阿七が遠くへ逝って五年。信綱も二十一になり、正式に一人前の大人として認められる頃合いになった。
……まあ信綱の場合は六歳の頃から一族の中で最強を掴み取り、それ以来家の中では大人として扱われてきたため、特に感慨深いというものはないのだが。
強いて言うなら一族の当主として参加する会合などで、チラホラと発言を求められるようになったことくらいか。
権力など興味ないので、稗田を守ることに集中させて欲しいと言っているのだが、火継の持つ物理的な武力をどうにかして利用したいという者は少なくないのだ。
少々話がずれた。とにもかくにも信綱らと同年代の少年少女は成人し、それぞれの道を歩み始めるのだ。
これ以降、彼らと道が交わるかどうかは己次第。繋ぎ止めたい縁はきちんと繋ぎ止めないと、後悔してしまう。
「なあ、ノブ……」
「で、何の話だ勘助」
現在、信綱は勘助に誘われて大衆酒場に入っていた。
日が地平線の向こうに消えかけ、里が月夜に染まる前の僅かな夕焼け色の時間。
一日の仕事を終えた者たちがその日の癒やしを求めて、あるいは仲間との団らんを求めて、思い思いに酒と肴を頼んでいく。
信綱たちもまた、そんな場所で机を挟んで向かい合う。周囲の喧騒はうるさいが、だからこそ内緒話も喧騒に紛れてくれる。
お猪口に注がれた酒を呑み干し、喉を焼く感覚に息を吐く。酒そのものを嫌いだとは思わないが、どうにも酔う感覚がわからない。
酒精が頭に回って酩酊すると言われているが、今のところそれを自分の身体で体験したことはない。
対面には深刻そうな顔をしている勘助。あまりに動揺しているのか、酒にも手を付けず考え事をしているようだ。
普段なら勘助の悩みに合わせて信綱も酒は呑まないのだが、今回は別だ。
なにせ話が伽耶について相談があると来た。もう大体どんな内容の悩みが来るのか見当がついている。
なので気楽に酒を呑んで勘助の悩みを肴にすれば良いのだ――
「実は伽耶に――結婚申し込まれた」
「ケフッ、ゲホッ、ゴホゴホッ!?」
むせた。そこは順序を踏んで告白からではなかったのか。
「なんか、もう親にも話が行ってるみたいで、父ちゃんと母ちゃんから畑仕事しないで良いって言われた……」
「まあそこは知ってた」
「知ってたのかよ!? 教えてくれよ!!」
「他人の色恋沙汰に口なんて出せるか!?」
阿礼狂いでも恐ろしい物はある。覚悟を決めた女は敵に回しちゃいけないと、伽耶を見てしみじみ思ったのだ。
伽耶を敵に回さないためなら勘助ぐらい喜んで生け贄に差し出そう。なに、最終的に幸せになるなら問題ない。
「というかこの歳になるまで気づかなかった方が凄いぞ。伽耶の見合い話、十六の辺りから聞いていただろう?」
「い、良い人がいないだけだと思ってた……」
「お前の鈍感さは一周回って美点だと思い始めてきたぞ……」
他人の言葉や他意を疑うということを知らない。全く考えていないわけでもないのだが、こと友人関係になると基本的に無条件の信頼のみになる男だ。
いや、だからといって見合いの話から自分が好きなのでは? と思うようではただの自意識過剰である。何も非は勘助だけにあらず。
もしかしたら、伽耶も告白をすることでの関係の崩壊を恐れて、なかなか手を出せなかったのかもしれない。
……あるいは逃げ道を塞ぐことに力を注いでいただけか。
「ど、鈍感って。そんなに察しが悪いか?」
「伽耶がお前を好いていた時期を考えると、相当な。俺がわかる範囲でも寺子屋の頃からだ」
「嘘だろ……」
頭を抱えてしまう勘助。ずっと妹分だと思っていた子が、実は自分と恋人になりたいと思っていたなどと言われれば、衝撃の一つや二つ受けるだろう。
「まあ過去の話は取り返しがつかないからやめよう。たらればの話ほど無為に心をえぐるものはない」
