異変が解決してしばらくした後、信綱が普段と同じように阿求の側仕えをしていた時の話である。
阿求の私室にて主がサラサラと書き物を綴っている様を後ろに控えて見ていると、阿求が凝った肩をほぐすように回し始めた。
「阿求様、本日は何かをしなければならないという用もないはずです。ご無理はなさらぬ方がよろしいかと」
「うーん……そうね。異変のお話はまだ向こうの都合がつかないし、霊夢さんたちから聞いた話だけでもまとめておきたいけど……」
「後ほど私の方で行いましょう。縁起の執筆は阿求様にしかできませんが、資料の編纂ならば微力ながらお手伝いできます」
「お願いしても良い?」
「仰せのままに」
恭しく頭を垂れ、信綱は懐に入れていた書物を差し出す。
「……それは?」
「阿求様が本日必要になるかと思い、昨日のうちに作成しておきました」
「うん、お願いしたらそう来るんだろうなってちょっぴり思ってた」
あはは、と笑いながら阿求は信綱の差し出した書物を受け取る。
軽く中身を検分したところ、やはり完璧と言って良い内容だった。
阿求が生まれる前から阿求に仕えているこの男性は、もはや主の言葉などなくても主の意思通りに動くのではないかと思ってしまうほどだ。
「あれ、今日はもうやることがないかな?」
「阿求様がやらなければならない、というのは残ってないかと。小鈴嬢のところへ遊びに行かれては?」
「この前行ったばかりで話したいことも今はないかなあ。あ、そうだ!」
ぽん、と妙案を思いついたように両手を合わせた阿求は信綱の方を振り向き、とびきりの笑顔を浮かべた。
「椛姉さんから聞いたわ! お祖父ちゃん、釣りが趣味だって!!」
「はい? 確かに御阿礼の子がおられない間は釣りをすることもありましたが」
「今はしてないの?」
「阿求様とのお時間が一番大切ですので」
山で魚を取ることがあっても、釣り竿を垂らして待つのではなく腰に下げている刀で取った方が早いのだ。
阿求に説明すると、乾いた笑い声になっていたのが気になるが、些細なことだろう。
「あはははは……お祖父ちゃんは人間離れしてるなあって」
「他者に比べて優秀な自覚はありますが、妖怪とは比べられませんよ。私など半端なものです」
その半端な能力で幻想郷の魑魅魍魎を相手に一歩も退かないのが凄まじいのである、と阿求は思った。
「そ、それでね! 今日はお祖父ちゃんが釣りをしているところを見てみたいなあ、って」
「ふむ……」
信綱は腕を組み、阿求の部屋から外を覗く。
雲もまばらに見える程度、気温も晩夏から初秋に差し掛かる適度に暖かく、涼しすぎない適温。
「……それでは山の方に行きましょうか。そろそろ紅葉も始まる季節です」
「お魚は何がいるの?」
「鮎と少々時期は早いですが
「わ、楽しみ! 早く行こ、お祖父ちゃん!」
キラキラと顔を輝かせた阿求に信綱も微笑み、釣りの支度をするべく立ち上がるのであった。
今更な話だが、信綱は妖怪の知り合いが非常に多い。
紅魔館の吸血鬼、妖怪の山に暮らす天狗と河童、地底の鬼、スキマ妖怪とそれに連なる式など、およそ普通に生きていたらまず一生関わらないであろう妖怪の大半を知っていた。
その中でも殊更に多いのが妖怪の山の知り合いである。
悪友と呼ぶのがぴったりな妖猫に河童、相棒である白狼天狗など、彼にとって重要な妖怪は大体妖怪の山で暮らしていることになる。
そしてこれも今更な話だが、信綱は不思議と妖怪を惹き付ける。
そういう気質でも持っているんじゃないかと思うくらい、歩けば棒に当たる頻度で妖怪と出会う。
なので彼が山釣りなどに行った場合は――
「あら、人間さん。こんなところで会うなんて奇遇ねえ」
「嘘をつくな。俺を探していただろう」
「前々からここで釣りをしていた人がいたのは知っていたわ。でもあなただとわかったのは最近よ」
当然のように、妖怪たちと出会うのである。
