綱はかける言葉が見つからない。
ただ戸惑いながら、その細い肩に手を置くくらいだった。
「殺し合わなきゃ真の理解がない? ふざけないで! そんなことしなくてもただ一言言えばわかり合えた! わかり合えなくても一緒に悩んであげられた!! なのに、どうしてみんな、何も言わないのよ!! 千里眼でも心は見えないのよ!!」
「……すまない。俺はお前になんて声をかければ良いのかわからない。どうして欲しい?」
椛の慟哭を受けて、信綱も自分のことを省みる。
……自分が狂った人間であると。最初から言っていれば違う結末はあったのだろうか。
思いを馳せる信綱の胸に、椛が一層力を込めて顔を埋めてくる。そろそろ痛みを覚えるほどだが、何も言わない。
「もう少しだけ、こうしていて……っ!」
「わかった。……俺ももうちょっと自分のことを教えておけば良かったのかもしれないな」
それとも、あの三人で過ごした時間が好ましかったと、言っておけば良かったのか。
……いずれにしても決定的な破綻は異変が起こった時ではない。五年前、椿が信綱の敵になると言ってしまった時に関係は破綻していたのだ。
敵になったら容赦はできない。一番大事なものは御阿礼の子で、それは終生揺らがない。
だが、敵にしない方法はあったのではないか。信綱が他人に対してたらればを考えることは珍しいが、それだけこの時間を大切にしていたとも言い換えられる。
慟哭する椛の肩を抱きながら、信綱ももう会うことのない椿との時間を思い出すのであった。
「……ごめんなさい、格好悪いところ見せちゃって」
「今さらだ」
力量で信綱に追い越されて凹む姿も、自分の身の丈を知って落ち込む姿も、大将棋で珍しく負けて悔しがる姿も、椛の格好悪いところはよく見てきた。
「も、もうちょっとマシなことを思い出して欲しかったですけど……。でも、本当に今さらか」
「……お前はどうするつもりだ? 椿を殺した俺と顔を合わせたくないと言うなら、俺はもうここに来ない」
「殿方の胸で女が泣く意味、考えたことある?」
「手近にすがれるものがあったからだろう」
「……正解。なんでわかるのかしら。女心に疎そうな顔しているのに」
半ば確信に近い直感だった。椛は気安く、人間とも仲良くなれそうだが、どこかで決定的な一線を引いている。そんな気がするのだ。
「まあ良いわ。――決めた。私は椿さんみたいに殺し合わなくても良い在り方を目指します。
あなたとだって決別しなくても良い。そんな人と妖怪の繋がりがあっても良いはず――いえ、殺し合うのがダメなら真っ先にこうすべきだったんです」
「徹底して顔を合わせないって手もあるだろう」
「外から来た妖怪一人で大騒ぎじゃないですか。薄氷過ぎるんですよ、今の状況。誰も彼も内心で何を考えているかわかったものじゃない。ひょっとしたらあなた、色々な妖怪に目をつけられているかもしれませんよ?」
「……まあ、思い当たる節はあるな」
少なくとも天狗には目をつけられている。あの射命丸と名乗った天狗が自分のことを黙っておく理由もない。
あとは外来の吸血鬼。倒したら執着されるなど誰が想像できるか。
「殺し合ってはいけない。でも顔を合わせないのもいけない。――だったらそれ以外の道を探す他ないんです。少なくとも私はそうします」
「……具体的には?」
「君と仲良くなる。私に大それたことはできませんけど、君と一緒にいればあるいは――」
そういう椛には何らかの確信があるようで、信綱という男が今後も様々な騒動に巻き込まれることを予見しているように見えた。
「なぜそう思う」
「長く生きていると、色々とわかることがあります。時代の節目とか、そういった時に起こる騒動の前触れとか。それに――その中で中心に成りうる人間のこととか」
意味ありげに微笑む椛に、信綱は言い表せない胸騒ぎを覚える。
こちらを見ながらそんなことを言わないで欲しい。それではまるで――
「断言します。これから色々なことが起きます。良いことも悪いこともいっぺんに。その中心は――あなたです」
「どう、して」
「なぜと言われてもわかりません。ですがそういうものです。望む望まないに関わらず、時代の流れは人も妖怪も等しく飲み込んでいく」
椛が別人のように見えた。人懐っこい彼女の面影はそこになく、あるのは信綱より遥かに長い時を生きた妖怪の姿。
固唾を呑む。彼女の言っていることは根拠もなにもないはずなのに、信じてしまいそうになる何かがあった。
「……安心してください。私はあなたの味方をするつもりです。
いつの日か、天狗も人間も一緒にいられる。殺し合わなくても互いを理解できる。そんな幻想郷に、なって欲しいですから」
「……しがない白狼天狗と言っていたお前が、言うようになった」
「あなたのせいですよ。弱い人間のくせに妖怪を殺してでも大切な人を守ろうとするから――私も、大きな夢ってやつを持ちたくなってしまったんです」
目元を泣き腫らしながらも笑う椛。その姿に信綱も何かが突き動かされるような感覚を覚える。
阿礼狂いとして生きることに迷いはない。ないが――できることならそれは椛と同じ道を歩んだ上であって欲しいと思ってしまった。
「……大変な道のりだ」
「ですが、価値はあります。勝算も」
時代が変化を求め、それぞれの勢力の首魁はそれをきちんと見抜いている。
これから生まれるであろう大きなうねりに、一石を投じることぐらいならできるだろう。
時代の中心に立つであろう信綱の生き様を見届けるつもりの椛はそう思っていた。
しかし、彼女は一つ失念していることがあった。あるいは見ようとしなかったのか。
信綱が最も頼りにしている妖怪は誰でもない、この自分であることを理解していなかったのだ。
故に彼女は今後の動乱にも否応なしに巻き込まれることになるが――それは未来の話である。
異変の後は色々と変化があるので書くことが増えて困る。おのれレミリア!(責任転嫁)
椿の死が信綱の力量にとってのブレイクスルーなら、椛にとっては精神的なブレイクスルーでもあります。彼女の死が与える影響は殊の外大きい。
そして椛がとうとう相棒ポジションゲットしやがった……なんてやつだ……(戦慄)
レミリアが来たことが転機になって、色々な変化が起きようとしています。融和を願い始めた者もいれば、再び支配を狙うものもいたり。
そして何はともかく阿弥が出せねえ! この話の三大ヒロインの一角なのに! あっきゅんとか書きたくて始めたのに御阿礼の子が書けねえ! なんで三代にしたか? ノリ。
というわけで次は時間経過させます。いつまでもこの時間を書いていたら話が進まない。