「……そうだな。で、お前に相談持ちかけたのはその……ほら、あれだ」
「なんだ、受けないのか? 女から結婚を持ちかけるのが嫌か?」
「……そういうの、考えてなかった」
「おい」
お互い二十一である。そろそろ結婚適齢期と言っても良い。
実際、家全体がその手の話に興味ない火継の家でも、信綱にあてがう人の話が出始めているのだ。
さすがに無関係ではいられないだろうとは思うが、父信義も自分を作ったのは三十前半のはず。強ければある程度の無体は許してくれるかもしれない。
「いや、こう……そういう縁ってのは時間が来れば自然とわかるものだと思ってた」
「今まさにわかっただろう。伽耶はその縁の相手にお前を選んだ。向こうから来るのを待つのではなく、自分で行動した」
そこで一度言葉を切る。注ぐのが面倒くさくなったため徳利ごと酒を呑み干し、酒臭い息を吐いて勘助を見据える。
「好いた惚れたはそれぞれの問題だ。俺も悩んでやることはできるが、答えをやることはできん。……ただ、伽耶が昔から頑張っていたのは知っているから、報いることができなくてもちゃんと向き合ってくれることを願うよ」
勘助が伽耶と一緒になれないというのなら、それはもう仕方がない。人の心だけはいくら準備をしても掴み取れない時がある。
そうなったら互いに飲み明かして酔い潰れて、それで終わりだ。下手な慰めも全て逆効果にしかならない。
月並みだが、時間が傷を癒やすのを待つだけである。
「……それと、返事はなるべく早めにな。待たされる身というのは辛い」
ほぼわかりきった答えであっても、はっきりしないうちは不安を消せないのが人間なのだ。
信綱も自分が生きている頃に阿弥が来てくれるのか、そして転生してきた阿弥は自分を受け入れてくれるのか、不安に思う時がないと言えば嘘になる。
「これだけじゃ相談相手としちゃ足りんか。――勘助、お前は伽耶をどう思ってる?」
「おれは……ずっと、妹分だとばかり思ってた。お前と会う前から知ってて、手を引っ張ってやって……」
「そうか。それは確かなんだろう。他には?」
「他は……ああ、いつだったかな。お前と阿七の姉ちゃんが一緒に市場に来たことがあったよな? あの時にちょっとだけこっちが手を引っ張られたんだ。おれが動けなかった時は代わりに動いてくれて、なんだか気恥ずかしかったな」
……言葉にするまでもなく答えは出ている。気狂いだからこそ他人の心の機微には聡くなければ生きられない――という建前を差し引いても、勘助の心の中は定まっているように見えた。
ただ、少しだけ言葉にできていないのだ。信綱以上に長い付き合いであるからこそ、これまで知らなかった伽耶の一面に戸惑っているだけで。
「――他にはなにかないか? お前が今挙げた以外の印象を持った話は」
「まだ聞くのかよ。えっと……そうだ。お前が火継の人間だって言って、おれから遠ざかった時があっただろ? あの時も相談に乗ってもらって……おれより前からお前のことを知ってたって言ってたな」
「…………」
それは初耳だった。いや、この歳になっても何も言ってこないので気づいているだろうとは思っていたが。
「すげぇやつだって思った。おれが悩んで動けなくなっているようなものに、あいつはずっと前から向き合って、答えを出していた。んで、その悩みをおくびにも出さない。生まれて初めて、あいつを格好良いって思ったな。……うん、お前と同じで伽耶もすごいやつなんだ。おれなんかと違って」
話しているうちに、勘助の顔が徐々に明るくなっていく。友人の素晴らしさを語らせたら、勘助の右に出るものはいない。本心から友人の良さを語れるその素直な心は、得難い美徳だろう。
