阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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阿礼狂いに生まれた少年のお話

 その日は初夏の日差しがまばゆく、蒼天高く澄み渡った日だった。

 信綱はいつもと何も変わらない時間に目を覚まし、むくりと半身を起こす。

 

「…………」

 

 普段ならそのまま立ち上がり、鍛錬用の稽古着に着替えて外に出るというのに、今日に限ってその様子がない。

 ただひたすらに己の手のひらを見つめ、やがておもむろに立ち上がる。

 

「……行くか」

 

 部屋の隅に畳んである稽古着には目もくれず、信綱は外に出ていく。

 

 

 

 その日、信綱は物心ついた頃より続けていた日々の鍛錬を行わなかった。

 

 

 

 まず最初に向かったのは厨房である。

 まだ日が昇り切っていない今、女中たちも休んでいる時間だ。

 起きているのは朝の鍛錬を行う信綱と、そんな彼への朝餉を作る女中程度である。

 

「誰かいるか」

 

 厨房に入ると、食事の支度をしようと竈に火を入れていた女中がこちらを振り返った。

 

「おはようございます、信綱様。朝餉のご用意でしたら誠に申し訳ありませんが、もう少し待っていただいて――」

「いや、朝餉の話ではない。そちらは後に回して構わないから、火急の用を頼みたい」

「はぁ、なんでしょう?」

「火継の男衆を全員起こして、道場に集まるよう言って欲しい。最優先で頼む」

「かしこまりました。竈の火はお任せしてもよろしいですか?」

「構わん」

 

 阿礼狂いが最優先で頼む物事など、ただ一つしか存在しない。

 信綱以外の多くの阿礼狂いとも関わっているこの女中はそれを正確に把握し、主人に竈の火を任せて自らの役目を果たしに行く。

 

「……眼鏡に叶う、とまでは行かずともそれなりのがいれば良いが」

 

 残された信綱は竈の火を落としながら、そっと独りごちるのであった。

 

 

 

 戦うに足る者全てが集められた道場内で、信綱はゆらりと彼らの前に立つ。

 側仕えとしての在位期間はおよそ七十年。十にも満たない年齢の頃から御阿礼の子に仕え、今なおその強さに陰りの見られない、火継の歴史全てを紐解いても二人といない天才。

 もはや火継の面々から見ても生ける伝説であり、彼より後に生まれて先に死んだ者すらいるほどの期間、最強を維持し続けている。

 

 すでに今月の総会は終了し、此度もまた信綱が最強であることを証明するだけとなっていた。

 今になって自分たちを集めるのはどういった了見か。そんな瞳が信綱を射抜く。

 

「……さて、お前たちを呼び寄せた理由を言おう」

『…………』

「今からお前たち全員で戦え。勝ち抜いた一人は俺の部屋に来るように」

「どういう意味か聞いてもよろしいですか」

 

 年若い阿礼狂いの一人が信綱に問うてくる。

 皆、同じ疑問を持ち、そして同じ答えに至っているのだろう。

 その答えは正しいものであるという確信を持たせてやるべく、信綱はそれを告げる。

 

「――この勝負で勝ったものに明日からの側仕えを任命する。殺す気で勝ち取れ」

 

 なんなら一人二人殺しても構わん、と言うと道場の空間内に濃密な殺気が生まれていく。月に一度行われる総会の時と同じ空気だ。

 この調子だと久しぶりに死者が出るかもしれないな、と信綱は他人事のように受け止めて道場の外に向かう。

 彼らが人里の住人であるなら殺しはご法度だが、同族である阿礼狂いなのだ。

 御阿礼の子の隣に立つ戦いで負けて死ぬのなら本望だろう。弱い己への怒りで悪霊になりそうではあるが。

 

「俺が部屋から出たら始めろ。以上だ」

 

