阿礼狂いに生まれた少年のお話   作:右に倣え

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英雄のおしまい

 異変も終わり、宴会も三日おきなどというふざけた頻度ではなくなり、霊夢は上機嫌に神社の境内を掃除していた。

 信綱の持ってきた差し入れのおかげで異変に気づけたのだから、何が良い方向に転ぶかわからないものである。

 ともあれ異変は霊夢が解決したから宴会に悩まされることはなく、信綱から美味しくて便利な饅頭の作り方も教えてもらえた。

 結果だけ見れば良いことずくめとも言える。だからといってあの宴会はもう二度と来てほしくないが。

 

 気分良く鼻歌などを歌いながら掃除を続けていると、ふと階段の方に人の気配を感じる。

 まだ朝も早く、日は中天まで昇り切っていない。こんな時間に誰かが来ることなど珍しい。

 

「ん、朝早くに人が来るなんて珍しいと思ったら爺さんか」

「異変を解決したそうだな。霧雨商店に来ていた魔理沙から聞いた」

「へえ、ついこの前までは二度とあの店に近寄るもんか、って怒ってたのに」

「……何かあったのか?」

 

 不思議そうに首を傾げる信綱にちょっとね、と霊夢は言葉を濁す。

 彼女が店番なんてやっていて面白かったのでからかいました、と言ったら信綱は小言を言ってくるだろう。

 あるいは、相手をからかうにしても度が過ぎぬようにしろと釘を差してくるか。

 

「まあその話はいいでしょ。で、爺さんは異変解決の時の話でも聞きに来たの?」

「それもあるが、そちらは後で聞かせてもらう。今日来たのは稽古のためだ」

「あ、ちょっとこの後急用が……」

 

 そそくさと箒を片付けて逃げようとする霊夢の頭を掴み、逃げられないようにする。

 ぎこちなく振り返り、嫌そうな顔を浮かべる霊夢に信綱は笑みを浮かべてやった。

 

「さ、始めるぞ」

「鬼、悪魔! 異変を解決した娘に優しくしようとかないの!?」

「優しくはしている。甘やかしてはいないだけだ」

「優しさはどこ!?」

「……? 死なないよう細心の注意は払っているぞ」

「死なないのが優しさ!?」

 

 じゃあ何か。自分は今こうして生きて呼吸できていることが信綱の優しさだとでも言うのか。

 霊夢は相も変わらぬ信綱の調子にツッコミを入れていたが、それで状況が変わらないとわかると諦めたように首を振った。

 

「わかった、わかったわよ。爺さん、なんか知らないけどやる気マンマンみたいだし」

「そうだな。これが最後の稽古になる」

「それなら気合が入るのもわかるって――今、なんて言った?」

 

 サラリと告げられた内容に霊夢は信綱の顔を見て、徐々に彼女の顔が悲痛に歪んでいく。

 信綱が最後と言った意味を持ち前の勘で察してしまったのだろう。今にも涙が零れそうなほどに霊夢の瞳には涙が溜まっていた。

 勘の良さというのも良し悪しである。信綱は小さく息を吐くと、彼女の頭を撫でる。

 

「泣くなとは言うまい。家族が死ぬのは悲しいことだ」

「……っ、泣いてないもん」

「そうか。……だが、これが正しい形だ。先に生まれたものが先に死ぬのがあるべき人間の姿だ」

 

 信綱より先に霊夢が死ぬことの方が遥かに悲劇である。

 父より先に娘が死んでしまうことの悲しみを、信綱は今も色褪せず思い出せる。

 

「それに俺はまだ生きている。泣くのは俺が死んだ後にしろ」

「泣いてないってば!」

「目が潤んでいるように見えるが」

「ゴミが入っただけ!」

 

 霊夢は乱暴に目元を拭うと、何かを堪えるような顔で信綱を見上げる。

 

