いきなり題名が第一話とかに変わっても驚かないでください(^ρ^)
その日、信綱は阿七の月命日の墓参りに来ていた。
御影石によって作られた墓の中に、歴代の稗田が眠っている。
ここまで大きな墓を作られるのは稀で、たいていの人間は火葬だけされて埋められるのがほとんどだ。
中には火葬する余裕もないため、そのまま土葬するところもある。
とにもかくにも、信綱は阿七の墓前に手を合わせ、彼女の冥福を祈っている時だった。
「あの……」
墓前に合わせた手は動かさず、ちらと横目で誰が来たのか確認をする。
見覚えのない夫婦だった。目尻のシワや体全体から発せられる雰囲気から、どちらも憔悴した様子が見て取れる。
「……阿七様の墓前です。少々お待ちを」
「は、はあ……」
自分に用があって来たと思われる人間を待たせ、信綱は墓前に手を合わせ続ける。彼にとって今大事なのは、阿七への祈りであって彼ら夫婦ではない。
どう声をかけたら良いのか戸惑う夫婦を尻目に、たっぷり五分ほど黙祷してから信綱は二人に向き直る。
「お待たせしました。ここは阿七様らの眠る場所故、場を変えて話しましょうか」
「あ、はい……。お願いします」
実のところ、このように見知らぬ人に声をかけられることなど初めてだった。彼らも対応に苦慮している様子から、信綱たちが人里でどのような呼ばれ方をしているかは知っているのだろう。
それでも話しかけざるを得ず、なおかつ信綱の協力が是が非でも欲しい。夫婦の状況はそんなところだと判断できた。
(頼られる……というより、すがりつかれるようなものか)
博麗の巫女もこんな気分で人助けをするのだろうか、と思いを馳せながら信綱たちは墓地への入り口前で改めて言葉を交わす。
「……どのようなご用向きでしょうか。我々は戦うことぐらいしか能のない人間たちの集まりです」
「父を! 父を助けてください! 山に行ったきり、昨日から帰ってこなくて、それで、それで……!」
向き直った信綱の胸ぐらに食って掛かるように、女性の方がまくし立ててくる。
「おい、待て! それじゃ話が伝わらない! お前は少し向こうに行っててくれ!」
それを夫が制止し、妻の方を少し遠くの方へ向かわせる。その上で改めて信綱に視線を合わせてきた。
「すみません。あいつの父なもんで、気が気じゃないみたいで……」
「気にしておりません。ご家族が危険とあらば当然のことでしょう。奥方様の話を聞く限りでは、私に父親を探してきて欲しいと?」
「そうなります。ただ……」
そこで男性は声を潜め、妻の方を気にしながらささやきかける。
「山に行って、もう一日経ってます。あいつの親父さんは釣りで山釣りに行くことがあったんで、それだと思うんですが……正直、その……」
「見込みは薄い、と」
「……そうなります」
男性の言葉に、信綱は貧乏くじという言葉が脳裏に浮かぶ。これは引き受けようが引き受けまいが、どちらにしても恨まれる役目ではないだろうか。
「……わかりました。川の辺りを探してみましょう。但し、最悪の結果も有り得ることを奥方様に伝えておいてください」
「わかっております。ではすぐにでも――」
「それと、まだ阿七様の墓参りが終わっておりませんので、動くのは終わってからになります。理解して頂きたい」
「え? それは……」
「理解して頂きたい」
物言いたげな男性の視線を正面から見据える。
請われた以上、仕事として役目は果たす。だがそれは、自分たちが最も優先すべきことを行ってからになる。
「できれば今すぐってわけには……いきませんか?」
「無理です。そちらにとって父君が大切なように、私にとっては彼女が大切なので」
無下にするとは言っていない。が、優先するとも言ってない。
