鮮血が舞う。
言葉にしてみれば、ただそれだけの事だ。
けれど、その言葉以上に目の前の光景はただただ恐ろしかった。
広い室内を
実際に、
なぜなら、彼にはそれを見通す力がないからだ。あるいは、彼の上司や同僚がいれば、それを見て、そして防いだことだろう。
しかし、彼にはその術がない。
彼は、この空間において圧倒的弱者であったのだ。
何が起こったのか理解できない。けれど、砲弾に撃たれたように、隣人の頭が吹き飛んだ。
頭部を失い体を支えられなくなった
今、自分が生きているのは偶然なのだろうか。そう思えるほどに周囲におびただしい量の血と臓物が飛び散っている。原型を残さず肉塊になった
突如、両脇から腕が二本生えた。それは有無を言わさぬ力強さで彼を絡めとる。
脚部に灼熱が走る。
錆びついたように鈍った思考が一瞬覚めて、恐る恐る熱源に視線を寄越すと、右脚の腿に、
本来ならその場で無様に床に転がるはずであったのに、
「…ッはっ!」
知らず知らずのうちに呼吸を止めていたらしく、血液が循環すると同時に気管に酸素が送られる。血は呼吸とともに溢れ、右脚は見る見るうちにどす黒く変色していった。
「ぐっあああっ!」
悲鳴を上げられるということは、生きているということ。
物言わぬ躯が毎秒事に量産されるこの空間で、彼は自分の幸運を知る。
しかし、それがいったい何の慰めになるというのか。
また、目の前で人が紙屑のように吹き飛んだ。四散した頭部から噴き出した血潮が視界を覆い尽くす。
生ぬるいそれが、額から顎下までをしとどに濡らした。
死だ。
死が充満している。
強者による圧倒的な死で満たされた空間で、弱者に慈悲などない。
ないはずだった。
「まったくまったく、君がいなければどうなっていたことやら…」
耳元で、場にそぐわない囁きが聞こえる。
多分に焦りを含んだその声音には、聞き覚えがあった。
けれど、どうして
キャパシティを超えた空間にあって、混乱し、正常な判断を失った思考は行き止まりに突き当たった。みっともなく泣き叫んで殴打しても、蹴り飛ばしても、壁は一向に崩壊しない。行き止まりでぐるぐると。壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す。それだけが、かつて彼を彼として認めてくれたものだったから。
「…ぅ、ううう。てん…、てん。てんちょ…店長」
店長。
薄れていく意識のなかで、誰かの掌が向けられ―――――――。
***
経年劣化によってぼろぼろになった、かつて赤かったであろう背表紙から、変色した破片が零れ落ちる。変色し、カビに侵されたそれは、現代の製造方法とは大きく異なる製本技術によって作られたことが一目でわかるほどに古い。
重いものなどもったこともないだろう繊手の指先が、慎重に、しかし大胆に古ぼけた頁を捲る。古い書物特有の匂い。それを鼻腔いっぱいに吸い込み、凪いだ碧眼が活字の海に沈んでいく。
窓の外が深い闇に覆われる夜の21時。
常にビブリオマニアたちによって賑わう貸本屋「百万図書」は、本日の営業を終え、ゆったりとしたプライベートな雰囲気が漂っていた。
ただひとつ違うことは、いつもならば職場に台所にと大忙しのアルバイトが一人、長期休暇に入っているということくらいだろうか。
おかげで店の機能はがた落ちしたが、多少通常業務が怠っているくらいでは、熱い欲望を滾らせる
実は、いつもの倍以上の動きで通常業務を終わらせたアルバイトが「船で寝れますから!」と目の下に盛大に隈を作って働いたおかげである。あまりの哀れさに常連たちが次の日に栄養ドリンクを持参してきたあたり、彼はある意味店長以上に必要とされているといってよかった。