「稽古、始めましょ! 今日こそ私が勝つんだから!」

「……そうだな。その意気だ。俺も手加減はしないぞ」

 

 霊夢と距離を取った信綱は腰に差した刀を抜き放ち、霊夢に鋼の刃を向けた。

 

「――お前の力を全て見せてみろ」

「上等! 爺さんもいい加減若い力に膝を折りなさいっての!!」

 

 

 

「……結局一度も勝てなかった」

 

 霊夢は仰向けに寝転がり、雲一つない蒼天を見上げて悔しそうにつぶやく。

 小さな子供の頃から稽古をつけてもらい、博麗の巫女の秘奥である夢想天生に到達してもなお勝てなかった。

 この人に勝つのは不可能だったのか。そんなことを考えると悲しさや悔しさが綯い交ぜになって視界が滲む。

 

「そう悲観するな。俺の強さとお前の強さは毛色が違う」

 

 常と変わらぬ様子で倒れている霊夢に手を差し伸べる信綱に、霊夢は感情のままに上半身を起こして叫ぶ。

 

「っ、どう違うって言うのよ! 爺さんのそれは弾幕が通じない外敵用の強さでしょ!」

「そうだな」

「じゃあ私が爺さんより弱かったらダメじゃない! 私一人で人里を守れなきゃ――」

「霊夢」

 

 言葉を途中で遮る。それは霊夢が一人で抱え込む必要のないものであった。

 

「お前は一人じゃない。肩を並べて戦える仲間が多くいるだろう」

「でも!」

「それにもう人里は人間の手だけで守るものではない。……今は多くのものが一緒に戦ってくれる」

 

 そうなるように動き続けた。人里の価値を人間が住んでいるから、というだけでなく幻想郷の要となるように立ち回った。

 妖怪が来られるように整備し、彼らの助けを受けられるように人里の在り方を変貌させた。

 もうあの場所は妖怪の災害に怯える人々の住処ではない。幻想郷に生きるもの全てが利用する、人と妖怪の交流の要となったのだ。

 

 人間の手だけで守れば良いものではなく、妖怪の手だけで守れば良いものでもない。

 共通の敵が現れたのなら手を取り合えば良いのだ。それが信綱が戦っていた時代にはできず、今の時代ならできることである。

 

「お前は今のままでいい。どうにもならない時はスキマや他の妖怪がどうにかしてくれる」

「……爺さんの時は助けてくれなかったの?」

「あの時代の人里は最低限の保証しかされていなかった」

 

 主眼が人里の価値を上げることだったため、紫に任せるわけにもいかなかったというのが実情だが、霊夢にその辺りの難しい話は良いだろうと黙っておく。

 

「弾幕ごっこに興じ、危ない時は力を合わせて――そうやって、俺とは違うやり方でやっていけばいい」

「……ん、わかった」

「それでいい。稽古は欠かさないようにな」

 

 そう言って信綱は上半身だけ起こした霊夢の腕を取り、その身体を立たせてやる。

 

「……もう稽古は終わり?」

「そうだな。俺から教えられることは全て教えた、とは口が裂けても言えないが」

「まだまだ未熟ってこと?」

「お前は教えれば教えた分だけ強くなるからな。教えたいことは数多くあった」

 

 こちらもそれなりに楽しめた、と信綱は霊夢の頭をもう一度撫でてやる。

 

「後はお前から異変の話を聞くことになる。一旦汗を流して部屋でやるぞ」

「わかった」

 

 霊夢が風呂で汗を流した後、居住区である部屋に場所を移して信綱と霊夢は再び向かい合う。

 そして話を始めよう――としたところで、信綱は唐突に部屋の中を見回し始めた。

 

「…………」

「爺さん?」

「見た限り、薬がないようだが」

「へ? ああ、切らしちゃってたか。今度人里で買うから大丈夫」

「いや、好都合だと思っただけだ」

 