 そう言って信綱は道場の外に出て、戸を閉める。

 瞬間、空気を震わせる怒号が道場の中から響き渡り、肉を打つ音と骨の折れる音、木の武器がぶつかり合う音が耳に届く。

 信綱はそれに何の感慨も覚えない。この程度の音、火継の家では日常茶飯事である。

 むしろ開始早々に骨を折るなど、阿礼狂いとしての自覚が足りていないのではないかと思うくらいだ。

 側仕えとなることを目指すのであれば、主を心配させぬよう傷一つ負わずに勝つ技術も必要だというのに。

 

 そんなことを考えながら、信綱は自室に戻っていくのであった。

 

 

 

 腕を組み、瞑想をして待っていると一人の阿礼狂いがやってきた。

 頭から血を流している年若い阿礼狂いを信綱は一瞥する。

 

「お前が勝者か」

「はい」

「傷は」

「頭部の裂傷が少し。それ以外はありません」

「次は無傷で勝て。戦いが一度で終わるとは限らない」

「精進します」

 

 理不尽とも思える叱責でも、彼らに否定する理由はない。

 相手は御阿礼の子の側に最も長く居続けた者。

 彼の口から出て来る言葉こそが最も御阿礼の子のためになるのだ。阿礼狂いとして聞き入れる以外の道はない。

 

 そうして勝った阿礼狂いに信綱は部屋の隅に積まれている書物を指差す。

 

「こちらに阿求様についての情報が全てまとめてある。起床の時刻、好む食物、ご友人の関係、他にもあの方に関わる全てがある」

「はい」

「明日までに全て覚えて側仕えとして臨め。また、幻想郷縁起の編纂も未だ途上にある。妖怪と相対することも考えられるから今以上に力をつけろ。阿求様に毛一筋でも傷つけたら腹を斬って死ね」

「はい」

 

 そこまで言って、信綱は立ち上がる。

 

「明日から当主の部屋を使え。すでに仕事自体はお前たちに分けていたが、以降はお前の仕事になる」

「わかりました。明日よりの側仕えは私が行います」

「…………」

 

 本心を語るなら、目の前の阿礼狂いが妬ましくて仕方がなかった。

 阿礼狂いとしての本能に従い、この男の首をねじ切って己こそが最強であると証明したい。

 己の未熟で側仕えの座を奪われるのは構わない。いや、良くはないが納得できる。

 

 だが、己の寿命で死ぬから側仕えを交代するというのは初めての事態だった。

 そもそも通常は寿命が来る前に側仕えを交代している。

 信綱があらゆる意味で異例なのだが、異例故に信綱は自分より弱いものに後を託さなければならないジレンマに襲われていた。

 

 ああ、自分こそが火継の最強なのだから自分がずっと御阿礼の子に仕えていたい。人間であることへの倫理など阿礼狂いには何の意味もない。

 

「――」

 

 そうした己の願いを一息に押し潰す。

 優先されるべきは御阿礼の子の願いであり、自分たち阿礼狂いの願いではない。

 

 阿七は信綱に弟を求め、阿弥は信綱に父を求め、阿求は信綱に祖父を求めた。

 それぞれ形は違うが、いずれも家族という形を求めたことに違いはない。

 ならば家族としての役目を果たしきろう。己の死を以て、彼女らに家族という役割の終わりを教えに行こう。

 

 信綱はすでに書物に目を通し始めている阿礼狂いを一瞥もせず、部屋を出ていき最後の役目を果たしに行くのであった。

 

 

 

「阿求様、おはようございます」

「ん、おはよう。お祖父ちゃん」

 

 普段と変わらぬ調子で朝の挨拶を阿求と交わす。

 暇乞いをする時は今ではない。その時までは従者として彼女の力になるのは当然の帰結とも言える。

 

「本日のご予定ですが、いかがされるおつもりですか?」

「今日は縁起の編纂も一息ついたし、この前の宴会のお話はまだ霊夢さんたちの都合がつかないし……」

 

 阿求が可愛らしい指を動かして一日の予定を考えていく姿に、信綱は目を細めて側仕えでいられる瞬間を噛みしめる。

 やがて阿求はポンと両手を叩くと、今日の予定を信綱に話し始める。

 