アルバイトの代わりに家事を代行した美貌の槍騎士は、洗い終わった食器を棚に片づけながら壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。
件のアルバイトは、昨夜タクシーに乗って元気にヨークシンシティへ向かった。本人が宣言した通り船で寝るために最終便に乗船して。
ヨークシンは
「そういえば」
ぽつりとつぶやいた囁きは、頁を捲る音以外しない静謐な空間に思いのほか響いた。見ると、碧眼が活字の海から浮上し「どうしたのか?」と無言で問う。それに小さく謝罪を返す。彼は、邪魔する気はさらさらなかった。ただ、槍騎士の言葉は無視していいもののカテゴリには入っていなかったため、その囁きを彼女は拾い上げた。
「いえ、ドリームオークションが、開催されたな。と」
「ああ、そっか、今日なんだ」
彼女は、イベントの名前に、端正な眉を顰めた。
いい思い出のない場所の、いい思い出のないイベントだ。
話題を失敗したなと、生真面目な騎士は内心慌てたが、ここで変に言葉をきると、いらぬ気遣いをさせてしまうため、申し訳なく思いながらも続きを口にした。
「はい。周囲が活気づくと、トラブルも増えますから…大事ないといいのですが」
「まあ、ね。ただのいざこざ程度なら、ここで鍛えられてるからあしらえると思うけど…。問題は、その間よそからろくでもないやつらが集合することなのよね」
「はい。まあ、やつらなりに遠慮して、観光客が訪れるような場所に出てくることはないでしょうし、ムーディでは逆立ちしても格式高いオークションに参加することはできませんから」
「まあ、念のために携帯のマナーモードは解除しておいてね」
「ええ、心得ております」
その夜、無機質な携帯電話はついぞ鳴ることはなかった。
**
その日、ヨークシンシティは早朝から人で賑わっていた。観光地なのだから、人が多いのはいつものことだ。
しかし、その日は特に活気が違った。
ヨークシンシティで年に一度開催される世界最大の大競り市、10日間開催される公式の競りだけでも数十兆の金が動くといわれるドリームオークションの初日だからだ。
モノが集まり、金の動く、必然そこには人も集まる。
三つの要素が集まったヨークシンは、欲望の坩堝と化している。
といっても、その渦中に飛び込めるのは一部の富裕層や特殊な職業の人間だけだ。町全体はお祭り騒ぎで、住人や観光客の表情はみな明るい。
「ふあぁ、前来た時よりも人間に溢れてるな」
「当然だろ。なんたってドリームオークションだぜ?どんだけ金が動くと思ってるんだよ」
「前にも言ってたな、それ。見物できるの?」
「お前なーんも知らねーな。できるわけないだろ!入場券を兼ねてるカタログだけでも1200万もするんだぜ!俺ら底辺には関係ないの」
そのあまりの高額さに「1200万っ!?」と思わず声をあげ、衆目を集めてしまい、同行者に頭を叩かれた。
「ばかやろう、ムーディ。でかい声出すな。お上りは狙われるぞ」
「ええ、何に?」
「スリとか、いろいろ。この街、実際そんなにオキレイナとこじゃないんだぜ」
前回の旅行でも案内役を買って出てくれた知人が、肩を寄せて耳元で囁く。ムーディとて、今の職場に就職する前はまともではなかった類の人間だ。知人の言わんとしていることが容易に理解でき、小さく謝罪する。
いくぞ、と声を掛けられて、ちいさく頷いて人ごみに紛れる。
今の発言で注目を集めた今、勘違いした輩に目をつけられても困るのだ。
本来なら冷やかして回りたかった露店もスルーして、知人の後を追う。彼は一般的なこげ茶色の髪をしているので、見失うとすぐに見つける自信がなかった。
周囲の人々に、あれだけ注意するように言い含められていたというのに、浮かれすぎているなと気を引き締める。
人波が切れ、知人の横に並ぶと「こっちだ」と大通りから外れた路地裏に案内される。