先日知り合った厄神の鍵山雛が、最初に会った時と同じ懐っこい笑顔を浮かべてふわりと信綱の近くにやってくる。
それを見て、信綱は隣で祖父が釣りをしているのを楽しそうに見ていた阿求をそっと遠ざけようとする。
「……おい待て、厄神。近寄ると厄が移る」
「ああ、安心して。厄が移るのは避けられないけど、その方向を制御するくらいならできるから。だから厄は全部あなたに行くわ」
「安心できる要素がまるでないんだが」
それはつまり阿求に行く厄まで自分が引き受けるというように聞こえてならない。いや、阿求に厄を行かせるなど言語道断なので、それが防げること自体はありがたいことなのだが。
「あなたは……厄神様? 人間の前に姿を現すことがあるなんて知りませんでした」
「今代の阿礼乙女ね。知らないのも無理はないわ。私も普通の人の前に姿を現そうとは思わないし」
「じゃあ、どうして?」
「誰とも会わない生活って退屈なのよ。そして彼は私の厄が移ってもものともしない人間。話し相手にはうってつけだと思わない?」
「俺がお前と話す利益がまるで見えないんだが」
「ちょっとくらい良いじゃない。それとも厄神が人間と友人になりたいって思うのは間違いとでも?」
正直そう思う、と言ったら雛は本気で受け取り、二度と信綱の前に姿を現さないだろう。
出会った時と変わらない懐っこい笑みの中に、どこか怯えの色が混ざっているのを信綱は見逃さなかった。
「……あの後、戻ってからも俺の方で凶事はなかった」
「え?」
「お前から移る厄などその程度なのだろう。阿求様に移さなければ気にはせん」
「……うふふふふっ、やっぱり私の思った通り! あなた、とっても優しい人ね!!」
雛は本当に嬉しそうに笑って信綱の近くに座り、片目を閉じてペロッと舌を出した。どうやらさっきの言葉は演技だったようだ。
露骨に渋面を作るものの、おそらく拒絶したらしたで本当に立ち去るつもりだったことも理解できてしまい、信綱はため息を吐くことしかできなかった。
「……阿求様に少しでも厄を移したら死ぬと思えよ」
「そこは細心の注意を払わせてもらうわ。ね、ね、今って釣りでもしてるの?」
親しげに話しかけてくる雛をため息であしらい、同時に釣り針にかかった感触を逃さず釣り上げる。
「わ、わっ! すごい、ピチピチしてる!!」
「今は魚籠に入れておきましょう。ある程度数が揃ったら落ち葉を集めて焼いて食べましょうか」
「はぁい。お祖父ちゃん、釣りも名人なんだね!」
「長く続けていただけですよ」
謙遜したように言うが、阿求に褒められて悪い気はしない信綱だった。
横から私は? 私は? という目で見てくる雛にも一尾はくれてやろうと考えていると、再び背後に気配を感じ取る。
珍しいことに妖猫のそれではなく、信綱は振り返って誰がいるのか確かめる。
そこにいたのは赤や橙といった暖色系の服を身にまとい、ブドウの飾りをつばの広い帽子につけた少女だった。
芋にも似た甘い匂いを漂わせた少女は面白いものを見た、と目を丸くして信綱たちを見ている。
「あら……珍しい気配がすると思ったら珍しい組み合わせがいたわ」
「秋姉妹の妹さんの方じゃない。あなたも人間の気配に惹かれて?」
「厄神の気配を感じて、が正解よ。あなた、普段はこんなところまで来ないでしょう?」
増えた。それが信綱の率直な感想だった。
雛の気配を厄神のそれと感じ取れる存在はそう多くない。つまりこの少女は――
「あ、人間は知らないかしら? あれ? でもそこの阿礼乙女は知ってるわよね?」
「ええ、存じております。幻想郷の豊穣神、秋穣子さまですね?」
「そうそれ。あ、でもそんな畏まらなくていいよ。神社とかも持たずにフラフラやってる弱小神さまだし」
脳天気に笑いながら穣子もまた信綱の近くに座る。雛の厄が移るのを恐れてか、若干距離は取っていたが。
なんで居座るんだよ、と思いながら信綱は自己紹介のために口を開く。