「今日は一日オフの日ね! ここ最近忙しかったし、お祖父ちゃんも色々と動き回ってたでしょう? 今日ぐらいはゆっくり休んで?」

「仰せのままに。人里で気分転換でもされますか?」

「んー……今日はいいかな。お祖父ちゃんとも最近はお話できなかったし、今日はいっぱいお話したいな」

「阿求様の願いを断るはずがありません。では縁側に行きましょうか。今日は良い天気ですよ」

「うん!」

 

 伸ばされた阿求の手を取り、彼女と並んで縁側に出る。

 日差しで暖められた場所を選んで座ると、阿求は信綱の膝の上に腰を下ろしてきた。

 

「阿求様、こちらは日光で暖かくなっておりますよ」

「うん。だけど今日はお祖父ちゃんの膝の上が良いの」

 

 満面の笑みと共にそう言われては信綱も断れない。

 しょうがないですね、と困ったように笑って信綱は阿求をそのままにさせる。

 

「それで本日は何をお話しましょうか。最近あった出来事ですと、市場で河童が性懲りもなく爆発事故を起こしたことでしょうか」

「性懲りもなくって、結構頻繁に起こしてるの……?」

「月に二、三回は。下手人は毎回違いますけど、たまに何回かやるやつもいます」

 

 そのたびに本人が泣いて許しを請うまでお仕置きをしているのだが、一向に減る様子がない。

 もはや人間の側が河童の所業に慣れてしまった。今では口頭での注意に留めている。

 

「阿求様はどうでしょう。異変があった時にお忙しいのはわかりますが、小鈴嬢とは話されておりますか?」

「うん。小鈴は相変わらず本の虫ね。あんなので嫁の貰い手があるのかしら」

「頭の良い女性が求められる時もあります。慧音先生のように教師になる道もあるかもしれません」

「小鈴が先生だなんて想像できないわ。あの子、いっつも自分の興味のあるものばっかり優先させるんですもの」

 

 友人への愚痴をこぼしているが、阿求の顔は楽しそうに綻んでいた。

 信綱は相槌を打ちながら、そんな阿求を穏やかな瞳で見つめる。

 ここしばらくは彼女が忙しそうにしていたため、信綱も影に日向に尽くしていたが、あまり話す時間は取れていなかった。

 こういう時間さえあれば、他には何も要らない。信綱は改めて御阿礼の子に仕えてきた喜びを噛み締め、阿求の話を聞いていく。

 

「――それであの子、もう鈴奈庵にある本は大体読んじゃったんですって」

「すごいですね。となると彼女も最近は暇なのでは?」

「そうみたい。誰から聞いたのか知らないけど、妖怪の作った本にも興味があるとかなんとか」

「妖魔本ですか。あれはさすがに危険ですよ」

 

 天狗らと交流のある信綱も知っているものだが、実物を見たことはなかった。

 しかし妖怪が作成した本というだけでロクでもないものであることは想像に難くない。

 

「わかっているんだけど、やるなと言われるとやりたくなるみたいでね……」

「子供はそういうところがありますね。阿求様も私が危ないから止めて欲しいと言ったらムキになりますし」

 

 大人の言葉を聞かないのも子供の証左かもしれないと、信綱は毎日泥まみれになって帰ってきた子供の阿求を思い浮かべて笑みをこぼす。

 幻想郷縁起の編纂も始まり、家にいることが増えた今の阿求は多少お淑やかになっているが、本質は変わっていない。

 そんな信綱の目線の意味に気づいたのか、阿求は恥ずかしそうに顔を赤くしてぷんぷんと怒る。

 

「も、もう! お祖父ちゃんの意地悪!」

「申し訳ありません。ですが、意地悪で言ったわけではありませんよ」

「じゃあどういう意味で言ったの?」

「嬉しかったのです。あなたが健康な肉体を持っていることが何よりも」

 