それに自分は助けられている。勘助がいなければ、自分はもっと冷たい人間になっていたはずだ。
「そうか。まあ一部訂正したいがそれは置いておいて、改めて聞こうか。――お前はそんな女性と一緒になりたいか?」
「……伽耶の中身って、あんまり変わってないと思うんだ。おれが今でもバカで、お前は今でも落ち着いた性格で。あいつも、引っ込み思案なのは変わらないと思う」
「ふむ……」
以前、勘助と店を出していた時も伽耶が表に立ってはいなかった。将来の夫を立てるためかもしれないが、あれはただ単に人前に立つことを苦手としていた面もあるだろう。
三つ子の魂百まで。阿礼狂いは生まれた時から阿礼狂い。持って生まれたものは早々変わらない。
「だから一緒になって引っ張ってやりたい。そうだ、おれは――あいつと死ぬまで一緒にいたいくらい好きなんだ」
「……答えが出たようで何よりだよ」
放置しておいても勝手に答えは出していただろう。だが、そうなると答えが出るまでの間、伽耶は内心の不安を必死に押し殺すことになる。それは信綱の良心が痛む。
「あまり待たせるのはよろしくないぞ。そら、酒も呑んでないんだ、今から行って来い」
「え? ってああ!? おれが頼んだ酒まで消えてる!」
「相談料にしちゃ安いだろう。結婚が決まったら俺がおごってやる」
「……ありがとな! お前に相談して良かったよ」
「どういたしまして。ああ、あと一つ訂正しておけ。――俺も伽耶もお前が普通のやつだなんて思っちゃいない。すごいやつだって、俺も思っている」
「へっ?」
「そら、さっさと行け! ここで管を巻いても無駄だぞ!」
聞き返そうとする勘助の背中を強めに叩いて、無理やり酒場の外に放り出す。
その勢いに押されて慌てて走り始め、夕闇に消えていく友人の背中を見送って信綱は一人、軽い笑みを零すのであった。
――霧雨家の長女が幼馴染である農家の男と婚姻を結んだという話は、すぐに人里に広まるのであった。
信綱は山奥で一人、考え事をしていた。
家では何かやっていると、総会前に自分を亡き者にしようと襲い掛かってくる者の対処が面倒なので、一人になりたい時は大体山に踏み入っている。
信綱が好む静かな時間も最近は橙やら椛やら椿やらで邪魔されることが増えてきた。一人の時間が欲しいと切に願っている。
が、今回は用事が別にあったため、誰かに来て欲しいと思っていた。できれば椿以外で。
「やっほ、元気?」
しかし信綱の願い虚しく、頭上から聞こえてきた声は信綱が最も疎んでいる烏天狗のものだった。
「たった今元気がなくなった。椛を連れて来い椛を」
「先に知り合ったの私なのにぃ……。お姉さんは悲しいですよ」
よよよとやる気のない嘘泣きをされる。信綱は憮然とした顔のまま、嫌そうに口を開く。
「まあ……お前でもいいか。ちょっと聞きたいことがある」
「なんかすっごい嫌そうなのが気になるけど……まあいいや。私に聞きたいことって? 椛の男性経験?」
「お前の話題は卑猥なものしかないのか」
「ちなみに椛は処女だよ。千里眼のおかげで要領良く動けるけど、あの子根本的な部分で不器用だから」
「どうでもいいわ」
「えー、椛を連れて来いってそういう話じゃないの?」
どんなケダモノだと思っているのか。というか妖怪の男性遍歴など興味ない。
「友人が今度結婚する」
「へぇ、そりゃおめでとう。人間の一生は短いんだから、キミもさっさと相手見つけた方が良いよ」
「うるさい黙れ。で、何か贈り物をと考えていたところだ」
「ふーん。親戚筋とかじゃないんだよね? じゃあさすがに呉服関係はちょっと高価過ぎるか。ところで予算は?」
真面目に考え始めた椿に、信綱はこの世ならざるものを見たかのような顔になる。こいつ、偽物か?