「……御阿礼の子を知っているなら俺もわかるかもしれん。阿求様の側仕えをしている者だ」
「ふぅん? この子はお祖父ちゃん、って慕ってるみたいだけど?」
「お祖父ちゃんは私のところに仕えて長いですから。穣子さんは今日は一体?」
「さっき言った通り、雛がこの辺りまで来るのは珍しいからね。少し気になっただけ。雛はこの人間に会いに?」
「そんなところよ。それで今は彼の釣りを眺めているの」
雛は楽しそうな笑みを浮かべながら、竿を操る信綱を見つめていた。
近寄るだけで厄が移るのに、彼は何も言わず彼女の好きにさせている。それが雛にとっては嬉しかった。
楽しそうな雛の気配にあてられたのか、穣子も近くの手頃な岩に腰掛けて信綱と阿求の様子を眺め始める。
「……理由はわかったんだろう。お前がここにいる理由はないと思うが」
「動く理由も特にないもん。私はちょっと歩き疲れて休憩して、たまたま人間がそこにいたってわけ」
「…………」
「あ、でもお供え物は大歓迎よ? お魚も立派な秋の実りだし」
結局たかりたいだけか、と信綱は期待した目で釣り竿を見る穣子に呆れた視線を返し、釣りに戻る。
阿求と二人だけでのんびり釣りができると思っていたのに、邪魔ばかりである。
そんなことを考えていたところ、雛は不思議そうに頬に指を当てて穣子に視線を向けた。
「あら? そういえばあなたのお姉さんは――」
雛がそんなことを言った瞬間、信綱は嫌な予感を覚えるのだがすでに後の祭りだった。
ふと後ろを振り向いた信綱たちの前に、また一柱の神が姿を現す。
物静かな空気をまとい、紅葉を連想させる色合いの服を着た――つい先ほど知り合った穣子そっくりの気配を持つ少女はその場にいるちぐはぐな面子を見て小首をかしげた。
「穣子、こんなところにいたのね……って、あら、人間と厄神?」
「お前が俺にもたらす厄が今わかった。俺と阿求様の時間を邪魔するのだな?」
「いえこれはあなた自身の生まれついた間の悪さだと思う痛い!?」
とりあえず雛のせいだということにして頭を叩いておく。雛は叩かれた場所を押さえて涙目で見てくるが、気にせずやってきた神の方へ顔を向ける。
「以前に聞いたことがある。厄神、豊穣神、紅葉の神。この三柱が妖怪の山で活動している神々だ、と」
「物知りなのね、あなた。私は秋静葉。紅葉を司る八百万の神よ。妹がお世話になりました」
ペコリと頭を下げるその姿に信綱は意外そうに眉を動かす。
こんな風に最初から謝罪してくるとは思っていなかったのだ。
「あら、意外?」
「……初対面の人間にお供え物をたかってくるやつの姉とは思えないくらいにはな」
「あ、ひどーい。人間が神を敬うのは当然でしょー?」
「利益があれば、の話だ。お前が俺に何かしてくれるのか?」
「お供えしてくれたら加護をあげる。今なら体から甘いお芋の匂いが――」
「いらん」
「ちぇー」
大して執着もしていなかったようで、穣子はケラケラ笑うばかり。
そんな妹の様子を見てなにか思うところがあったのか、静葉も穣子の隣に座って信綱を眺め始めた。
「何が面白いんだお前ら」
「こんな風に神さまが揃うなんて滅多にないし、人間もせっかくなら楽しめば?」
「俺は阿求様と二人だけが良いんだが」
「まあまあ、お祖父ちゃん。私、こうやって皆とワイワイするのも楽しいよ?」
阿求にそう言われては何も言えなかった。
信綱は仕方がないと肩を落とすと、再び釣りに戻っていく。
「……釣りの邪魔はするなよ。それなら一尾ぐらいはくれてやる」
「わ、お供え?」
「寝言は寝て言え」
「んー……ま、いっか! お供えもありがたいけど、たまにはそうじゃないのもいいよね!」
「あまり神が露骨にたかるものじゃないわよ……でも、私にももらえたら嬉しいかな」
辛辣な信綱の言葉もまるで堪えた様子がなく、穣子と静葉はそこに佇んで信綱が魚を釣るのを待つつもりらしい。
