「ふぅ……」
その日、信綱は陰鬱な気持ちで人里を歩いていた。
つい先程出た家から聞こえるのは慟哭と絶望、そして怨嗟の入り混じった非難の声。
当然、周囲にも声は届く。何事かと集まってきた人々は事情を知り、信綱を見て険しい顔をする。
石を投げられないだけ幸運だろう。投げられても仕方ないことをしている自覚はあるが。
「本当、貧乏くじだ」
ついさっき、信綱は大切な役目を果たしていたのだ。
――あなたが産む子は次代の御阿礼の子であり、産まれたら稗田の家が引き取るという説明を。
当然、歓迎されるはずもなく。だが、堕ろすことも許されない。
火継の人間が許さないというのもあるが、何より御阿礼の子は幻想郷にとって必要な人材。境界の賢者もそれを阻止すべく動く。
代わりに御阿礼の子を産んだ家族には火継の人間が可能な限りの厚遇を与え、一生の暮らしに困らないだけの財を渡しているが……腹を痛めた子が失われるものには比べられない。
全くもって貧乏くじである。御阿礼の子の仕組み自体は妖怪である境界の賢者が作ったのだから、恨まれる筋合いなどないというのに。嬉しいのは確かだが。
この後は三途の川にも通じている無縁塚に来るよう、八雲藍に言われている。
阿七の――いや、稗田の魂がどのようなカラクリで転生を成し遂げるのか、その理由の一端を見せてくれるというのだ。
断る理由はない。八雲藍の上――八雲紫の意図は読めないが、情報はあって困るものではない。
「……行くか」
このままここにいても気が滅入るばかりだ。向こうも気狂いが近くにいるとあっては落ち着けないだろう。
信綱は胸中にこびりつく嫌な気持ちを振り払うように、里の外へ出て行くのであった。
無縁塚は出所不明の死体――いわゆる無縁仏を埋葬する場所となっている。
この狭い幻想郷において身元不明というのはまず起こり得ないため、実質外の世界から来た外来人の墓場のようなものであり、彼らの遺体を置くことが多い。
そして人間の死体が多く出る関係上、それらを狙う腐肉漁りの妖怪も現れる。
それ故、この場所に人里の人間が訪れることは滅多にないのだ。
他にも外と内を隔てる結界の境界でもあり、強い意識を持っていなければ結界の狭間に溶けてしまうという話もある。真偽は不明だが、四六時中モヤがかかっている光景を見ると、あながち間違いでもないのかもしれない。
まるでモヤに溶けるように妖怪に襲われ、食われるという意味で。
「――失せろ」
信綱は自分を喰らおうとモヤの中から飛びかかってきた妖怪の首を無造作に斬り落とす。
元より屍肉喰らいに慣れてしまった妖怪だ。芸もなく、速度もない跳びかかりをされたところで何の脅威にもならない。
頑健さも天狗とは比べられないのか、首を落としただけで肉体の消失が始まる。天狗ならばこれに手足も落として心臓を貫いてようやく、と言った具合だ。
「鬱陶しい……ケダモノより学習能力が低いのか」
先ほどから襲ってくる妖怪はそろそろ十に届く。一体か二体、徹底的に痛めつけて悲鳴を上げさせるか。
「……それで集まってきたら元も子もないな。このような場所に来る人はどうしているのやら」
博麗神社のお守りを使って妖怪避けをしているのだが、信綱にそれを知る由はない。なまじなくても何とかなってしまうため、ある意味油断しているとも言えた。
今のところ目新しい死体はない。妖怪に食い尽くされたのか、はたまた外来人が少ないのか。理由は定かではないが、それでも信綱の嗅覚は死臭を捉えていた。
舌打ちを隠さず、信綱は不機嫌そうに歩く。
同種の死を喜ぶ感性はない。ただでさえ阿礼狂いなのだ。これ以外の狂気など持っていたら人里で生きていけない。
胸元にこみ上げる苛立ちを深呼吸でごまかす。人里では非難の声を受け、さらに無縁塚まで来る羽目になっている。今日は厄日だ。
