おれには二人、大切な幼馴染と言える存在がいる。
まあ同年代の子供たちは大体寺子屋に通うから、みんな幼馴染と言ってしまえばその通りだけど、その中でも特に付き合いの深いやつがいた。
一人は伽耶。家が隣同士で、同い年と来ればそりゃあ嫌でも顔を合わせる。
初めて会った時はおばさんの影に隠れてこっちを見ているような子だったから、おれが手を引っ張ってやんなきゃて子供心に思ったんだ。
手を引っ張って遊びに行って、あいつも笑顔を見せてくれて、なんていうか妹ができた気分だった。最近はおじさんの仕事の手伝いとかを本格的に始めて、色々と頑張っているらしい。
当人いわく、下準備だとか。きっと商人の仕事には多くの下準備が必要なのだろう。野菜だって予め肥料をやって、土を休ませてやらないと大きく育たないように。伽耶には伽耶の準備があるんだと思っている。
で、もう一人。こっちは男の幼馴染がいる。
火継信綱。いつも無表情というか仏頂面というか、何を考えているのか今ひとつわからない顔で。でもこっちが話しかければちゃんと反応するし、冗談を言えば笑いもする。
……宿題を見せてくれって頼むと毎回呆れた顔になってたっけ。
結局一度も見せてはくれなかったけど、わからないところを教えてくれと頼むとちゃんとわかるまで付き合ってくれた。
凄いやつだと思ってた。背はちっこかったけど、頭が良くって運動も寺子屋で一番できて。
おれみたいに騒がしいだけのやつとは違って、あいつはいつか凄いことをやるんだって、なんとなく思っていた。
それは――今でも変わらない。
ノブ(信綱のアダ名。最初は嫌な顔をされたけど、ある時から悟ったように何も言わなくなった)と最初に出会ったのは、伽耶と違って寺子屋からだった。
母親らしき――後で聞いたら女中だった――人に手を振って別れて、寺子屋に入ってきたノブを見た時、良いところの坊ちゃんだな、という感想を覚えた。
それなりに大きな商家の伽耶を見ていたからわかった。仕立ての良い上等な着物を着て、振る舞いにもどことなく品が感じられた。
周りの目を集めながら、全く気にした様子を見せずに席につくノブ。それをおれも遠巻きに眺めている一人だった。
そこから実際に声をかけるまでは少し間が空く。慧音先生の授業がつまんなくって集団逃走を考えた時もあいつは乗らなかったし、身体が一番大きいガキ大将に絡まれた時もあっという間にあしらっていた。
その後慧音先生に喧嘩両成敗の頭突きを食らって涙目になってた。
頭も身体も良くて、どこか近寄りがたい。慧音先生に指されれば口を開くけど、休み時間中に自分からは声をかけない。
まあ正直、主体性のないやつだと思ってた。あいつも伽耶と同じで、誰かに引っ張ってもらうのを待っているんだと。
だから声をかけた。それが始まり。
「な、なあ」
「……ぼくに何か用?」
振り返った顔は疑問の顔。なんで自分に声をかけてくるのだ、という疑問が浮かんでいた。
その時点でおれは自分の考えが間違っていたんじゃないかって思い始めてた。
伽耶みたいに待っているんなら、誰かに声をかけてもらえたことを喜ぶはずだ。こいつにはそれがなかった。
本当に一人で構わない。そんな気配がひしひしと伝わってきていた。
「いや、これから外で遊ぶんだけどお前も来ないかって」
「……ん、いや、ぼくは――」
「遊びたいってさ、勘助。信綱もそれでいいか?」
「……まあ、いいよ。どうせ帰ってもやることないし」
ノブの言葉が最後まで続いていたら、おれたちの付き合いはきっとなかった。だから強引に遮って無理やり仲間に入れてくれた慧音先生には感謝している。
そこで遊びに参加したのだが、かくれんぼをやれば数を数えている時に目でも開けてるのかと思うくらいあっという間に見つけ出し、鬼ごっこでは鬼役になればすぐに捕まえ、自分が追われる側になったら鬼役のやつから距離を離さず伸ばされる手を延々避け続けるとかの行動をとっていた。
あいつに一対一とかの遊びは厳禁。それが同世代の寺子屋連中の認識だった。
集団で別れて遊ぶものだったら、大体ノブが入った方が勝つという無双状態。
まあ、うん。だから勝ち負けとかがない遊びに移行するのは当たり前のことだ。勝つ相手が決まっている遊びなんて面白くもなんともない。
