漫画家の兄と小説家の弟   作:高木家三男

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甲子園と100万分の1

図書館の自習室は夏休みだけあって受験生で溢れている。

節電のためか空調は弱く、窓が閉められていることでかえって息苦しい。

 

だが、この緊張感は嫌いじゃない。

 

ここではみんな一人だ。

参考書やノートをめくったときの紙の擦れる僅かな音。

芯を出すためにカチカチとノックされるシャープペンシル。

心地よい雑音に囲まれながら、固いパイプ椅子に座って13インチのノートパソコンに向き合い、一人、キーボードを叩く。

 

 

 

小説を書くのに必要なものは、物質的な意味合いで言えばほとんどない。

ただ、唯一ほぼ必須となっているのがパソコンだった。

何か調べ物をするのにも使うし、原稿を書く速度は手書きよりもはるかに速い。そして、データ形式で投稿する新人賞が増えていることも重要だった。

 

我が家、高木家には4台のノートパソコンがあった。

父親・母親が仕事用で1台ずつ。

そして大学生になった兄のものが1台と、俺とアニキが兼用のものが1台。

 

サイコーと組んでからのアニキを見ていたのだが、基本的にノートにアイデアを書き、その中から一部の出来が良いものを選んでルーズリーフにネームを書いているようだった。

調べ物があると言ってパソコンを使うことも増えたし、図書館に行くことも多くなった。

この先、さらに使う時間が増えることも十二分に予想される。

 

 

 

そんなわけで小説家になると決めた俺がまず最初にしたのは、パソコンを買うことだった。

8月30日の午前、お年玉の残りと小遣いを確認した後、家電量販店に出かけて3万5000円ほどの安いノートパソコンとマウス、USBメモリを買った。

家にはネットが通っており、Wi-Fi環境もあるため、特に困ることはない。基本設定を済ませたあとは執筆のため、いくつかのフリーソフトを入れる。

入れたのは主に2種類。縦書きの出来るワードソフトと、プロットやアイデアのメモを整理するためのアウトラインプロセッサだ。

 

前世の記憶は先日でほぼすべてを思い出していた。

しかし、小説執筆に関してはまだ自分が持っていた理論やアイデアのいくつかが戻っていないように思う。

ただ、数時間書いただけでもぼんやりと何かを取り戻しつつある感覚がある。

このまま書き続けていけば残りも思い出していくだろう。

 

フリーソフトを入れたのも、そんな前世の記憶からだ。

縦書きと横書きでは、書けるものの質が違う。

もちろん、人によるのかもしれないが、俺の場合はかなりはっきりと違いが出る。

 

前世、高校時代、二次創作を書いていたときは横書き。

大学四年次に初めて新人賞に応募したときは縦書き(結果は二次落ち)だった。

 

文章力が上がっていたということもあったが、

書いていたときの感触から、明らかにそれ以外の要因で後者の方が質が高かった。

 

基本的に、出版される小説は日本ではほぼ縦書きだ。

学校で作文などを書かされる場合に使う原稿用紙も1行の文字数は異なるが縦書きで、横書きはレポートやネット小説程度。

思うに、小説家になるような人間は、自然と基本的な量の読書をこなしており、個々の文体以前の段階でジャンルによって異なる「お作法」的な文章のリズムを身に着けているのではないだろうか。

良く言われることだが基本的に文学になると地の文の行数が増え、会話は減る。

一般文芸、ライトノベルになるにつれて地の文は減り、会話が増える。

ネット小説はさらに特殊で、読みやすさの問題から地の文はシンプルで、さらに頻繁に改行を行う。

 

このことを語るのに俺の理論とは少し異なるが印象的な事例が一つある。

電撃文庫の看板作品の一つ、『アクセル・ワールド』は『超絶加速バーストリンカー』というタイトルで小説投稿サイトに応募前の一時期載せられていたのだ。

ネット掲載時のものを読んだことがあるが、はっきりと言って、ネット小説、つまり横書きの作品としては明らかに描写が過多だったと思う。

しかし、描写自体はしっかりとしていたし、それはオリジナル作品であることからも必要なものだった。

逆説的に言えば、本来オリジナルの作品にはそれくらいの描写が必要であるとも言えるのだ。二次創作はキャラクターや世界観について読者が知っていることを作者がほとんど意識せずに前提として書いているように思うし、オリジナルの作品も結構な割合がいわゆる中世風ファンタジーでお決まりの設定を当てにしたそれに近いものがあるように思う。