ああ、早く阿弥に仕えたい、と若干現実逃避の色まで混じり始めた想像をしていると、視線の先に人影を捉えた。
「……紫様?」
「はぁい、お久しぶりね。火継の当主さん」
藍かと思われた人影は、近づくと別人の様相を露わにし、信綱に馴れ馴れしく話しかけてくる。
閉じていた日傘を指し、妖しく微笑むその姿はまさに妖怪そのもの。おぞましさと美しさが同居した笑みだった。
「……あなたの式からはここに来れば良いとだけ言われている。あなたがここから先の水先案内人か」
「そういうこと。ああ、言葉遣いは普段通りで構いませんわ。いつも通りゆかりんって呼んでくれて」
「行くぞ妖怪」
「あなたの普段通りって辛辣過ぎない!?」
「橙と話す時は大体こんなものだが」
「……あの子、男の趣味大丈夫かしら」
変なことを考え始めた紫を無視する。
適当なことしか口にしない妖怪なら真面目に相手しないのが一番だ。
「で、三途の川へはどうやって行くんだ」
「ああ、ついてらっしゃいな。ここまで来たご褒美よ。普通の人間には見られない光景を見せてあげる」
そう言って紫は歩き出す。てっきり、以前に自分を稗田の家まで一瞬で運んだ術を使うのかと思っていたが、意外である。
「……歩くんだな」
「スキマで移動するだけ、というのも風情がありませんから。無粋はお嫌いでしょう?」
「粋も無粋もさして興味はない」
「あら無粋な」
どう答えてもこの妖怪を喜ばせることになるのだ。
他人の掌に乗せられるのを面白くないと思う気持ちぐらい、狂人とて持ち合わせている。
「この際だから言っておくが――俺はまともに応対するつもりのない相手に対して誠実でいる必要はないと思っている。逆に言えばそれなりに誠意があるなら、俺もそれに応えるつもりだ」
「ふふふ、真面目ねあなた。もっと肩の力を抜いた方が良いわよ?」
「……お前以外の相手にすることにしよう」
この妖怪はそういうものなのだと考えることにした信綱。
おそらくだが、彼女は曖昧な対応を好むのだろう。
中立、俯瞰的と言えば聞こえはいいかもしれないが、どっちつかずで美味しいところだけを持っていく姿にも見える。
相手にするだけ損。それが彼女の在り方なら言うべきことはない。
こちらも相応の対処をするだけである。
「さて、あなたは三途の川への知識はどの程度あるかしら?」
「……一般的に呼ばれている程度の知識だ。生きた身で行くことになるとは思っていなかった」
「そう。ああ、気をつけた方が良いわよ。妖怪桜は美しさで人を惹き込むから」
「なにか言ったか?」
紫の美しい花を咲かせていた妖怪桜を、一刀のもと斬って捨てながら信綱は紫を振り返る。
「……あなたには無用の心配かしら」
「さっさと向かおう。あまり長居はしたくない場所だ」
「あら、もう行くの? 血と臓物の香りも素敵じゃない?」
「――人里の人間として」
紫の首に刀を突きつける。その一瞬だけは本気を出したのだが、紫は相変わらずの薄い笑みを浮かべて信綱を見上げるばかり。
「人の死を喜ぶ妖怪は生かして置けない。相手が誰であっても、害を成すなら討伐する」
「あらあら、怖い守護者ね。でも、人間だって嫌いな相手の死は喜ぶのではなくて?」
「…………」
無言で刀に力を込める。敵だと認識したら迷わず、躊躇わずが基本だ。
口八丁手八丁に騙されて返り討ちに遭うなんて話はありふれている。
信綱の意志を感じ取ったのか、紫はゆるゆると手を上に上げて降参の姿勢になった。
「参りましたわ。少しからかいすぎたようね。――では、三途の川に行きましょうか」
そう言って紫は手元で何かを動かす。すると眼前の風景が歪み、数瞬もしないうちに向こう岸が見えないほどの川が見えるそれに変わっていく。
「…………」
要するに歩いていく必要など始めからなかったということだ。
むしろ、歩いていたら到着できていたのかもわからない。
