霧に蠢く狂気
自警団から死者が出たのは、実に数十年ぶりの出来事だった。
「ここに遺体が?」
信綱が自警団の屯所を訪れると、中にいた者たちからすがるような視線を一斉に投げかけられる。
平和な時代では腫れ物扱いだったというのに、危険が自身に迫っているとなると現金なものである。
信綱が目を向けた遺体は荼毘に伏せられ、それでもなお床に血の染みが出来るほどの血溜まりができていた。
「確認しても?」
「ええ、お願いします」
自警団の班長に請われ、荼毘に近づく。屯所にいる者たちが一斉に顔を背けたことから、遺体の状況が凄惨なものであることは想像に難くなかった。
軽く黙祷を捧げてから、荼毘を開く。
そこにあったのは人間の形を留めない、人間だった者の姿だった。
「ふむ……」
ここまで運んでくるだけでも相当の苦労があっただろう。誰だって半分に裂けた人間の死体を運びたくはない。
内臓が綺麗に食べられて残っていないのが不幸中の幸いか。
手足の傷を軽く見ても爪による引っかき傷や、おぞましい怪力で骨だけを露出させられた部分も見受けられた。
総じて――途方もない苦しみと絶望の中で死んだことが容易に想像できる死に様だ。
これらの情報を信綱は眉を軽くひそめる程度で受け流し、再び荼毘を伏せる。
「……このこと、家族には」
「まだ伝えてません。どう伝えたら良いのか……」
「……金はこちらが持つ。火葬をして骨だけが見つかったことにして伝えろ。それまでは行方不明……いや、妖怪が目の前で殺して持ち去ったと伝えてくれ」
ありのままに見せたら精神が崩壊してしまうかもしれない。というより、するだろう。
ただの事故ならまだしも、これは明らかに弄ばれた可能性が高い。
残された者の悲哀を考えると、可能な限りの配慮はしておきたかった。
「よろしいんですか?」
「金に関しては問題ない。それにこれをそのまま伝えてみろ。ご家族なら気が触れてもおかしくないぞ」
「そ、そうですか。差し出がましいことを失礼しました!」
「別にいい。ああ、葬儀屋に行くならその足で上白沢様に言伝を頼む」
「言伝ですか?」
「ああ。――緊急の会合を火継の家主導で開く故、人を集めてほしいと」
信綱が真剣な顔でそう伝えると、まだ年若い自警団員が慌てて駆け出していくのが見えた。
彼も今の時期に自警団所属など災難なことだ、と内心で彼に同情する。
そして残された面々からの視線を受けつつ、信綱は彼らへの対応を考えて口を開く。
「明日以降の方針はこれより行われる会合で決めるが、今日のところは外へ通じる門を閉め切り、見回りは里の内部だけに留めてほしい。……このような犠牲が出てしまったことを、里の人間として悔しく思う」
「わ、わかりました! 今すぐに門を閉めます!」
「櫓での見張りも忘れないよう頼む」
信綱が来るまでは、誰もが凄惨な光景に言葉を失っていた屯所の空気がにわかに力を取り戻す。
それはやるべきことがまだ残っている騒々しさでもあり、いつまでも死者に拘っていられないという生者の傲慢さでもあった。
「では私は会合に行く。くれぐれも見回りは二人以上で行い、決して単独行動は取らないこと」
それを伝えて信綱は出て行こうとする。
そんな彼の背中に、投げかけられる声があった。
「あ、あの! 的確なご指示、ありがとうございました! 俺、あなたたちのことを誤解していたみたいです!」
「…………」
自警団の年若い班長の言葉を聞いて、周囲の様子を見る。
見る限り、皆の反応は概ね班長と同様のようだ。
身近な存在から死者が出てしまった以上、彼らを率いる人物を求めていたのだろう。
そしてそれがたまたま信綱に当たってしまった。
被害者のことを慮った言動も大きかったかもしれない。少々の出費と口頭での悔恨だけで人々の歓心が買えるなら安いと思って言ってみた結果がこれである。
