15
目覚めの気分は最悪だった。また悪夢を見たのだ。
X・プリメントが破壊される夢。父を殺した夢。詩音に否定される夢。どれだけ泣き叫んでも夢から目覚めず、トラウマ達は確実に朔夜の心を蝕んだ。まるで悪意ある誰かが朔夜に見せつけているようにさえ思えた。あるいは夢を見せているのは自分なのかもしれない。忘れないように脳裏に焼き付けようとしていると思えてならなかった。
「やめよう。これ以上考えてもしんどいだけだ」
そう自分に言い聞かせ、無理やり意識を切り替える。
傍にある時計を見ると時間は10時を過ぎたころだった。朝食にしては遅すぎるがとりあえず、気分転換に何か作ろうと気だるい体に鞭を打ち起き上がる。
扉に手を掛けた辺りで鼻腔に異臭――とまでは言わないが不快な臭いが鼻を刺した。
その正体を探るために試しに自身を嗅いでみると味わい深い何とも言えない気分になる。
「そういえば風呂に入らずに寝たな……そりゃ臭うか」
汗びっしょりの体に顔をしかめながらベッドの上に無造作にあるスウェット一式を手に取り風呂場に向かう。
朔夜は冷ためのシャワーを浴びながら昨日のことを振り返った。
思い起こすのは詩音の言葉、仕草、そして、大粒の涙。朔夜の心を罪悪感で埋めるには十分だった。
夢のせいでもあるが一晩たっても詩音のことは心に重くのしかかっている。多分、しばらくこれが続くのだ。そう思うと余計に心が沈んだ。
分からない。あの時、彼女が怒った理由が分からない。自分が彼女を見ていないとはどういういことだったのだろう。
閉じた瞼に水流を感じながら心の中で呟く。
目を開けて目の前の鏡を見ると淀んだ黒い瞳がこちらを見返してきた。酷い顔だと一笑する。まるで自分が傷つけられたようではないか。
ふざけるなと怒りを込めて壁を殴り付ける。僅かに肌色のタイルに亀裂が走った。
被害者面をするな。自分は加害者だ。理由は不明でも妹を泣かせた。それだけで自分を悪と断じてもいい。
「いてっ!」
ヒートアップしそうな自分を止めたのは手の痛みだった。
壁を殴った時にできたのか僅かに切れている。血が水と一緒に流れていくのを見て何とも言えない気持ちになる。
「何やってんだか……こんなことしても何にもならないのに」
タオルを手に取り風呂場から出る。体中の水滴を全て落とした後、髪をゴシゴシと拭きながら居間へと向かった。
「おはよう、朔夜」
挨拶してきたのは風香だった。いつの間にかコーヒーを入れて寛いでいる。
誰もいないと思っていた朔夜は僅かに驚いたが、今は誰にも会いたくない気分だった。
無視して通り過ぎようとするが、朔夜の手を風香はしっかりと掴んできた。
「朔夜。話があるから座りなさい」
その厳しい口調に手を振り払う気も起こらず、大人しく従う。
せめてもの抵抗として無愛想な態度で挑む。
「で、何? 俺忙しいんだけど?」
「え、引きこもりなのに忙しいの?」
鋭いジャブだった。一撃でK・Oされそうになる。
もしかして無視したことを怒っていらっしゃるのか? と思案するが、風香の表情から感情を伺えそうになかった。
「……色々あるから」
「自家発電とか? そういえば前ベッドの下に隠していた薄い本って今は本棚の下に隠してるのバレバレだけど気付いてない?」
「無視してごめんなさい!」
「それで前は小さいのが多かったけど最近は大きいのにも興味出てきた? パソコンの履歴的に」
「さてはアンタ俺を殺すつもりだな!?」
額を擦るよう何度も頭を下げながらようやく赦しをもらった時には朔夜の秘密がほとんど割れていることが分かった。死にたくなる。
「……それで、その、どのようなご用件でしょうか風香様。あなたの好きないいとこのお饅頭ならそこの戸棚にございます」
「それなら食べたから気にしなくていいよー。で、真面目な話をするけど嫌なニュースと説教どっちから先にしてほしい?」
「どっちも嫌です」