 信綱の言葉に首を傾げる霊夢だったが、詳しいことは後で話すと信綱に言われてしまう。

 では仕方がないと霊夢は肩をすくめ、今回の異変についての話を始めていく。

 

「まず異変の黒幕は伊吹萃香っていう鬼だった。私、魔理沙、咲夜に魂魄妖夢っていう冥界の庭師を引っ張ってきて戦った」

「ふむ、魔理沙の話には咲夜と妖夢とやらは出ていなかったな」

 

 とはいえそのぐらいの見栄は許容範囲なので特に気にしない。一人の話だけで異変の全容を掴むことなど不可能である。

 

「そしたら萃香ってやつは四人に分身したわ。あれ反則じゃない?」

「本人の力も四分割だ。道理に則っているし、それを言ったら四人がかりで挑んだお前たちも人のことは言えまい」

「うっ。……ま、まあ話を戻すわ。んで、どうにかこうにか倒して異変はおしまい。理由の方も萃香から聞き出したわ」

「ほう」

 

 その辺りは信綱も聞いていないことである。興味深そうにすると霊夢にもそれが伝わったのか、得意そうに話を続けていく。

 

「――もう一度鬼を地上に呼び寄せたかったんですって。でも結果的には最初の宴会で全部叶っちゃったから。後は私と戦ってみたかっただけ。いい迷惑よ」

「鬼というのはそういうものだ。強い存在と戦いたくて向かってくる。こちらの事情など考えもせずにな」

 

 鬼には迷惑ばかりかけられた身として、霊夢の言葉には非常に賛同できた。

 

「話としてはこんなところね。宴会がいっぱい続いたのが異変だから、爺さんもその辺りはよく知ってるでしょ?」

「そうだな。阿求様が異変についてまとめる時にも伝えておこう。それで異変を解決した後はどうなった?」

「萃香は満足したみたいに帰ってった。たまに私のところに来るとか言ってたけど、それぐらいかな」

「……そうか」

 

 信綱の見立て通り、霊夢は色々な人妖に好かれる性質のようだ。

 先代の時みたいに一人になることはないだろう。その確信が得られたことに信綱は感慨深くうなずく。

 しかし霊夢には信綱の沈黙が悪い意味に見えたようで、その頬を不満そうに膨らませた。

 

「なに、爺さんも妖怪神社みたいだって言いたいの?」

「そんなことを言った覚えはない。お前が楽しそうで何よりだと思っただけだ」

「楽しくないって! あいつら人の都合なんて全く考えないし、勝手に来て勝手に騒いで大変なんだから!」

「だが、一人じゃない」

「……うん」

 

 素直に認めた霊夢に信綱は目を細め、その肩を叩く。

 

「俺も妖怪に振り回されたクチだから言えることがある。――あいつらは何を言っても来るから諦めろ。少しでも自分に得になるよう考えた方が精神的に楽だぞ」

「爺さんも諦めたのね……」

 

 うむ、と重々しく首肯する信綱からはなんとも言えない哀愁が漂っていた。

 霊夢の生きた年数の三倍以上、彼は妖怪に振り回されて生きてきたのだろう。その言葉には鉛のような重さがあった。

 でもあんまり見本にはしたくないなあ、と霊夢はさり気なく失礼なことを思いながら苦笑する。

 

「それで私の話はこれぐらいだけど、爺さんからの話って?」

「ん、ああ。これだ」

 

 そう言って信綱は懐から一冊の本を取り出す。

 

「これは?」

「先代の作っていた料理の作り方をまとめたものと、俺の料理の作り方をまとめたものになる」

「爺さん、そんなの作ってたの?」

「時間のある時に少しずつな」

 

 驚いたように、しかししっかりと胸に抱きかかえる霊夢に信綱は淡々と霊夢に渡すものを説明していく。

 

「後は火継の家に預けてあるから、後で取りに来い。俺の名を出せば案内してもらえる」

「何があるの?」

「怪我をした時の薬に俺がいなくてもできる稽古内容。そんなところだ」

 