雛は久しぶりに会った人間を見るのが楽しいのか、ニコニコと笑ってその様子を眺めていた。
「……何が楽しいんだ?」
「今この瞬間の何もかも、かしら?」
そう言って雛は笑いながら阿求に目配せすると、阿求もまた楽しそうに笑う。
どんどん増える神々に信綱は鬱陶しそうな顔を隠さないが、静かだった二人だけの釣りが賑やかになっていくのが阿求には嬉しかった。
「お祖父ちゃんの周りはいっつも色々な人がいるね」
「困ったものです。こちらが嫌がっても向こうから寄ってくる」
「好かれているってことよ。もちろん、私も!」
「おっと」
阿求が祖父の背中に飛びつくように抱きつくと、信綱は穏やかに笑いながらその体重を受け止める。
孫娘と祖父。その姿にしか見えない二人と神々が三柱。誰もが笑って同じ場にいることが、阿求には尊く輝いている物に見えたのだ。
きっと、この時間は何ものにも代えがたい宝石のような時間になる。そんな確信にも等しい予感があった。
「お魚ちょうだい!! あ、やっほー子分!」
「誰が子分だ」
「お、盟友釣りしてる! ってなんかすごい大勢いる!?」
「おい、水場から来るな。魚が逃げる」
阿求の予感は的中し、信綱の腐れ縁と言える妖猫の橙や河童のにとりまでやってくる。
信綱はその度に面倒そうな顔を隠さず、にべもない言葉を放るのだが誰も気にしない。
人見知りの気があるにとりですら、普通に水場から出て橙と話し始めるほどだ。
「…………」
「申し訳ありません、阿求様。このようになってしまって」
もはや二人だけになるのは無理だと悟ったのか、信綱が困ったように頭を下げる。
誰か一人ぐらいは来るかもしれないと予想していたが、これほどの数はさすがに予想外だった。
賑やかを通り越してうるさいくらいの人数になってしまった。しかも大半は自分が目当てである。
阿求の願いを叶えられていないのではないかと内心で不安に襲われながらの謝罪を、阿求は微笑んで首を横に振る。
「ううん、山の中でこんな風に賑やかな時間を過ごすなんて初めてだから、とっても楽しい!」
「……なら良かった」
阿求の喜び方が本心からのそれだとわかったからか、信綱も安心したように穏やかな表情になる。
そしてほぼ同じ時にかかった釣り針の魚を橙に放った。
すでに焼く準備をしていた橙は器用に放られた魚を枝に受け止め、手際よく串刺しにしていく。
「おっと、もう焼いていいの?」
「いい、それなりに数は釣った。これも使っていいぞ」
魚を入れていた魚籠も手渡すと橙は中身を確認して数を数える。
ちょうど全員が一尾は食べられる数が釣れていることを確かめると、橙はニンマリと笑った。
「ん、ちゃんと全員分あるわね! 褒めてあげるわ!」
「たまたまだ。まったく、どいつもこいつも遠慮というものを知らんのか?」
「あんたが知らないものを私たちが知るわけないじゃなイタタタタ!?」
「人に無遠慮とか言うな」
「あんたはどうなのよ耳を引っ張るなー!」
橙の耳を引っ張りながら憮然とした顔になる。
これでもちゃんと礼を尽くす相手にはこちらも礼を尽くす方だと自負しているのだ。礼を尽くさない相手には遠慮など彼方に投げ捨てるが。
基本的に妖怪は人間の事情などお構いなしな連中ばかりなので、妖怪を相手にする時は大体自然体でいることが多い信綱だった。こいつらに払う礼儀など一欠片もないと言わんばかりの態度である。
「まあまあ、盟友。これも盟友の人徳だよ。私も初めて見るけど、神さま三人に出会える人間なんてすごく貴重じゃない?」
「貴重どころか一生自慢できるよ。まあ人間はそういうの気にしないみたいだけど」
「もうそういうのは一生分経験した」
それに異変解決は霊夢に任せているのだ。自分はゆっくりと残された時間を御阿礼の子とともに過ごしていたいだけである。
ままならない時間にため息をついていると、静葉が何かを思い出したように両手を合わせる。
