絶叫する切嗣の姿に驚いたのは、はやての方だった。
それもそうだろう。声をかけた瞬間に悲鳴を上げられて驚かない人間など、お化け屋敷で働いている人間ぐらいなものだろう。
改めて現界を果たした騎士達も変わり果てたその姿に目を見開く。
家族としては弱々しく、どこか頼りなさげな顔だった。
敵としては、どこまでも冷たく感情のない男だった。
だが、こんな、こんな―――壊れ果てた男の姿など見たことがなかった。
「は、ははは……間違っていた。全てが間違っていた!」
間違っていた。自分の抱いた理想は間違っていたと乾いた笑い声を上げる。
自分が行ってきたやり方は間違っていた。多くの人間が救えるように少数を犠牲にした。
その犠牲に無駄にしないように残った人間からまた少数を犠牲にしてきた。
「どうして、気づかなかった? そんな方法では決して世界は救えないということにッ!」
300人が乗った船と、200人が乗った船。その船に同時に穴が開いた。
どちらを助けるか。かつての衛宮切嗣なら、いや、多くの者が300人を選ぶだろう。
切嗣は事実そうしてきた。その場だけならそれが間違いなく正しいことだ。
だが、多くの者がそこで選択を終えるのに対して彼はその後も選択を続けてしまった。
「少数だと言ってもそれを積み重ねればいずれは多数となる……」
残った300人から100人を犠牲に。さらに残った200人から70人を。
その選択を永遠に続けていけば最後に残るのは
たった2人の為に498人を犠牲にする。衛宮切嗣の信念からかけ離れた結果。
だが、それこそが事実だった。そして彼は何の罰も受けずに3人目として世界に生きる。
今の今までこの狂った事実に気づくことができなかった。
余りにも人間が多いから、殺してもすぐに生まれるから気づかなかった。
「天秤の傾いた方を取ってきた。常に平等に。でも、
衛宮切嗣という男は天秤の測り手としてその生涯を賭してきた。
その天秤も切嗣も一度たりとも間違いを起こさなかった。
だが、見落としていた。天秤そのものが―――衛宮切嗣が狂っている可能性を。
それは気づけなくて当然のことだ。何かと何かを天秤にかけるとき、自分をかける者はいない。
簡単な話だ。天秤とは自分自身のことなのだから。それを疑う者などいない。
自分を天秤にかけることができる者がいるとすればそれは間違いなく破綻者だろう。
「殺して、殺して、殺していった先に……どうして自分の姿が見えるんだ? 真っ先に犠牲になるべき僕自身が?」
築き上げた死体の山の上に衛宮切嗣という男だけが立っている。
積み上げて、積み上げて、これからもまた積み立てていき、盲目的に理想という太陽に近づいていっただろう。幾らでも積み上げる人間は居たのだからあの
しかし、人間は決して無限ではない。無限であっていいはずがない。
果たして、死体を積み上げていき
そこから見える景色は望んだものなのだろうか?
例え、それが誰もが幸せで平和な世界だとしても。
そこにたった3人しかいない世界は本当に―――理想の世界と呼べるのか?
