第十章一話 狂える世界
まだ十歳程でしかないであろう幼い少女。文と萃香が眺める先に、その少女は居る。
怯えた様な、少しも堂々としていないその少女は芙蓉のことを呼びながら一歩一歩近付いてくる。膝を着いたままその少女を見る芙蓉は明らかに焦っていた。
「なん、でぇ……?」
想定外。その表情はこの一言を表していた。
「エリカは、エリカだけは……表舞台に立たせないって、決めていたのにぃ……」
ついには乾いた笑い声を上げた。文と萃香にはそれが何者かは分からないけれど、芙蓉にとって重要な誰かであることは間違いないだろう。
そうしている間にも、空間に亀裂が走っていく。亀裂は虚空を面で切り取り、ボロボロと剥がれる。その先に映るのは懐かしくも感じる禍々しい黒の世界。その先に、蠢く白い異形の巨体が何体も見て取れた。それはとても生物だとは思えないのに、妙に滑らかな動きで無数に生えた腕を動かしている。
「……このせかい、こわれてる」
エリカと呼ばれた少女がポツリと呟いた。
「……だったら、ぜんぶもう、いらないよね」
芙蓉が待ってと叫ぶが、もう遅かった。
割れた虚空の向こうに蠢いていた白い異形の腕がその割れ目を掴む。
瞬間、その割れ目はバキバキと音を立てて壊れ、黒色の世界が広がっていく。荒れた里の青空が侵食され、奇妙に揺れる黒色が世界を覆う。
「……大スクープですね」
「なーんて言っている暇は無さそうだよ。ほら、あの白いの」
バキバキ、バキバキ。
顔の無い白い巨体。腕とも脚とも取れない無数の触手でゆっくりと黒い世界から侵入してくる。
「……大きいねぇ」
「呑気ですね」
「はっはぁ、笑いたくなるよ。ひょっとしなくてもあんなのと戦うことになるんだろう? 天狗は良いけど、私の攻撃通るの?」
「……通るよぉ」
芙蓉がポツリと答える。
「……あの世界は、あの黒い世界は、私が作った最初の世界なんだよぉ。その基盤にあるのは元居た世界、君達の居る世界なんだぁ」
「基盤、ですか。それ故法則とやらも幻想郷、及び元の世界と同じと言う訳ですね」
「そうさぁ。まぁ、ややこしい話なんだ。どうせ理解出来ていないと思うけどぉ……今この場は色々な世界が混ざり合っている。法則なんてもうぐちゃぐちゃさぁ……」
「……妙に弱気だね。色々暴れていた様だけど、その時もこんな威勢だったのかい?」
萃香が聞くと、芙蓉は自重気味に笑った。そのまま立ち上がって、エリカと異形を見据える。エリカはそんな芙蓉を見て首を傾げ、背後から近付いてくる異形に何かしらを話しかけている。
「……まぁ、答えたくないなら良いよ。おい天狗」
「はいさ」
「さっきみたいに世界が繋がっているポイントを見付けたりできる?」
「それなら戦わなくて済みそうですが、無理ですよ」
「えぇ……」
「今この場には色々と混ざり過ぎています。例え紙に穴が開いていても、紙を二重にされれば見え辛いですからね」
文は苦笑い、萃香は溜息を吐いた。
来たのは良いが、元の世界に戻れるのだろうか。それを考えると萃香は少し頭が痛くなる。それに、マミゾウや妖夢に鈴仙まで居るのだ。今は倒れている以上、彼女等も二人だけで守らねばならない。
そうしている間にも異形は近付いてくる。思わず後退りしてしまう程の巨体。どれ程の怪力を持っているのか、何か特殊能力を持っていたりするのか。想像するだけでも恐ろしい。
「……今夜は美味い酒に酔いたいね」
「鬼なのですから、幾らでも準備できるでしょう」
「言ってくれるなぁ。そう簡単に準備出来ないんだからな」
そんなことでも言わないと、自分の中の恐怖心を抑えられなかった。
正体不明、見たことも聞いたこともない偉業を前に、一妖怪に何処まで何ができるのか。たった一体ならまだしも、まだまだ黒い世界からやってきているのだ。
「……彼女は、意識と思考を操るのさぁ」
「エリカさんですか?」
ぽつり、芙蓉が呟いた。
「意識あるものの考え方を根本から操ったりできる。紫の魔法使いと君を操ったのは私じゃなくて彼女だよぉ。で、あの異形は撫子が作り、棗が力を与えて、私があらゆる法則を詰め込み、そしてエリカが操っているのだぁ。まぁ、それはどうでも良いよねぇ……」
「何が言いたいのですか」
「……エリカを君達の敵にしたくなかった理由がある」
そう言った直後、雲も無いのに落雷が空を貫いた。
同時、あまりにも突拍子の無い地震が辛うじて建ったままだった建物を根こそぎ倒していく。咄嗟に萃香はマミゾウ達三人を庇い、文は空中に逃げた。
その文は空中から見てしまった。
少し離れた場所に、血塗れで立つ二人の姿。
比那名居天子と永江衣玖。
「……え?」
一瞬の疑問。だが、文はそこまで悩まなかった。
単純な話で、文と萃香が来る前にこの世界で天子と衣玖がこの世界で芙蓉に負けた。それを今、エリカが掌握しているだけなのだろう。
だが、いつそれをした? 少なくとも姿を見せる以前の話だ。その時の話はマミゾウ達なら知っている筈だが、生憎今は聞けそうもない。
「……これは、かなり厄介ですね」
天狗と雖も天人達まで同時に相手取れるかと聞かれると怪しい。萃香が居るのは心強いが、マミゾウ達が居る以上はやはり満足に戦えないのだ。
マミゾウ達が操られる可能性さえあるのだから。
そして、直ぐ近くには芙蓉まで居る。
「萃香さん」
「何だい天狗」
「もしかしたら、今宵のお供は焼き鳥かもしれません」
「笑えない冗談だね」
戦うしかない。全て薙ぎ払って、勝つしかない。
文は扇を握り締め、萃香は拳を握った。
丁度その時。
「起きたら空が禍々しくて、何とも気に入らないのだけど……分かり易く説明してくれる誰かしらは居るかしら?」
「この辺りにはスーさんが居ないのねぇ……寂しいなぁ」
予想もしていなかった二人が、我が物顔で立っていた。
「な、何故……?」
「何故って……それを聞きたいのはこちらなのだけれど。ここは何処なのかしら。後あの図体だけが大きいでくの坊は何?」
その傍らは気に入らなそうに顔を顰め、緑色の髪を払う。もう片方は小さな人形を頭に乗せ、無邪気な子供の様に忙しなく辺りを見回していた。
「何故、幽香さんとメディスンさんが……」
「だからそれを聞きたいのはこちらよ」
風見幽香とメディスン・メランコリー。
二人が何故か、この場に立っていた。