「……わかり、ました。どのみち自分たちじゃあ、山には入れませんし」
「理解してもらえて何よりです。では、確かに引き受けましたので」
そう言って信綱は話を切り上げ、墓地に戻っていく。墓前に報告はしたが、墓周りの掃除や花の入れ替えなどがまだなのだ。
夫婦の視線を受けながら、信綱は特に気にすることなく墓へ戻っていくのであった。
その日の昼ごろから、信綱は山に踏み入って夫妻の話していた父を探し始めていた。
「全く、こういう時にこそ必要だというのに。肝心な時に使えんやつだ」
椛さえいればこんな場所を探さずとも一気に見つけられるのだが、今日に限って来ない。その場にいないのをいいことに言いたい放題である。
山の川と一口に言っても広大なのだ。一人で探すには少々骨が折れる。この際椿であっても、信綱の前に姿を現したら手伝わせていたところだ。
注意深く周囲に気を配りながら山の中を歩いていると、ふと何かの気配を感じ取る。
目当ての人物、ではない。足音が軽快に過ぎる。一日帰らずにこんな元気な足取りの老人がいたらそれは妖怪だ。
落ち葉を踏みしめ、枝をかき分け、地を蹴る軽やかな音が連続して信綱の耳に届く。
「……ふむ」
刀の柄に手を添える。飛び出してきた瞬間を狙って――
「あ、あんた! 久しぶぎゅ!?」
「そら」
茂みから飛び出してきた妖猫の頭に、鞘に収めたままの刀の一撃をお見舞いするのであった。
「……っ! ……っ! いったぁーい!!」
頭を抱えてジタバタと悶絶する妖猫――橙に信綱は刀を肩に担いで呆れた顔になる。
「お前だとわかってやった。許せ」
「どこに許せる要素があるってのよ!!」
橙が食ってかかってくるが、相手にしない。
別の妖怪なら不意を突かれて襲われる危険もあったため、問答無用で殺すつもりだった。
痛い目だけで済ませたのだから温情だと思って欲しい。
「あんな勢いで走って来られたら警戒するに決まっているだろう。というか俺以外にそれはやめろ。驚いた人がどうなるかわかったもんじゃない」
「あんた以外にやんないわよ。知り合いの人間なんていないんだし」
それはそれで迷惑な話である。
痛みも引いてきたのか、橙は信綱の方をジロジロと見回し、やがてふと自分の頭に手を乗せると、その高さを維持したまま信綱の方へ持ってきた。
最初に会った時は顎ぐらいだったのが、今では胸のあたりになっている。
「ずいぶん大きくなったわね。私の舎弟の癖に生意気よ!」
「誰がいつ舎弟になった。しかし、ふむ……」
顎に手を当てて考える。今は手間を減らすために猫の手も借りたい状況だ。
橙は妖怪の山のどこかにあるマヨヒガに住んでいるのだから、山にも詳しいだろう。
「……お前、暇か? 暇だな、よし付き合え」
「勝手に決めんじゃないわよ!? というか何に!?」
「人探しだ。老人で、釣りに行ってたと聞くから釣り竿を持っている。昨日から戻っていない」
「知らないわよそんなの。妖怪に食べられて骨も残ってないんじゃない?」
「……だとしても遺品ぐらいは見つけねばならん」
橙に言われて気づいたが、死体すら上がっていない可能性もあったのだ。すっかり失念していた。
「ふうん……。人間ってよくわかんないわね。もう死んでいる人間の物なんて見つけてどうするの?」
「さあな。だけど、遺品を見てその人の思い出を振り返るってのは、共感できる。……もう会えない人を思い出すには物品の力が必要ってのも情けない話だけどな」
僅かな自嘲とともに息を吐く。
そして自分の言葉を理解した様子のない橙に再び向き直る。
「つべこべ言わずに手伝え。そうすりゃ少しは人間のこともわかるだろうさ」
「んー……ま、いいわ。人間のお願いを聞いてあげたなんて言えば、藍さまに褒めてもらえそうだし」