頭も良いから宿題を見せてもらおうとしたらキッパリ断られた。自分でやらなきゃ意味がないって言って、取り付く島もない。
あの時はなんて頭の固いやつだと思っていたけど、教えてくれと頼んだらすぐ投げ出そうとするおれに粘り強く教えてくれた。
だから――なんでか自分からは友達を作ろうとしないけど、良いやつなんだってのはすぐにわかった。
三人で帰りながら駄菓子を買って、座って食っている時のあいつは確かに笑っていた。あの時間を楽しいって思っていたんだ。
父ちゃんと母ちゃんはそのことを話すと、少し微妙そうな顔になったのが不思議だった。多分、うちの両親はあいつの家について知っていたんだろう。
――それからすぐに、あいつは寺子屋になかなか来なくなった。
慧音先生からは家の都合って教えられた。それに全く来なくなったというわけじゃないし、数少ない寺子屋に来た日には自分から話しかけてきた。
「久しぶり、二人とも。元気だった?」
「あ、ノブくん。私と勘ちゃんは相変わらずだよ。そっちは?」
「ぼくも相変わらずかな」
あはは、とノブの顔に笑みが浮かぶ。それをおれは自分たちに会えて嬉しいのだと思った。
……実態は微妙に違うのかもしれないと、今ならわかる。あの笑みは多分、阿七の姉ちゃんを思い出していた。
「久しぶりだな! 今日は時間あるのか?」
「うん。夕方には戻らないといけないけど、それまでは付き合うよ」
「そっかそっか! じゃああの駄菓子屋行こうぜ! おれがおごるからさ!」
会うことこそ少なくなったけど、ノブはそういうのを気にせず話したし、おれも伽耶も気にしなかった。
それで実際にあいつの仕事を知る機会があって――
十歳になる少し前の時、おれと伽耶は市場に繰り出していた。父ちゃんと母ちゃんの手伝いをして小遣いもあったし、伽耶の誕生日が近かったからそれを探す意味もあった。
大人たちが思い思いに店を出して、地面にござを敷いて商品を並べて、大きな声を張り上げてお客さんを呼び込むその光景に、おれは圧倒されっぱなしだった。
行き交う人と人。おれと伽耶の二人はそんな場所じゃちっぽけな子供二人でしかなくって。
「勘ちゃん、こっち」
「え、あ、おう?」
動けなかった俺の手を伽耶が引っ張ってくれた。そういえば伽耶の家は商人の家だったな、と思い出すと同時に言い知れぬ恥ずかしさのような感情が浮かんだ。
多分、おれは――妹のように思っていた伽耶が頑張って手を引かなくっちゃいけないような、情けない姿を見せた自分が恥ずかしかったんだ。
「ん!」
だからおれは早足で歩いて、伽耶の前に出てその手を引っ張る。
「わっ、勘ちゃん?」
「おれが前だ! 伽耶が頑張らなくっても、おれがなんとかしてやる!」
別に危ない状況というわけじゃない。でも、大人だらけの空間を子供二人で歩くことは十分以上に大冒険であり、その危険な先陣を伽耶に切らせたくなかった。
「……ありがとう、勘ちゃん」
「なんでお礼なんて言うんだよ」
頬をほんのり紅色に染めた伽耶が笑う。それにわけもわからず照れ臭くなって、でも危ないから手を離すこともできず、とにかく前に進むことしかできなかった。
そうして見つけた小物屋。ちょっと頑張ればおれたちでも買えそうな値段のかんざしや小物が敷物の上に置かれていて、店主のおっちゃんもニコニコと笑いながらおれたちを見てて雰囲気の良さ気な場所。
つまり――おれと伽耶が冒険の先に手に入れた宝物だった。宝物を手に入れるにはお金が必要だというのが世知辛いところだったけど。
「……二人とも、久しぶり」
そんな時だった。後ろから声をかけられて、弾かれたように振り向くと、そこには久しぶりに顔を合わせる友達と、その友達と手を繋いだ女の人がいた。
その時のノブの格好は、まあ、あれだ。正直に言うと七五三のような格好だった。その頃は背格好が小さかったのも含めて、余計にそう見えた。腰に差していた小太刀もおもちゃにしか見えない。
「ん、あ、ノブ! 久しぶりだなあ!」
「ノブくん、久しぶり。そっちの人は……?」
それより目を引いたのは女の人だ。ノブの手を引いているから、お姉さんだろうかと思った。本人は結構不本意そうな顔をしていたけど。
「稗田阿七って言います。ノブ君のお姉さんみたいなものかな? よろしくね、勘助くんに伽耶ちゃん」
