東方覚深記   作:大豆御飯

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第八章四話 ある時の直前

 少し前、妹紅を冥界へと送った紫は永遠亭に戻っていた。庭の端の上から見下ろす水面は怪しく揺れる。境界を操ることができようと、生命に平等な死を与える幽々子の能力の前に成す術などない。自分が今最大の貢献をするのなら、こうして安全な所で次の算段を立てること。幽々子と紫の二人を打ち負かしたあの敵はもう、動き出しているのかもしれないのだから。それは寧ろ遅い位の行動なのだ。

 

「……全く持って無力ね」

 

 紫は珍しく唇を噛み締めた。誰よりも幻想郷を愛していようと、それは何かができる理由としては足りないことが現実。いつもの様に扇子を開くことさえ、今の彼女はしなかった。

 

「月の民でさえ出し抜いた貴方の様な者がそこまで苦しんでいようとは、今回の異変はそれほど重大なものなのね」

「……八意永琳」

「ならば私共もまた無視はできない。何より、優曇華はもう関わっているようだけれど。その上で八雲紫、貴方は今何に対して頭を抱えているのかしら?」

 

 そんな紫の隣に並んだのは八意永琳。この幻想郷でも最高峰の英知を誇る彼女は腕を組んだまま、同じ水面を見下ろす。

 その永琳の質問に答えることを、初め紫は躊躇った。永琳は元々月の民で、紫は彼女のことを信頼している訳ではないからだ。実際はもう月と疎遠であろうと、弱みを晒すことがまるで劣っていることを示してしまう様で、それが彼女の自尊心を傷付ける。

 

 けれど、分かっていた。未来と天秤に掛けて釣り合う程彼女の自尊心は尊大ではない。寧ろ幻想郷の為ならば、その身を幾らでも捧げようと誓う身、その為に今躊躇う意味などありはしない。

 そして、紫は重く口を開く。

 

「冥界に今、暴走状態の幽々子が居るわ。境界を閉ざして冥界に閉じこめているけれど、それがいつまでも通じる手段なのか私は分からない。そして今そこでは、きっと妹紅が幽々子と戦っている」

「それだけ?」

 

 紫の答えに永琳は更に問う。

 それは、それだけのことで悩んでいるのかと半ば見下す様な問いではない。もっと重大な、それこそこうして永遠亭にいることの安全性を脅かしかねない悩みがあるのか、永琳はそれを聞いたのだ。紫はその意を察し、再び深刻な表情で口を開く。

 

「……仮に戦っているとして、妹紅に勝ち目があるのかはわかりません。そして、私と幽々子の二人を同時に撃破した、更なる化け物まで居た冥界。仮に二対一ならば負けは濃厚。そして、その化け物がもし境界を越えられるのならば」

「幻想郷にそいつが居る可能性がある、と」

「可能性故に断言はできませんけど。それに、今この幻想郷を襲う暴走化した妖の話も知っているでしょう。現在前線にて戦う者達とこれから動き出すであろう宗教家達とその他。戦力としては十分ですが、果してそいつが幻想郷に現れたらどうなるか……恐らく、対抗できるのは霊夢しかいません」

「断言するのね。その根拠は?」

「彼奴は今浅茅撫子や酸漿棗と違って、空間それ自体を此方とは違う、彼女自身の世界へと変質される力を持つ。そこでは今私達が縛られている数多の法則は通用せず、そして全く異なる法則に埋め尽くされている。取り込まれてしまえば最後、抵抗すること等無理なのです」

「……なるほど。だから、その法則にすら縛られない可能性がある霊夢でなければ」

「そう、太刀打ちできない」

 

 永琳は眉を(ひそ)めた。あの聡明な紫でさえその手段しか太刀打ちできないと断言する、嘗てない程の強大な敵。看病をしていたとは言え何も知らないままでいた永琳はその事実に自身を恨む。

 

「幽々子の方は置いておいて、そのもう片方が幻想郷の何処に現れるかどうかの目処は?」

「まるで分からないわ。ただ、既に荒廃した紅魔館周辺。陥落した妖怪の山にはその可能性は低い」

「となると、この永遠亭も被害に遭わないって訳ではなさそうね」

「えぇ。空間内に患者をも引き込まれてしまったら、患者を庇いながら戦う必要まで生まれる。貴方と雖も全てを守り切るのは殆ど不可能だと思って良いわ」

 

 永琳の実力を紫はある程度推測できている。彼女の本気を見たことはないけれど、あの理不尽の前にはどれだけ力があろうと無意味。不可能と言われたとうの永琳もまた、それを理解した。

 橋の上を暗い雰囲気が満たす。霊夢が今何処に居るのか、安易に確かめようと動き出せばそれだけで重大なリスクの生まれるこの現状、願うことはこの永遠亭に来ないことばかりだった。

 

 そんな時、ふと庭に面した障子が開いた。自然と二人の注目はそこに移る。顔を出したのは、美しく長い黒髪に桜色の服を着たこの永遠亭の主、蓬莱山輝夜。彼女は辺りを見回し、そして永琳を見付けると頬を緩めて手を振った。

 

「おや、姫。どうなさいましたか?」

「慧音が妹紅は居るかって。少しばかり話がしたいそうよ。何処に居るか知ってる?」

 

 何も知らなければ、分からないと平和に答えられたのだろうか。答えに困った永琳を見て、輝夜は怪訝な顔をした。

 

「ここには居ないのかしら?」

「そう、ですね。何処に居るとも言えませんが……」

「場所は分かるの?」

「……分かると言ったら姫はいかがいたしますか」

「呼び戻しに行く」

「なりません」

 

 怒気を孕んだ様な強い声で永琳は言った。キョトンとする輝夜を見詰め、永琳は口を一文字に紡ぐ。何があっても輝夜を危険な目に遭わせたくはない。そんな永琳の意思とは裏腹に、紫は顎に手を当てて考える様な素振りを見せた。

 

「八雲紫……?」

「……妹紅の居場所を教えるのもまた一つの手かもしれないわよ。だって、輝夜もまた、妹紅と同じ蓬莱人なのでしょう?」

「戦わせるつもり?」

「普段から殺し合っている二人なら、もしかしたら息が合うことも望めるのではなくて? それが私の世迷言であろうとも、確実に一人より二人の方があの場では戦えるに違いない」

「……どうかしたの?」

「いえ、なんでもありません。お気になさらず」

 

 永琳は歯噛みした。確かにその通りだ。幾ら冥界に隔離された相手であろうと、その境界を突破しないとは言い切ることができない。そうなれば、この幻想の地は市の暴力によって蹂躙されるのだろう。

 

「……姫」

「何かしら?」

 

 苦渋の決断。それを迷う時間は無いと悟った。

 

「戦いにはなるでしょう。それでも妹紅を探しに行きますか?」

「アイツに貸しを作れるのなら、願ったり叶ったりだわ」

「……ならば八雲紫、案内役を頼めるでしょうか」

「よろこんで頼まれますわ。ご武運のお祈りを」

「えぇ。後のことは全て任せます。姫、どうか御無事で」

「当たり前よ」

 

 永琳はそれだけ言うと紫と輝夜を視界から外し、一人室内へと戻っていった。その背後からスッと音がしたのは、恐らく紫がスキマを開いた音だろう。永琳はそのまま慧音の病室へと向かうことにした。

 

 その直ぐ後のことである。

 永遠亭が竜胆芙蓉の襲撃を受けたのは。

 


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