「……あ、山の噂で聞いたことある。数十年前に現れた人間の英雄が幻想郷を変革したって。で、その人間はまだ存命だって」
「…………」
「……まあ、どっちでも良いけど。人間は私たちをどうこうするわけじゃないでしょう?」
「むしろお前が俺をどうするか聞きたいんだが」
「別に何も? あ、私が手ずから色づけた紅葉とかお土産にいる?」
「いらん」
そう、と静葉は感情の読みにくい顔でうなずく。
情動が薄いのだろうか、と信綱は未だ詳しいとは言えない神を知る機会だと考えて観察してみたところ、視線が落ちており暗い空気をまとっていることから、ほんのり落ち込んでいるように見えた。
静葉の隣に座っている穣子もついでに見てみると、にべもない信綱の言葉に傷ついた姉を慮っている眼差しだった。
「……似たもの姉妹だな」
「え? あんまり似てないってよく言われるけど?」
「そう思っているだけだろう」
どちらも目が口以上に物を言っている。少し付き合いが長くなれば目だけで何が言いたいかもわかってくるはずだ。
……そんな長い付き合いになってほしくない、と内心で思う信綱だった。これ以上の面倒事など好んで関わりたいものではない。
信綱の言葉がピンときていないのか考える様子の秋姉妹から視線を外し、阿求の様子を見る。
「まだなの?」
「んー、まだね! まだ匂いが生焼けみたいだし!」
「へえ、さすが妖猫。わかるものなんだね」
「ふふん、魚に関しては任せなさい。最高の焼き具合になったら教えてあげる!!」
橙、にとりと一緒に魚が焼ける様を楽しそうに眺めているので、特に問題はないと判断して釣りに戻る。
楽しそうに話しているのだ。自分が首を突っ込んで水を差すのもはばかられた。
秋姉妹は何やら二人で話し込んでおり、橙とにとりは阿求と一緒に魚を焼いている。そして雛は優しげに目を細めて彼女らを見ていた。
「……何が楽しいんだ?」
「この空間に自分もいられる幸福を噛み締めてる、って言ったら大げさって言うかしら?」
「おいそれと人と関われないのだろう。別に笑うほどのものでもない」
「ふふ、ありがとう。――皆があなたを好きになる理由がわかるわ」
静葉が話していた英雄は彼なのだろう、と雛は確信を持って信綱を見る。
武勇? 知略? 強運? どれも英雄の条件ではあるが、それだけでは不十分である。
英雄に必要なのは――時流の中心に立ち、その上で自ら道を選ぶことなのだ。
大きな流れは本人の望む望まないに関わらず多くのものを惹き付ける。
良いものもあるだろう、悪いものもあるだろう。あるいは、本人すら殺しかねないものもあるだろう。
薙ぎ払うか、手を差し伸べるか、いずれにせよ彼は激動の時代の中で自ら信じた道を踏破した。
今はもう残滓のようなものかもしれないが――それでも、多くのものを惹き付けるに十分な輝きを持っているのだ。
尤も、当人は理解しているのか理解していないのか、雛の言葉に眉をひそめていた。
おそらく理解していないのだろう。真っ当な気質ならわかるであろうことが、彼の出自故にわからなくなっているのだと人間の魂がわかる雛には読み取れた。
しかし自分にはわからないと理解した上で尊重しようとするのは彼自身の人徳である。雛は歪みながらも真摯な輝きを放つ魂を眩しげに見る。
「……お前が何を言っているのかわからんな」
「良いのよ、わからなくても。老い先短くても、あなたと知り合えて良かったと思っただけ」
「そんなものか」
わかったようなわからないような、適当な返事をして信綱は釣り竿を片付け始めた。
もう終わりなのだろうか、と雛が顔を上げると背中から声が届く。
「お魚焼けたよー! 食べないと私が全部食べちゃうんだからー!」
「今行く。行くぞ」
立ち上がった信綱が当然のように雛へ手を差し出す。厄が移るというのをすっかり忘れているのか、はたまた気にしても意味がないと開き直っているのか。