 他にも色々あるのだが全部説明するのは面倒であるのと、彼女もつまらないだろうと思いやめておく。

 重要なものは話したもので全てなのだ。昔に霊夢が欲しがっていた装飾品なども用意してあることは実利を考えれば伝える必要を感じなかった。

 しかし霊夢は全部を話していないそれでも十分だったのか、その顔を綻ばせる。

 

「……爺さんは私に甘くないんだっけ?」

「そのつもりだが」

「十分甘いわよ。そこまでするの、普通の親子だってないわ」

「真っ当な親ならお前が博麗の巫女をやることに反対するだろうよ」

 

 危険な役割を娘にさせたがる親はいない。

 信綱はそれを平然と霊夢に任せているのだ。彼女を甘やかしているとは口が裂けても言えない。

 そして危ない役目をさせている以上、できる限りで援助するのは当然の行為である。

 

「俺からの話は以上だ。お前からなにかあるか?」

「あ、えと……」

 

 もうこれで終わってしまう。そう思うと霊夢の心が焦燥に満たされて何かを言わなければと思うが、こういった時に口は上手く動かない。

 

「じゃ、じゃあ――ご飯作って!」

「昼はさっき作ったぞ」

「夕飯! 夕ご飯を作ってよ! ああいや、待って! 私も作る!」

「何が言いたいのかわからん」

「私と一緒に夕ご飯を作って! 爺さんは阿求のこともあるから、食べるのは私一人でいいから!」

「それぐらいなら構わんが」

「じゃあ行こ! 美味しい夕ご飯を作ってよね!」

 

 声を弾ませ、楽しそうに厨房に向かう霊夢に手を引かれながら、信綱は小さな笑みをこぼす。

 こんな風に喜怒哀楽をハッキリとした少女なのだ。すでに多くの人妖に好かれる片鱗も見せている。

 自分がいなくなっても彼女は大丈夫だろう。一人でもやっていけるだろうし、一人にさせないよう誰かがいてくれるはずだ。

 

 ――なかなかに悪くない時間だった。

 

 弟子のようであり、娘のようであり、そんな少女の背中に信綱は目を細めるのであった。

 

 

 

 

 

 信綱はある場所に向かっていた。

 三人が二人になってからも修練を重ね、汗を流していた場所。

 信綱にとって力を求める始まりでもあり、戦士としての信綱の原点でもある場所。

 

 場所は人里から遠く、妖怪の山の麓付近に当たる。

 山菜採りが生業の者であってもここまで来ることはないとされる場所に、信綱は向かう。

 

「あれ、あんたこんなところで何してんの?」

「……ここで会うとは思わなかったな」

 

 その道中、木々の上から聞こえた声に顔を上げるとそこには妖猫である橙が立っていた。

 ふふん、と得意そうな顔で木の上に立ち、腕を組む彼女に信綱は目を細めて口を開く。

 

「そこで何をしている」

「訓練よ。やっぱり猫たるもの、身が軽くないとね!」

「……降りてこい。声が聞き取りづらい」

「いーやっ! あんたを見下ろせるなんて気分良いわ!」

 

 腹が立ったので橙の立っている木に蹴りを入れてやる。

 妖怪並、とまではいかずとも超人的な身体能力を持つ彼の蹴りは、勢いが十分に乗っていれば木をなぎ倒すことも可能だ。

 木を折るつもりはないので多少手加減はしたが、それでも幹の方まで響く衝撃は木の枝に立っている橙を大いに揺らす。

 

「え、ちょ、わっと!?」

 

 しかしさすがは妖猫と言うべきか、ヒラリと軽やかに身を翻して別の木に飛び移る。

 信綱がじっとその木を見つめていると、また何かしてくると思ったのか諦めたように地面に降りてきた。

 その際に首につけられた鈴がチリン、と涼やかな音を立てる。

 