「……なにさ、私がちゃんと応対するのが珍しい?」
「本物の椿かと疑うくらいには」
「ひどいなあ。なんだったら、キミが初めて会った私のどの部分を切ったか、当ててあげようか」
「いや別にいいお前は本物だ」
そこで恍惚とした顔になる時点で偽物はあり得ない。
しかし彼女が烏天狗の標準なのだろうか。それはそれで怖いというか、一生お近づきになりたくない相手である。
「一応聞くけど、キミって婚姻の作法とか知ってるの? 普通は家族間とか、親戚筋だけでやるもんだけど」
「そのぐらいは知っている。式は神聖なものだ」
男女が一生を共にする誓いの場でもある。その決意を知るのは彼らと親類の者たちだけで十分だ。
「……が、何もしないのも友達甲斐がないというものだろう」
「キミって意外と友誼に篤いね。もっと冷めてると思ってた」
「向こうが友人として扱ってくれるなら、俺もそれに応えようとする程度の甲斐性はある」
「私はキミのことかけがえのない友達だと思ってるのに……」
こいつは別である。友達と書いて誘拐対象と読む女の好意など願い下げだ。
「話を戻すぞ。何か良い案はないか? ないな。使えない女だ」
「勝手に聞いて勝手に使えない認定しないでくれる!?」
椿の話を聞いて良い結果になる気がしない。さっさと話を切り上げて自分でなにか探そうと思うことに何の不都合があるのか。
「では何か妙案が?」
「妙案って程でもないけど――いや妙案妙案! だから帰ろうとしないで!」
「……言ってみろ」
「うん、山芋とかどうよ?」
「じゃあな」
「理由ぐらい聞いてもいいんじゃないかな!?」
帰ろうと背を向けていたところをしぶしぶ向き直る。これで理由がしょうもないものだったら今度こそ帰るつもりだった。
「キミが手に入れられるものでしょ? 天狗の秘薬をあげてもいいけど、それじゃ私からの贈り物になっちゃう」
「ふむ。秘薬とやらに興味はあるが、道理だな。で、山芋にした理由は?」
「結婚するってことは、男女が同じ屋根の下に住むわけだ」
「そうなるな。婿入りだと思うが」
「夫婦になったからには、いつか子供もできるわけだ」
「そうだな」
あの二人の子供であれば、自分も可愛がるだろう。
「で、健康的な夜の生活のためには精を付ける必要がある。特に男」
「まあ、それを不潔と言うような潔癖症ではないが……」
二人の共通の友人からそんなものを贈られる心境や如何に。筆舌に尽くしがたい気まずさがあると想像するのは難しくない。
「……というかお前が持っていく話はそういうものしかないのか」
「何をおっしゃる! 丈夫な子供を産んで次に繋げるのは人間のみならず生物の使命! それを軽んじる生物に未来はないと言っても過言じゃない!」
いきなり奮われた熱弁に信綱は物理的に一歩下がる。言っていることの正しさは理解できるのだが、お近づきになりたい部類ではなかった。
「キミの友人なんでしょ!? だったら健やかな家庭を築いて欲しいという願いの助けとして何の問題もない!! ――というわけで芋を掘ろう」
「…………」
ここまで熱弁を奮われてしまうと、信綱もこいつの言っていることは正しいんじゃないかと思い始めてしまう。
椛がいれば流されてますよ!? とツッコミをくれたところだが、あいにく彼女はこの場にいない。
「……まあ、かんざしやらを贈るのはあいつの仕事だし、俺は俺であまり形に残らないものの方が良いか」
「そうそう。食べ物ならすぐに消費できるし、山の幸は結構貴重でしょ?」
「……ん? そういう意味なら阿七様にお出ししていた山女魚とかでも問題ないんじゃ――」
「さあ善は急げ! 山芋掘りなんて力仕事だよ!」
「あ、おい!」
背中を押される形で、ひょんなことから山芋掘りを始めることになってしまった信綱なのであった。
「……で、本当の目的はなんだ?」
信綱は椿に言われるがまま、その辺で拾った木の棒で椿の指示通りの場所を掘り進める。
専門の道具でもなく、まして芋掘りなど初めてのことなのだが、信綱は特に息を乱すこともなく淡々と、しかし芋を折ることなく丁寧に掘っていた。