 外で跳ね回り、多少の怪我などものともせずに遊んでくる彼女の姿が信綱には喜ばしかった。

 御阿礼の子という宿命を背負う限り、短命の軛も同時に彼女を縛り続ける。

 ならばその短い期間くらい、好きなことをして過ごしたいと思うことの何が悪い。

 

「……私より前の御阿礼の子のことね」

「ええ。阿七様は生まれつき身体が弱く、私が就任した時にはロクに外にも出られませんでした」

「知ってる。いつも部屋の中で本を読むか幻想郷縁起を書くか……。話し相手を探そうにも、歳の近い人もいなかった。お祖父ちゃんが来てくれたのを阿七はすっごく喜んでた」

 

 気の置けない子供であることも働き、阿七は心から信綱の存在を喜んだ。

 阿礼狂いであるが、阿七の力になりたいと精一杯背伸びをする少年に阿七の心は救われていた。

 他愛のない話をできることも、日々聞かされる彼が阿七のために行っている努力を聞くことも。月日が過ぎて大きくなった彼に手を重ねることも。

 もはや詳細は転生の際に記憶から消されてしまっている。

 

「阿求様はまだ覚えておいでで?」

「ううん、阿七の思い出はもうほとんど思い出せない。――でも、ここがお祖父ちゃんの子供の頃を覚えている」

 

 阿求は自分の胸に手を当てて、そこから広がる自分のものではない暖かな感情を受け止める。

 もう阿求には阿七がどんな思いで生きて死んだのかは思い出せないけれど。

 隣にはまだ子供だった信綱がいた。それは今も暖かく息づく心が覚えている。

 

「阿七も言ったと思うけど、もう一度言うね。――稗田阿七は、あなたと一緒にいられて幸せでした」

「……恐悦至極」

 

 阿求から阿七の話が出てくるとは思っておらず、不意打ち気味の感謝に信綱はぎこちなく微笑むことしかできなかった。

 そんな信綱の様子を見て阿求はクスリと笑う。

 

「あはっ、お祖父ちゃんもそんな風に困ったりするんだ。ちょっと阿七の気持ちがわかったかも」

「あの頃よりは成長したと思っておりましたが、まだまだのようです」

 

 あの日、阿七と永遠の別れをした時。年若く未熟な自分はロクな言葉をかけてやれなかった。

 今ならとは思ったものの、先ほどの会話でそれが難しいことが証明されてしまった。

 どうやら自分は咄嗟に口を動かすことが難しい性質のようだ。

 

「阿弥はどうだったの? お祖父ちゃんから見た阿弥って聞いたことないと思う」

「阿求様が目の前におられるのに、今この場にいない御阿礼の子の話をしても不快に思われると考えました」

「そっか。……うん、お祖父ちゃんが私を見ていないんじゃないか、って不安になっちゃうかも」

 

 今、信綱の膝の上で話をねだっている少女は稗田阿求ただ一人である。

 彼女の中に阿七の想いも阿弥の記憶も息づいているとわかった上で、信綱は阿求だけを見ていた。

 

「ですから、私からは何も言いません。無論、阿求様が望まれるのであれば思い出語りの一つも致しますが」

「じゃあ話してもらおうかな。阿七のお話はさっきしたから、次は阿弥のお話! お祖父ちゃんから見た阿弥を話して?」

 

 そうですね、と信綱は微かに考えて彼女を表現するのに相応しい言葉を探す。

 

「……私の隣を並んで歩いてくれた人、ですね」

「隣を歩いた?」

「ええ。阿七様には……お恥ずかしながら、私が手を引かれていた印象しかなかったので」

 

 成長し、身体が阿七より大きくなっても。ずっと信綱は阿七の後ろを歩いていたと錯覚してしまう。

 信綱の言葉に阿求は楽しそうに笑う。自分には祖父としての大きな背中しか見せていなかった信綱だが、彼にも未熟で可愛らしい子供の頃があったのだ。

 

「阿弥は違ったの?」

「私は成人し、阿七様の時みたいに不甲斐ない真似はしないよう心がけておりました」

 