妖怪的にそれは良いのだろうか、と思わなくもないが、口には出さない。下手なことを言って邪魔されるのは面倒だ。
そうして橙を味方につけた信綱は川の下流に向けて足を運んでいく。
「そういえば、お前水とか大丈夫なのか? 猫だろ」
「好きじゃないけど、絶対無理ってわけでもないわよ。お魚が食べたければ入るしかないし」
「それもそうか」
話を切り上げる。上手く見つけたら魚の一尾ぐらいは釣ってやっても良いかもしれない。
「そっちこそどうなのよ? 泳げないとかないの?」
「ないな。御阿礼の子が危ない時に泳げないようでは話にならん」
「あんたは相変わらずね……」
猫の耳と尻尾がある以外、童女にしか見えない橙にバカを見るような顔をされると結構腹が立つ。
「お前も変わらんな。妖怪というのは成長しないものなのか?」
「妖怪によるわね。私はほら、尻尾が二つあるじゃない? これが増えれば妖怪として成長した証になるのよ」
「いずれはお前の主みたいに九尾になるのか」
これは初耳である。天狗などは生まれついた種族から大きく成長はしないようだが、成長する妖怪もいるらしい。目の前の橙が良い例なのだろう。
「そういうこと! 今のうちに媚びへつらっておけば、将来役に立つかもしれないわよ?」
「……それはいつの話だ?」
視線をそらされた。どうやら信綱が生きている間に彼女の九尾姿は拝めそうにないようだ。
「何百年かかるかわかったもんじゃない相手に媚びを売る意味はないな。もっと早く成長しろ」
「妖怪に無茶言わないでよ……」
そこでしおれるからお前は妖怪らしくないんだ、と思うがツッコミはしなかった。これはこれで彼女の美点だろう。
幻想郷縁起に書かれるような妖怪らしい妖怪だったなら、出会った瞬間に殺し合い確定である。人間を襲うのが妖怪の道理ならば、それに抗い駆逐しようとするのが人間の道理だ。
「まあお前がへっぽこなのはこの際どうでもいい。俺の言っている人物さえ見つければな」
「へっぽこ言うな! これから成長するのよ!」
「あーはいはい」
相も変わらずうるさい妖怪だ、と思う信綱。しかし初めて会った時のような辟易した感情は浮かばなかった。
存外、自分は彼女との対話を楽しんでいるのかもしれない。
子供のようだが、どこか達観している妖怪特有の価値観の持ち主。
――不思議と、相容れないとは思わなかった。
信綱と橙はこれまでの近況を適当に、大雑把に、時には誇張まで交えて賑やかに話していると、橙が唐突に足を止める。
「…………」
「どうした」
「……ちょっと待って。あんた以外の人間の臭いがする」
「わかるのか」
「猫の嗅覚を侮らないで欲しいわね」
「お前が妖怪だと実感したのはこれが二度目だ」
「ひっどいわね本当に! あんたが強くなかったら八つ裂きよ!」
ちなみに今勝負したら橙が八つ裂きになる側である。
「で、どの辺りだ? 俺が探す」
「んっと……臭いの方向はあっち。沈んではいないと思うし、内臓の臭いもないから食われてはいないはず」
「わかった」
橙の指し示す方角に信綱は移動し、川の流れに顔をのぞかせている石に跳び移る。
石から石に、足を滑らせることもなく簡単に移動していくその姿を、橙は人外を見る目で見ていたことに信綱は気づいていない。
「――いた」
川岸の岩に引っかかるように、着物の裾が見えた。顔は見えないが、下半身が水にさらされていた。
「…………」
「あ、見つけたの?」
川岸に戻ってきた信綱に橙が声をかけるが、信綱は返事をしない。
橙と話していた時とはまるで違う、厳しい表情になっていた。
「……確かめないとな。おい、お前は下がってろ。死んでいる可能性が高い」
「嫌よ。どうして私が人間の死に怯えなきゃいけないわけ?」