怒るだけ馬鹿馬鹿しい。信綱はため息を一つついて歩き始める。
「あら、無反応? つまんないわ」
「……行くぞ」
無視して歩き始める。紫もこれ以上からかうのはやめたのか、素直に先導して信綱の前を歩く。
「今回、川は渡らずにある人と会う約束をしていますの。誰かわかるかしら?」
「……さあな。三途の川の渡守は死神と聞いているが」
「惜しい。でも死神と顔合わせも悪くないわね。ほら、あそこ」
紫が指差した方向を見ると、柳の木に鎌が立てかけてあった。
「あそこに死神が?」
「ええ。サボり癖のある死神が寝ているのでしょう」
「ふむ、勤勉な奴と怠惰な奴に別れるのはどこでも同じか」
人間も妖怪も形成する社会に大差はないというのに、どうして妖怪には人間を見下すものが多いのか。
「話を聞くのか?」
「本来なら予定にはないけど……まあ、多少の遅刻は良いでしょう」
「…………」
これは多分怒られる時は自分だけだな、と信綱は直感的に理解する。
理解するが、死神と話せる機会など一生に一度あるかないか。
それに――阿七の話を聞ける可能性がある。迷う理由はなかった。
「はぁい、元気してるかしら、死神さん」
「んぁ……げっ、スキマ妖怪」
「あらあら、嫌われたものですわね」
死神と紫のやり取りを眺めた後、信綱は死神の少女に会釈をする。
彼岸花のような赤毛を二房、頭の方で結んでいる少女で、やる気がなさそうに木の根本に寝転がっていた。
「そこの人間はどうした? さらってきたとか?」
「…………」
「そういうわけではありませんわ。今回は彼に会わせたい人がいるのよ」
無言で視線を強める信綱。幻想郷全体のためかどうかは知らないが、こいつはここで殺した方が人間のためになるんじゃないだろうか。
「へえ。あんたが会わせたいなんて言う人、映姫さまぐらいしか思いつかないけど、あんたから会いに来るとはね」
「まさか。来たら逃げますわ」
「ははは! 人間も災難なもんだ!」
「……死神だったか。お前に聞きたいことがある」
勝手に笑いの種になっている現状に苛立ちを覚えながらも、信綱は口を開く。
「なんだい、人間。言っておくが、死者と生者ってのは交わらないもんだ。それを踏まえて質問は頼むよ」
「稗田阿七を知っているか?」
死神に忠告を受けたが、それでも僅かな逡巡も見せなかった。
阿七に関わることなら禁忌の一つや二つ、何の障害にもなり得ない。
「……ははぁ、なるほど。スキマ妖怪が人間を連れてくるなんて何事かと思ったら、そうか。――お前さん、火継の人間だろう」
「なぜそう思う」
「見たことあるからさ。御阿礼の子が死ぬのとほぼ同時に来て一緒に逝く奴もいれば、この場所に残って他の御阿礼の子が来るのを待とうとする奴もいる。
まあ、後者はあたいが無理やり送らせてるけど」
阿礼狂いは死んでも阿礼狂いらしい。誇らしいような、ここまで来ると面倒なだけのような。
「しかし、しかし、ふぅん……」
死神の少女は興味をそそられたのか、信綱の方をジロジロと見る。
その目で見られるほど、彼女への距離が不思議と縮まっていく気がする。
知り合いを飛び越え、友人、親友、恋人とその距離はどんどん信綱の核心に触れるように近づく。
きっと今の彼女は御阿礼の子と同程度には大事で――
「つまらない能力だな、死神。お前ごときと御阿礼の子を比べられるものか」
信綱はそんな愛おしい彼女に対し、剣を向けた。剣先に震えは――ない。
感情を排した瞳が死神を射抜く。彼女のことは大事だが、御阿礼の子に比べれば所詮は塵芥だ。
そう考えていると、いつの間にか死神の少女が大事な存在に思えなくなっていた。
能力が解除されたのだろう。信綱も刀を納め、しかし警戒だけは怠らず少女を見据える。
「やっぱり。お前さんらのその精神性はどこから来たんだろうね。心の距離をいじっても優先順位が全く揺らがない。