推測に過ぎないかもしれないが、『超絶加速バーストリンカー』はサイトで見た時こそ横書きだったが新人賞応募を前提として縦書きのルールで書かれていたように思う。

 

出版される際はもとより、審査の段階も縦書きで読まれる。一つの文章が長くなりすぎていたり、逆に描写が足りずに分かりにくい、もしくは物足りなかったり、会話のテンポがおかしくなっていたり、そういったことの確認をするためにも縦書きで小説を書くことは有用だと思う。

そんなわけで、新人賞応募用の小説を書く準備として俺は、縦書きのソフトを入れたのだった。

 

 

3時間ほど書いたところで昼食のため一時帰宅。土曜のため家にいた母親が作った冷やし中華を食べている間にパソコンを充電。その後、パソコンのバッテリーが回復してから再び図書館で3時間ほど書き、夕食まで1時間半ほど公園でジョギングと壁打ちをし、寝る前に2時間ほど書いた。

 

1日8時間の執筆で書けたのはおよそ8000文字。

一般的なライトノベルの新人賞の要項に沿うと、1作の文字数はおよそ10万文字程度になるのでそれほど悪いペースではない。

前世と異なりタイピングがまだキーボードを見ずには出来ないのがマイナス要因。

一方であまり迷わずに書けたのは、前世で書いた作品の内ひとつを再度書きなおしているからだ。

 

明日から学校が始まるが、今回出す新人賞の締め切りは10月下旬。

今日の調子なら問題なく間に合うはずだ。何とか応募まで持って行きたい。

 

 

 

9月に入り、2学期が始まった。

学校は席替えがあったことの他、2学期に入り少しずつ受験を意識した話が増えたと感じるのが気になった程度しか変化はなかった。

いや、1学期の終わりに引き続き、見吉に見られている気がするくらいか(俺と見吉、あとついでに石沢は1組。アニキとサイコー、亜豆は2組。岩瀬は3組だ)。

 

テニスはほぼ毎日コートに行っていたのから平日2日、休日1日のペースに変え、ジョギングや壁打ちは続けているがその他のトレーニングも自然と減ることになった。

その代わり、平日4時間・休日8時間ほどパソコンに向かい、1日最低5000文字を目標に執筆を続けていった。

 

 

 

砂を一瞬だけ足の裏で掴み、そして蹴る。

ただ前に進むためだけに、推進力を稼ぐように両腕を振る。

クラウチングスタートから体勢は段々と起き上がり、より強く風を切っていく。

ふだん練習に使っているものと比べると、学校指定の体操着は伸縮性が弱く、この身体のパフォーマンスをフルに引き出すには不十分だ。

 

それでも問題はない。

 

あの日からずっと、練習時間を減らしてさえいるのに感覚は研ぎ澄まされている。

身体と精神はうまく馴染み、その隅々まで意識がしっかりとコントロールできているのを感じる。

野球部もサッカー部も、スタートのときに横にいた人間はもう誰もいない。

最後の一瞬は胸を張り、数センチだけはやくゴールテープを切る。

100mという短い距離は、今の自分には12秒ほどで十分だった。

 

 

9月5日。それほど力を入れていない運動会が行われた。

練習は夏休み明けの体育の時間のみで、応援団などは夏休みの間に引退した運動部の有志が集まって役割を決めて行っている。

俺自身は全国レベルのアスリートということもあり、クラスメイトからの推薦で100m、騎馬戦、リレーなど主要な競技に出ざるをえなかった。

修学旅行は5月、合唱コンクールは屋内行事ということから雨の多い6月に行われているため、これから卒業まで学校での主要なイベントは受験だけになる。

 

競技が終わり、次の番まで自分の応援席に戻って休む。

すると突然、首の後にひやっとしたものが押し当てられた。

 

「おつかれー、高木」

振り返ると、パイナップルのように後ろで纏められた茶色がかった髪と人好きのする笑顔が目に入る。同じクラスの見吉だった。

普段まったく話さないというわけではないが、それにしても少し距離が近い。

 

「体育とかで見たことあったけど、めっちゃ足速いじゃん。これ、クラスの女子からごほーびね」

俺はそう言った彼女からスポーツドリンクを受け取る。

 

「で、他に何か用?」

すぐにはその場を離れない見吉に俺は問いかける。

すると彼女は、はうっ、と大げさなリアクションをした後、もじもじと人差し指で髪ををいじりまわしながら言った。

 