それもそうだ。思わず見た目通りの子供相手にする対応をしてしまったが、よく考えなくても彼女相手に気遣いなど不要だろう。
信綱と橙の二人は足取りを緩めることなく、見つけた人間の方へ歩み寄る。
釣り竿が付近に転がり、釣り糸が人間の足元に絡みついている。これが事故の原因だろう。
そして野ざらしとなった上半身に目立つ傷跡はなく、その顔も眠っているように静かに伏せられていた。
が、見ただけでわかる――この肉塊に魂は存在しない。
「……っ」
息を呑む橙をよそに、信綱は静かに歩み寄って口元に手を当てる。念のため、確認はしなければならない。
「……ダメだな。もう死んでいる」
溺死したと察せられるが、その割に表情に苦しみがない。
足を滑らせ、川に落ちた拍子に意識を失い、そのまま……という流れが想像できた。
信綱は目をつむり、この人物への冥福を祈る。そしてこの老爺を帰るべき場所に戻すべく、背中に手を回して持ち上げようとして――
「……おい、こっちに来い」
「え? あ、う、うん」
初めて見るのだろう。人の死体に圧倒されている橙がこちらに来たのを確認してから、信綱は刀の柄に手を添えた。
「そこの水面、何かいる」
「っ! この人を殺した妖怪?」
「さあな。――隠れているなら、こちらも安全のために仕掛ける。姿を現すならそれで良し。現さないなら――」
「わ、待って待って待って!?」
警戒する信綱と橙らの前に現れたのは緑色の服を着て、青い髪を持つ少女だった。
が、油断するなかれ。ただの少女が長時間水の中に居られる道理などないのだから、彼女の正体は妖怪以外に在り得ない。
「……河童、か? 幻想郷縁起で見たものに特徴が合致する」
「そっちは人間と……化け猫? 不思議な組み合わせもあったもんだ。その人の知り合いかい?」
「この人の娘夫婦に頼まれてな。探しに来た。……お前がこの状況を作った犯人か?」
川沿いで遊ぶ者たちを引きずり込むのが河童である。もしも彼女がこの死体を作ったのならば、それはある種自然の流れとも言える。
しかし、だからといってはいそうですかと受け入れる理由などない。下手人がわかっている以上、信綱の剣は過つことなく彼女の首を落とすだろう。
「違う! 私だってこの爺さんはついさっき見つけたんだ! 絶対にそんなことはしない!」
強い口調での否定に違和感を覚えるが、追及する必要性は感じなかった。少なくとも不意打ちは警戒しなくても良いだろう。
「そうか。だったら戻れ。俺はこのままこの人を里に連れて帰る」
「あ、待って!」
話を終わらせて遺体を運ぼうとした時、後ろの河童から声をかけられる。
「なんだ」
「あの……その……」
「言いたいことは早く言え」
「人間はわかってないわねえ。河童って生き物は人見知りなのよ。もう少しどっしり構えなさい、私みたいに」
「…………」
こいつは俺を苛立たせることにかけては天才的だな、と内心で橙に皮肉を言う。
しかし椿のように殺意を持つまでは至らない辺り、まだ微笑ましい部類なのだろう。
「その爺さん……私の友達だったんだ」
橙の言うとおり無言で先を待っていると、河童がおずおずと話し始める。
「名前も知らないけどさ。たまに釣りに来た人間と話して、それだけなんだけどね。でも、何年かはそうやって付き合ってたんだ……」
「そうか。だからこの人も……」
お前に会うためにわざわざこんな山奥まで踏み入っていたのだろう。
言い換えれば、彼女が原因でこの事故が起こったとも言うことができる。だが、それを言って彼女の悲しみに追い討ちをかけるのは無粋でしかないし、行う必要性も感じない。
「…………」
「だから、その……っ! その人間、私が弔いたいんだ。人里で弔うんじゃ私は入れない。お願いだよ、この通り!」