「まったく、手が早いのは昔っから変わらないんだから」

「俺が子供でお前が大人みたいな物言いをされるのは心外なんだが」

「違うの?」

 

 無言で橙の耳を引っ張る信綱だった。

 そうしてしばらく橙の耳を引っ張ってから、二人はちゃんと話をする姿勢になる。

 

「いたたたた……耳が取れちゃったらどうするのよ!」

「ちゃんと加減はしている」

「痛いのは変わらないのにぃ……」

 

 へにゃ、と垂れ下がった耳を橙は痛そうに押さえて、信綱の方を見上げた。

 

「で、あんたは何してんの? 魚釣りに行くんなら私も連れてって!」

「違う。昔、俺が鍛錬をしていた場所に向かっている」

「前に連れて行ってくれた場所よね。ほら、なんか白狼天狗と一緒にいた場所」

「よく覚えていたな」

 

 もう半世紀近く昔の話を覚えていることに信綱は驚愕した表情で橙を見る。

 橙は得意そうに後頭部で腕を組み、満面の笑みを浮かべた。

 

「まあね! あんたがとんでもない厄介事持ってきてくれた場所だし!」

「そんなことあったか?」

「当事者が忘れてどうすんのよ!?」

「冗談だ」

「真顔で冗談言うのやめなさい!」

 

 ちょっと涙目で怒られたので素直にうなずいておく。

 橙は信綱の行き先を聞いて、興味なさそうにそっぽを向いた。

 

「ふぅん。多分あの白狼天狗と会うんだろうし、私が行かなくても大丈夫よね」

「お前の俺に対する保護者のような目線は何なんだ一体」

「え? 私が親分であんたが子分。子分の面倒見るのは当然じゃない?」

「お前の子分であることを認めたことは一度もないからな」

 

 全く、と信綱は肩をすくめるしかない。

 

「……ん、あれ?」

「どうした」

 

 橙はそんな信綱の様子を見て、何を思ったのか不意に信綱の匂いを嗅ぎ始める。

 スンスンと匂いを嗅いでくる橙に何事かと思うものの、信綱は特に何かをすることなくその様子を眺めていた。

 やがて彼女が信綱から離れると、その顔は何かに堪えるように悲しみに歪んでいた。

 

「おい、どうした」

「なんでもない!」

「なんでもない顔には見えないぞ」

「なんでもないってば!」

 

 見たくないものを見てしまったように目を覆い、信綱から距離を取る橙。

 そんな彼女の尋常でない様子に、信綱は迂闊に踏み込んで彼女の心を乱そうとせず、その場であえて平坦な声を出すことで橙を落ち着かせようとする。

 

「……何か嗅ぎ取ったんだな」

 

 首肯。それに合わせて信綱は頭を回し、彼女がここまで取り乱す原因を探っていく。

 探るとは言ってもそこまで難しいことではなく、自分の匂いを嗅いで橙が取り乱す原因などそんなに多くは思い浮かばなかった。

 

「……もうじき死ぬのがわかったか?」

 

 ビクリ、と身体を震わせて動かない。しかしそれが何よりも雄弁な答えだった。

 信綱はそんな橙とせめて目線の高さだけでも合わせようと、膝を折る。

 

「もう鈴は渡してあるだろう。俺が死んだとしても、お前が思い出す限り俺はお前の中に存在し続ける」

「でも、だって……! もう会えないってことじゃない! 耳を引っ張られるのも! あんたの生意気を聞くことももうないってことじゃない! 悲しくないわけないわよ!!」

「……そうだな。知り合いが死ぬのは悲しいことだ」

 

 とめどなく涙が溢れ、橙の顔を濡らしているそれを見て信綱は橙の言葉を肯定する。

 別れは悲しく、辛いものだ。それは阿礼狂いである彼にも身に沁みて理解ができている。

 しかし、と信綱は言葉を続けた。

 