距離という概念すら届かない、そんな矛盾した場所にお前さんにとっての御阿礼の子が存在する」
「それ以前に言うべきことがあるんじゃないか」
「さて、何のことか――冗談だよ冗談。あたいが悪かった。不躾な真似をしたことを詫びるよ」
「……ふん」
興味をなくしたように信綱は紫の方を向く。そして吐き捨てるように言い放った。
「――これで勘弁してやる」
「うげぇっ!?」
無造作に、何の脈絡もなく、それ故警戒のしようもない。そんな一撃が死神の腹部に当たっていた。
本気ではない。当たったらそれなりに痛いだろうが、人外なら問題なく回復する程度のもの。
向こうも本気でやったわけではないだろうが、人の心を土足でいじったのだ。このぐらいは必要経費と思ってほしい。
「うっそ……あたいがわからないって……」
「お前の驚愕はどうでも良い。阿七様を知らないか」
「いたたたた……今の痛みで忘れそうだ……あ、冗談冗談! だからもう一発殴れば思い出すだろうという顔やめて!?」
「人をからかうのはお前の勝手だが、応報もそれなりに覚悟した方が良いぞ」
すでに信綱の死神への印象は下限を通り越している。
これ以上下手に何かされたら、剣を抜くことも視野に入れていた。
「あー……まあ、うん。知ってるよ。お前さんは知っていると思うけど、御阿礼の子っていうのは短命だが、転生する。
その転生の準備が整うまで、ここで閻魔様の手伝いをするのさ」
「ほう……」
その辺りは知らなかった。
御阿礼の子の仕組みにも関わる話のため非常に興味深かったが、今はそれ以上に聞きたいことがあった。
「そこは後で聞くとして……阿七様は何か仰っていたか?」
「ん……そうだね。これまでの人生で傅く人はいたけど、家族となってくれた人はいなかった。そう言っていたよ」
「…………」
産んでくれた親からも引き離され、あの屋敷にいるのは女中と仕事の手伝いをする者。
そして側仕えをする自分たち。
確かに、家族などというものとは無縁になるのもうなずける。六歳で側仕えの役目を勝ち取った信綱が現れるまで――
「……幸せだと、仰っていたのか?」
「――ああ。あたいもこの死神は長いけど、あんな良い顔で死ねた奴なんて多くないよ」
「そうか。……そうか、そうか」
空を仰ぐ。胸に喜びとも感動とも形容できない感情が溢れ出る。
あの人は幸福だったのだと。自分があの人の隣にいて良かったのだと、ようやく確信が持てたのだ。
「いじらしい話だよ。普段なら転生ってのは百年単位で行われるものなんだけど、あの子が閻魔様に頼み込んで短くしてもらったって話さ。今頃必死に手伝ってんだろうね」
「…………」
また会える。それは嬉しいことだが、転生周期に関してはよくわかっていなかった部分もある。
そして火継の人間が側仕えになるために死に物狂いになるのも理解が及ぶ。
百年単位でしか現れず、現れても三十年経たずに逝ってしまう御阿礼の子の隣に立つには、実力もそうだが幸運も必要になる。
「……本当にそれだけで転生の周期は短くなるのか?」
「さあ? あたいはしがない死神、細かいところは知らんよ」
「ただ――噂じゃ、どこぞのスキマ妖怪が入れ知恵したとなんとか」
「っ!」
これまで無言を貫いていた紫の方へ弾かれるように振り返る。
相も変わらず感情の読めない曖昧な笑みを浮かべたままの紫は、日傘を閉じて信綱に背を向ける。
「あまり話し込むのも閻魔様に悪いですし、そろそろ行きましょうか。死神さんも、休憩は程々に」
「とんでもない、あたいは勤勉だよ。この休憩が効率を良くするのさ」
「そうか。別にお前の在り方にケチは付けん。聞きたいことも聞けたから感謝する」
「はいよ。あたいは小野塚小町ってんだ。生者にゃ縁のない名前かもしれんけど、覚えときな」
「ああ。阿七様を送り届けた名だ。忘れない」
