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その痛みが現実のものだったのか夢だったのか、目が覚めてもすぐ分からなかった。
額に刻まれた古傷の疼痛が現実のものだと認識した頃には自分が寝落ちしていたことが理解できた。
「昔の夢、か」
天井を見上げる代わりに――椅子の上で寝ていた――一番初めに目の前のPCが視界に入った。
ディスプレイから延々とアニメが流れるように設定していた為、最後に見た場面からかなり飛んでおり、最終回を迎えていた。
白い巨大ロボットが処刑具の名を冠した武器を手に突撃し、破竹の勢いで敵軍を斬り払っていく。
壮観だった。
幼いころはこうなりたいとは思っていた。残念ながら今はその気持ちは失せてしまった。
最初から自分にその資格などなかった。遊び半分で乗るべきではなかった。もう栓のないことだが、思考は嫌な方向へと流れていく。
首を振り、無理やり邪念を振り払うと場面は主人公が無事に仲間たちの元へと帰還してハッピーエンドを迎えていた。
朔夜はこの手の作品――ロボットアニメが幼いころから好きだ。今でもそうである。
だからこそ思うところはある。
もしテレビの中のヒーローたちのようにできたら自分は父親を見殺しにせず済んだはずだ。
「父さん。俺、約束守れてないよ」
その問いにディスプレイの傍にある写真の父は答えない。変わらず笑みを返すだけ。
それがたまらなく悲しく、悔しかった。
人間誰しも生きていればお腹がすく。それは朔夜も例外ではなく、ただいま朝ごはんの準備中である。
目の前のベーコンに火が通り、少しずつ身を縮ませていく。カリカリになるのを確認してから卵を投入する。
時刻は11時を過ぎているため朝食と呼ぶには微妙な時間帯だが、さほどお腹を空かせてなかったためいつもの朝食と同じメニューにした。
「む、サラダ油が切れたのか。追加しとかないと」
追加すると言っても彼は部屋から出ることはしない。
今の世の中マウスを動かすだけで買い物ができるのだ。家から出ることができない朔夜にとってなくてはならない存在だ。
それに自分が外を歩くことを考えるだけで胸が締め付けられる。今もほんの少しだけ心臓が痛むし、うるさく鳴り響く。嫌な想像も走る。
それを振り払うことができず、呼吸が苦しくなっていく。
少しして、だんだんと息が楽になっていき、ホッとため息をついた。
自分はいまだに弱いままらしい。
そう自嘲気味に笑いながら手を再び動かし始めた。
熊の怪物との戦いから5年の月日が流れた。
あの後、孝太郎の決死の自爆により、熊型の怪物――今では『ルーツ』と呼ばれている敵を撃退に成功した。
しかし、町の被害は甚大。世間もパニックに陥った。
政府は混乱を収めるためにあらゆる手を尽くし、どうにか収めたのと同時に朔夜はパイロットを降りた。
元から徹底していたこともあって、顔バレこそを防いだが、どこからか自身の情報が一部漏れたらしくマスコミ叩きのいい的になった(特に小学生が謎の兵器を操っていたことについて)
しかし、一番の原因はX・プリメントを動かすために必要であったコードが消失したことだろう。
大人たちはどうにかして取り戻そうと躍起になっていたが全て無駄に終わった。どっちにしろ朔夜に乗る気などもう無かった。
それからなし崩し的に防災省を抜け、防災署の保護もとい監視付きではあるが、一人で適当なマンションを借り、暮らしている。
自分でいうのもなんだが、よくこんなわがままが通ったものである。
こちらの気持ちを汲み取ってくれた、と言えば聞こえがいいが親戚に預けられるよりこちらの方が大人たちの都合もよかったのかもしれない。
「よし、できた」
脂が跳ねる音を聞きながらフライパンの上の目玉焼きとカリカリのベーコンを皿に移す。
ちょうど焼きあがったトーストと用意していた牛乳をコップに注いでから朝食を開始する。
「普通だな、うん」
いつもの出来栄えにそんな感想を漏らしながらもテレビをつける。
軽快な音の後、高校生カップルと思わしき男女がテレビに映し出される。どうやら夏の予定を聞く街頭インタビューのようだ。
男子高校生がこの夏の予定をまくしたてるのを眺めながら、夏休みがすぐそこまで来たことを実感する。