椿はと言うと、適当な石に腰掛けて信綱の働く様子を見守るばかり。とはいえ楽しそうに見ている辺り、退屈はしていないのだろう。
「んー、キミと一緒に何かしたくなったってだけ」
「今までだって剣を交えてきただろう」
「それ以外のこともしたくなったんだよ。ほら、キミのことをよく知りたいっていうか?」
「気色悪い」
「ひどいなあ」
苦笑はするものの、怒りはしない。人間が妖怪に見せる態度としては実に正しいものであるし、御阿礼の子以外がどうでも良い彼らしい対応でもある。
それでも椿が信綱に構い続けるのは、彼が自分の期待をかけた子供のような存在でもあり、同時に――
「好きな人のことって、たくさん知りたいじゃない?」
「人間が好きだとか言ってたな、そういえば」
「よく覚えてたね。私と椛がキミを鍛えようとした時だっけ。――でも外れ。人間が好きだって言ったけど、あの時はキミが好きだとは言ってない」
「言葉遊びがしたけりゃ椛に頼め。面倒なのは嫌いだ」
物事が単純であればあるほど、信綱が考えるのは少なくなる。必要とあらば知略の一つや二つ巡らせるのはわけないが、頭の出来が根本的に違う妖怪相手と対等に張り合えると自惚れてはいない。
「ん、まあ率直に言うと――惚れた。キミの全部が欲しい。キミの剣術も、キミの思いも、何もかも」
「…………」
冗談、ではないだろう。信綱は芋を掘る手を止め、横目で椿の姿を追う。
胸の前で手を組み、頬を赤く染めて想いを語る彼女の姿は、なるほど確かに。本で読むような恋する少女のそれだ。
しかし信綱にはいささかの感嘆もない。どんなに見目を取り繕ったところで、彼女が妖怪で人間とはおよそ相容れない価値観の持ち主であることは疑いようもないことと――何より、生まれついて心を特定の一つに捧げてきた狂人に、そんな言葉は無為以外の何ものでもない。
「……女の子の告白に何もなし? ちょっと傷つくよ?」
「言ってろ。お前の想いに応えるつもりはこれっぽっちもない」
「知ってた。でも、私がキミを振り向かせようとするのを止めるつもりもないでしょう?」
「そんなことをする暇はない」
すでに信綱は芋掘りに戻っていた。椿と話していて実になることが滅多にないことぐらい知っていた。
本気の言葉であっても、そうでなくても、どちらにしろ相手にしない。それが自分のためである。
「だからさあ、キミに私の全てをもらって欲しいんだ」
「やだ」
「か、かなり直接的に拒否してきたね……。でもそれがキミなりの好意の表し方だって信じよう」
「……もう好きにしてくれ」
ちなみに椛には普通に接する。おそらく妖怪で誰が一番好きかと聞かれたら、椛と答えるだろう。
「うん、好きにする。ということでキミの後ろ姿眺めてて良い? 今はそれで満足するから」
「………………まあ、そのくらいなら」
かなりの間を置いての返答だった。下手に許すとズルズル行きそうで怖いというのが理由にあった。
が、そこまで邪険にするなら最初から無視すれば良いだけの話であることも、信綱は理解していた。
口でも態度でもまともな応対をしたことはないし、今でも殺せるならば殺してしまいたいと思っているのも事実だが――剣を教えてもらったことに関しては感謝している。
複雑な感情ではあるが、おそらく彼女を殺した時に持つ感情は哀しみなのだろう。
「……お前と知り合って、十五年になる」
「んむ、そんなに経つか。キミも大きくなるわけだ」
ああ、そこで穏やかな表情を見せられると、憎みきれない。わかっててやっているのなら相当な策士だ。
信綱は彼女の表情に、自分の記憶にない母親の存在を連想させられながらも、口を開く。
「鬱陶しいことこの上ないし、距離感は掴めないし、隙も見せられないけど――お前のことは、そう嫌いじゃない」
「……ふぇ?」
「いややっぱ嫌いだ。嫌いだが……あれだ。お前と一緒にいる時間はこちらの鍛錬にもなるし、俺をさらおうとさえしないなら無視はしないでやる」
全く予想の外だったのか、呆然とする椿の方を見ないようにする。
すでに芋は掘り終えていたが、何もせずに相手の反応を待つ時間が耐え切れなくて無意味に手を動かしていた。