死神――小町から遠ざかっていく。振り返ると、彼女は再び木の根本に腰掛けて寝る態勢に入っており、働く気配はなさそうだった。
「あれが勤勉な死神か」
「死神ですもの。怠惰なぐらいが丁度良いのよ。生き過ぎても困るけど、死に過ぎても困る」
「そうか。まあそれはさておき」
「……幻想郷縁起は御阿礼の子が生きている時にのみ編纂されるの」
信綱が質問をするより前に、紫が訥々と話し始めた。
「今は博麗大結界が張られた直後の過渡期。幻想郷縁起もこまめな編纂が――いいえ、これまでとは在り方を変えなければならない時が来ているのよ」
「すでに結界が張られて数十年近いと思うが」
「妖怪からすればほんの数十年よ。せめて百年は見なければ」
天狗の里の話と言い、つくづく妖怪の時間に対する尺度は人間のそれとは違うようだ。
「阿七が望んだのも合わせて――ちょうど良かったから利用させてもらっただけ。本来は百年は働くのを十年に縮めたんですもの。きっと手伝わされる仕事の量は相当でしょうね」
「…………」
「あら、何も言わないの?」
「……阿七様は俺に残っていてくれと命じた。ならばそれに殉じる。……あの方に会いに行くことが、あの方を最も悲しませることぐらい、わかっている」
それに小町からの言葉とはいえ、阿七が後悔していないと聞けた。それだけでここに来た意味はあった。
無論、会いたいという感情は信綱の胸に渦巻いている。御阿礼の子を求める本能が三途の川の果てにいる彼女を渇望していた。
そうした感情を全て、一息で押し潰す。
自分たちの欲望を優先させて御阿礼の子を悲しませるなど、阿礼狂いとしてあってはならないこと。
彼女の言葉が絶対。自分など彼女の願いを叶える道具で良い。何よりも――
「あの方が選んだことだろう。強制されたのなら助けるが、あの方自らが選ばれたことに俺が口を挟む理由がどこにある? ――全てはあの方の幸せのために。それが俺たち火継だ」
「…………」
信綱の言葉に対し、八雲紫の方が押し黙った。
まるでおぞましい何かを見るように。まるで気狂いを見るように。まるで――何かを羨むように。
「……我ながら、あなたに不躾なことを聞いたものですわ。今のは忘れてくださいな」
「ああ。忘れよう。――お前が俺たちのことをなにか知っていることも」
「……何の話かしら」
「別に。話したくないなら聞くつもりはない。俺たちの原点に今さら興味もない」
先ほどの口ぶりからして、紫は阿礼狂いの発祥を知っている。知っているなら、無関係ではないはずだ。
そもそも――自分たちのような存在が自然に発生するはずないのだから。
超常的なスキマを操る妖怪など、疑ってくださいと言っているようなものだろう。
そんな考えを巡らせつつ、こちらに視線を合わせなくなった紫を横目に見ていると――いきなりその姿が掻き消える。
さっきまで彼女のいた地面に無数の目が蠢く空間が広がっている。
中に入ったら魂まで喰い尽くされる。そんな空間で八雲紫は移動したのだろう。
さて、彼女がいきなり姿を消した理由は先にも言った通り――
「全く、あの妖怪は人を呼び出して自分は来ないとは……」
視界の先には悔悟棒を持つ一人の少女がいた。
成人男性である信綱ほどの背丈はなく、細身の少女らしい肢体。
にも拘らず、平伏してしまいそうになる圧倒的な存在感があった。
八雲紫に対してすら覚えなかった感覚だ。なるほど、これは――次元そのものが違う。
「あなたは……なるほど。あの妖怪に連れてこられた人間のようですね」
「人里の火継信綱と申します。あなたは閻魔様とお見受けしますが、如何に」
「相違なく。四季映姫・ヤマザナドゥと。映姫で構いませんよ」
「では映姫様と。して、今日この場に私を呼んだ用事とはなんでしょうか」
「なに、八雲の協力があるとはいえ、転生の周期を早めて欲しいと願った御阿礼の子の理由を知りたかっただけですよ」