「お前にとって、俺と一緒にいた時間は悲しいだけか?」

「それは……違う、けど」

「なら、俺と過ごした時間に対する感想はどんなものになる?」

「……楽しかった」

「そう思ってくれるか」

 

 それ以上の言葉は続けなかった。そこまで言えば十分であると思ったのだ。

 信綱が何も言わずに橙の反応を待っていると、橙はぐしぐしと袖で顔を乱暴に拭いて信綱を見る。

 

「……子分!」

「なんだ」

「あんたが死んだら私は泣くわ!!」

「そうか」

「だけどあんたのことを思い出したら、私は笑ってあんたを思い出す! あんたは生意気で仏頂面で難しいことしか言わないし私にもすぐ意地悪するけど、お魚くれたりたまに優しかったり、耳を撫でてくれたこともあった!」

 

 叩きつけるように叫ぶ橙の目からはすでに涙が溢れていたが、信綱は止めずに話を促す。

 

「私がいつか大きくなってもあんたは忘れない! 生意気で仏頂面で意地悪だけど――優しい私の友達だって!」

「……そうか」

 

 信綱は慈しむように目を細めて橙を見る。

 思えば彼女との付き合いも小さな頃からのものだ。こんなに長くなるとは思っていなかっただろう。

 だが、難しいことを考えないでも良い彼女との付き合いは自分にとっても心地よかった。

 橙は泣き顔を見られたくないのか信綱に背を向けて、再び声を張り上げる。

 

「私はもっと修行するわ! あんたは邪魔だからさっさと行きなさい!」

「……ああ、そうさせてもらおう」

「……またね!!」

 

 これ以上ここにいても彼女を困らせるだけだ。

 そう察した信綱は何も言わず、橙に背を向けて目的地へと再び歩き出す。

 少しして、誰かが足早に走り去る音が信綱の耳に届く。

 橙のものであるとはすぐにわかったが、それが誰のもとであるかは考えないことにした。

 

 藍の胸に飛び込んで泣くのか、それともがむしゃらに修行に励むのか。

 どちらにせよ信綱が彼女にかけるべき言葉はもう何もない。後は彼女の問題である。

 ただ、一つだけ。彼女に伝えるべきでない言葉は存在した。

 

 

 

 ――頑張れよ。

 

 

 

 誰に聞こえることもないそのつぶやきだけを残して、信綱は再び歩き始めるのであった。

 

 

 

 

 

 目的の場所に到着し、信綱は何も言わず手頃な木にもたれかかって目を瞑る。

 するとすぐに上空から気配がやってきて、信綱の前に立った。

 信綱は閉じていた目を開き、その人物――白狼天狗の犬走椛を見た。

 

「……早かったな」

「予感、ですかね。今日、君はこの場所に来る。そんな予感がしたんです」

「動物の勘か?」

「さあ、どうでしょう。君との長い付き合いが気づかせてくれたのかもしれません」

 

 そう言って椛は微笑み、信綱が持っていた長刀に目を向ける。

 椿から奪ったものであると信綱が言っていたものと相違ないものであることに、椛は首を傾げた。

 はて、この刀を使うようなことは何かあっただろうか。

 

「今日は一体どんな用事があったんですか?」

「用件は一つしかない」

 

 信綱は背負っていた長刀を外すと、椛に差し出す。

 

「え?」

「やる。火継の家では俺が死んだら扱えるものがいなくなる」

「い、いえ、ですがこれは椿さんがあなたに……!」

「奪ったものだ。それに人里でこの剣の由来を知るものはいない」

 

 信綱が使い続けた刀として残されるか、あるいは鋳潰されて別の道具になるだけだ。使い手のいない武器ほど邪魔なものはない。

 

「使えと言うわけじゃない。だが、俺が持っていてもこの剣は由来も忘れられてしまうだけだ」

「……だから椿さんを覚えている私に、ということですか」

「そういうことだ。受け取れ」

 

