「俺は夢を見ているのか…?シェスカが店から出る、だと…っ!?」
「女の買い物ですよ、ルシルフルさん」
手の甲で何度も目を擦るクロロに、この人疲れてるんだろうなぁ、とムーディは生暖かい視線を送った。
シェスカ・ランブールは自他共に認める引き篭もりだ。
滅多なことがない限り移動は店舗と住居のみ。
家事も仕事もアルバイト任せ。
ご近所でも「あそこの女店主さん見たことないわねぇ」と言われるほどである。といっても貸本屋「百万図書」の周辺五十メートルは空き地だが。
そんな彼女だが、現在長い付き合いの念能力者、ビスケット・クルーガーに手を引かれ近くの繁華街へとむかっている。
女性に必要なものを買い出しにいっているのだ。
ディルムッドの「魅了」は本当に強力で、ほんの少し人の多い場所にいくと、それだけで大量の恋する女性ができてしまう。
そんな彼とでは、必要なものを揃えることはできない。しかし、彼がいないと護衛がいない。どうしようもなかった。
通販で済む分は済ませているが、それではどうしようもないものが男女ともにある。それに気付いたビスケットは、シェスカと会うといつもこうして連れ出すようにしている。
容姿だけ見れば、姉を引っ張る妹のように見えるかもしれないが、その実中身はずぼらな娘を心配する母親と、面倒くさがりの娘のそれだった。
「さーて…買うわよぉ!」
「私の買い物となると途端に金遣いが荒くなるね、貴女は」
「だってあたしの金じゃないし」
途中タクシーを拾い、意気揚々と買い物に繰り出す。徒歩移動はあまりできない。貸本屋の店主の体力の無さを舐めてはいけない。
「さてさて、とりあえず…身の回りからだわね。コスメー、下着―、服―…」
「最近サイズが合わなくなった」
「はぁ、どこ?腹?足?アンタいい加減動くわさ」
「いや、胸が…。腰周りは去年とかわらな…」
「喧嘩売ってんの!?」
貸本屋、誘われる
ヒソカという名の変態をかわしながらターゲットを探すこと3日。ターゲットである294番は、今試験の中で念を習得していない受験者の中ではもっとも腕利きといっていいハンゾーという忍んでいない男。自分もまた狩られる側にあることを理解している彼は、高所を高速で移動していたが、さすがにディルムッドから逃げ切れるわけもなかった。
ハンゾーはふてくされた顔をして地面に座り込んだ。彼の手元に、自身のナンバープレートはない。手元にあるのは、勘違いで手に入れた198番のプレートだけだ。
見上げると、絶世の美丈夫がハンゾーのナンバープレートをしまいこんでいた。
ハンゾーとて上忍としての矜持がある。抵抗を試みてみたものの、ものの数十秒で地面に押さえつけられたときに、改めて実力差を悟った。余計な抵抗は、これからの試験終了までの枷となる。ハンゾーは抵抗をやめた。
せめてもと198番のプレートは手元に残しておきたい、という申し出を、ディルムッドは快く了承した。
船の中で調達したのか、三次試験で見た槍は布に包まれ、あの魔性の姿を拝むことはできなくなっていた。
それだけは、残念だと思う。
「俺もなぁ、腕にゃあ自信があるんだけどなぁ」
思わず零したぼやきに、ディルムッドの視線が降りる。
ハンゾーも、自分が相当にお喋りだということは理解している。一番重要なことや、秘匿するべきことを話したりはしないが、それでも職業からしてみれば異常に話好きといっていいだろう。その癖が、ディルムッドの良識ある態度が、口を軽くした。
「そうだな。いい腕だと思う」
まさか返事が返されるとは思っていなかったハンゾーは、思わずディルムッドを仰いだ。
ディルムッドの真摯な双眸は、言葉がその場限りの嘘ではないことを語っていた。
「そうか、アンタにそういってもらえるなら少しは自信も回復するってもんだ」
ふてくされた顔から一転笑顔で答えると、ディルムッドも微かに口の端を持ち上げて応えた。
ディルムッドは、ちらりと視線を木々に向ける。ハンゾーもその視線の意図は理解した。そこに、協会の試験官がいるのだ。彼はそれを確認すると、微かに目を伏せた後、無言でハンゾーの前から姿を消した。
「…っし!プレート集めるか!」
立ち上がり、気合を入れると、木々の上にと飛び上がりこちらも姿を消した。その後姿に憂いはない。
ハンゾーと別れると、ディルムッドは道無き森の中を彷徨う。試験官はそれを尾行し続ける。
プレートは手に入れた。これでディルムッドの持ち点は6点。このまま期間を無事過ごせば、この試験は合格。あとは最終試験を終えて、終了。彼は晴れて自由の身となり、準備期間も入れてここ数週間会うことのできなかった主人の下へと帰ることができる。そう思えば、ゼビル島滞在も苦ではなくなる。早々に今も尾行してくる試験官を撒いて霊体化しよう。変態に出会ったらことだ。
そうと決まれば行動は早い。彼は両脚に意識を向ける。
最速のサーヴァント、その速度についてこれるか?