「あの、護衛……」
ノブはなにか言いたげにしていたけど、阿七の姉ちゃんの言うことに観念したのか、嬉しさと哀しさが混ざったような変な顔で紹介を始める。
「……この人の側仕えをしていてね。隠していたわけじゃないけど、あんまり寺子屋に来れなくなったのもそれが理由」
「……で、なんで手をつないでんだ?」
「阿七様の要望だよ! ぼくも嬉しいけどね!」
「お、おう……」
こいつにこんな一面があったんだな、と初めて知った。やけっぱちになっているだけにも見えたけど、手を離していない辺り、本当に嬉しいんだとわかった。
そして二人にも事情を説明していたら、伽耶が欲しい物を見つけたのかそれだけを一心に見つめていた。
けど、それはおれと伽耶の二人分の小遣いを足しても届かないもの。店のおっちゃんも申し訳なさそうな顔はしていたけど、まけてくれる様子はなかった。
ノブが払ってくれるって言ってきたけど、それは断った。なんて言えばいいかはわからないけど、それをしたら伽耶が喜んでくれないし、おれも嬉しくない。そんな気がした。
それがわからなかったのか、ノブは阿七の姉ちゃんに怒られながら連れて行かれてしまった。
あいつに悪気があったわけじゃないので、あまり怒らないでくれると嬉しいなと思いながら、一応伽耶に頭を下げる。
「悪いな、伽耶。すぐ欲しいと思うけど、ちっと待ってくれ」
「ううん、気にしてないよ。ノブくんには悪いけど、勘ちゃんからもらうのが嬉しいから」
「あー……おう、頑張るよ」
父ちゃんと母ちゃんの手伝いを超頑張ればなんとか届くだろう。最悪、お年玉の前借りとかでどうにかする。
そうして贈ったかんざしを、伽耶は今でも肌身離さず付けてくれている。
今ならその理由もわかる。伽耶は誰でもない、おれが贈り物をしたのが嬉しかったのだ。
そして時間はまた少し早くなる。
寺子屋を卒業したおれたちは以前のように三人で集まる機会が減り始めた。
おれは本格的に父ちゃん母ちゃんから農作業の手伝いに駆り出され、伽耶はおじさんについて商売の勉強を始めていた。
ノブは何をしていたのか、正直その頃はわからない。おれと伽耶は人里から出ることがないから、里の中で顔を合わせることもあったけど、ノブだけはほとんど顔を合わせることがなかった。
多分、山の方に行っていたんだと思う。あとは阿七の姉ちゃんと一緒にいたか。
稗田の家のことは後で父ちゃん母ちゃんから聞いていた。幻想郷縁起を記して、おれたちに妖怪との対処法を教えてくれる、人里でも長い歴史を誇る家の人間だと。
それを語る時の父ちゃんの顔は何か痛ましいものを語るような顔だったけど、その時はよくわからなかった。
――稗田の子供は転生するがために、生まれてきた子は親と引き離されて育つだなんて、知らなかった。
ノブもその時は背が伸び始めて、ごくたまに阿七姉ちゃんと歩いている時の姿はもう姉弟のようには見えなかった。
病弱な少女を支える一人の男性という、どこかの一枚絵のように絵になる光景だった。
だけどきっと、ノブの方にそんな感情はなかったんだろう。阿七姉ちゃんと一緒にいるノブは本心から楽しそうで、同時に姉ちゃんの身体の弱さに歯噛みしていた感じだった。
だからノブは頑張っていたと思う。おれや伽耶の何倍も努力して、必死になっていたんだと思う。
それはつまり、余分なものを削ぎ落としていたことと同じ意味で――
十五の時に、おれとノブにとっての転機が訪れた。
大人たちの仲間入りをして、自警団に入った。
先輩方はみんなおれに優しくて、緊張していたおれに肩肘張ることはないと言ってくれた。
後からやってきたノブには、何もなかった。ただ遠巻きに、腫れ物を見るような目で見ているだけ。意識的にやっている分、寺子屋の時よりさらにタチが悪くなった感じだ。
それがどういう意味か、わからないわけでもなかった。
十五になった時に、父ちゃん母ちゃんから聞かされた話がある。
曰く、気狂いの集まり。曰く、稗田のためなら親でも殺す集団。曰く――結界大騒動の折、狂乱したように暴れ回って妖怪を殺した人間の集まり。
今でこそ静かになって、またノブもその頃は生まれてないため知らないかもしれないが、あの家はそういう家なのだと。いつか手ひどく裏切られるから、付き合いをやめろと。