 無論、誠心誠意お仕えしたという意味では阿七様も阿弥様も阿求様も同じです。そう言って信綱は膝の上にいる阿求の頬を撫でる。

 くすぐったそうにしながらも嬉しそうな阿求の視線に促され、信綱は話の続きを語っていく。

 

「幻想郷縁起の編纂に先立ち、多くの異変がありました。吸血鬼異変、天狗の騒乱、百鬼夜行」

「どれもお祖父ちゃんが立ち向かったんだよね」

「ええ。全ては阿弥様を守り、人里を守るために。そしてどれにおいても、阿弥様は私を信頼してくださった」

 

 彼女の脅威を払うために彼女を置いていかなければならない時もあった。

 その時でも彼女は自分に全幅の信頼を寄せてくれた。自分の側仕えに不可能などないと信じてくれた。

 そうして信じてくれることこそ、阿礼狂いにとって無上の喜び。信綱はただただ膨大な歓喜を以て阿弥に仕え続けることができた。

 

「あの方は私を信じ、私はあの方を守った。そういった意味では対等な関係だったとも言えます」

「む、私だってお祖父ちゃんを信じてるよ」

「もちろん、阿求様の信頼を疑うことなどあり得ません。ですが、阿弥様に仕えていた私にとって、その信頼は無二のものだった」

 

 動乱の渦中にあった幻想郷で阿弥を守り抜き、彼女が生まれてから旅立つまで側にいたことは信綱にとって生涯の誉れである。

 

「そして私はあの方を赤ん坊の頃から見守り続けました。――阿弥様が旅立つ時まで」

「……うん」

「最初から最後まで側にいた。そういった意味でも阿弥様は私の特別な人です。無論、阿七様と阿求様も同じように」

 

 阿弥は信綱を父と呼び慕っていたが、ある時にそれが途絶えた時があった。

 あの時、阿弥は悩んでいたのだろう。それも信綱が力になれない類の。

 信綱も彼女の力になれない自分に苛立っていた。

 お互いを思い、お互いに悩む。そうした過程を通ったことも含めて、信綱にとって阿弥は対等に手を取り合って動乱の時代を歩いた存在のように思える。

 

 阿求は信綱の独白を胸に染み入らせるように聞き届け、淡い笑みを浮かべる。

 自分の胸に当てている鼓動はきっと、信綱が語っているものと完全に同じ――というわけではない。

 父と信じた人に向ける信頼とは別種の、焼き焦がすような胸の高鳴り。

 この思いを言葉にするならば――

 

 これ以上を考えるのはやめよう。真実は阿弥の胸の中にしか存在せず、信綱は終生知る由のないもの。

 彼女は自分の感情を信綱に伝えなかった。どんな過程を、葛藤を経たのかも思い出せない阿求に彼女の代弁者となる資格はない。

 

「……じゃあお祖父ちゃん。私のことは?」

「阿求様、ですか?」

「そう。私はお祖父ちゃんにとって、どんな御阿礼の子?」

「……元気が良くて、活発で。時に私を困らせることもありますが――大切な家族です」

 

 愛すべき孫娘であり、敬愛すべき主人であり、自分の全てを捧げるに相応しい御阿礼の子は、信綱の言葉に満面の笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、お祖父ちゃん。その言葉が聞けて嬉しい」

「あなたが望むなら何度でも言いましょう。阿求様は私の主人であり、孫娘なのですから」

「えへへ……」

 

 照れたように微笑む阿求に信綱も柔らかく笑う。

 そうしてしばらくの間、信綱から見た御阿礼の子という話題に興じていた二人だったが、不意に信綱がつぶやきを漏らす。

 

「……そろそろか」

「お祖父ちゃん?」

「阿求様、少しの間で構いません。膝の上から離れていただけますか?」

「? うん……」

 