「……ダメだ。この人は人里の人間であって、里に帰りを待つ人がいる。お前のためにそれを無視することはできない」
河童の必死さは伝わってきた。しかし、それでも信綱は人里の人間として、受けた仕事を投げ出すわけにはいかなかった。
「ちょっと、あんた……!」
「これは譲れない。この人の身体は里に戻って手厚く葬られるべきだ」
「……そっか、そうだよね。その爺さん、帰る家と待っている人がいるんだよね」
名も知らぬ河童の落ち込んだ顔を見ていると、横から橙が咎めるような視線を向けてくる。
人間の死などどうでも良いと言っていたくせに、その死に執着している河童に入れ込むのだ。やはり彼女は妖怪らしからぬ妖怪と言えた。
「…………」
彼女らの視線や思いを無視して帰ることは簡単だ。
けれど、そうやって買った隔意がどこで牙を剥いてくるかなどわからない。取るに足らない相手に足元をすくわれる話などいくらでもある。
先見の明ではないが、狂人が里でまっとうに生きるには恨みや妬みをなるべく買わない方が良い、という処世術が信綱には染み付いていた。
なのでこれはその処世術に従っただけであり、自身の感情とは無縁である。
――と信綱は自分に言い訳をしながら、老爺の手元にあった釣り竿を手に取って、足元に絡まっている釣り糸を手刀で切り離し、河童に投げ渡す。
「ほら」
「えっ?」
「持っていけ。釣り竿ぐらいなら川に流されて見つからなかったで話が通る」
「あ、あの……」
「……いなくなった相手を思うのに、何か物品がないと忘れてしまう。それが辛いのは、まあ、共感できなくもない」
言葉選びを間違えた気がする。これは語るに落ちていると言うのではないだろうか。
そして後ろでニヤニヤ笑っている橙が鬱陶しい。
「それで満足して、葬儀に関しては諦めろ。俺からの譲歩はここまでだ」
「あ……ありがとう! お前さん、良い人間だったんだね!」
「…………さっさと帰れ」
人間に感謝されるよりも先に妖怪に感謝されるとは。
人生とはわからないものだと思いながら、信綱は河童が釣り竿を大事そうに抱えて川に潜っていくのを見送って、改めて老爺の遺体を担ぐ。
「へー、ほー、ふーん、にしししし」
「猫みたいな顔を見せるな気色悪い」
「失礼ね! でもまあいいか。珍しいものが見れたし」
橙は生暖かい笑みを浮かべたまま、信綱の周りをちょろちょろと動く。
老爺の遺体を背負っていなければ拳が飛んでいるところだ。
「あんたも結構優しいところあるじゃない。見直したわ」
「……たまたま向こうにできる配慮があっただけだ。それに……もしあいつがこの人を殺した妖怪だったら、殺すつもりだった」
「別にいいでしょ? 妖怪は人間を襲って、人間は妖怪を倒す。襲わなかった河童もだけど、河童を倒さなかったあんたもおかしいのよ」
そういう橙の口元には機嫌の良い笑みが浮かんでおり、先ほどのやり取りが満足の行くものであったことを示していた。
「……自分の行いがどこで返ってくるかなどわからない。恨みや悲しみを買わずに済むのなら、それに越したことはないというだけだ」
「ふうん、どうでも良いわ。ほら、私妖怪だし」
「脳天気なお前には縁のない話だったな」
「ホント、口の減らない人間ね」
橙はそれ以上何かを言うことなく、信綱の後ろをトコトコと歩いていた。
そして人里にほど近い領域まで山を降りてきたところで、何かを考えていた橙が口を開く。
「ねえ、人間。いなくなった誰かを思い出すのに、道具って必要なの?」
「あの河童を見ればわかるだろう。もう会えない人を思い続けていても、時間は流れる。
……時間が流れるたびに、その人を思い出すには時間がかかるようになる」