ふざけんなって話だと反発した。おれが小さい頃に近づくなと言うのならいざしらず、おれとノブたちの付き合いがあることなんて寺子屋の頃から知ってたはずだ。
それを今になって付き合いを切れなど、聞けるはずがない。
だけど周囲の反応を見ていると、ノブがそういう家の人間であることを否応なしに見せつけられる。同時に、ノブはおれたちとは違う世界の人間なのだと、本人を見ていて実感してしまう。
それが無性に腹が立って。おれとノブは友達なのだと、ノブは皆に言われるような人間じゃないと、根拠もなく思っていた。
「よ、ようノブ! おれと一緒に見回り行かねえ?」
そんなおれの苦悩など全く知らんとばかりに、ノブは静かに本を読んでいた。
何やら難しそうな本から顔を上げると、ノブは小さく笑って立ち上がる。
「……そうだな。付き合おう」
立ち上がったノブは自警団の詰め所にある武器には手を触れず、腰に差してある刀だけを持って、先輩方に会釈して出て行く。
おれもそれに続いて詰め所に立てかけてある槍を掴んで、出て行く。
槍は剣より強い武器で、扱いやすい。一般的にそう言われている。
自警団に入った時はノブみたいな刀を使えるもんだと思っていたから、ちょっとだけ不満があったけど、今じゃ手に馴染んでいる。
まあノブはそんな理屈、物ともしないくらいに強いのだろう。自警団での訓練に顔を出すことはないが、それでもこいつが一番強いんだろうな、と特に疑問を持つことなく思っていた。実際それは当たっていた。
ノブとの見回りは人里の外に出る。外に出ることが禁じられているおれにとっては、こいつと一緒にいる時だけが外に出られる機会ということになる。
無縁塚に商品を仕入れに行く人。魚や肉を取るために山に入る人など、職業に応じて外に出る人は存在するが、あいにくとおれの家は農家だ。農家が外に出る必要性なんてなかった。
といっても、外に出ても外壁の周りをぐるりと回るだけなので、里の中と大差はないのだが。
「んーっ、やっぱ外に出ると気分いいな。これで妖怪さえいなけりゃ、伽耶も連れて遊びに行けるんだけど」
「そりゃ無理だ。人里に来ないとはいえ、妖怪自体はあちこちにいる。……ほら、あそこにも」
ノブが指差した茂みに目を向けると、ガサガサと慌てたような音が遠ざかっていく。……全く気づかなかった。
隣のノブはといえば、特に気を張った様子もない。つまり今ぐらいの気配なら、こいつにとって苦もなく読み取れる程度でしかないのだろう。
「だな。お前がいるからって油断はできないか」
「強い妖怪になると油断どころじゃないけどな。昔から妖怪を相手にする時は複数で囲んで叩くのが一番って相場が決まっている」
そう語るノブだけど、ノブはそんな強い妖怪相手でも一対一でどうにかできるのではないかと、信じてしまう何かがあった。
自分みたいな人間とは違う。何か――波乱の中心に選ばれるような、何かが。
「まあ、何事も平穏なのが一番だ。山あり谷ありなんてのは、別の誰かがやってくれるって」
そうなってほしいという期待だった。山あり谷ありの人生になったら、どこかでこいつと決定的な何かが起こってしまう。そんな予感があった。
「……で、さ」
だけど、その予感が的中するのは思いの外早くやってきた。
「どうした」
「……父ちゃんや母ちゃんが話してんだ。お前の家は色々と……その……」
「気が触れている。集団との協調性がない。気狂い揃いの家。そんな連中と付き合うのはやめろ。そんなところだろう」
「わかってんのかよ……」
「自分たちの里での評判ぐらい、嫌でも理解する」
全て知っていた。知っていて、こいつは今の自分を貫いている。
それが眩しいのか、羨ましいのか――おぞましいのか。身体が震えるのがわかった。
「いい加減、俺の家がどういう家かはわかっているだろう。――俺も同類だ」
「……っ」
聞きたくない。それ以上先は聞きたくないと頭が叫んでいる。
おれがどんな顔になっているかなんて、察しの良いノブには全部わかっているだろうに、言葉は止まらない。
「六歳の頃からか。寺子屋に顔を出す頻度が下がっただろう。あの時から俺は阿七様に仕えていた」
「丁稚とか、小間使いじゃないよ……な。お前んところ、裕福だし」
「色々と騒がしいから広いだけだ。道場と部屋以外は何もない」