 どうかしたのだろうか、と訝しみながらも阿求は信綱から離れ、日向の暖かい場所に座り直す。

 そんな阿求に信綱は向き直り、背筋を伸ばした綺麗な正座で相対した。

 何事か、などと阿求が安穏とした考えを持つのも一瞬。信綱が深々と頭を下げる姿を見て、その意味を理解してしまう。

 

 

 

 

 

「――暇乞いを致します。阿求様」

 

 

 

 

 

「……っ!」

「阿求様に疵瑕があるわけではございません。ただ、もう間もなく私はあなたに仕えることができなくなる」

「……はい」

 

 すでに声が震えているのが阿求にも自覚できた。

 まだ阿求が子供の頃に交わした一つの約束。信綱がいつか永久の眠りにつく時、阿求に暇乞いをするという約束。

 信綱はそれを守ったのだ。ならば阿求も約束を守り、彼と笑ってお別れを告げねばならない。

 

 無理だ。こうして相対しているだけで手足は冷え切り、視界はグラグラと定まらないというのに。

 そんな阿求の内心を信綱はわかっているだろうに、それでも彼の言葉に淀みはない。

 一旦顔を上げた彼は、懐から一冊の本を取り出して再び頭を下げる。

 

「――最後の奉公を致します。それを以て暇乞いとさせていただきたく存じます」

「……奉公?」

 

 もうずっと阿求は信綱に助けられているというのに、まだ彼にとっては足りないものがあるのか。

 その疑問が浮かび、一瞬だけ阿求の心から家族の喪失という恐怖が消える。

 

「こちらをお受け取りください、阿求様」

「うん……お祖父ちゃん、これは?」

 

 暇乞いをする直前に本を渡され、阿求には意図が読めなかった。

 阿求に読んで欲しい本があるならもっと前に伝えるだろう。なぜ今になって、という意味が阿求にはわからない。

 そんな彼女に、信綱は特に間を置くこともなくサラリと内容を告げる。

 

「はい。あなたの短命の軛を解き放つ方法が記されてあります」

「え……えぇっ!?」

 

 思わず本を見てしまう。

 何の変哲もない本にしか見えないが、そんなこれまでの幻想郷の歴史において前代未聞なことが記されているのか。

 

「と言っても、私なりに研究を重ねた上での結論です。阿求様のお体で試すわけにもいきませんから、机上の空論と言ってしまえばそれまでです」

「……私に短命のこととか全然聞かなかったよね?」

「慧音先生や四季映姫、八雲紫らは阿求様より昔の御阿礼の子を知っておりましたから」

 

 彼女らの話を聞いて、信綱が自分なりに知見を深め、考察に考察を重ね、結論を出した。

 そうして得られた結論を信綱は阿求に話していく。

 

「その上でお話いたします。――こちらはその可能性が高い、というだけのものです」

「……でも、高いんだ?」

「はい。今、阿求様にお渡しした本と同じ内容のものを妖怪にも渡してあります」

「妖怪にも?」

「紅魔館のレミリア。妖怪の山の天魔。鬼の首魁である星熊勇儀と伊吹萃香。幻想郷の賢者の八雲紫。彼女らに渡してあります」

「そ、それってどういうこと!? なんで私の短命の話がそっちに飛ぶの!?」

 

 信綱が挙げた人物は英雄である信綱の知り合いであり、阿求との個人的なつながりは薄い。

 レミリアは友人であると思っているし、八雲紫との付き合いも長いと思っているが、他の三人は信綱の友人という印象があった。

 

「これは可能性が高いだけのもの。もっと時間があればより良いものが生まれるかもしれない。そう考え、彼女らに託しました」

「託した……」

「この方法が難しいのであれば、次代に託す。そしていつの日か、あなたを――」

「…………」

 

 信綱からの懇願されるような瞳を受けて、阿求は呆然とするしかなかった。

 自分の人生に信綱が寄り添ってくれるだけでも幸福だった。何の隔意もなく祖父と呼び慕い、彼の膝の上で甘えられるだけで嬉しかった。

 その思い出だけで良かったのに――この男はもっと大きなものを阿求に残そうとしているのだ。

 