阿七が亡くなって三年が経過した。それはすなわち、彼女のことを思い出すには三年分の過去を振り返る必要があるということである。
五年経てば五年分の。十年経てば十年分と、その人を思い出すために必要な過去の量は増えていく。
それを本人の記憶のみを頼りに思い出すのは――残念ながら、少々難しかった。
「一年二年なら良いさ。だが五年、十年。妖怪なら百年もあるか。それだけの時を過ごしても、死者は死んだ時に置いていかれたままだ。距離が離れていってしまう」
「…………」
「そうして離れた時間が記憶を削って……やがて忘れたという事実すら忘れ去る。そうならないために、ああいった物の力は必要なんだ」
信綱が阿七より贈られた硝子細工を磨くように。あの河童も釣り竿を見て、この老爺と話した記憶を思い出すのだろう。
「……よくわかんないわ。でも、忘れちゃうのがとても辛いってことはわかった」
「一応、お前も妖怪だからな。忘れられることには敏感か」
妖怪にとっての死は忘れ去られること。畏れがなくなり、そんな妖がいたことすら認識されなくなってしまった時が、妖怪の滅びる時だ。
外の世界ではすでに妖怪が滅びかけていると聞くが、どうやればこんな個性的な連中を忘れられるのか。聞いてみたいものである。
「というわけで、はい!」
橙は出し抜けに懐から何かを取り出し、信綱に押し付けてくる。
思わず片手で受け取ってしまったそれをまじまじ見つめると、ただの色のついた石だということがわかる。
「……なんだこれは」
「私がこの前拾った綺麗な石。これを見れば私を思い出すってことでしょ? それを見て私がいない寂しさを紛らわしなさい」
「誰が寂しがるか。お前こそ俺がいない夜に涙で枕を濡らさないよう注意するんだな。……いや、お前は布団か?」
「良い覚悟じゃない。人間が妖怪にケンカ売ったらどうなるか教えてやるわ!」
どうにもこの妖怪が相手だと売り言葉に買い言葉になってしまう。だが、それが不思議と馴染む相手でもあった。
橙も本気で怒ってはいない。適当にぽかぽかと力の入っていない拳で叩いてくるだけだ。
それを適度に受け止めながら、信綱は口を開く。
「じゃあ――お別れだな。ここから先は人の領域だ」
「そうね。人間なんて簡単に死ぬんだし、あんたもせいぜい気をつけて生きなさい」
「お前もな」
それが別れの合図。橙は山に残り、信綱は人里への道に出て行く。
自分を見送っている視線に気づいて、信綱は僅かに逡巡した後、軽く後ろ手に手を振った。
どうにも妖怪とばかり仲良くなっている気がするな、と自分に呆れながらの行動だったが。
人里に戻った信綱が最初に聞いたのは、罵倒の声だった。
「どうして! どうして助けられなかったのよ! それが役目でしょ!! なんで、なんで……!」
老爺の遺体を夫婦の家に届けた時、その娘の錯乱ぶりは酷いものだった。
すでに冷たい遺体にすがりつき、半狂乱で泣き喚く姿を娘の夫と痛ましい目で見る。今の彼女にかけてやる言葉は見つからなかった。
「……見つけた時にはもう死んでいた。妖怪に食われなかっただけでも幸いだろう」
「そうですか……。義父を見つけていただき、ありがとう――」
「ふざけないで!!」
夫の言葉を遮り、女性が信綱に詰め寄る。
髪を振り乱し半狂乱のそれに、信綱は微かに眉をひそめるも声には出さない。
「あんたが墓参りなんてしてたから、父さんは助からなかった! あの時はまだ生きていたのよ!」
「……そうかもしれないな」
あり得ないと否定することは簡単だが、それを言って納得はしてもらえないだろう。
それにこの手の罵倒を受ける可能性も考慮はしていた。自分を優先するとはこういうことである。行いへの非難は甘んじて受けるべきだ。直すかどうかは別として。