そう言って映姫は全てを見透かすような目で信綱を見る。
後ろめたいことも、誇るべきことも何もかも見抜かれる。
自分という存在を取り繕うことが一切できないその視線を受けて、しかし信綱は真っ向からそれを受け止めた。
自分の在り方は褒められるものではない。だが、謗りを受けるものでもない。
少なくとも、誰かを害することを是とする生き方ではないのだ。
「…………」
「ふむ、生まれついての天才。人より多くのものが見えて、多くのものを感じ取れる。しかしそれに驕ることなく修練を積んでいる。
善を良しとして、悪を嫌う。人間と妖怪で隔てることなく、求められた手を取り、調和を良しとする。
およそ個人として理想的な在り方と言えるでしょう。――ただ一つを除いて」
映姫の言葉に一切の虚飾はない。一個人としてほぼ完璧とも言える生き方でも、一皮むいたらそこには――御阿礼の子への想いしか存在しない。
「あなたの行動は全て御阿礼の子に繋がっている。
善を尊ぶのも、自己への悪評から御阿礼の子に害が及ぶのを避けるため。
自己研鑚を怠らないのも、御阿礼の子を守るため。
調和を尊ぶのも、御阿礼の子を守りやすいから」
全くもってその通りである。信綱は映姫の語る言葉に疑う様子もなく首肯する。
だが、続けられた言葉に信綱は少々目を見開くことになる。
「そして――後味の良い話の方が、阿弥に話して笑顔を見られるから」
「…………」
「見たところ、そこまでは意識していなかったようですね。ですが、合点がいきました」
悔悟棒で口元を隠し、映姫は手応えを確かめるように何度もうなずく。
「火継信綱。あなたは様々な巡り合わせとあなた自身の努力によって、時流の中心に立とうとしています。ゆめゆめ、心得なさい」
これからの波乱を暗示するように、映姫は悔悟棒を信綱に向けて告げる。
――そして最後まで、御阿礼の子を守り抜きなさい。
「それがあなたにしかできない善行です」
「言われずとも」
即答。
そんなこと、信綱が生まれた時から定められていたことだ。
何が起ころうと、どんな障害が現れても全て切り伏せる。
「ならばよろしい。……私も彼女には思うところがあります。どうか、悔いなき次生を過ごさせてあげてください」
「肝に銘じます。あなたに心配してもらえて、阿弥様も嬉しいことでしょう」
「閻魔に世辞を言うものではありませんよ」
映姫はそう言うものの、口元には微笑が浮かんでいた。
「ではお行きなさい。ここは生者が居るべき場所ではありません。……いつかあなたを裁く時、良き生き方をしていることを願います」
「閻魔がそれを言って良いのですか?」
「無論。閻魔が衆生を裁くのは、民により良く生きてほしいからに他なりません」
この四季映姫という閻魔も、心の中では常に全ての幸福を祈っているのだろう。
それで事実が覆るわけでもないから、手心を加えることなく裁きは下すのだろうが。
これよりしばらくの後、稗田阿弥が誕生する。女児だった。
それから程なくして、幻想郷を霧が覆い始める。
これに端を発し――幻想郷で最後の、原始的な戦いの異変が幕を開けることとなる。
動乱の時代は、すぐそこまで迫っていた――
Q.どうやって帰ったの?
A.信綱くん、ボッシュートです(スキマ)
ということで揺籃の時代が終わりを迎えました。
次回からはいきなり吸血鬼異変とそれに連なる騒動をぶっ込んで行きます。序破急だとここが破であり急。阿求の時代は半分ロスタイムみたいなもんです。
そして割りといろんな方面の妖怪に目をつけられつつある主人公。但し、現時点では阿七が気にかけているから気になる、といった間接的なものです。
さて、これがどうなるかは今後の話次第になります。
これにて今年最後の投稿になります。来年もよろしくお願い致しますm(_ _)m