 椛はしばらく逡巡した様子を見せていたが、やがて瞳に決意の輝きを浮かべてその長刀を受け取る。

 天狗によって作られた長刀であり、特殊な銘があるわけでも特別な作りになっているわけでもない。

 通常の刀に比べれば名刀ではあるが、それだけの変哲もない刀を椛は宝を抱くように抱きしめた。

 

「受け取ります。これがある限り私は椿さんを忘れません」

「そうしてくれ」

 

 信綱と椛はそれっきり何も言わずにただ景色を眺め始める。

 木々が鬱蒼と茂り、少し歩けば川が近くにある。ここで殺し合い寸前の稽古を行い、水場で身体を鍛えた時間は今も鮮明に思い出せる。

 

「……椿さん、君の成長をずっと楽しみにしていたんですよ」

「知っている。事あるごとに天狗さらいをされないか誘ってきていた。乗ったら殺されていたが」

「あはははは……。君も大変な人に目をつけられてましたね。思えば君が妖怪に付きまとわれる人生の一番最初は椿さんでした」

「椿だけだったら途中で死んでいただろうさ」

 

 彼女が少し手加減を失敗するだけで自分は簡単に死んでいた。

 それがかろうじて成功していたのは、椛がなんだかんだ防波堤になっていたからだ。

 

「そうかもしれません。でもそうやって強くなった君に椿さんは挑んで、殺されて――」

「……後悔はしていない。過程に思うところはあるが、それでもあいつは阿弥様の敵になった。容赦はできない」

「知ってます。私も……割り切ったとは言えませんけど、納得しています。椿さんは決定的に間違って、あなたはそれを見過ごせなかった」

 

 何か一つ。たった一つでも何かが違っていれば、あの結末は避けられたのかもしれない。

 しかし現実は残酷で、かつての三人の結末はあれしかなかった。

 

「そしてあの日から俺とお前は共存を願った。たらればで人の命を語るつもりはないが、あいつの死が俺たちにとっての奇貨だった」

 

 同時にあの結末があったからこそ、椛と信綱は人妖の共存を願うようになった。

 二人はそれを成し遂げた。信綱が主体となり、椛が勇気を振り絞り、それぞれがそれぞれの種族の限界を越えた結果を叩き出し、人妖の共存は成った。

 

「…………」

「…………」

 

 無言になり、二人はこれまでの軌跡を振り返って感慨に浸る。

 しばしそうしていたところ、椛が信綱を見て口を開いた。

 

「……ずっと前から君に聞きたいことがあったんですけど、良いですか?」

「なんだ」

「君はどうして私に背中を任せるんですか? もう君は私より強い知り合いや友人だって一杯いるじゃないですか」

「まだそんなことを気にしているのか」

「き、気にしますよ! 君は今や名だたる大妖怪とも友人になるほどの英雄で、私はしがない白狼天狗です。どうすればこんな関係になるのか、私が聞いてみたいくらいです!」

「あいつらは俺が英雄と呼ばれるようになってからの知り合いであり、友人だ。……俺が英雄と呼ばれる前の姿を知っている妖怪はそんなに多くない」

 

 妖怪の山にしかいないだろう。椿と椛を除けば橙とにとりぐらいだ。

 その中で誰が一番信頼できるかと言えば、やはり椛しかいなかった。

 

「俺は英雄などと呼ばれるような大層な人間じゃない。それはお前もよく知っているだろう」

「はい。君は本当はこうしている時間すら惜しいと思って、御阿礼の子と一緒にいたいと思う――狂った人です」

「正しい認識だ。――それがお前を信じる理由だ」

「え?」

「俺が狂人であると知識だけでなく実感として知った上で、それでも一緒にいてくれる。俺の本質も時が来たら殺されるかもしれないことも何もかも理解して、お前は俺の隣にいることを望んでくれた」