「説教の内容が増えたから嫌なニュースから話します」
理不尽すぎて言葉も出ない。
ただ、いつの間にか心が楽になっていることに気付いた。
もしかしたら、風香は自分のメンタルケアのつもりでいつもの日常を行ったのかもしれない。そうだとしたら感謝しかない。
心の中で感謝を述べながらも朔夜は風香の言葉を待った。
「今から言う言葉は冗談でもなんでもないことを頭に入れて聞いてほしい。いい?」
「もったいぶるなー。何かあったのか?」
次の言葉は容赦なく朔夜の心を引き裂いた。
「ルーツが近いうちに出現することが分かった」
朔夜は嘘を突かれたように言葉を失った。
様々な思考が頭の中を駆け巡るがどれもまとまらない。どうにかして絞り出した言葉は「いつ?」だけだった。
「詳しくは分からないけど、いつ現れてもおかしくないそうよ」
「そんな……」
またあれが現れる。5年前、朔夜から色んなものを奪ったあいつが再び現れる。それを聞いただけで体が震えそうになった。
「それで、勝算は……?」
恐る恐る問う。帰ってきた答えは風香の曇り顔だった。
「X・プリメントじゃスペック的に厳しいでしょうね。肇の銃の腕は素晴らしいけど彼女の稼働時間は長い方じゃないから長時間戦えないから」
「……他の機体は? 確か父さんの後任はいるって聞いたけど」
「ええ、あるわ。後任者もクリスタル搭載したC・ユニットも。ただ、問題があるの」
「問題? 機体のスペックとか?」
「スペックはX・プリメント以上よ。ただ、スペックを要求しすぎてクリスタルの稼働が激しいからエネルギー供給が激しいの。肇と相性はよくないわ。だから、使えない。こちらは旧式のX・プリメントを使うしか似合って状況。正直、勝つ見込みは低いわ」
「…………どうしてそれを俺に話した? まさか、俺にもう一度乗れってことか?」
風香は苦い顔をした後、首肯する。
朔夜は思わず身を乗り出した。
「無理だ! 俺はもう乗りたくない。それになにより俺の手にCODEはもうないんだ!」
昔、自慢げに見せびらかしていた証は5年前の戦いで失っている。あれがなければクリスタルは動かないし、機体も動けない。
「試さないとわからないでしょ? もしかしたら乗ってみたら動くかもしれない」
もっともだ。試すだけならタダ(かどうかはしらないが)だろう。しかし、それを加味しても朔夜は乗りたいとは思わない。もう二度と自分はあれを動かしたいとは思わないし、思えない。ヒーローごっこは卒業したのだ。
「それでも、無理だ。やっぱり、無理なんだ。俺が乗ったから沢山の人を殺したし、父さんも死んだ。そんな俺がもう一度乗ることなんてできない。それに乗ったところで役に立てるかどうかなんて分からないから……だから、ごめん」
「……そう。でも、できるのにやらないのは罪よ。もし今やらないといつか朔夜は後悔することになる」
「それでも俺は乗りたくないんだ!」
果たして朔夜の叫びは風香にどのようように届いたのか。
わずかな沈黙の後、風香はどこか挑発的な含みのある言葉を投げかけてくる。
「そうやって、また逃げるの? 昨日みたいに」
「っ!」
何も言い返せない。朔夜は唇を強く噛みしめることしかできない。
「昨日の朔夜と詩音の会話は私も聞いていた。何度も止めたくなったけど最後まで止めなかった。なんでだと思う?」
「……分からない」
「だったら言ってあげる。それじゃ意味ないからよ。昨日の二人はお互いを見てなかった。詩音も朔夜も自分しか見えてなかったのよ。会話っていうのは、ううん、人に接するっていう子のはお互いを見て初めて成立するの。でも、昨日の二人は自分のことしか考えてなかった。そんな二人を止めても意味ない」
風香の言葉は難しい異国の言葉のように聞こえて仕方なかった。
理解できない。なぜ理解できないのかそれすら朔夜は分からなかった。
「分からないんだ。ちゃんと見るってなんだよ! 俺は昨日ちゃんと……!」