人の悪い笑みを浮かべると、彼は地面を蹴った。
****
目が合った。
流石に驚いた顔をしている。
ばっと釣竿を構えるが、その動きはまるで何かの阻害を受けているように緩慢だ。手先や踏みしめた足が微かに震えている。恐怖からではない。彼の目には恐怖による焦燥の色は感じられない。
ディルムッドは一次試験で好感を持っていた黒髪の少年ゴンと、生い茂る大木の、人の大きさほどある根の絡み合った洞で出会った。
試験官を撒いているが、人の目がない場所を探さなければならなかったディルムッドは、人の流れが良く見える背の高い木々のうえに移動しようとしていた。
そこで、上手く気配を殺している少年と目が合った。
警戒しているのが手に取るようにわかる。こちらの些細な動きも見逃さないと、その目が語る。
ディルムッドは、両手を挙げた。
「もう俺はプレートを点数分集めている。危害を加える気はない」
果たしてこんなことを言って信じてもらえるかどうかはわからないが、とりあえず言わないよりはましだろうと判断した。
無言で消えても良かったのだが、そうするとこの少年にいらない警戒を常に持たせることになる。それはどうにも不憫に思えてならない。ディルムッドは友情や仁義といった人間の美徳を愛する精神をもっている。ゴンの持つ優しさや友情は試験中に何度か目撃している。好感の持てる人間に、いらぬ敵愾心をもたれたくは無かった。
ディルムッドの琥珀の目から、逸らさずにじっと観察する。
数拍の後、ゴンは深い息を吐き出すと構えをといた。
どうやらディルムッドの言葉を信じることにしたらしい。
動物的勘で動いているのか?
ふと思ったが、声には出さず、両手を下ろした。
「怪我でもしているのか?」
余裕や優越的地位にある状況からではなく、純粋にまだ幼い少年の精彩に欠けた動きを気遣って思わず声をかけた。
少年は微かに目を見開く。確かにまったく試験中に関わることの無かった、いうなればライバルのような関係性の受験者から声をかけられれば、勘繰ってしまうことだろう。やってしまったか?と胸中後悔していると、少年は引き攣る頬で微かに笑った。腫れ上がった頬が痛々しい。
「手はいるか?」
少年は首を横に振った。
「そうか」
微かに顎を引いて応えると、少年は目元を和らげた。
「あと4日だ、気張れよ」
あえて「頑張れ」とは言わない。彼はもう十分に頑張っているさなかだ。少年はディルムッドの気遣いに目線で答えた。
ディルムッドはそれを確認すると、大木を駆け上がった。
****
シェスカは電話をするビスケットの後ろ姿をぼんやり眺めた。
日差しを受けて、腰を下ろした噴水の水がきらきらと輝いている。目の前を子供達が駆けまわり、幸せそうな街の住人たちが談笑しながら通り過ぎていく。
足元には最近調子の悪いパソコンの代わりに買ったノートパソコンの箱と大量の紙袋。中には、服や化粧品、下着や特売のインスタント珈琲、帰ったら四人で食べようと有名店のドーナツなどなど。
シェスカはため息をついた。ビスケットとの買い物は有意義だが疲れる。先ほどのランジェリー店ではまるで親の仇を見るような目で見てこられて彼女はほとほと困った。育つものは育つ。こればかりは自分の意思でどうにかできるものではないのだ。
「は?嫌よ。なんであたしが…はっ?副会長派?馬鹿じゃないの彼は…」
ビスケットの雰囲気が悪い。電話相手は彼女を怒らせているようだ。いや、好きで怒らせているわけではないのだろうが。
シェスカの耳にたびたび聞こえる会話の断片。
ビスケットの職業はハンターだ。非常に優秀で、いろいろなコネクションを各方面に持っているらしく、シェスカが世間に不慣れな頃は、彼女のお陰で助かったことも多々ある。ハンター協会会長の直弟子で、念能力者としても指導者としても優れているとかで、よく電話で借り出されるのも目撃している。