「あー、そのー。なんてゆーか。あんたの兄貴。そう、2組の高木兄のことね。……ねえ、夏休みの間とか、あいつ私のこと何か言ってなかった?」

 

こちらではどうか知らないが、確か原作ではサイコーのために亜豆のことを聞き出そうとして、アニキが見吉に声をかけ、勘違いで告ったことになったんだっけ。

 

「いや。特に何も」

 

見吉は俺の言葉を聞き、特に怒るような素振りも見せず、ただえへへとはにかんでいた。

「そっか、まあ、兄弟でも話さないこともあるしね。うん、分かった。ごめん、ありがとう」

明るく振舞っているものの、どことなくその声色はさみしげだった。

2組の応援席を見るがアニキの姿は見えない。

 

「今日はたぶん、面倒だから最初の方の競技に出てもう帰ったんだと思う。最近一緒にいる真城もいないみたいだし。気になることがあるんなら、直接聞いたほうがはやいと思うよ。アニキはたぶん見吉のこと嫌いじゃないし」

 

俺の言葉を聞いて、見吉はちょっと面食らったようだが、すぐに照れくさそうに言った。

「あ、ありがと」

 

もらったスポーツドリンクのふたを開け、口に含む。

「あんた、結構いいヤツだね。夏休み前は何かちょっと落ち着きすぎてて話しかけにくかったけど。……成績もクラストップだし、これから人気出るかも」

 

そんな言葉を残して、見吉は自分の競技のためその場を後にした。

 

 

 

運動会の後はもう9月は大きなイベントはない。

執筆前、毎日15分ほどネット上のサイトで練習していたこともあり、10日ほどでタイピング速度もかなり上がった。執筆速度もそれに伴って徐々に速くなっていき、かなり良いペースを維持していった。

 

今書いているのは、前世でファンタジア大賞の3次選考まで残った『ブラックボックス』だ。

あらすじとしては、主人公が借りている荷物を預けるためのトランクルームに入るとヒロインと出会い、お互いのいる世界が異世界と繋がってしまうというもの。

主人公とヒロインはお互いの世界にしか戻ることが出来ず、相手の世界には行くことができない。そして戦争に巻き込まれているヒロインをその箱の中にある荷物だけで助けていく、という話だ。

 

何を書くかということは、パソコンを買う前、小説家になると決めた日の夜によく考えた。

その中で前世でヒットしていたが、こちらの世界にはない話をかけばいいのではないかという考えもよぎった。しかし、それは盗作だ。他の誰が許可を出したとしても、仮にヒットしたとしても自分が納得いかないだろう。

また、実際問題として文体や細かい設定など、資料もなしに完全に他者の作品をコピーすることなど不可能だ。何より、自分自身の熱意がゼロからその物語を生み出したオリジナルの作者に勝てるとは思わない。1本でも本気でオリジナル作品を書いたことのある人間ならそれが分かる。コピーがただの劣化作品になることは目に見えている。それはその作品に対する冒涜に他ならない。その上、こちらの世界にもジャンプを始めとして漫画雑誌・ライトノベルの出版社は俺の知る限り同じものがそろっていて、前世であった作品が数多く存在している(もしかしたらバクマン原作よりもこの点は前世に近いのかもしれない)。さらに今後、前世にあった作品が世に出てくる可能性だってあるのだ。

設定の一部をアイデアとして使う、キャラクターのビジュアルイメージを自分の中でふくませるために当てはめる程度しか、前世の他者の作品は使えないと判断した。

結果、前世で15本書いた中の1本で、資料などを調べる必要が少なく、また、記憶としても大部分を思い出していたものを書くことにした。

 

 

9月26日。書き上げた内容を途中で数回戻って修正したので多少時間はかかったが、3週間ほどで初稿は完成した。

この後は数日時間をあけ、表現や誤字を修正した後、締め切りの1週間前くらいまで推敲を行っていく。

ひとまず、作品が完成したことに安心の息をつき、テレビを見ながら夕食を作る。

 

しばらくすると、アニキが帰ってきたので一緒に食事をする。今日は煮込みハンバーグだ。

 

「でさ、サイコーのやつ、学校休んで原稿やってるわけ。どんどん上手くなってるしすげーよ。描くスピードも上がってるし、何とか手塚賞には間に合いそうだ」

「ふーん。そうなんだ」

 