「あんな誰もいない墓参りなんかする前に、探しに行ってればこんなことには――」
「――待て」
だから、自分が非難されるのは構わない。この女性の言っている可能性も絶無というわけではなかったのだ。それを阿七への墓参りを優先して逃したと言われれば、頷くしかない。
「その言葉は阿七様への非難と認識する。誰もいない墓などと言うな。あの場所に俺たち火継は何ものにも勝る価値を見出している」
「な、によ……! まだ生きていた父さんよりもあんな石の塊を優先するってわけ!?」
「――当たり前だろう。そちらが頼みごとをした相手はそういう者だ」
普通に接する分には普通に挨拶も返す。自身の裁量が及ぶ範囲で便宜も図り、上手く調和を取り持とうとする。
が、しかし。信綱の本質が阿礼狂いなのは間違いのないことで――有象無象の一欠片でしかない彼女の父より、阿七の方が遥かに大事だった。
表情を変えることなく淡々と、無機質な目で夫妻を睥睨する。
およそ人に対する視線ではない。まるで路傍の石や死にかけの昆虫でも見るような、そんな――人間味のない瞳。
「この……気狂いが!」
激昂のあまり、もはや自分でも行動の制御が取れないのだろう。女は信綱に殴りかかろうと踏み込む。
それで溜飲が下がるなら殴られるのもやむなしと信綱は考える。御阿礼の子が眠る墓をあんなもの呼ばわりした時点で殺しても良いのだが、人里の住人を殺すのは色々と問題がある。
「もうよせ! お前!」
だが、その女の本懐は果たされることなく、横合いから文字通り飛びかかった夫の手によって防がれる。
言葉にならない金切り声を上げて爪を立てる妻を必死に押さえながら、顔だけをこちらに向けてきた。
「すみません、こいつはちょっと頭に血が上っているだけなんです! だからどうか、どうか……!」
信綱が彼女を殺すと思ったのか、必死な形相で謝意を伝えようとしてくる。
「別に何もするつもりはない。頼まれたことは果たした。……後日で構わんから、報酬は慧音様にでも預けておけ。それを取りに行く。
……火継の人間はこの辺りに近寄らないよう言っておく。そちらも俺たちとは関わらない生活を心がけろ。――間違ってもあの墓を壊そうなどとしたら、今度こそ堪忍袋の緒は切れると思え」
旦那がこの調子なら大丈夫だとは思うが、念の為に釘を差しておく。
墓を壊すのは人里内でも罪に当たるが、御阿礼の子の墓を破壊したとなれば、信綱も自分を抑える自信はなかった。持てる力の全てを使って報復に出るだろう。
それがどのような惨事を作り出すか、想像できないほど愚かではなかった。
無意識の内に殺気を放っていたのか、青ざめた顔で壊れた人形のように首を縦に振る旦那に背を向け、信綱はその場を去っていった。
「……妖怪に好かれ、人間に嫌われる、か」
あの夫婦に酷い対応をしたという自覚はあるので、仕方がないと割り切っている。しかし、一切思うところがないというわけではない。
軽くため息をつく。やはり貧乏くじだったと内心で愚痴をこぼしながら歩いていると、懐の色石を思い出す。
「…………」
手にとって眺める。見れば見るほど安っぽい石で、子供っぽい橙らしい贈り物だった。
「……ふん」
捨てるのも勿体ない。阿七様の硝子細工の隣に置いてやるから光栄に思え、などと掌の石に勿体つけながら、信綱は自宅への道を歩むのであった。
人里の夫婦は間が悪かった(断言)。御阿礼の子が絡むと大体こうなります。
それでも好んで波風を立てるタイプではないため、基本的に対応は温厚な方という。もし女の人が阿七の墓に手を出したら? R18G待ったなし。
もうちょっといろいろと書いたら阿弥の時代が来ると思いますので、もう少々お待ちをば。
あ、ちなみに次のお話は閑話になる予定です。