「呼べるはずがない! そんなものが―――理想の世界であってたまるかッ!?」
衛宮切嗣のやり方では決して世界は救えない。
己が原初に抱いた理想とかけ離れた世界が産み落とされるだけだ。
余りにも滑稽だ。誰もが幸せな世界に少しでも近づけようとした結果、一握りの人間の幸せしか得られない世界を作っていた。
まるで明かりを求めて飛び回る虫のようにひたすらに死体を積み上げて
下を見ると憎悪の目と怨嗟の声を向けられたから逃れるために必死に昇った。また、殺して。
必死に
だから気づくことがなかった。世界を見渡すことがなかった。
理想を砕かれてようやく思い至った。思い知らされた。
頂上から見える景色とは、愛の溢れる世界とは真逆の死体以外に何もない荒廃した世界だと。
愚かだった。この上なく愚かだった。人が幾ら努力したところで太陽に手が届くわけがない。
例え、
積み上げた死体と共に
人の世の理を超えた理想を追い続ければいずれはこうなることは必然だった。
叶うはずがないと分かっても追い求めた。その結果がこれだ。
そんな簡単なことにすら、衛宮切嗣は気づくことができなかった。
「ただの自分のエゴで殺してきた。そんな自己満足で殺された者達は一体何のために死んだんだ!? 世界を救うために殺したのに世界が救われなかったら―――無意味な死じゃないか!!」
決して報われることなどない間違った理想の為に数え切れない者を殺してきた。
救えたというのに殺してきた。その死に何の意味を見出せばいいのだ。
彼らは訳も分からずに、理想を知らされることもなく、奇跡を宿した手によって死んだ。
衛宮切嗣はその死に報いるために世界平和という結果を成し遂げねばならなかった。
心のどこかで叶うことはないだろうと思っていた。
でも、少しは彼らの死が報われると信じていた。
だというのに、方法そのものが間違っていた。
彼らは無価値なものの為に殺され衛宮切嗣のエゴを満たすだけの糧となった。
そして、そのエゴもまた無意味で無価値なものだった。
「愛も……奇跡も存在した。
自分という偽物の正義の味方など必要なく、世界は救えた。
否、この手に宿る奇跡は本物の正義の味方として世界を救えたはずなのだ。
それを拒んだのは自分。勝手に一人で世界に絶望して希望を見出すことをしなかった自分。
衛宮切嗣というどこまでも罪深い咎人の偽善を守るため。
「どこだ…どこで全てを間違えた…? 僕は奇跡を起こせたのに、どうして間違った?」
誰もが茫然と自身を見つめる中、切嗣は一人うわごとのように問い続けていく。
全ての始まりは間違った理想を抱いた時から始まった。
それを叶えようと愚かにも行動を起こした道化の罪。
奇跡を起こせたのに諦めて、無意味な行動を続けてきたのは他ならぬ自分。
「く…はは…あはははっ! そうか……誰もが平和な世界という理想を抱いたことそのものが間違いだった!!」
狂ったように笑いながら彼は涙を流し続ける。
本当に狂えればどれだけ楽だろうか。しかし、自分だけ楽になることなど許されない。
それは無意味な犠牲にしてしまった、殺してきた者達への懺悔のために。
「そうだ。衛宮切嗣という男が正義の味方など目指したからだ…ッ」
誰一人として救えはしない、愚かな男が存在してしまったから悲劇が生まれた。
正義の味方などを目指す男が居たから無意味な犠牲が生まれた。
数え切れない絶望を生み出してきた。望むことすらなく。
当たり前に、まるで呼吸をするかのように。……絶望を与えてきた。
「僕がいなければ誰も殺されずにすんだ…っ。悲劇が起こることなどなかった。絶望など生まれはしなかった…ッ!」
全ては自分という存在が生み出した自己満足の結果。
何がこの世全ての悪を担うだ。何を思い違いしていたのだ。
衛宮切嗣という男こそがこの世全ての悪だった。
邪悪の根源だった。誰かを救うと言って誰かを殺すことしかできない。
そんな不出来を通り越して害悪な存在。そんなどこまでも滑稽な男。
「誰かを救いたいという願いなんて……間違っていたんだ…ッ」
―――ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい。
涙を流す権利も、謝る権利も、欠片もないと理解している。