アニキは夏休み以来、土日などサイコーの仕事場に泊まることも増え、俺たち家族には漫画を描いていることを話している。

俺はまだ最初の作品を応募していないこともあり、自分から話してはいない(さすがに急にノートパソコンを買ったことは突っ込まれたが、アニキが使うことが増えたので別にあったほうがいいと思ったと答えている)。

もともと兄弟でほとんど喧嘩したことはない。今年はサイコーと原稿を描いていたのでともかくとして、俺の試合もよく見に来てくれているし、普段から結構話したりもする。まあ、それとは別にプロを目指さないと言ったあの日からやけにこちらを気にかけているような感じはするが。

 

「明日、9月27日は埼玉県高等学校野球、秋季県大会の準決勝が行われます。春の選抜大会出場に繋がる関東大会出場もかかった大事な試合、公立ながら勝ち進んできた樫野高校と甲子園常連校の浦和秀学高校が話題を呼んでいます」

 

テレビのローカルニュースの声が耳に入った。

公立で樫野高校が勝ち進む? どこかで聞いたことがあるような気がする。

 

「両チーム、エースは2年生の七嶋くんと榎戸くん。140km台後半のストレートを投げる本格右腕同士の対決が期待の一戦となっています」

 

樫野の七嶋……。砂の栄冠か!

 

ニュースを聞き、少し考えた後、俺はアニキに声をかける。

 

「アニキ、俺、明日ニュースで今やってた野球の試合観に行くわ」

 

へ、と俺の言葉を聞いたアニキは一瞬固まって、そしてむう、と少しのあいだ額に手を当ててから言った。

「ちょっと待て、俺も一度野球の試合を取材してみたかったんだ。一緒に行く」

 

 

 

無数のプラスチック製のメガホンが打ち鳴らされ、それと重なって歓声が響く。

9月後半の秋空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、まだ夏の熱を残している。

バッターボックスに打者が入ると、首にタオルを巻いた吹奏楽部員たちがよく統制されたリズムでお決まりのテーマを演奏し、会場を盛り上げる。

 

注目されている強豪校と公立との試合ということもあり、両者の生徒以外にも多くの観客が応援席を埋めていた。

 

「でも、良かったの? 今描いてる原稿。もう少しで完成する大事なとこなんでしょ?」

「ん、ああ。まあそうなんだけど。基本、俺の仕事はネームの段階で終わってるからな。仕上げでベタとかちょこちょこ手伝ってはいるけど。先のことも考えると今しかできないことをした方がいいと思ってさ」

 

カキン。

金属バットが硬球を叩く小気味よい音。

 

「……なあ。夏休みの終わりに言ってたことだけどさ」

 

5回の裏、それまで『グラサンピッチャー』という作品を考えていたといった他愛無い話をしていたアニキがそう切り出した。

 

「プロを目指さないって話、ホントなのか?」

 

張り詰めたような、緊張を感じる声。

 

「アニキだって去年のあの試合を見てたんだから分かるだろ? そんなに甘い世界じゃないよ」

 

リズムの良い投球からストライクが入り、15個目のアウト。

七嶋がマウンドから降り、選手たちは小走りでベンチへ向かう。

 

「……でも! 先のことはわかんないけど、お前の実力なら十分プロを目指すことは出来るんだろ。有名な学校から来てた推薦断ったって聞いてるぞ。もっと環境の整ってるところにいけばプラスになるし、うちの場合、家はボロいけど金はそこそこあるんだ。短くても海外行ってみるとか、いろいろ出来ることはあるだろ」

 

その声はどこか切羽詰っているようで、ある種の怒りすら含まれていたように思う。

 

「約4000分の49だから、だいたい100校に1校」

 

人の気持ちが分かるなんて言わない。双子だからといってもそれは同じだ。

だけれども、何かを本気で目指している今のアニキとなら、分かち合えることはある。

 

「甲子園に出られる学校の数。1学年の部員が10人として、毎年4万人の野球部員が結果に関わらず卒業する。ドラフトのことを調べたことはないけど、この中でプロになれるのは多く見積もって100人くらいかな」

 

マウンドに立つ榎戸は、際どい所を攻めるものの、あと一歩のところでコントロールが定まらず、ボールを重ねている。

 

「400人に一人っていうと結構多く聞こえるかもしれない。でも、実際にはなってからの方が大変だ」

 

樫野の選手はそんな榎戸の球筋をしっかりと見極め、バットを振るのを我慢している。

 