「どこいくんだ?」
「
「随分なとこに居を構えていらっしゃる」
「嫌味か馬鹿野郎。ショートカットもしらんのか」
「あいすまぬ」
けらけらと笑いながら、朝日の差し込みにくい路地を行く。お互いにもともとが決して人に自慢できる身分になかったためか、路地裏に入ること自体は特別恐れることもなく、石畳を軽快に進んでいく。
この先を抜けたビルだ、という知人の指さす先には、観光地らしからぬビル群が立ち並ぶエリア。
先ほどまで露店が犇めいた場所が一般の観光客向けのエリアであり、ショートカットした先は、所謂ビジネス街と呼ばれる場所だった。
舗装は情緒ある石畳から武骨なコンクリートへ変わり、背の低い煉瓦作りの建物は無機質な雑居ビルへ様変わりする。
「あの13階建てのビルが社長のもちもんだ」
「ふぇぇ、すげ。住む世界違いすぎるわ」
「それは俺もそう思うわ」
彼の指さす先には、隣接するビルと見分けのつかない雑居ビル。
玄関に立つ警備員に慇懃に会釈を返す知人の後ろについて、自動ドアを潜る。懐から取り出したカードキーをエレベーターの階数ボタンの下に設けられたセンサーに翳し、迷いなく最上階を目指す。
「なんかなぁ、楽しみにしてるといいって言ってたぜ」
「へぇ、なんだろ。金持ちの考えることって全然思いつかない」
「奇遇だな、俺もだ」
ぐんっと体に重力がかかる。ゆっくりと上昇を始めた密室で、軽口をたたく。知人もムーディとたいして変わらないような人生を送っていた、
そうこうしているとエレベーター上部のパネルが最上階を示した。一歩出ると、赤い絨毯が敷き詰められた廊下に出る。華やかなのは、最上階が社長室だからだ。
知人に連れられて、社長室へ入室する。
大きな窓から差し込む光が、ムーディの目を焼いた。
思わず何度も目を瞬かせる。
「やあ、よく来たね」
「おはようございます、社長」
「うんうん、ご苦労様。さて、そこにかけるといい」
「ありがとうございます、失礼します。…おい、いくぞ」
「う、ううん」
知人に案内されて、一人掛けのソファに腰かける。
対面には逆光で表情の見えない
「さて、朝早くから呼び出してすまないね」
「あ、いえとんでもないです」
「もしかしたら彼から聞いたかもしれないけれど、実は滅多に参加できないある競売に君も参加してみてはいかがかとおもってね」
社長の後ろに知人が移動して、陽光が遮られた。一応ムーディは客扱いだが、彼は社員らしく立っておくようだ。
燦燦と降り注ぐ太陽の恵みに手を焼いていたムーディは、そこでようやくほっと一息ついて改めて対面の彼に視線を向けることができるようになった。
「売人側で参加するんだが、3人一組じゃないと入れなくてね。今回一緒に参加するはずの仲間が急にこれなくなって、難儀していたんだ。君と、彼と、私で、どうかな?」
「ええ、いいんですか?そんな…俺はありがたいですけど」
「構わないとも、
先ほどの知人と交わした会話が脳裏に浮かぶ。
格式高いオークションには、一般人はそうそう参加することなどでない。
今回の長期休暇だって、本当ならばそうすぐに与えられるものではなかったはずなのに、彼の店長は(地獄を見たが)気前よく送り出してくれた。
今度いつそんな機会が回ってくるかわからない。だったら、折角なので普段見れないと所を見てみたい。
大丈夫、前回来た時も、二人はとてもよくしてくれた。
「あの…だったら。はい、よろしくお願いします、
ムーディの返答に、神経質そうな
推敲ってなーんだ。過去を振り返らないことさッ!
誤字報告ほんとありがたいですありがとうございます。絶対なおすんでちょっとまってください。
ヨークシン編はっじまるよー
(書き方忘れたわ)
※矛盾が見つかったりするとこっそり直すことがあります(多めにみてっ!)