 

 だから信綱も椛を信じることにした。

 彼女を殺さなければならない時が来ない限り、彼女に全霊の信頼を寄せることにした。

 そして今、彼女を殺す時は来ていない。故に信綱が椛を信用するのは当然のことなのである。

 

「お前は俺の信頼に応えてくれた。これから先があったとしてもずっと、俺の背中を任せられるのはお前だけだ」

「……そういうことは臆面もなく言い切りますよね、君」

 

 信綱の言葉を聞いた椛は恥ずかしそうに身じろぎするが、赤らんだ顔は信綱からそらされていなかった。

 

「俺こそお前に聞きたいことがあった。良いか」

「その物言いだと私が拒否しても聞くように見えるんですけど」

「わかっているじゃないか。――なぜ、俺から離れなかった?」

「離れる、とは」

「前々から聞きたかったんだ。勘助もそうだが、お前もそうだ。――俺は狂っていると。優先すべき物事が人とも妖怪とも違うのだと何度も教えているのに、お前たちは離れていかない」

 

 自分がここまで人間臭くなったのは彼らの行動と言葉が一因にあるだろう。

 他にも多くの要因が絡み合ったのは間違いないが、それでも己を阿礼狂いとして人間性を失った存在にさせなかった理由は聞いておきたかった。

 

「……ふふっ、わかりませんか?」

「ああ、わからない」

 

 すると椛はそんな簡単なこともわかっていなかったのか、と吹き出してしまう。

 信綱が大真面目にわからないと口にすると、椛は信綱の方に近寄ってその額を指で小突く。

 

「む」

「そうやって真面目だからですよ。真面目だからちゃんと私たちと向き合って、ちゃんと自分は違う存在だと教えてくれて、ちゃんと私たちのことを考えてくれる」

 

 もしも、信綱がもっと適当に――一個の阿礼狂いとして人を傷つけることに痛痒を抱かない感性の持ち主であったら。

 椛はとっくの昔に屍を晒し、勘助たちも信綱とは疎遠になっていただろう。

 だが、椛の言葉を聞いた信綱は訳がわからないと眉をひそめた。

 

「……? 知り合いであろうと筋を通すのは当然だろう?」

「そこで当然だと言えるのが真面目ってことですよ。……そんな君だからこそ、私たちも応えたいって思ったんです。君は――あなたはきっと、いつか私たちを殺す時が来ないように心を砕くでしょうから」

 

 好き好んで知り合いを殺したいわけではないのだ。そうするのが当たり前だろう、と思うこの心も椛に曰く、真面目なものらしい。

 今まで自分のことを阿礼狂いという狂人と位置づけこそしていても、真面目であるとは思っていなかった信綱は呆気に取られた顔で椛を見る。

 

 椛はそんな信綱に微笑み、その身体を抱きしめる。

 

「おおきく、立派になりましたね。あなたの友人でいられたこと。相棒と呼んでもらえたこと。こうして最後に顔を見に来てくれたこと。全部、絶対に忘れません」

 

 信綱はされるがままになっていたが、彼女が身体を離すのに合わせて自らの拳を前に出す。

 

「……きっと同じことを考えているだろう。同時に言うのはどうだ?」

「良いですよ。これが私たちのお別れです」

 

 椛の出してきた拳と自らの拳を突き合わせ、同時に口を開く。

 

 

 

 ――あなたに会えて良かった。

 

 

 

 それが二人の別れの言葉。信綱が子供の時から一緒に歩み、共に走り続けてきた無二の相棒とのお別れ。

 しかし、その言葉を受けた二人の顔に悲壮なものは何もなく。

 最後の瞬間まで、二人は互いに会えたことへの誇りを胸に去っていくのであった。




書くべきことはもう定まっているので駆け抜けます。あわよくばこの三連休中に終わらせたい。



――次回、本編最終話。もはや他に言うべきことはありません。

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