どちらにせよ彼は自分の意志で手を差し伸べた。近寄ってくる相手を拒絶するのも彼の自由なのに、手を伸ばすことを選んだ。
「……厄が移っても手を払ったりしないでね? 傷ついちゃうわ」
「今更それを恐れるくらいなら最初から来るなと言っている」
それもそうだと吹き出してしまう。あけすけに物を言うというか、一度決めたことに忠実なのか。
雛が伸ばされた手を取ると、大きな力がかかって簡単に立ち上がってしまう。
――誰かに立たせてもらうなど、何年ぶりのことだろうか。
あるいは初めてかもしれないそれを雛は微笑んで胸の奥へ大切にしまい、笑って皆が魚を囲む場所へ合流するのであった。
「おや、博麗の巫女じゃないか。先日の意趣返しで今度はそっちが敵情視察?」
守矢神社で何をするでもなく佇んでいた諏訪子は、空の上からやってきた紅白の巫女を見つけて声をかける。
異変の解決は全て弾幕ごっこで行われ、そこでの禍根は全て異変後の宴会で水に流される。
まだ若い早苗は少し尾を引くかもしれないが、神奈子と諏訪子は長年生きた神だ。その辺りの割り切りも熟知していた。
なので諏訪子は特に倒された恨みもなく霊夢を歓迎しているのである。
「そんな面倒くさいことするわけないでしょ。早苗、いる?」
「いるよー。呼んでこようか?」
「お願い。ったく、遊びに来るものだとばっかり思ってたのに全然来ないんだから」
早苗を呼びに行こうとした諏訪子が立ち止まり、霊夢の顔をまじまじと見る。
「……なによ」
「いやなに。博麗の巫女は決闘ふっかけられたこととか気にしてないの?」
早苗が当時何を思ってそんな言葉を口にしたのか。本人にもわからない以上、永遠に闇の中だろう。
育ての親みたいな神奈子と諏訪子をしても何考えてんの? 以外の感想が浮かばないので霊夢も驚いただろうと思っていたのだ。
「別に? あの後弾幕ごっこやって私が勝ったじゃない」
「うん」
「だから私の方が強いってことでしょ?」
「うんうん」
「でもそれって今後はわからないわけじゃない」
「うんうんうん」
「だから向こうからまた来るかなって思ってたんだけど、なんかおかしかった?」
つまり、霊夢はこう言っているのだ。
あの決闘という言葉を、これからも弾幕ごっこで遊びましょうと。
だから彼女は再び早苗と弾幕ごっこをしようと誘いに来ているのである。
巡り巡って、というか明らかに不要な回り道だらけではあったが――早苗の当初の目論見は成功していたのだ。
諏訪子は霊夢を興味深そうに見つめ、長い舌を出してけろけろと笑う。
「……くふふっ、あの人間も面白そうだけど、お前さんも面白そうだ。まったく、幻想郷には面白い人間が多くて神さまとしては嬉しいよ」
「はぁ?」
「いやいやこっちの話さ。さて、早苗だったね。ちょっと呼んでくるよ」
「この後他の連中も呼ぶんだから早めに頼むわ」
なんともはや。狙ってやっているのだろうかと諏訪子は霊夢を見やるものの、彼女は気にした様子もない。
完全に天然でやっているのだろう。何かを意識せずとも、多くの存在を惹き付ける在り方である。
早苗が最初に出会った人間が彼女でよかった。きっとこの付き合いは何ものにも勝る宝となるだろう。
諏訪子は内心で霊夢に感謝する。無論、表には出さないが。
上機嫌に居住区の方へ入っていき、しばらくすると神奈子と早苗が霊夢の前に姿を現した。
「あ、あの、霊夢さん。先日は、その……」
「ん? 別に気にしてないから良いわよ。異変を起こしたけど、あんたたちは負けた。それでおしまい」
「そ、それじゃ私の気が済みません!」
真面目なことである、と霊夢は早苗を感心した顔で見る。自分ならもう気にしてないと言われたらコロッと忘れていつも通り振る舞っている。
というより、ここまで尾を引くような殊勝な奴らが自分の知り合いにいたかすら疑問である。誰も彼も人の迷惑など知ったこっちゃないという輩ばかりな気がしてならない。