しかし、それでも男には謝り続けることしかできなかった。
自分の身勝手な願いのせいで無意味に生を奪われた者達へと詫び続ける。
いっそ、糾弾された方がマシだった。殺してきた者達に串刺しにされたかった。
だが、そんなことは起こらない。他ならぬ自分がその権利を奪ったのだから。
永遠に責められることすらない、心を焼き尽くす罪悪感。
それが衛宮切嗣の―――罪だった。
「……やない。間違いなんかやない! おとんは絶対に間違ってなんてないッ!」
その時、絶望に打ちひしがれる男の耳に大きな、それでいて優しい声が響いてきた。
何も映っていない瞳を上げたその先にはリインフォースとユニゾンした影響か、しっかりとその足で立っているはやての姿があった。
「違う! 理想に縋りつく僕が居なければ! 誰もが救われる未来があったッ! 誰か一人でも救えたッ!!」
「私はおとんがどんな人生を送ってきたかはよう分からん。でも、おとんが救った人を一人知っとるよ」
子供のように癇癪を起して怒鳴り声を上げる切嗣。
それに対し、はやてはまるで母親のような慈愛に満ちた微笑みを向ける。
彼には何故この子がこんな自分に微笑みかけてくれるのか理解できなかった。
こんなにも罪深い自分に笑いかける価値などないのに。
「両親が死んで悲しみの底にいた少女にその人は笑いかけてくれた」
死というものを理解できなかった。
でも、大好きな人に会えないという悲しさだけは分かった。
「その人は魔法使いで、私に飛びっきりの魔法を見せてくれた」
そんな時に男は現れた。どこか頼りなさげな顔で。
それでも精一杯の優しい笑顔を向けてくれて。
「毎日を誰かと笑ったり、怒ったり、悲しんだりして過ごせる魔法を」
初めはどちらもよそよそしかった。
でも、それもすぐになくなり毎日を笑って過ごした。
「悲しみの底にいる少女を救う魔法……大切な家族になってくれた」
失ったものは帰ってこない。でも、それ以上のものを彼は与えてくれた。
今なら分かる。嘘偽りのない愛で少女を救ってみせた。
「おとんは―――私を救ってくれたんよ」
満面の笑みを向けられて切嗣は目を見開く。
銀色になった髪に、黒色の翼は客観的に見れば悪魔にすら見えるだろう。
だが、しかし。切嗣にとって、はやては―――光の天使だった。
「おとんが居てくれたから、その願いを抱いたから私が救われた」
「でも、僕は君を殺そうとした……」
「それでも、私が救われた事実は消えんよ。それにどうせ、お父さんとお母さんのことも嘘なんやろ?」
まるで、母親のように優しく切嗣を抱きしめるはやて。
切嗣は振り払うこともできずに力なく頷くことしかできない。
この身にそのような権利がないことを理解してなお振り払えない。
「僕は大勢の人を無意味な死に追いやった…ッ」
「救われた私が言っていいか分からんけど、失敗できんのならそれも間違いやない」
「でも、奇跡は起こせた…ッ! それなのに見捨てたッ!!」
「なのはちゃん達も失敗したらおとんよりも悪人になってしまうし。おとんの行動は正しいとは言えんかもしれんけど、間違いやないよ」
殺されかけた人間が殺そうとした人間を肯定する。
何とも奇怪な光景であるが、何故か酷く美しく見える光景。
それはまるで咎人が聖人に懺悔を行う一枚の絵画のようだった。
「私が言うのもなんやけど、今回は偶々上手くいっただけや。なのはちゃん達の方が無謀やったのは事実」
はやて本人から無謀だったと言われてしまい、気まずげな表情を見せるなのは達。
成り行きで物事が上手く運んだが、一歩間違えれば彼女達が大量殺人犯だったのだ。
だとしても、手が届くうちから諦めるのが正しいというのには疑問が残るが。
「それでも、助けてくれようとしてくれたのは、やっぱり嬉しくて。それだけで救われた気持ちになるんよ」
例え、結果的には希望などない絶望が訪れるのだとしても。
自分を助けるために必死になって手を差し伸べてくれる人がいる。
誰かが自分の為に本気で涙を流してくれる。それだけで、人によっては救いとなる。
決して自分は忘れ去られたわけでも、見捨てられたわけでもなく、必要とされていたのだと。
心に小さな救いが訪れる。それだけで十分なのだ。