初耳だった。けど、心のどこかで合点が行った。こいつの家が里の外れにある理由がわかったのだ。
「……まあ、誤解されても困るからハッキリ言っておこうか」
そんなおれの理解をよそに、ノブはこちらを真っ直ぐに見据えて口を開く。――決定的なそれを。
「もしも二者択一などの選択が迫られたら、俺は迷わず阿七様を取る。もう片方の天秤に何が乗っていても。父上だろうと、伽耶だろうと、慧音先生だろうと、自分だろうと――お前だろうと」
「やめろよ!!」
言葉を遮る。ノブの無機質な目を見ながら、そんな言葉をこれ以上聞いていたら頭がおかしくなりそうだった。
見たくなかった。いつもあまり表情に変化の出ないやつだったけど――今のこれは本当に違う。敵とか味方といった次元じゃない。本当になんとも思ってない相手にしか向けないような瞳だった。
あれは――ノブが殺すことを考えた相手に向ける瞳なのだと、この時のおれは知らなかった。
「やめろ、やめろよ、やめてくれ、やめてくれ……!」
「……俺はそういう人間だ。狂っているのは間違いないし、おぞましいと思うのは正しい感性だ。勘助、お前が責められることは何一つとしてない」
頭を抱えてうずくまるおれに投げかけられた言葉は、意外なほどに優しい声音だった。
けど、顔を上げてもそこにあるのはノブの無感情な顔だけで、おれの思考は乱れに乱れた。
「あ……」
「……先輩方には俺から言っておくから、お前はもう帰れ。離れていっても俺は何も言わん。それが普通の選択だ」
ノブとともに人里への道を歩く。ひどく消耗した気分で一人で歩くのも辛かったが、ノブはおれに手を貸すことはなかった。
……たぶん、あいつなりの気遣いだったんだと今ならわかる。不器用だとは思うけど。
そうして別れて家に戻って、待っていたのは父ちゃん母ちゃんからの話。
辛かった。さっきまでの自分ならいざしらず、今の自分に二人の言葉を否定することはできなくて――
ノブもあれ以来自分と顔を合わせるのを避け始めた。おれより頭も身体も良いやつだ。少し頭を回らせるだけで簡単におれと出会う可能性は潰せるのだろう。
それからしばらく農作業をして、自警団に顔を出して。死んだように生活していたと自分でも思う。
でも他にすることもなくて、おれはノブになんて言えばいいのかなど、わからなくて――
転機は、一月ほど経った頃のことだった。
「はぁ……」
自警団の見回りも終わった後、おれは広場で老人たちが座るために用意された長椅子に腰掛けて、ため息をついていた。
ここ最近の日課だった。家に帰っても待っているのは気まずい両親との時間。それを少しでも減らすために、ここで時間を潰すのだ。
顔を上げれば人の行き来を見ることができる。が、それがおれの心を躍らせることはなく――
「あれ、勘ちゃん? どうしたの、こんなところで」
「ん、あ、伽耶?」
おれが真っ当な反応を返したのは、幼馴染の耳に優しい控えめな声を聞いた時だった。
心配そうにおれを見る伽耶に心配かけたくなかった。だから空元気でもなんでもいいから立ち上がる。
「こうやって顔を合わせるのは久しぶりだな! 今日は何してんだ?」
「お父さんのお手伝い。……ねえ勘ちゃん、何かあった?」
見抜かれていた。ここ最近の伽耶は妙に勘が鋭い。
疑問形で聞いているけど、これは確信を持っているだろう。
「な、何もねえよ! それより久しぶりに会ったんだし、これから駄菓子屋でも――」
「何かあった?」
適当にはぐらかそうとしてもダメだった。いつの間にか隣に座った伽耶が、自分の顔を真っ直ぐ見据えてくる。
一月前にノブにされたのと同じだけど、伽耶の視線にははっきりとした心配があったのが、なぜだか妙に安心できた。これでこいつまでノブと同じ目をしたら、発狂する自信がある。
「……ノブのこと、知ってるか?」
「……周りからどう呼ばれているか、だよね? うん、知ってる」
「どうして……」
「私の家の仕事、商売だよ?」
伽耶の言うとおりだ。世間に疎い商売人などやっていけないだろう。
「……え? じゃあ、待てよ。お前、ずっとノブがその……そういう家の人間だって知ってて付き合ってたのか!?」
心底からたまげた。だってそれは、おれの今抱えている悩みを伽耶はずっと持ってきたってことじゃないか!