「……里の人間として当然のことをしたまでだ。私に感謝するより、今は早く作業を終わらせることを優先しろ」
君の誤解は実に正しいものだと告げる義理もない。過度の尊敬は不要だが、侮蔑も無用なのだ。
なので適当にあしらって、信綱は屯所を出て行く。
外に出た信綱を待ち構えていたのは一寸先、とまでは行かないものの、相当に濃い白霧だった。
それを鬱陶しそうに睨み、信綱は軽くため息をつく。
「……本当に、嫌な霧だ」
濃霧が里を覆って一月。状況が徐々に悪化していく中で、信綱は今後のことを考えて歩き始めた。
この霧が里を覆ってから、良いことは一つもない。
老人や子供といった、身体の弱い者たちからバタバタ倒れていく。春だというのに日が差さないため、野菜も育たない。仕事ができなくなる場合もある。
信綱もここ最近は山に入れていない。今は戦闘力が求められているので、仕事に困ってはいないが。
これだけなら偶然ということも考えられる上、霧のせいと言える明確な害があったわけではないため、人々は不安に襲われながらも普段通りの生活を送っていたが――今日で終わりである。
信綱は稗田の邸宅に集まってもらった人々を見回し、まずは頭を下げる。
「多忙の中、ご足労頂き感謝します。火急の用があり、皆様を招集させて頂きました」
「信綱、何があった? お前が自発的にこのような会議を開くのは初めてだろう」
参加者でもある慧音が皆の困惑を代表して問いただしてくる。
信綱、というより火継の家は里の運営にも権力にも興味を示さず、程々の距離を保ってきた。
そんな彼が能動的に動く内容と言えば思い当たるのは一つしかない。
「……何かあったのか」
「ええ。残念ですが、つい先程外に見回りへ出ていた自警団員の遺体が見つかりました」
どよめきが広がる。ここ二十年以上、自警団の者たちが死ぬことはなかったのだ。外の見回りと言っても安全な里の外周を回るだけ。
それにもかかわらず死者が出た。それは今の若い者たちが忘れつつある――妖怪の脅威である可能性が高い。
「私が呼ばれて軽く検分したところ、妖怪のものと判断させてもらいました。今後の里の取るべき動きを議論したく」
「ま、待ってくれ! なぜ妖怪と断定できた! この霧のせいでたまたま獣が近くに来たことを気づかなかった場合もあるだろう?」
慧音の疑問と、それに追随するように集めた人々がうなずく。
信綱は彼女らに対し、僅かに言うべきか否か躊躇う姿を見せてから、重々しく口を開く。
「……遺体は頭から股下まで、縦に引き裂かれて真っ二つになっていました。その上手足には獲物を弄んだと見られる傷が見受けられた。……このようなことができる獣を私は知りません」
比類なき残虐性を持ち、人間を遊び道具としか思わないような奴にしかできない所業だ。
信綱は吐き捨てるようにそう言って、話を切り上げる。遺体の話は気分が悪くなるだけで、何も得られるものがない。
普段から感情をあまり表に出すことのない阿礼狂いの信綱が、明確に嫌悪の感情を表に出した。
それで慧音以外の皆も思い知る。今は平和な時間などではなく、嵐が人里を襲っているのだと。
「……それで、お前さんは俺たちを呼んでどうするつもりだ? 火継の若頭」
老人たちにとっては数十年ぶりの妖怪の脅威に慄いていると、その中から一人の壮年の男性が声をかけてくる。
霧雨商店の旦那。伽耶の父親であり、今は勘助の義父でもある。その縁で信綱とも繋がりは深い方だ。
「今後の見回りと里の進退について、皆様にご裁可頂きたく」
「言ってみろ。お前さんらのところは有事に動く。俺らは平時に動く。そういう了解だ」
「では。――まず自警団の活動ですが、今後は里の内部の見回りのみにし、更に最低二人一組、欲を言えば三人一組で動くよう義務付けてください。