 阿求の手元にある方法が可能か不可能か。そんなことは考えない。

 これは目の前の男が御阿礼の子のことを世界で一番考えて考えて考え抜いて、人生を歩んできた男の集大成なのだ。

 その執念を甘く見るなどあり得ない。彼は正真正銘――御阿礼の子に狂っているのだから。

 

「……私の短命を終わらせるのが、お祖父ちゃんの最後の奉公?」

「いいえ。私はあなたに道を遺したかった」

「道?」

「はい。短命でなくなったら、もしかしたら求聞持の力もなくなり、御阿礼の子としての使命が果たせなくなるかもしれません」

「……っ」

 

 信綱より告げられる内容に身体が固くなるのを阿求は自覚する。

 稗田の一族は代々求聞持の力により見聞きしたものを全て覚え、これらを活用することで幻想郷縁起の編纂に携わってきた。

 代々続いてきたそれを阿求の代で終わらせるかもしれない、というのは動揺を覚えて当然である。

 

「――ですが、あなたは生きることができる」

「お祖父ちゃん……」

「私は阿七様、阿弥様が使命を果たす姿を一番側で見てきました。その姿は何よりも尊いものであり、使命を果たして旅立った彼女らを侮辱するようなつもりは断じてございません」

「うん。それはお祖父ちゃんを信じてる」

 

 阿求の言葉に信綱は深々と感謝し、そして自らの思いを吐露する。

 

「……けれど、あのお方の気高さは他に道がないからのものです。生まれた時より御阿礼の子の使命を課せられ、逃げることもできず、短命の鎖に縛られた」

「…………」

 

 ともすれば侮辱に聞こえるかもしれないその言葉を、阿求は静かに受け止める。

 御阿礼の子が二度、使命を果たす姿を見てきた信綱の言葉なのだ。きっと彼は阿求よりも御阿礼の子のことを知っている。

 

「だからせめて、阿求様には選べる道を遺したかった」

「……私が御阿礼の子として生きるか、これを使って御阿礼の子として生きられなくなるかもしれない可能性に賭けるか」

「はい」

 

 それだけ言って話は終わりであると、信綱は再び頭を下げる。

 

「使うかどうかは阿求様にお任せいたします。ですが、もし使うことを選ぶのであれば――先に挙げた妖怪らが何を差し置いてもあなたの味方となるでしょう」

「……わかりました」

 

 信綱の話を全て聞いた阿求は、先ほどまで感じていた震えが消えているのを理解する。

 代わりにあるのは急にこのようなことを告げられた動揺もあるが――何よりも、胸が一杯になるような満ち足りた気持ちだった。

 今なら信綱の献身に対し、人生で一番の感謝とともに暇を出せそうである。

 

 阿求は平伏したまま動かない信綱の肩に手を置き、静かに彼の長い、本当に長い側仕えの任を解除する。

 

「この本を受け取ることで、あなたの暇乞いを受理します。本当に、本当に……お疲れ様でした」

「恐悦至極」

 

 やはり、声は震えてしまった。

 阿求は目尻がぼやけるのを覚えながら、それでも穏やかに微笑んで信綱にその言葉を告げた。

 それを聞いて信綱はゆっくりと身体を起こし、従者としてではなく阿求の家族として笑う。

 

「……では、ここから先は私のワガママです」

「え?」

「阿求様、こちらに」

 

 信綱は立ち上がろうとして、上手く立てないことを自覚する。

 もう本当に時間がないようだ。だが、まだ身体は動く。

 阿求に気づかれぬようごまかしつつ、縁側の手近な柱の方に近寄って身体をもたれかける。

 側仕えとしての信綱であればあり得ないような楽な姿勢になった後、信綱は阿求を側に招く。

 

 阿求が何の疑問も持たずに近寄り、信綱に顔がよく見えるよう近づく。

 信綱はそんな阿求の頬を優しく撫でて、言葉にできない感慨を胸に抱く。

 