今回も、なにやらお呼び出しのようであるが、彼女は非常に渋っている。忌々しそうな口調が、彼女の沸点を超えるまで時間がかからないと如実に告げていた。
電話口でその容姿からは考えにくい罵声を飛ばすと、ちらりとシェスカに目配せする。
シェスカの護衛がいないという話が、もし彼女を狙うものたちにしれたら、今ほどいい襲撃の機会はないだろう。ビスケットもそれを重々承知しているので、連れ出すときは細心の注意を払いながら、人通りのある場所を選んでくれる。今も、離れてはいるが会話の断片を拾えるくらいの距離ではある。
ビスケットは会話を続けながら、シェスカから視線を逸らさない。
何事かと彼女が首を傾げるが、ビスケットは眉間に皺を寄せるだけだった。
「……良いわ、馬鹿。どうやっても彼が
棘のある言葉を叩きつけるように電話口の相手にとばすと、ビスケットは電話口で何事か叫んでいる相手を無視して携帯電話の通話を切り、電源まで切り落とした。
「……ご立腹ねぇ」
「馬鹿ばっかり!困ったもんだわさ!年長者の話を信じない馬鹿は痛い目みるといいわさ!」
ずかずかと勇み足でシェスカの元まで戻ってくる。腕を組んで憤慨した様子を隠しもしない。
「甘いものでも食べる?」
「喉が渇いたから何か飲みたいわ」
「わかった。そこの珈琲ショップが、先ほどから私の嗅覚を刺激してやまないから行こう」
「読書狂はカフェイン摂取も半端じゃないわね」
「友達だから」
「友好関係の改善を要求するわ」
調子が戻ってきたらしいビスケットが、紙袋の山を持ち、シェスカがパソコンの箱を持ち上げる。地力の差があるシェスカは大量の荷物を持って帰れないので、見た目に反して他の人類を圧倒する力を持つビスケットが荷物をもつ。傍から見ると、妹に荷物を持たせる意地の悪い姉にしか見えない。
珈琲ショップに入ると、中央の席に陣取る。窓際はいけない、狙撃されるかもしれないから。入り口はいけない、突撃を受けやすいから。端っこはいけない、逃げ道がないから。
シェスカは頬杖をついてビスケットに視線を寄越す。先ほどの電話に関しては追求しないが、なかなか不穏な会話だったように思われる。なんだかんだと付き合いも長く、それなりに恩もあり、ディルムッドに関しても他の女性達とは違い女性らしい「粘着性」や「見境のなさ」のない彼女には、できればあまり危ない橋を渡って欲しくないというのが、シェスカの本音だ。
運ばれてきた珈琲を、ビスケットは二つとも手に取り、軽く口をつけシェスカに手渡す。慣れた動作のそれに、いつもシェスカは顔を顰める。毒見などして欲しくはないのだが、これは連れ出すたびに行われる半ば慣例化した作業だった。ディルムッドのいない彼女を守ることは、ビスケットの命を守ることにも直結している。いくらディルムッドにしても気安い女性とはいえ、彼にとっての一番は常に主であるシェスカ・ランブールであり、それ以外は手が回れば手助けをする対象でしかない。その主を、自分で守るから連れ出させて欲しいといっているのだ、守れなければどうなるか、考えるまでもない。
湯気の立つ珈琲に鼻先を近づける。挽きたての豆の匂いに目元を和らげ、一口。
「…美味しい」
「あのイケメンに毎朝毎晩珈琲淹れて貰っていながら、さらに求める贅沢さ。万死に値する、提訴するわさ」
「今は飲めてないからその話は、反対多数で否決されました」
「……く、悔しくなんてないんだから!」
自分の分のカフェオレを自棄なのか男前に一気飲みすると、ビスケットは真剣な目でシェスカを見据えた。
器用に片眉を跳ね上げると、シェスカもカップをソーサーに戻す。
居住まいを正したビスケットは、一度口を開き、閉じ、そしてまた開いた。
「ハンター試験最終試験会場まで、一緒に来て欲しんだけど」