外の見張りと見回りは火継の者たちにやらせます。その上で博麗の巫女に助けを求めるのがよろしいかと」
「……それで、若頭はどうするつもりだ?」
「博麗の巫女に頼めば、遠からず此度の異変の黒幕がわかるでしょう。打って出ます」
事もなげに言ってのける信綱に再びざわめきが起きる。
今度はそれを信綱が手で制し、口を開く。
「他の動向に関しては皆様の認可次第ではありますが、打って出ることに関しては決定事項です。覆すつもりはありませんので、ご了承を」
「……理由を聞いてもいいか?」
「決まっています」
相変わらずの無表情。だが――瞳に宿る激情はこの場にいる誰よりも強かった。
「――阿弥様を害する畜生が今も呼吸しているなど、許しがたい事実ですから」
この霧の影響は御阿礼の子にも及んでいるのだから、信綱に戦わない理由など存在しなかった。
先述にあったように、この霧が出てから良いことは一つもなく、老人や幼い子供たちが倒れている。
その中には――生後数年と経っていない、阿弥も含まれていたのだ。
信綱は一通りの方針を取りまとめて会合を終えると、その足ですぐに阿弥の部屋に向かう。
今は女中に任せているが、本心を言えば一秒たりとも離れずに看病していたいのだ。
「阿弥様の容態は?」
「あ、信綱様。先ほど熱冷ましを飲ませましたので、今は落ち着いておられます」
女中の視線に合わせて顔を傾けると、ほんの僅かに顔の赤みが引いて静かに眠る赤子の姿があった。
この方が次代の御阿礼の子。奇しくも阿七と同じ、阿礼乙女である稗田阿弥その人だ。
信綱は苦しそうに眠る赤子を忸怩たる思いで見つめる。
彼女の苦しみを速やかに取り去ってやれない自分への怒りが煮えたぎる。それと同時に、このようなことを引き起こした存在に対する憎しみも膨れ上がっていく。
「…………」
「信綱様?」
「……医者が来たはずだ。なんと仰っていた?」
「は、はぁ。お医者様が言うには、この霧のせいで何人も人が倒れているとのことで……症状は同じだそうです」
全身の倦怠感、発熱、ひどい場合は起き上がることすら億劫になってしまうほどの脱力感が襲うらしい。
人里の医者では原因が特定できず、対処療法的に栄養のあるものを食べさせ、発熱を抑える薬を出すことぐらいしかできていない。
今はまだ病気による死者は出ていない。だがこの霧が今後も続くようであれば――夏を迎えることは辛くなるかもしれない。
「……殺してやる」
低く、声を押し殺してつぶやく。
この事象を引き起こした黒幕を、この手で引き裂く。生まれたことを後悔させ、誰に手を上げたのかじっくりその身に刻み込んだ上で殺す。
すでに博麗の巫女への使いは出してある。後は彼女の動向に注意を払っていれば、必ず動く時が来る。その時に合わせて動けば、上手く異変解決に同行することができる。
拒絶してきたら、その時は先ほどの犠牲者の話でも持ち出せば無碍にはされないはず。向こうとて人里との関係を無闇に悪化させたくないだろう。
最悪の場合は無視すれば良い。異変の黒幕をどうにかするという目的は同じである以上、排除までされる可能性は低い。
ああ、いや。細かい理屈など信綱にはどうでも良かった。
今、阿弥は苦しんでいて、それは誰かがこの霧を出した結果によるものである。
阿弥を害した何かがいる。ああ――なんと許しがたい所業か。
信綱は胸中の殺意が阿弥に届かないよう押し殺して、静かにその頭を撫でる。
転生というのは容姿にも影響を与えるのか、阿七とよく似ていた。
「……今度は私が年上になりましたね」
無論、阿弥と阿七を重ねるつもりはない。阿七も阿弥も、御阿礼の子である以上信綱にとっては至高の存在。何ものにも侵されてはならない神聖な領域。
この言葉も阿弥が覚えていない今だけだ。彼女が起き、物心がついた時には阿七の側仕えではなく、阿弥の側仕えとして侍ろう。