 とうとうここまで来た。残された時間はわずかで、身体も自由が利かなくなった。

 もう間もなく、自分は御阿礼の子と永遠の別れをするだろう。

 だから、伝えなければ。阿七を見送り、阿弥を見届け、そして今、側仕えの役目を終え、一人の人間として看取られる番になった今こそ言おう。

 

 ずっと前から。それこそ阿七と死別した時から、一度で良いから言いたかったこの言葉を。

 

 

 

「――生きてください、阿求様」

 

 

 

「あ……」

「生きて、生きて、生きて――。成人し、酒の味を覚え。大人になって、恋をして。夫婦になって、子をもうけて。子が巣立ち、孫ができて。そんな当たり前の幸せを、どうか――」

 

 従者として、彼女を慮る言葉はすでに伝えた。

 だからこれは阿求が聞く理由などない、文字通りただのワガママ。

 英雄でもなく、従者でもない。火継信綱という名を持って生まれ、生きてきた一人の人間の最初で最後のワガママ。

 それを聞いた阿求は思わず口元を押さえ、零れそうになる嗚咽を必死に堪えた。

 信綱はそんな阿求の状態を理解し、それでもこれはワガママなのだと自らの願いを押し通す。

 

「ああ……! やっと言うことができた……! 阿七様に阿弥様、二人に託されて背負ってきた言葉を、やっと……!」

「お、祖父ちゃ、ん……!」

 

 阿求はもう息も絶え絶えだった。すでに涙は両目からとめどなく溢れ、それでも嗚咽だけはなんとか耐えている状況。

 別れる時は笑顔で、という約束を守ろうと必死に頑張る阿求の頬を伝う涙を、信綱の指が優しく拭っていく。

 

「こんな私でも妻を持ち、娘を持ち、孫を得られたのです。……あなたにそれができないなんて道理、あってはならない」

「……っ!」

「ですから阿求様、どうか、どうか――生きてください」

 

 そう言って、信綱は大きく、深く息を吐く。

 すでに視界には霧がかかり始めている。この霧が視界を全て覆った時が、自分の終わりだろう。

 だが阿求の顔を見ることはやめない。世界で一番美しいと思ったものを、この生命が終わるまで見ていたかった。

 

 阿求は信綱が優しく微笑み、流れる涙を拭ってもらいながら、その場に泣き崩れたい衝動をこらえて、その涙を袖で目元が赤くなるのも構わず拭い取る。

 そして精一杯に、最高の笑顔を浮かべて、信綱と目を合わせる。

 

「ぁ――」

 

 信綱は涙ながらに微笑む阿求の姿を見て、一瞬だけ呆けたような音が漏れる。

 彼を送り出そうと精一杯笑う阿求の後ろに、懐かしい影が見えたのだ。

 

 

 

 弟を慈しむように微笑む阿七の姿と、父を労うように微笑む阿弥の姿が――

 

 

 

「あぁ……!」

 

 信綱の瞳からも一筋、涙が零れ落ちる。

 世界で一番美しいと思っているものが、三つも同時に見られるとは。

 こんな望外の幸せがあって良いのか、ともう大半が霧に侵された思考でそれだけを思う。

 阿七、阿弥、阿求。三人の御阿礼の子に見守られ、信綱は微笑んで――

 

 

 

 

 

 ――生きてください、阿求様。

 

 

 

 

 

 阿礼狂いに生まれた少年は自らの物語の果てに、これまでと変わらず御阿礼の子の幸福だけを願い続けるのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここに一人の人間の物語が幕を下ろす。

 人によっては英雄譚と言うだろう。人によっては到達者の物語と言うだろう。

 だが彼の――阿礼狂いとして生きて死んだ者の人生を語るならば、それは一つしかあり得ない。

 

 

 

 阿礼狂いに生まれた少年のお話は、ここに終幕を迎える――。










――以上を持ちまして本編の完結と相成ります。一年半弱の長い間、読んでいただきありがとうございました。
後書きなどは後で活動報告に載せることに致します。感想への返信も少し待っていただけると幸いです。

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