「ピッチャーの数は簡単に計算出来ないけど、プロのチームは12球団。スタメンは12×9で108人。定着してないメンバーがいたり、DHとか守備要員とかあるけど、1年間野球選手として仕事をしたって言えるのは200人いないと思う」

 

会場がざわめく。フォアボール。ノーアウト1塁。

 

「現役でやっていける年数を15年として、年を経るごとに引退するのも出てくるし、毎年入ってくる人数と合わせて考えると現役のプロ野球選手は1000人いないはず。1年間プロで野球選手として活躍する確率は、2000人に一人」

 

次の選手がチャンスの重圧からか、硬い表情でバッターボックスに入った。

 

「これは1年間だけの話だから、一生野球で稼いだお金だけで食べていける人数はもっと減ると思う」

 

キャッチャーか、それとも監督のサインか。一塁への牽制。

 

「少年野球とか、中学の野球部とか、野球選手になりたいって思ったことのある人数はもっと多いよね」

 

端から見ていても、マウンドの榎戸は集中力を失いつつあるように見える。

 

「アニキが目指してる漫画家は野球と違って女性でもなれる。年齢もスポーツである野球よりも許容幅はずっと広い。単純に考えて競争率は倍以上だ。そこらへんは、良くわかってるだろ?」

 

ボールのあと、打球はバントで榎戸の前に転がる。

前進守備の甲斐なく悪送球でランナーは1,3塁。

 

「……うちの学校、1学年200人くらいだけど、小説を書いてみようかなって思ったことがあるのはクラスに2,3人、10人に一人くらいかな」

 

険しい表情の榎戸を、ウラシュウの監督はしっかりと見つめているもののタイムは取らない。

 

「文芸部があったらたぶん1学年で5人いればいいほう。入らなくて一人で書くのを合わせても実際に小説を書いてみるのは20人に一人くらい」

 

一度大きく息をはき、右腕から放たれたストレートはキャッチャーミットに大きな音を立てて突き刺さった。

 

「でも実際に、賞に出せる、原稿用紙200枚以上を書き上げられるのは、書こうとした人のうち100人に一人とは言わないけど10人に一人もいればいいほうだ」

 

2球目もストレート、そして外角低めのいいところ。判定はもちろんストライク。

 

「さらに、実際に賞を取ったりして本を出せるのは1000人に一人くらい」

 

150キロ近くは出ているだろうストレート。内角に迫るそれに思わずバッターは手を出すが、バットは宙を切る。

 

「1作しか出せない作家も少なくない。小説だけで食べていけるのは100人いないくらいだと思う」

 

三振。ワンアウトだが走者は変わらず、1,3塁。

 

「漫画はもう少し市場が広いし、アシスタントとして生活している人もいるだろうから、200人から500人くらいは職業としてやっていけるはず」

 

アナウンスによる選手のコール。

榎戸はバッターボックス入ろうとする七嶋を睨みつけるように視線で射抜く。

 

「100万人に一人」

 

エース対決に、球場はまるでそれまでとは異なる宇宙空間のように盛り上がる。

 

「たぶんプロの小説家として、小説だけで一生食っていける確率」

 

ゆったりとした仕草で会場を見回し、七嶋は気圧されることなく、あくまで落ち着いた表情のままその場にしゃがみ、スパイクの紐を結び直した。

 

「一生の仕事って考えると笑いすら起きない。グランドスラムの賞金は一つ優勝すると4億くらいのもある。テニスで食べていく方がもしかしたら簡単かもしれない」

 

息を吐き、立ち上がった七嶋が一度確かめるようにバットを振る。

 

「でも、書きたいんだ」

 

余裕すら感じさせるゆったりとした歩みでバッターボックスが埋められる。

 

「夏休みの終わりから書き始めて、昨日、1本目が書き上がった」

 

ヘルメットのつばをバッターグローブのはめられた右手で触り、距離を測るように左手で持ったバットを持ち上げる。

 

「来月終わりに締め切りがあるから、それまで手直しして新人賞に応募するつもり」

 

審判がプレイをコールする。

 

「俺、小説家になる」

 

カキン。金属バットが硬球を叩く音がする。

榎戸の初球は七嶋にキレイに跳ね返されセンター前に落ちた。

 

この攻撃で8回の表に樫野は2-0とリードし、七嶋は最終回に1点を取り返されたものの最後まで投げ切った。

 

アニキと二人、勝敗に関係なく健闘した選手たちに拍手をし、俺達は会場を後にした。


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