そのためにも――障害は排除しなければならない。
「引き続き阿弥様の看病を頼む。私は家に戻って話すことがある」
「はい。異変の解決をなされるのですよね? どうかお気をつけて」
女中からの労いを受けて、信綱は阿弥の部屋を後にする。
今は打てる手を打って待つ時だ。場所もわかっていない今、闇雲に動いたところで事態は好転しない。
信綱は自身の手足となる火継の者たちに指示を飛ばすべく、自宅へと戻っていくのであった。
火継の家、その道場には一族の中でも戦いに耐えられる年齢の者全てが集められていた。
彼らの先頭には壮年から老年に差し掛かりつつある初老の男性が立ち、後ろの者たちをまとめている。
そして信綱はその前に足を運び、皆の視線を一身に受け止めて立つ。
泰然自若。威風堂々。彼らを動かすことに対し何の罪悪も覚えず、信綱は一族の頂点に立つ者として口を開いた。
「父上、これで全員でしょうか」
「ああ。お前の言う通り、戦闘に足る者たちを集めた」
「感謝します。さて、お前たち。状況に動きがあった」
ざわめきは広がらない。代わりに広がる張り詰めた空気がさらに張り詰め、事情を知らぬ者であれば息苦しさすら覚えるほどに緊張が増していく。
「里の人間から死者が出た。今まではまだ偶然も考えられたが、これによりこの霧は有害であると断定。異変とみなすことになった。――阿弥様を害する何かが存在するということだ」
空気が変わる。先ほどまでが張り詰めた糸ならば、今は燃え盛る炎。
煮えたぎる湯のような激情を、場にいる全員が余すところなく共有しているのだ。
「それなりに戦える者は二人一組で……そうだな、この状況だ。不安になって博麗神社に参拝したがる人もいるだろう。
そういった人々の護衛という名目で博麗神社に足を運び続けろ。そして巫女の動きを逐一俺に報告」
「――」
返事はない。この場の誰もが、それぞれの実力は把握できている。信綱が解散の一言を言うだけで、それぞれが細かい指示を受けるまでもなく勝手に動き始めるだろう。
普段は御阿礼の子の側仕えを巡って殺し合い寸前の争いをするが、御阿礼の子に危機が及んでいる場合は目的を統一させた、一糸乱れぬ集団と成り果てる。
それこそが阿礼狂いと呼ばれる所以。そして信綱も阿礼狂いの一人として、ここにいる者たちの狂いぶりは信頼していた。
「父上と俺は黒幕の居場所を突き止める、ないし巫女が動き出したら同行を狙って動く。この霧だ。最悪、どこかで追い越しても問題はない」
懸念は八雲紫の存在だが……彼女が本気で動いているなら、今の状況はとうに終わっていなければおかしい。
考えるだけ無駄。もしくは、楽観的に見た方が良い。
「そして首謀者を殺す」
事もなげに言い放たれたそれに、燃え盛っていた気迫が一気に爆発へと繋がる。
殺意、殺意、殺意。顔も知らぬ黒幕に対する怒気が天井知らずに膨張し、瘴気すら漂わせる。
先ほどは事情を知らぬ者なら息苦しい程度だったが、今この場に来たら――問答無用でひっくり返ってもおかしくない。
「首謀者を、殺す」
もう一度。今度は噛み含めるように、一言一句をゆっくりと。
その空気の震えが伝播し、皆の耳に染み通ったのを待って、次の言葉を放つ。
「阿弥様を害する者がいる。阿弥様を害する者がいる。――阿弥様を害する者がいる!!」
信綱の言葉が道場に響き渡り、そして室内の者たちがそれに追随して同じことを叫ぶ。
『阿弥様を害する者がいる! 阿弥様を害する者がいる! 阿弥様を害する者がいる!』
「――殺すぞ」
怒号が道場を震わせ、皆が動く。複数の人間が全く同じ意志に統一されて、一つの物事にあたっていく。
ここに阿礼狂いが本当の意味で動き始める。御阿礼の子を害した者に鉄槌を。ただそれだけのために私心を捨て、倫理を捨て、命を捨てる。