「……えーっと、それ、は」
「うるさい黙れやはり死ね!」
もう使い道のない枝をぶん投げる。
呆けていてもそこは烏天狗。最小限の動きで避け、そこでようやく実感が得られたのか信綱に輝く笑顔を向ける。
「うそ、本当? やだ、凄い嬉しい。こんなに嬉しいと思ったことなんてないくらい」
「泣くほどか……」
ボロボロと零れる涙を手で拭いながら、はにかんだような笑顔を浮かべる椿の顔は、さながら相手に自らの片思いが通じたと確信する少女のそれ。
あんな対応で良かったのならもっと前から口だけでも合わせておけば良かった、と信綱が今後の椿の対応について考えていると、椿は涙もそのままに立ち上がった。
「――ありがとう。キミにそう言ってもらえたことがすっごく嬉しくて、私の心を震わせるほどに成長したキミが心から誇らしいよ」
「……どうした、お前」
様子がおかしい。泣き笑いをしている顔は普通の村娘と何ら変わらないというのに、なぜか信綱にはそれが獲物を追う狩人の顔に見えた。
「うん、決めた。少年、しばらくお別れだ」
「……どういうことだ」
「言葉通りだよ。私は当分の間キミに会いに行かない」
「なぜ。……いや、せいせいするが」
「キミのことがようやく見えてきたよ。キミって押すと拒絶するけど、離れようとすると引き止めるでしょ」
全然気づかなかった私に言えたことじゃないけど、と椿は苦笑しながら背中の黒翼で飛び上がる。
「私も強くなりたくなった。本当はキミが私を越えたら終わりにするつもりだったんだけど……火がついちゃった」
「…………」
「勝ちたい。私は――人間に勝ちたいんだ」
それは椿が初めて信綱に見せた本心。
「待――」
信綱が彼女に対する理解を深める前に、椿は空高く飛び上がっていた。
「しばしの別れだ人間! 次に会う時は――楽しく殺し合おう!!」
それが決別の言葉。木々の隙間から見える空の向こうに姿を消した椿に、信綱はもう一度会う時が戦いの時であると理解してしまった。
残された信綱は彼女の消えた空を見上げて、一人ため息をつく。
「……あんなことを思ったからか」
殺した時に抱く感情は哀しみであると思った矢先にこれだ。この世界は人間と妖怪の共存に優しくない。
瞑目し、彼女と過ごした時間を思い返す。概ねロクなものではなかったが、それでも信綱の時間の一部。自分が今の性格に落ち着いたのは、彼女の影響も間違いなくあるだろう。
思うところはある。出来ることならその瞬間が来ないで欲しいとも思う。だが――
「御阿礼の子に害をなすなら――殺す」
――目を開けた時には、彼女に向ける感情は全て消えていた。
椿は一つだけ、大きな勘違いをしていた。
それは彼が古代の英傑に勝るとも劣らない天稟を持つ人間であると同時に――否、それ以上に狂った人間であることを失念していたのだ。
それは普段の信綱が平均以上に真っ当な人格を演じていたから起きてしまった不理解。
椿は自分が幻想郷の妖怪として少しおかしいことを理解していたが、信綱が人間から大きく外れた存在であることにまで思考は及ばなかった。
妖怪と人間。本当に理解し合えるのは剣を交えた時である。その考えを持つからこそ、彼女は想像もしない。
――剣を交える時、信綱は椿に何の感慨も抱くことなく殺しに来ることなど。
椿はまだ、自身の終わりに気づいていなかった。
人里の側においても大きな転機があり、そして妖怪との関係においても転機がありました。
簡単にいえば椿の地雷爆発。彼女の好意に僅かでも答えることが地雷爆発のキーだとは誰も思うまい。デレると起爆する地雷です。
なお同時に椿も信綱の地雷を踏んだ模様。
そしてさらっと出した霧雨家の話。そこそこ前から考えていたことですけど、勘助と伽耶の子供 → 魔理沙の父親 → 魔理沙 的な流れを考えています。
なんか色々と矛盾があったら教えて下さい。御阿礼の子の転生の周期? あれはわかってていじってるのでノーカンです(真顔)
ぼちぼち阿弥の時代が近づいています。これまでの微妙に不穏な空気が一気に爆発する動乱の時代になる予定です。