途中で言葉に詰まる。もし、本当にそう思っているなら言葉に詰まることなんてないのに。今の朔夜を支配しているのは間違いなく風香の言葉だった。
「もし本当にそう思っているなら救えないバカになるけどいいの?」
静かに、問い詰めるような物言いに朔夜は項垂れるしかなかった。
「……俺は、どうしらいいんだよ。教えてくれよ先生」
「もう一度、詩音ちゃんと話しなさい。じゃないと一生このままよ」
ここに地の文を
「……ハハ、今までで一番きつい説教だったよ先生」
「だったら、大成功。こういうのはするのもされるのもしんどいのに効果がなかったら体力の無駄だしね」
そう言って似合いもしないウインクを飛ばす。黙ってれば美人なのだからやめてほしい。
思わず朔夜は笑ってしまったが、風香の方も自覚があったのか頬を赤くしている。
普段の柔らかい風香が戻ってきた。ようやくいつもの日常が部屋へと帰ってくる。
だから、スマホのバイブレーションが鳴った時には若干の煩わしさを覚えた。
当然、風香の物から鳴っている。「もしもし」と幾分真剣みのある声で応答に出た風香を眺めていると、だんだんと物騒な単語が聞こえてくる。風香の声のトーンにも不穏な空気を感じた。
やがて、電話を切った風香は最初のよう「とても嫌なニュースだから落ち着いて聞いて」と前置きする。
「詩音が昨日から帰ってないみたい。連絡も取れないそうよ。どうやらあの後、友達の家に泊まるって言ったらしい。友達の方にも確認を取ったら口裏を合わせてくれって言われただけみたいで行方は知らないらしいし、ああ、もう! この兄妹は問題しか起こさないな!」
脳の処理が追いつかない時、人間の呼吸が止まるというのは本当のようで朔夜は一瞬息をするのをやめていた。どうにかして落ち着こうと自分に言い聞かせるが心臓はけたましく鳴り響いたままだ。
「とりあえず、私は今から詩音を捜してくるから」
「ま、待ってくれ!」
そう言って部屋を出ようとする風香を呼び止めた。
振り返る風香は心底不思議そうに朔夜の顔を見返す。
「朔夜?」
言葉が出ない。言うべき言葉が見つからない。
だから、言いたいこと言った。
「俺も探すよ」
でも、進みたい。ここで立ち止まっていたらダメになる。
「まだ怖いけど。詩音に何を言ってあげたらいいか分からないけど。それでも俺はもう一度あの子と話がしたい」
風香は品定めするように朔夜を見て、息を吐いた。
「どこに行くつもり? アテはあるの?」
「分からない。でも、今行かないとそれこそ一生ダメになる気がするんだ」
そして、僅かに微笑み
「それに俺は詩音のお兄ちゃんだから。妹を守らなくちゃな」
16
土地勘もない、アテもない、手掛かりもない。ないない尽くしの3時間の捜索は徒労に終わった。
現在、朔夜は人通りが多い交差点の一角で視線を彷徨わせているが、詩音を捉えることはできない。
「やっぱり、いないよな。それにしても今日も暑い」
猛暑の激しい今年の夏は朔夜の体力もみるみる奪っていく。煩く鳴くセミの鳴き声が余計に暑さを感じさせた。
去りゆく人々もうんざりとした表情が多い。
「あー、今年も熱中症で倒れる人多そうだな」
いつも他人事のように見ていた熱中症に関するニュースだが、今回ばかりは自分もその被害にあいそうだ。
それにしても汗がベタベタして気持ち悪い。朔夜は額を拭うが汗で張り付いた前髪が邪魔して思うようにならない。
伸ばしすぎた前髪が今は非常に煩わしい。お守り代わりにかけている眼鏡も相まって視界が非常に狭くなっている気がする。
だんだんと視界が黒くなっていることに気付いた時にようやく自分が水分を摂っていないことに思い至ったがどうにもならなく体から力が抜けていく。
あ、と思った時には膝から崩れ落ちた。
「おっと危ない」
このまま地面に激突する覚悟を動かない頭で覚悟していたが誰かが自分を支えたらしい。人の柔らかい感触が朔夜を包んだ。