この異変を起こしたものは、まだ自らが何を敵に回したのか理解する由などなかった――
信綱は今回の事件が妖怪の山の仕業だとは考えていなかった。
いや、考えていなかったは正確ではない。知っていたと言う方が正しい。
霧が里を覆った初期の頃、信綱は椛や椿の話していた内容が真っ先に頭をよぎった。
そのため確認を椛に再会した時に取っていた。
時間は少し遡り――
「ああ、良かった! この霧で会えるとは運が良い」
「本当にな」
二人で鍛錬をする場所で待っていた時、椛が空からやってきたのだ。
お互いに相手の情報が欲しいため、ここで待っていれば会える可能性が高いと踏んでいた。
実際は椛の言うように運が良ければ会えるという程度。だが、会えた場合に得られる利益は計り知れない。
「そちらはどうですか?」
地面に降り立ち、信綱と相対して椛が近況を尋ねてくる。
信綱は肩をすくめ、それでもにじみ出る現状への苛立ちを含んだ口調で話し始めた。
「今のところはいつも通りだ。霧が出て、人が倒れてもまだ決めつけるには早い」
「うん? 声は届いてないんですか?」
「声?」
「はい。我々の軍門に下れとかそういう感じの」
「……来てないはずだ」
この幻想郷で妖怪の山は一大勢力だ。彼ら相手に軍門に下れなんて言い切る命知らずは、幻想郷で生きられないだろう。
「……外から来た妖怪か?」
「おそらく。で、言い分そのものは幻想郷でだらけきったお前たちを我が支配下に置いてやろうフーハハハー、みたいな感じでした」
「高笑いは必要か?」
「声、結構甲高かったですから女性、それも少女ですよ多分。それの表現です」
「う、ううん……?」
時々椛がわからなくなる。声真似をしたのか定かではないが、高笑いの部分は確かに子供っぽい笑い方だった。
「名前とかは?」
「言ってないです。ただ、ツェペ……なんとかの幼き末裔だとかどうとか」
「ちゃんと覚えとけよ」
「発音しづらかったのでつい」
こいつ当てになるようでならねえ、と信綱は内心で嘆息する。
彼女なりに身振り手振りも交えて必死に伝えようとしているのはわかるが、単語に歯抜けがある辺りどこまで信じて良いものか。
「とにかく、それは私たちの方にも宣戦布告してきたんです」
「で、どうなった」
「まあ怒りますよ。大天狗様方は怒髪天を衝くと言った有様で」
「だったら戦争しろよ」
そのまま共倒れしてくれると人里的に非常にありがたい。できれば首魁を残してこちらに差し出してくれるとなおありがたい。
そう思っていたのだが、椛の深刻そうな顔を見る限り、ことはそこまで上手く運ばなかったようだ。
「……問題はここからです。以前にも話した妖怪の復権のために云々って話、覚えてます?」
「巫女に討伐されること覚悟で人間を襲って、畏れを取り戻すだったか。……切っ掛けがあれば動くとも言っていたな」
ものすごく嫌な想像が浮かんできてしまった。しかも辻褄は合ってしまう。
「ええ、まあ、はい。これに乗じてかつての権威を取り戻そうという勢力がいまして」
「……じゃあ、何か? そいつについていった奴もいるのか」
「…………」
無言で顔をそらされた。どうやら天狗も一定数、向こうに流れていったようだ。
「さ、さすがに全員じゃないですよ? 上の方では全面戦争するか敵の敵は味方作戦で協調するかで揉めているみたいですし」
「お前らのところ、グダグダにもほどがあるだろう……」
「普段は天魔様が辣腕を振るうところなのですが……まだ動いてないみたいです」
「ふぅん……」
今の情報には少々気になる点があったため、信綱は覚えておくことにする。
どうやら天魔はこれまで話に聞いていた大天狗とは違うようだ。
さて、決断のできる類の天魔はこの状況で本当に何もせず静観を決め込むだろうか?