ただ、年がら年中夏休みの自分には無縁の話だ。これからもずっと、関係ない。
「ご馳走様」
行儀よく手を合わせ、食器をシンクに運んでいく。
皿洗いにわずらわしさを感じるが、以前溜めた皿の処理に大変な思いをしたことをお思いだし、渋々洗い始めた。
その最中、テレビを音楽にしていたため断片的に情報が飛び込んでくる。
やれ殺人事件だの、やれ原発がどうだの、やれ政治家の汚職がどうだの。
そして、防災署の話題が聞こえたとき、自然と手が止まった。
耳を傾けるといつもの評論家が防災署の批判をくどくどと垂れ流していた。
その声を意図的に遮断し、洗い物を終える。
防災署も今は随分と変わった、というより世間に注目を浴びるようになった。
今までその存在を隠していただけに反動がこの結果なのだろう。それに正体不明の怪物とそれに対抗するために作られた謎の組織。これだけでもマスコミや世間の遊び道具になるのにどこぞやのパイロットの大失態のおかげで今も炎上しているのだ。
もはや防災署やルーツの話題を見ない日はないと言っても過言ではない。
「これでもだいぶマシになったよな……俺のことを未だに探してる熱心な人はいるみたいだけど」
もし自分が特定されたことを考えるとぞっとする。多くの人に恨みを買っている自分は恐らく現代の情報社会では生きていけないだろう。
「ヘンなことを考えるのはやめよう。防災署の情報操作は完璧。うん、きっとそうに違いない。信じよう」
そう自分に言い聞かせ、テレビを消して部屋に戻る
――――ついでにサラダ油の他にも何か買い置きしておきたいな。
そんなことを考えながらパソコンを再び立ち上げた時、来訪者を告げる鐘が聞こえた。
自分を訪ねてくる人なんて宅配を除けば一人しかいない。
無視してやろうか、と一瞬考えるが余計にめんどくさいことになるだけだと記憶していたので憶うな体に鞭をうち、客人を迎え入れた。
「おはようかな? ちゃんと寝てる? クマすごいよ」
第一声から無遠慮な言葉とともにズカズカと部屋に入り込んできたのは三十路に片足を突っ込んだ隣人の風香さんだった。
腰の方まである明るいウェーブのかかった茶髪にそれにそぐうあけっぴろげな性格。一言でいうなら優しい近所のお姉ちゃんを体現したような人である。そんな彼女がこの薄暗い部屋に顔を出すようになってから五年になる。
「おはよう。こんな時間に珍しいな。まだ仕事中だろ?」
「あ、今日は半休だからもう休み。だから、こうしてかわいい弟分の様子を見に来たのだ」
「……これも防災署の仕事じゃ? とりあえず、おつかれさまです」
「可愛くないなー。そういうの抜きだって言ってんじゃん。あ、これサラダ油ね。切れそうだったでしょ?」
そういって他所様の台所を我が物顔で占領していく姿に溜息がこぼれる。だが、それが微笑に変わるのにそう時間はかからなかった。
彼女がここを出入りしている理由は朔夜の生活のサポート並び監視である。察しの通り彼女の勤務先は防災署である。部門部署は分からないが恐らくそうたいした役職ではないのだろう。
「あ! また、お昼食べてない! 規則正しい生活を送りなさいって言ってるでしょう!? 最近私も忙しくてちゃんと見てないのをいいことに……って聞いてる朔夜!?」
「あーあー、聞こえない聞こえない」
わざとらしく耳を塞ぎながら非難の声を聞き流す。
「昔はもっと可愛げがあったのになー。今はこんなにやさぐれちゃってお姉ちゃん悲しい」
「はいはい、俺が悪かったです。明日から本気出します」
おいおい、と下手な泣き真似をこれ以上見たくないのもあり、適当な決意表明を口にする。
それにほだされたわけではないだろうが、風香はやれやれと肩をすくめどこからかエプロンを取り出す。
「台所借りるよー。私まだ食べてないし。あ、朔夜も一緒に食べるんだからね」
「え、俺もう食べ終わったんだけど……?」
「あれくらいじゃ食べた内には入りません。成長期なんだからしっかり栄養取らないと身長伸びないぞ」
「160cmアルカラダイジョウブデス」
「日本成人男性の平均身長教えてあげようか?」
「ありがたくいただきます」
「はい、素直でよろしい。焼きそば焼きそば~」