「大丈夫? 柊君」
凛だとすぐに分かった。彼女の声を聞くだけで初めて会った時の情景がありありと浮かび上がるほどだ。
「凛さん?」
「とりあえず、あそこのベンチで休もっか。水もあるよ」
朔夜はされるがままにすぐ傍にあったベンチに倒れこむように座る。なぜか頭部に枕のような柔らかい感触があったが極端に思考力が下がった朔夜にはその正体を掴むことはできなかった。
「水飲める?」
ペットボトルの蓋を開きながら訪ねる凛に小さく「はい」とだけ返事をする。
受け取った水をできるだけ溢さないように少しずつ飲んでいく。
ある程度、喉の渇きを癒すとそのままペットボトルを額に当てた。
「すみません、迷惑かけたみたいで」
「ううん、いいよ。役得だし」
「役得?」
言葉の意味を飲み込めず、クエスチョンマークを浮かべる朔夜の耳にクスクスと笑い声が聞こえてきた。
耳を澄ませば初々しいカップルが云々、リア充爆発しろ、今すぐブラックコーヒーを用意しろ佐藤! などの声が聞こえる。どういうわけか視線も集めてきた気がする。
凛の容姿がそうさせているのかと初めは楽観的に考えていたがどうやら違うようだ。
ある程度意識が回復した朔夜が自身の状況をようやく把握した。
なぜか憧れの人が自分に膝枕なるものをしてくれてるのだ。
恥ずかしいやら、恐れ多いやらと感情が複雑に絡み合い、朔夜の表情を何とも言えない変化を与える。
とにかく離れようと身を起こそうとするのだが、なぜか凛が朔夜の頭を強く押さえつけてきた。
「凛さん? あの手が……」
「手がどうしたのかな?」
邪魔ですなんて口が裂けても言えなかった。それより思考がオーバーフローして余計に脳に負荷がかかり、碌にモノを考えることができなくなった(ような気がする)
「私は少し怒ってます。さて、なんででしょう?」
穏やかな物言いだが、あまりにも声が平坦すぎて身震いした。汗で体が冷えただけだと思いたい。
「え、その、はい」
朔夜は思わず声を裏返すと、なんとかして状況を打破する方法を考える。
まあ、画期的なアイデアなぞ思いつくわけもなく小さな声で精一杯の抗議の声を上げる。
「えーと、その、こういうことはよくないと思います。ほら、凛さんみたいなか、可愛い女の子に膝枕なんてされたら勘違いしちゃいますよ?」
全力の虚勢は情けないほど震えていた。言ってて恥ずかしくなる。
そんな朔夜の心情を露とも知らず、凛は澄まし顔のまま
「勘違いじゃないよ」
などど宣った。正直、まだ言葉の意味を理解できない。
「ええええと、それは、その、どういう意味でしゅか?」
「そのままの意味だよ?」
――――そのままの意味とはどういうことですか? というより暗にこれは告白されているのでは? いやいや、これは罠、トラップカード。見えてる地雷。勘違いしてはいけない。都合よく考えるな! 立ち去れ煩悩!
無駄な思考を募らせているとクスクスと堪えきれてない小さな笑いが聞こえた。
見れば、おかしそうに笑っている凛の姿が目に入った。
もしかしてもしかしなくても自分は揶揄われたのでは? とようやく気付く。
「ごめんね? 柊君がかわいいからちょっと調子に乗っちゃった」
「……勘弁してくださいよ」
恥ずかしいやら照れくさいやらでそっぽを向く。というより素直に悔しかった。
そうやって柄にもなく拗ねていると耳元に人の息遣いを感じた。ビクリと体が強張るが無理に動くわけにもいかなかった。
少しして凛のどこか照れくささの混ざった囁きが朔夜の耳を溶かした。
「でもね、柊君に好きになってほしいのはホントだよ。だって、初めての後輩だからね」
「だから、役得だよ。私が」とトドメの一言で朔夜は自身の恋慕が強くなるのを感じた。
悔しいかな。自分は一生凛に勝てそうにないらしい。
言い知れぬ快楽におぼれながら朔夜にできることと言えば精々聞こえない振りをするくらいだった。