妖怪の山の頂点だ。境界の賢者ともやり合えるだけの武力、ないし政治力はあると考えるべきだ。
侮って痛い目を見るのはこちらになる。忘れず留意しておこう。
「そっちが色々と揉めているのはもう日常茶飯事だからどうでも良いな」
「そちらに迷惑かける可能性濃厚ですけどね!」
「お互い不可侵で、相手の領域に許可なく入った者は好きにして良い。そういう暗黙の了解だろう」
要するに、危害を加えるなら殺す。それだけである。
今さら天狗の一体や二体程度なら、信綱一人でもどうにかなる。
「まあお前らが今回の黒幕じゃないことはわかった。で、下手人の居場所は知らないか?」
「……すみません。私も千里眼で見ているのは自分の領域ばかりなので、全容の把握まではできませんでした」
「いま見てもわからない?」
「もう霧が幻想郷を覆ってますから、全体を見ても白いモヤばかりですよ」
「そうか……」
椿が言っていた、椛は要領が良いようで根が真面目という言葉を思い出す。
自分と鍛錬をしてサボっている時でも、周辺を見て回ることだけは怠っていなかったように、何か目的でもなければ自分の世界を広げようとはしないのかもしれない。
「……まあ、ここまで情報が得られただけでも御の字か。済まない、無茶を言った」
「いえ、私の方こそすみません。あなたも大変でしょうに、余計に厄介事を押し付けただけのような……」
「……仕方ないさ。幻想郷で我を貫くことの難しさは理解しているつもりだ」
外から来た妖怪。それに付き従う天狗の集団。
彼らと戦わなければ、阿弥の容態は良くならないのだ。是非もない。
「お前が敵でないことを確認できたのも良かった。じゃあな。俺はしばらく人里で異変の情報を集める」
それに椛が敵でないだけ色々とマシだ。彼女が敵に回って、なおかつ後方からの支援に入られたら、信綱でも後手後手になることは避けられない。
千里先を見渡せるというのは、それだけで恐ろしく厄介なのだ。
「あ、あと一番大事なことがあります!」
「……まだあるのか」
「そんな嫌そうな顔……しますよね、ハイ」
露骨に嫌な顔をする信綱だが、椛も原因が自分の属する集団にあるため、強くは言えなかった。
妖怪同士の争いに人里が巻き込まれるなど良い迷惑だ。
しかし、黙っていたら人里にも被害が及んでしまう。
信綱はザワザワと胸に迫る嫌な予感を振り払いながら、口を開いた。
「内容はなんだ」
「ええと、ですね。いつか来ると思っていた日が近いと言いますか、なんと言いますか……」
「ハッキリ言え。耳と尻尾の毛全部逆立てるぞ」
「手入れに時間かけてるんですからやめてください!?」
耳と尻尾を手でかばいながら椛が距離を取っていく。
「えー……では言いますよ。驚かないで聞いてくださいね」
――椿さん、向こうについたみたいです。
「…………」
椛の言葉を聞いて、信綱はどこか納得した表情になる。
いつか殺し合おうと言って別れた彼女は、この機会を使って自分と殺し合いを楽しむ魂胆のようだ。
確かにこの霧は人里、並びに阿弥に害を及ぼしているため、信綱が動かない道はない。
「そうか」
「……あれ、意外と驚かないんですね」
「当然だろう?」
――阿弥様の敵に回るなら、誰であれ殺す。
「……っ!」
「あいつに言うべきことは何もない。話はそれだけか?」
「え、ええ……」
椛は何をそんなに震えた声で答えるのか。何をそんな、化外を見るような目で見ているのだ。