「うん。あ、でも私もノブくんの口から直接聞いたわけじゃないし、勘ちゃんほど知っているかはわからないけど……」
そう伽耶は言うが、そんなに大差はないだろう。重要なのはノブが一般の人とは違う人間であることと、それに悩んでいるかどうかだ。
「……お前は、ノブのことをどう思ってんだ?」
「大切なお友達。向こうから言い出さない限り、私からは何も言わない」
即答された。生まれて初めて、伽耶のことが眩しく見えた。
ずっと妹だと思っていたのに、その妹分は自分よりずっと強い女なんだって実感した。
「どうしてそう思うんだ?」
「決まってるよ。一緒にいて楽しそうにしてくれて、悩みを打ち明けたらちゃんと一緒に悩んでくれて、ちゃんと私たちと一緒の時間を大切にしようとしてくれる。――ほら、お友達じゃなくてなんていうの?」
「だけど……」
「勘ちゃん、ノブくんになんて言われたのかはわからないけど。でも今まで一緒にいて、楽しかったのは間違いがない。寺子屋の帰り道に、三人で一緒に駄菓子を食べて笑っていたのは、ノブくんも同じだよ?」
「あ――」
視界が開けた気分だった。伽耶の言葉が、おれの胸のどこかにストンと落ちる。
「確かに、普通の人と違うところがあるんだと思う。それがいつか私たちを遠ざける原因になるかもしれない。――でも、その時が来るまで、友達を続けることはできると思うんだ」
「伽耶……」
「だから私はノブくんの友達。――勘ちゃんは、どうしたい?」
「…………」
目を閉じて自分の胸に問いかける。このまま終わって良いのかと。あんな一方的な言葉で、今までの関係を終わらせて良いのかと。
――答えは決まっていた。
「……伽耶。ありがとうな。目ぇ覚めた」
「ふふ、どういたしまして。……勘ちゃん、頑張ってね」
「おう! ちょっとノブ探してくる!」
あいつの顔を見て、もう一度話をしよう。それでもう一度友達になろう。
そうなったら、あいつのあの時の態度を一生弄り倒してやるんだ。
ずっとくすぶり続けていた何かに火がついた気分だった。今なら、あいつの目にも対抗できる。
おれは数時間後に待っているであろう、三人一緒の楽しい時間を目指して走り出した。
ノブは大切な友達で少し、いやかなり人と違う部分がある男だ。
だけどあいつは誰かに優しくあろうとしているし、おれたちはそれを知っている。
だからこの先もずっと――あいつは最高の親友だ。
優しいけれど、確実に頭のおかしい友人に悩み、それを幼馴染のヒロインに助けてもらって改めて向き合うパンピー勘助のお話でした。※主人公は頭のおかしい友人の方です。
今回はちょっと異様に筆が走りました。次回もこんなに早くなると思うなよ!? いいな! フリじゃないからな!?
時系列的に適切な位置に差し込むべきかどうかはちょっと考え中です。場所を変えた方がいいかな? と思ったら変える予定です。