鼻歌交じりに台所を占領していく姉貴分の背中を眺め、朔夜は小さくため息を吐いた。だが、そのあとすぐに自身も一緒に台所に向かうのだった。
ごちそうさま、とほぼ同時に二人分の声が重なった後、朔夜は自然といつもより気持ち二つ分膨らんだ自分のお腹をいたわるように撫でた。
どう考えても食べ過ぎた。
通常の三倍食べさせられ、おやつは別腹とかふざけた文句で押し切られた結果がこの不愉快な気分である。今にも吐きそうだ。
「だらしないなー。男の娘だろー」
「おい、待てアンタ。今ニュアンスがおかしかったぞ!」
「え、でも、この昔の写真……」
「え、ちょ、その写真どこで手に入れた!? 返してください本当に!」
「えー、ヤダよ。だって、これは朔夜の弱みだからね。これを握っておけば生意気な弟は順々な犬になるしね」
「なんて奴だ。本当にひどい!」
泣きたい気持ちをこらえながら写真の奪取を諦める。悲しいがこれが朔夜と風香のパワーバランスである。
「うん、からかい甲斐があって非常によろしい。余は満足じゃ」
「殿、出口はあそこです」
まったく冗談ではない、といった様子で食器をまとめた朔夜は立ち上がる。
「私の分もよろしく~」
「言われなくてもそうするよ」
そのまましばらく食器のこする音だけが場を支配した。二人とも一言も言葉を発しない。朔夜はともかく風香がだんまりなのは明日の天気は異常気象で決定である。
「……ねえ、朔夜」
ようやく風香が口を開いた。
いつもより真剣な声音。スポンジを握る手に力が入る。
「いいとこのプリンなら昨日のうちに俺が全部食べたよ」
だから、ふざけた返答をする。遠回しに聞きたくないよいう意思を示したが、続く言葉が無駄だと朔夜に教えた。
「詩音ちゃんに会わない?」
心臓が、呼吸が、思考が――朔夜の時間が全て停止した。
永遠を思わせる錯覚から醒めると手に取っていた食器がいつの間にか流し台に落ちていた。
幸い割れていなかったがもう一度手に取るには時間がかかるだろう。今は力が入らない。
「……無理、だよ。俺はあの子に会えない」
どうにかそれだけ絞り出せた。まるでその声は迷子になった子供のようだった。
「もしかしたらいつか俺は外に出ることができるかもしれない。時間がたてばみんな俺のことなんて忘れてくれるかもしれない。でも、無理だ。詩音に会うことだけは無理なんだ」
先程から嫌な汗が止まらない。
妹と会う。それを想像するだけで震えが止まらなかった。改めて自分がどれだけ腑抜けになってしまった再認識した。
しかし、この恐怖は自分では制御できない。無論、克服なぞできるはずがない。恐らく一生これと付き合うことになると朔夜は諦観している。
「それにあの子は俺のことを許さないだろうから」
「そんなことっ――――」
「あるさ! なんたって彼女の父親を殺したのは俺だ! 俺が父さんを殺したんだ!」
父はルーツに殺されたが、原因を作ったのは間違いなく自分だ。父の忠告に従わず、己が自尊心を満たすためだけに戦い、敗れた。
それだけじゃない。自分の失敗で街は崩壊した。自分の行いで人が死んだ。
あの時の親子も――自分が殺したようなものだ。
「俺は……あの時戦わなければよかった! そしたら、父さんは死なずにすんだんだ! 今もきっと家族三人で暮らしていたはずだ!」
ずきずきと額の古傷が痛みを訴える。まるで父が自分を責めているように感じた。
視界がわずかに滲む。頭の奥がジーンと響き、思考が停止していく。
「……たしかに朔夜せいで誰かが傷ついたかもしれない。でも、私みたいに命を助けてもらった人もいることを忘れないで」
「それでも俺は……怖い。人が、詩音が」
これ以上は頭が考えることを拒否した。
朔夜は皿洗いを放棄して部屋に逃げるように駆け込んだ。いや、逃げた。
その後すぐに父の形見を投げ捨てるように机に放り、そのままベッドに体を投げ捨る。
それからほとんど間を置かず、数度のノックの後に風香の声が聞こえた。
「今日はもう帰る。明日、詩音ちゃんと一緒に来るから」
返事はしなかった。
足音が遠のいていく。だが、もう何もする気が起きない。
そのまま朔夜は疲れた脳に従い、意識を手放した。
翌日、朔夜は逃げ出した。