その目は人間がバケモノを見る時にするものだろう。妖怪が人間を見る目ではない。
「そうか。じゃあしばしの別れだ。次は異変が終わってから会いたいものだな」
「は、はい。そ、そう、ですね……」
そう言って信綱は一人、山から降りていく。その姿はすぐに霧に紛れて見えなくなっていった。
これが人里で死者の出る、ほんの少し前の話だった。
残された椛は脂汗を流して後ろ姿を見送っていたが、やがて憔悴したように膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「はぁっ、はっ……な、なに、あれ……」
怖かった。子供の頃から世話をして、面倒を見てきた青年がまるで別人のように感じられた。
椛の見立てでは信綱は椿に対し、好意とまでは行かなくても本気で嫌っている様子はなかったはず。
そんな存在が敵に回り、殺し合いを強いてくる。常人なら戸惑うところだ。
だというのに、あの青年は何の迷いもなくこれまでの時間を捨てた。
戦う覚悟があるから? そういう領域の話じゃない。もっとおぞましい何かだ。
そこまで考えて、椛はようやく、事ここに至ってようやく、信綱がどういう存在なのか思い知ることになる。
「阿礼狂い……!」
兎の集団に紛れ込む餓狼など、そんな生易しいものではない。
あれは怪物だ。人間とも妖怪とも違うナニカ。
「あ、ああ……!」
同時に思い至る。椿の行動は、信綱に対して効果的なものでも何でもない。むしろ愚行でしかない。
椿は妖怪と人間、古来の在り方を思い出したくて信綱を育て、けしかけた。
その果てにこそ人間と妖怪の正しい姿があると信じて。
――そんなもの、あの気狂いに存在するはずがない。
間違っている。間違っている。間違っている。
誰も彼も、火継信綱という人間を見誤っていた。二十年近い付き合いのある、自分たちでさえ騙された。
敵にならなければ慈悲も見せる。無感情で心がないわけでもない。椛の冗句に笑みを浮かべることだってある。
けど、彼は――生まれた時より気が狂っているのだ。
「椿さん……」
逃げてください、謝ってください、と椛は誰にも届かない声量でつぶやく。
謝って、彼に協力すれば、また……どうなる?
信綱は椿の願いを叶える存在にならない。絶対に、何があってもこれは揺るがない。
刃を交えることによる語り合いなど、気狂い相手では何の意味も持たない。
ただただ無機質に、無感動に、鶏の首を絞めるように、椿を屠殺する。
いくら戦ったところで、椿の声は信綱に届かない。届かなくしてしまった。
もう、昔のような関係に戻ることは不可能なのだ。
どこで間違っていたのか、と問われれば最初から間違っていた。
誰もが信綱の資質に目を向けて、彼の精神性に目を向けなかった。阿礼狂いの意味を甘く考えていた。
椛にできることはない。すでに出奔した椿を見つけるのは限りなく可能性が低く、信綱を止めるのは不可能と言って良い。
もはや賽は投げられているのだと、残された椛は全身の震えと共に理解させられてしまうのだった――
蠢く狂気(主人公の)
ということで動乱の時代の始まりです。有事になっており、阿弥の身にも危険が及んでいるので最初からクライマックス状態です。
同じ被害者な人里の面々や、情報を持ってきてくれた椛相手には取り繕ってますが、さて、邪魔する敵の前ではどうなるのやら。
超楽しい(爽やかな笑みを浮かべて)