「だから……誰かを救いたいという願いは決して―――間違いやない」
「………あ」
自身の願いを肯定されて切嗣の心の中には嬉しさと罪悪感が渦巻いていた。
間違いではなかったという嬉しさ。こんな碌でもない自分が肯定される皮肉。
どれだけ肯定されようともこの身に宿る罪が償われるわけではない。
「でも、僕は数え切れない犠牲をだしてきた。これが正しいはずがない……」
かつてなら正しいと言いきれたことにすら自信が持てなくなった。
大勢の為に小数を犠牲にするという当たり前のことすら、もうできる気がしない。
衛宮切嗣の理想は既に砕けてしまったのだから。
「僕は罰せられなければならない…っ。今までの全ての罪の清算をッ」
「おとん……意外と駄々っ子やな」
ほんの少し呆れたような顔をするはやて。
そんな場違いな表情に思わずほおが緩んでしまう切嗣。
しかし、すぐにその表情は凍り付くことになる。
「ええか、おとん。私は―――おとんを赦します」
「―――あ」
再び絶望の表情のぞかせる切嗣。罪を赦されたというのに寧ろ罰せられた方がマシだと願う。
そんな矛盾は彼がどこまでも人間的な心を持っているからだろう。
それを娘のはやてが気が付かないわけもない。
「おとんはなぁ、罰を受けることで―――楽になりたいんやろ?」
「ぼ、僕は……」
「自分の罪を償うなんて言って、罰に甘えて償う心を忘れたらあかんよ」
「あ…ぁあ…っ」
その通りだった。罰を受けることで楽になりたかった。
罰を受け、償っていると己の心を安心させたかった。必死に己を正当化していただけ。
衛宮切嗣という男はこれだけの罪を見せつけられても、どこまでも利己的で独善的だった。
こんな人間だからどれだけの悲劇を起こしてきても平然としていられたのだ。
自分のことながら反吐が出そうになる。
「おとんは今から必死に生きて償っていかんといけんのや」
「僕に……何ができるというんだい? 殺すことしかできない僕に?」
大粒の涙を流しながら問いかける。
こんな自分に殺し以外の何ができるというのだ。
救うことすら放棄して、ただの人殺しに成り下がっていた自分に。
一体全体、何ができるというのだろう?
「それは自分で考えんと。私が示したら罰と一緒やん」
「そう…だね」
「まあ、そんな落ち込まんといて。それにおとんは―――誰かを救えるよ」
電撃が走ったかのように目が開く。
こんな罪深い自分に誰かを救うことができるというのだ。
人殺ししかできない衛宮切嗣という男に救える人間がいるというのだ。
「おとんに救われた私が言うんやから間違いない」
屈託のない笑顔で笑うはやての姿に言葉が出ない。
茫然とした表情でただ見つめることしかできない。
そんな親子の元にクロノが向かってくる。
「すまないな。水を差してしまうんだが、もうじき暴走が始まる。主としての意見を聞きたいから集まってくれないか」
「そっか、まだあの子のことが終わってないもんな。おとんはどないするん?」
「あなたは……すまないが拘束されてくれないか。立場上、これ以上放置することができない。……本当にすまない」
深々と頭を下げるクロノの様子にどうして自分の周りにはこうも真っすぐで優しい人間ばかりいるのだろうと自虐する。
今の今まで執務官という立場があるにもかかわらず放置していただけでもかなりの温情があるのだ。断る理由も気力もなく切嗣は小さく頷く。
「すまないが、アリアと一緒に大人しくしていてくれ」
「待て、このバインドは―――」
「時間がない。八神はやて、すぐについて来てくれ」
切嗣が静止の声を上げるのを無視してクロノははやてを伴い飛び去って行く。
切嗣は軽く息を吐きながらかけられたバインドを眺める。
一見すれば強固なバインドだが、その実、簡単に壊すことが可能だ。
恐らくは逃げられずに暴走に巻き込まれる危険を無くすための配慮なのだろう。
何とも、業務に忠実で優しい執務官だと内心で感嘆する。
「それにしても……僕は、どうやって償えば……」
防衛プログラムの巨大などす黒い塊を眺めながら一人呟き、問い続ける。
一体、衛宮切嗣に何ができるのかを、ただ、問い続ける。
「僕は―――」
上げて落とすはやては間違いなくケリィの娘。
まあ、落ちるとこまで落ちたから後は上がっていくだけ(棒読み)