「…………」
「霊夢さん?」
「……いや、ちょっと自分の知り合いの非常識ぶりを思い知って」
「類は友を呼ぶって言うって危なっ!?」
からかい混じりにそんなことを言ってきた神奈子に博麗アミュレットをぶん投げるが、ギリギリで回避された。
仮にも巫女のやることではないと神奈子は腕を組んで憤慨する。
「少しは神を敬ったらどうだ」
「うっさいわね、私のどこが非常識だってのよ」
「躊躇なく神に攻撃しかけるのが常識な世界とかたまったもんじゃない。諏訪子、ちょっと出てくる」
「はいよー。今日も天狗のところ?」
「そんなところだ。まったくあの狸、全然しっぽを掴ませない」
神奈子は今、守矢神社の信仰を増やすべく天狗と交渉を重ねていた。
天狗側も全面的に反対しているわけではなく、彼女らが生活できる程度の信仰には寛容だが、少しでも欲をかこうとすると釘を刺してくるという絶妙な対応をされている。
さもありなん、守矢神社の相手は天魔が直々に行っているのだ。彼の目が黒い限り、出し抜いたところで最後に自分たちだけが笑う、という構図は難しいと神奈子も認めざるを得なかった。
「じゃあ私たちも行くわよ」
「あ、はい! でもどちらに?」
「んー、とりあえず適当に行けば誰かとぶつかるでしょ。弾幕ごっこやって、人里で買い物して、甘い物食べて……とにかく遊ぶわよ!」
自分で話しているうちに楽しみになってきたのか、最後は霊夢が早苗の手を取って空に浮かぶ。
早苗はいきなりの行動に驚きながらも嬉しそうに弾んだ笑顔を見せる。
「それじゃあ神奈子さま、諏訪子さま、行ってきます!」
「――ん、楽しんでおいで」
軽い言葉ではあったが、そこには諏訪子の万感の思いが込められていた。
なりふり構わず、なんとしても新たな神である早苗の生きる場所を確保するために幻想郷へやってきた。
不安が一切なかったわけではない。すでに自分たちは零落した神の部類であり、彼女らと相対した天魔と人間は永遠に近い年月を生きた彼女らをして傑物と認めるしかないほど。
彼らが滅ぼすことを選んでいれば呆気なく死んでいただろう。爪痕を残すことすら怪しい。
だが、彼らは手を伸ばしてくれた。通すべき礼儀を通したのなら、幻想郷は全てを受け入れるという言葉の通りに受け入れてくれたのだ。
そして今、早苗は楽しそうに笑っている。これ以上に優先すべきものなどなにもない。
そんな風に物思いに浸る諏訪子の横で、神奈子も微笑みを浮かべて早苗に声を掛ける。
「早苗、一つだけ聞かせて頂戴」
「はい? なんですか?」
「――今、幸せかい?」
「はいっ、とっても!!」
ということで風神録編は終わりとなります。ここまで拙作に付き合っていただきありがとうございました。
完結と銘打っておいて懲りずに更新とかやってゴメンね! 本当なら全編書き終えてサプライズの二段構えを決めたかった(反省してない)
そしてエピローグで秋姉妹を出すという暴挙。決して忘れていたわけじゃないんです、ただ出すタイミングがなかっただけなんです(言い訳)
ちなみに雛はノッブへの好感度が初期から高め。基本、直接的な害がない限り来るものを拒まないノッブのスタンスは雛に結構クリティカルします。厄が移っても構わず手を取るとかまさにそれ(ノッブ的には今更厄が移っても誤差だと割り切ってるだけ)
この後は神奈子様が変わらず天魔とバチバチやり合って、諏訪子様は適度にノッブや霊夢に茶々を入れて、早苗さんが信仰を集めようと人里に行ったらなんかメッチャ頼られている英雄の存在に阻まれたりと頭を悩ませながら楽しくやっていく感じです。
あ、さすがに4周年目は期待しないでください。それをやるくらいなら開き直って別枠を作る(その場合楓主人公の永夜抄スタート)か、このお話がそっと連載中に戻ります。
Q.妖怪を拝みたい時はどうすればいい?
A.ノッブに張り付いていれば嫌というほど会える